目次
はじめに
第一部 私と台湾
日本語は私と台湾の架け橋(アンディチャン)
台湾の楽しい思い出 (池田徳三郎)
何故台中市は大好きなのだろうか?(池田徳三郎)
台湾に残る狛犬たちを訪ねて(市来訓子)
私を台湾へ導いてくれた台中のご縁(伊勢寛)
埔里で日本語教師をして (伊藤直哉 )
いりぐち(大竹千紘)
台湾の神社に魅惑された私 (金子展也)
慰霊訪問団に参加した孫の感想(小菅亥三郎)
ドライブと温泉(駒井教雄)
私の台湾人生(酒井充子)
私の台湾史(佐藤晋)
台湾の日本語世代からのエール(佐藤民雄)
台湾へ出向(鈴木誠真)
台湾へ留学の思い出(高橋美代子)
お爺ちゃんとの思い出(舘量子)
台湾の世相の変化(陳秋蘭)
台湾の鐡道に魅せられて (戸井智博)
私と台湾(飛石秀樹)
台湾物語(中須賀重幸)
台湾と中国のはざまで揺れた心(中山孔明)
台湾と祖父母と私(永峯美津保)
環島(西川洋美) 
私と台湾 (丹羽文生)
台湾との邂逅(福田真人)
変わるものと変わらないもの(松尾功子)
台湾を歩いて(松任谷秀樹)
台湾で観たお月さま(森順子)
台湾は台湾 (李中元)
私と台湾のご縁(山本幸男)
私と台湾のかかわり (山元與一 )
日本語と私(林玫芳 )
台湾で見つけた人生の目標 (若尾彩加)
第二部 湾生と日本語人
私の一生(木村英一)
故郷の川(島崎義行)
暖かい台湾の心(瀬戸省三)
勇気ある質問(泰一則)
台中にて(堀部二三男)
二つの故郷(溝口啓二郎)
詩「戦後60年」(許育誠)
皇太子殿下のご成婚に期待をかけて(許昭栄)
昔の夢にふける(洪伯若)
冬(曹劉金花)
回顧(游大坤)
母の思い出(李栄子)
終戦当時の思い出 (李英妹)
詩「故郷」(劉心心)
私達と日本語(林陳佩芳)
僕の軍隊経験(林啓三)
私の少女時代(林翆華)
水産学校(林彦卿)
編集後記
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奥付
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慰霊訪問団に参加した孫の感想(小菅亥三郎)

 

        慰霊訪問団に参加した孫の感想

 

                    福岡市 小菅亥三郎

 

 私は平成11年から20年間継続し慰霊を目的に台湾への訪問を続けております。この企画は100%民間主体です。わが国の公的機関から1円の予算措置も講じられておりませんが、これが私たちの団体の健全性を将来に亘っても担保する必要にして最低限の条件であると思います。名もない市井の人の依頼心なき善意の結集がどれほど強力な力を発揮するかが鮮明に把握できる環境の構築保持こそがこの慰霊訪問の原動力であるからです。

 

 この団の目的はあくまで大東亜戦争で亡くなられた元台湾人日本兵軍人軍属33000余柱の慰霊におくということです。かつて天皇陛下の臣民として、わが国のために戦い尊い命を捧げられた台湾人の皆様の勲を、戦後の日本人である私たちが現地・台湾で顕彰するというところがポイントであると思います。

 

 過去、幾世紀にも及ぶアジアにおける欧米列強(白色人種・ユダヤ)による植民地支配の軛から、黄色人種を解放するという世界史的な偉業に貢献した彼らを、私たち・日本人が発掘し顕彰し続けなくて一体誰がこの作業をするのか、私はこの問題意識と使命感こそが団の魂と思っております。

 

 最後に家族交流・兄弟交流について一言申し上げます。私たちは現地の人々と一緒に慰霊祭を執り行いますが、ともすると戦死者を「犠牲者」として把えがちな現代の風潮とは逆に、お国のために、そして共通の目的のために殉じた「英雄」として顕彰してきております。かくあってこそ慰霊祭の場は、私たちが彼らと同胞の契りを結ぶ格好の機会になり得るのです。ここから両者の間に家族交流・兄弟交流の関係が芽生えるにはさして時間はかかりません。団の目的からして必然的結果といえばそれまでですが、両者の関係はここまで昇華させなければまごころの交流はないと思います。

 

 お互いにたった一つしかない命を楯(たて)に、大東亜の解放という壮挙に生死を賭け、世界史のうねりを大きく変えた若かりし日の実績を正しく認知し、その価値を共有することこそが誠の家族交流・兄弟交流の基盤を構築していくものと確信し、私たち訪問団は今年もわが国を代表し、この行事を実行していく所存です。台湾に思いを寄せる多くの皆さまのご教示、ご支援をお願いする次第です。

 

 以下に、一昨年と昨年続けて2年続けて参加した私の孫の感想文を掲載致します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本と台湾の永遠の友好を願って「日本の一角」に起つ

 

                 第二班 田口班 茅野櫻(中学2年)

 

 私は今回初めてこの慰霊訪問団に参加しました。まだお腹の中にいた頃に一度行ったことがあるそうですが、もちろん覚えていません。私はこの旅に参加して「楽しい」よりも「嬉しい」の方が多かったです。

 

 まず、台湾の方が日本語を上手に話していること。次にその方々が日本についていろんなことを知ってくれていること。私はこの2つが特に嬉しかったです。

 

 私は台湾について、祖父や母から教えてもらった少しのことしか知りません。日本のことを日本人よりも好きでいてくれる台湾の国のこと、人のこと、歴史のことなどたくさん知りたいと思いました。

 

 今回の旅で私が心に残っている場所は、六士先生のお墓です。私は将来、海外青年協力隊に入り、世界の困っている子供達に勉強を教えたいと思っています。六士先生は台湾の子供達に教育をしに来たのに殺されてしまったと聞き、すごく悲しくなりました。でも、それと同時に立派なお墓があることが嬉しかったです。

 

 台湾での5日間、私はたくさんの人に会いました。その中には、母が「台湾での私のお父さんとお母さんよ」といって紹介してくれた方や、日本で兵士をしていた方、小学校の校長先生、看護婦だった方など尊敬できる方がたくさんいました。そんな方々と名刺を交換して当時の話などを聞いて、私たちが今、学校で習っている歴史とは違うことに悲しい、悔しいと思いました。そして、私は正しいことを学ばないといけないと思いました。また、祖父がお寺やお墓の前で読んでいた祭文の「日台の生命の絆死守せんと 吾日本の一角に起つ」の言葉が心に残りました。

 

 私も日本と台湾の永遠の友好を願って「日本の一角」に起ち、これからも日華()親善友好慰霊訪問団に参加したいと思いました。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私はおじいちゃんがおじいちゃんで良かったです

 

                 第二班 田口班 茅野慧(小学6年)

 

 私は今年初めて日華()親善友好慰霊訪問団に参加し台湾に行きました。これが私にとって初めての海外旅行です。私が訪問団に参加しようと思ったきっかけは、参加した人の感想文を読んでとても感動し、興味を持ったからです。

 

 私が心に残ったのは5つあります。1つ目は「台湾日本関係協会主催歓迎夕食会」で外務省の李恵珊さんが、おばあちゃんの誕生日を祝ってくれたことです。まるで自分のことのようにうれしかったし、おじいちゃんとおばあちゃんを誇りに思いました。またその中で、李さんが言っていた「恩返し」という言葉です。日本人でも恩返しという言葉はあまり使わないので驚きました。そして、李さんは日本や日本人を心から好きなんだなと思いました。

 

 2つ目は潮音寺です。あの突風の中で国旗を持つのは大変でした。でも、訪問団の人たちも風に耐えて立っていたのですごいなと思いました。

 

 3つ目は宝覚寺です。日本の人たちが90年前に立てた木造のお寺を、台湾の人たちは建て替えるのではなくて、「日本人が建ててくれたから」と寺を覆う蔵を建てて下さったことに感動しました。私は台湾の方々が日本のことを守って下さっているように思えました。

 

 4つ目は南天山濟化宮の位牌の数です。私は本当に4万柱もあるのか気になったので、位牌の数を計算してみました。すると、約34千柱くらいありました。私はそれに対して、日本が他国の戦死者をお寺で祀っているとはあまり聞きませんが、台湾は日本の戦死者をちゃんと祀っている事に、感謝の気持ちでいっぱいになりました。

 

 5つ目は鹽水國民小學校です。私は学校で南京大虐殺は本当の話だった、真珠湾攻撃は日本が予告せずにやった等の、反日的なことを教えられています。学校のみんなは、日本は最低だ、中国はかわいそうだと思っています。私は日本の小学生なのに、私よりも日本らしい教育を受けている台湾の小学生達がうらやましいと思いました。また私は、日本の子なのに日本のことを誇りに思えないのはとても悔しいです。

 

 私は訪問団としての5日間で、本当にたくさんのことを学びました。きっと普通の小学校生活では学べないと思います。私はおじいちゃんがおじいちゃんで良かったと思っています。もしも、おじいちゃんがいなかったら、今頃私は日本のことが大嫌いだったと思います。おじいちゃんがこういうことを真剣に考えてくれるお陰で、私も本当の歴史が知れたし、台湾でたくさんの良い人たちに出会うことができたからです。

 

 私は台湾で学んだことを学校の友達に伝えたいと思っています。また台湾に行きたいです。これからも「日華()親善友好慰霊訪問団」が長く続くことと、日本と台湾の国交がもと通りになることを願っています。

 

 

 

尊敬される国に戻りたい

 

           第二班 柴崎班 茅野櫻(中学3年)

 

 私が今回、台湾慰霊訪問の旅に参加して一番強く感じたことは「尊敬される国に戻りたい」ということです。

 

 台湾の方々は、私たちが行くととても喜んで下さり、盛大な歓迎をして下さいました。また、昔の日本と台湾のことなど、慣れない日本語で一所懸命教えて下さいました。日本のことが大好きで、とても尊敬してくれて

 

いるんだなと感じる機会がたくさんありました。とても嬉しかったです。でも、それと同時に今の日本は台湾の方々の期待に応えることができるのだろうかと不安になりました。

 

 私は最近、「カエルの楽園」という本を田口さんから薦められて読んでみました。とても面白くて一気読みしました。でもカエル達の世界を今の日本におきかえてみると、とても恐ろしくなりました。この本のように、今の日本はバラバラで、中国、韓国、北朝鮮、ロシアなどたくさんの国に国土を奪われたり、狙われたりしているのに、国民は危機感を持っていません。このままでは、尊敬されるどころかバカにされてしまいます。

 

 今の日本の状況を少しでも良くするためには、私たちの取り組みをもっと伝え、広げていくことが大切だと思います。日本が明治の頃のように活気があふれ、尊敬される国に戻ることを願って、これからも毎年参加していきたいです。

 

 

私達にもできること

 

          第二班 柴崎班 茅野慧(中学1年)

 

 私がこの台湾慰霊訪問の旅に参加するのは今年で2回目です。2回目なので去年と違う見方で訪問することが出来ました。また、2回目で慣れていたけれど、やはり台湾に行くと改めてすごいなと思うことが多かったです。

 

 特に私がすごいと思ったのは、まず台湾の方々が上手な日本語を話されることです。台湾ではどのお寺に行っても、どこの食事会に呼ばれても、ほとんどの方が上手な日本語を話されていました。その中には、今の日本人の知らない「教育勅語」や「軍人勅諭」などを暗唱している人もいました。台湾の方々は日本のことを本当に信頼してくれていて、心の底から感動できる旅でした。

 

 でも、戦争で亡くなられた日本人のためにお寺を建てたり、日本人に親切にしてくださる台湾の方々に、私たちは国として何かをしたでしょうか。台湾の兵隊さんのためにお寺を建てましたか。何もできていませんでした。

 

 ただでさえ国交が断たれている今、台湾とではなく、中国と仲を深めようとしている人の方が多いです。

 

 そんな中、20年前、祖父がこの慰霊訪問団を立ち上げ、こんなにも団員が増えています。この慰霊訪問団は祖父のたくさんの努力と、たくさんの方々の協力のお陰だと思っています。今では、台湾と日本を繋ぐ数少ない存在となってしまいました。これからは、台湾と日本の国交が回復する事と、この慰霊訪問団が末永く続くように、私も参加していきたいです。

 

 

 

 


ドライブと温泉(駒井教雄)

 

             ドライブと温泉

 

                台中市 駒井 教雄

 

 

 人生には初めてのことがある。

 

 左ハンドルの車を運転するとは思ってもいなかった。台中日本人学校に赴任が決まり、左ハンドルの車で通勤すると知った時から心の中で不安が徐々に膨らんでいった。イメージが湧かなかったと言っていい。

 

 台中市内を初めて運転した時のことを鮮明に思い出す。六月初旬の日曜日、早朝、午前五時三十分。マンションの地下駐車場から不安気に路上に出た私の車。右側車線を走る。一つ目の青信号を右折。二つ目の信号を慎重に左折。三つ目の信号は赤。信号は青に。右折の指示器を出して発進。ワイパーが動いている。歩道を歩いている人が私の車を見て、怪訝な顔をしている。やってしまった。私は左側を運転していたのだ。しかもワイパーを動かしながら。幸いにして対向車が来なかったので事なきを得たのだった・・・。

 

 そんな私は、今では左ハンドルの車で、快調に回転しているエンジンの音を聞きながらドライブを楽しんでいる。私のドライブには温泉がつきものである。

 

 春、谷関温泉に初めて行く。ここは一九〇七年に原住民タイヤル族が明治時代に発見したことから、「明治温泉」とも呼ばれている。台中市内からは二時間ほどで着くことができる。快速七四号線・一二九号線・八号線を通って山道のカーブに気を付けながら車を走らせる。途中、新社區白冷圳に寄ってみる。白冷圳とは、台中市の山間部(新社区を中心とした周辺地域)にある大規模な水利施設のこと。この水利施設の設計・建設にあたったのが、磯田謙雄技師で、台湾では今でも「水利事業の父」と呼ばれて、台湾の歴史に名を残すほどに有名である。到着後、ホテルの温泉に入る。温泉と言えば裸と思っていた私にとっては水着で入る温泉は初めてである。温めのお湯に浸かり、手足を伸ばし対岸の緑の山を見ながらドライブの緊張感をほぐす。

 

 冬、南部横貫公路を使って台東までの長距離ドライブに出かける。台東の富岡港から船に揺られること一時間。船酔いに悩まされ、緑島を訪れた日は生憎の雨。ここは周囲二十キロほどの小さな島で、バイクで一周するのに多くの時間を要しない。島の南東にある朝日温泉を目ざす。世界に四カ所しかないという珊瑚礁の中から湧き出る珍しい温泉。「雨にも負けず、風にも負けず」の気持ちで露天風呂入る。タオルを頭にのせ肩まで浸かりながら波を見つめる。雨に打たれ、風を頬に受けながら肩まで浸かり、耐えること三十分。我慢の限界を超えた頃、屋内の温泉に駆け込む。今度はゆったりと太平洋を眺めながら、次回のことを考える。

 

 秋、烏来まで車を走らせる。烏来はタイヤル語の「温泉」という言葉に漢字を当てたもの。台北からは三十キロのところにあるが、台中からはかなりの距離である。早朝に出かけたので渋滞に巻き込まれることもなく目的地に着くことができた。老街を抜け賢勝大橋に立つと、河原の石を動かし、露天風呂を作っている人々を目にする。見よう見まねで身体を横たえるための穴を掘る。湧き出てくる温泉はとても熱い。程よい熱さになるように川の水を引き入れる。露天風呂づくりに疲れた体を横たえる。熱さに我慢ができなくなったら川に浸かる。河原での温泉、日本にはなかったのでこれも初めての体験である。

  まだまだドライブは続いている。

  

 右ハンドルを握っている私は赤信号で停車。信号が青に変わる。右折した私の車はどっちの車線を走っているのだろうか・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


私の台湾人生(酒井充子)

 

            私の台湾人生 

 

                        東京都 酒井充子

 

台湾は1895年(明治28年)から1945年(昭和20年)までの51年間、日本の統治下にあった。日本語世代は、日本の教育システムにより日本語教育を受けた人々で、特に現時点で80歳以上の人たちは、日本の戦時体制のもと皇民化教育の影響も受けている。

 

「下関条約により台湾が日本に割譲された」という、歴史の教科書レベルの知識だけしか持ち合わせていなかった私は、今から12年前の1998年夏、初めて訪れた台湾で大きな衝撃を受けた。一本の台湾映画を見て、舞台となっていた台北を歩いてみたいと思い、ふらりと訪れたのが台湾との出合いだ。その旅先で、流暢な日本語で話しかけられた。子供のころにかわいがってくれた日本人教師がいて、戦後、連絡先がわからなくなってしまった。もしお元気なら会いたいと、バス停での立ち話で滔々と語られた。台湾のお年寄りは日本語が話せる人が多い、という程度の認識だった私は、あまりの流暢さに驚くとともに、当時戦後53年経っていたにもかかわらず、恩師を大切に思う気持ちを持ち続けている人がいるということに心を揺さぶられた。

 

 

このバス停での出会いをきっかけに、台湾と日本の歴史をきちんと知りたいと思い、自分なりに勉強を始めた。知らないことが多すぎて唖然とした。周囲の友人たちに聞いても台湾のことを考えたこともないという。日本に対する「悔しさと懐かしさ」が複雑に絡まりあった気持ちを抱えて生き、今も厳しくかつ優しい視線を日本に送り続けている人たちが台湾にいる。そのことを日本人に伝えたい、その一心から映画を作った。

 

 

映画には「私は今の若い日本人より日本人」という女性や、日本兵としてインパール作戦に参加し、なんとか生きて帰国したら自分の国が敵対国の中華民国になっていたという男性らが登場する。彼らの人生は、日本統治時代には日本人との差別があり、戦後は、中国国民党による台湾人の弾圧を経験するという過酷なものだった。日本の統治は日清戦争の結果として始まり、中国国民党の中華民国による統治は、連合国の委託という形で始まったもので、台湾人の民意はどこにも反映されていない。

 

 

台湾人としてのアイデンティティは日本統治時代に芽生え、戦後強固になっていったと言われている。特に日本語世代の人たちは自らの体験から「自分たちの国を持たなければだめだ」という思いが強い。しかし、今の台湾では「現状維持」を望む声が最も大きく、彼らの気持ちと乖離しているというのが現状だ。国連に加盟し、世界に「台湾」を認めてほしいと願う日本語世代は、「日本にも責任がある」という。敗戦国になったとはいえ、かつての領土に対する責任があると。いまの日本そして日本人にできることは、将来、台湾の2300万人の国民が民主的な方法で導き出す結果を支持することだと思う。

 

 

私は七年間も台湾に通いながら、台湾語も北京語もマスターすることなくきてしまった。不遜にも取材はすべて日本語で通したからだ。インタビューを日本語にしたのは、台湾の老人たちが流暢ながらも微妙にイントネーションが違う日本語を操る様子を伝えたかったから。私は彼らの日本語の流暢さに驚きながらも、ある種の違和感のようなものを常に感じていた。歴史の中で強制された言語で語られる言葉を、どのように受け止めればよいのか。スクリーンを通して訴えたかった。

 

いま、台湾でこの原稿を書いている。次作の撮影のためだ。日本統治下の台湾に生まれ、戦時中の1943年、日本に渡った郭茂林(かくもりん)という台湾人建築家の人生を追っている。来年90歳を迎える彼は、日本最初の超高層ビルとなった霞ヶ関ビル(1968年竣工)や新宿副都心開発、池袋のサンシャイン60の建設など、日本の超高層建築の黎明期を支え、台湾の李登輝元総統とともに台北の都市開発の礎を築いた人物なのだが、あまりその名を知られていない。彼の人生は日本の戦後復興から高度経済成長、台湾の民主化の時代と軌を一にする。建築という視点から、 日本と台湾の近現代史をあぶりだしたいと思っている。

 

そして、この次には、いまの若者たちの姿を追いたいと思っている。「台湾人生」で取材した日本語世代たちの思いを彼らは果たして受け継いでいるのか、いないのか。国際的に不安定な立場にある自国をどのような方向に導いていこうとしているのか。

 

わたしの「台湾人生」はまだまだ続く。

 

 

 

        

 

         (注)VIEWS 2010年秋号(第23号)掲載より転載 

 

        (http://www.wjwn.org/

 

 

 


私の台湾史(佐藤晋)

 

            私の台湾史

 

            東京都府中市 佐藤晋

 

 

私個人の台湾との繋がりはまだ二十年にも満たないが、少し視野を広げ、家族史という視点で眺めると、凡そ80年前にあった台湾とのご縁に遡ることが出来そうである。

 

昭和16年になると、時の政府は効率的な戦時体制構築を目的とした産業統制を進めるため、海運分野においては戦時海運管理要綱を閣議決定し、船舶や船員の管理制度の一元化を進めた。昭和173月には戦時海運管理令の公布、同年4月には船舶運営会が設立され、戦時海運事業の統制を担うこととなる。

 

 

私の母方の祖父は船員であった関係で、戦時中、船舶運営会の統制下、主に南方に物資・兵員の輸送を行っていたと見られる。「見られる」と書いたのは、当時、海外航路の船員は家族にも仕事内容や渡航先を伝えられることは禁じられ、何の情報ももたらされ無かったからである。 ただ、平成29年秋、祖父の元勤務先に依頼していた戦時中の乗船記録を開示して貰う事が出来、祖父の足跡の一端を知ることが出来た(とは言っても、乗船した船名、城仙期間、職位のみであったが)。

  

 昭和16128日の開戦半年前から既に洋上にあり、昭和20815日の終戦を跨ぎ、昭和224月に日本に帰国するまでの足掛け丸6年の乗船記録を見てみると、陸に上っていた時間は延べ5か月にも満たない。今の感覚で言えば「ブラック」な香りの芬々とするところだが、国運を賭した非常事態の連続する中、そのようなことを考える余裕もなかったことだろう。

 

連合軍に空を制圧された危険極まりない海から奇跡的に生還した祖父であったが、私の生まれる前に他界しており、祖父のことを直接は知らないが、家族から祖父の台湾に纏わる話を二つだけ、一つは実母から、一つは妻の母方の叔父から聞いたことがある。 

  

前者は祖父が戦後の日本と台湾の民間交易船の第一便の船長を担うという光栄に浴し新聞記事にもなったらしいという話。後者は、昭和181021日雨の神宮外苑で挙行された学徒出陣壮行会を経て台湾に通信将校として出征した妻の大叔父が、出征兵士への労いの挨拶をしに輸送船内を巡回していた祖父と遭ったことがあるという嘘のような話で、十年ほど前、法事の席で祖父のことを話した折、鹿児島出身の祖父の特徴的な苗字が記憶に残っていた大叔父が昨日のことのように反応したのを覚えている。

  

蛇足だが、この妻の大叔父、高砂族のとある酋長さんにえらく気に入られて「うちに婿入りして台湾に残れ」とかなり熱心に誘われた由。もしそのまま残っていたら、巡り巡って高砂族の親戚が居たことになったかもしれない。

 

 長い前置きになったが、私自身、自らの手で紡いだ、細やかな台湾史とはどんなものか。

  秋葉原のラジオ会館に時間があれば通っていた少年時代、とある輸入雑貨商で購入した小さなトランジスタラジオの裏側に「Made in Taiwan」と刻印してあった記憶があるが、恐らくそれが一番古い台湾体験だったのではないかと思う。

 

その次に思い出すのはずっと後年、昭和の終り頃所属していた大学のクラブの台湾国籍の友人が「俺、高校から日本なんだけど、その高校の修学旅行、行き先が中国で俺だけ行けなかったんだよね」という話を発端に彼の身の上から台湾のお国事情まで聞かせて貰ったことである。 また当時、業界団体の仕事で台湾を訪れた父が、台湾総統に就任された李登輝閣下ご挨拶させて頂く光栄に浴したと自慢げに話していた記憶もあるが、「総統」という呼称を聞いて宇宙戦艦ヤマトの「デスラー総統」、ナチスドイツの「ヒトラー総統」といった、マイナスイメージを持った記憶があり、無知蒙昧と罵倒されても仕方ない恥ずかしい記憶でもある。

  

高校生だった昭和50年代後半までに左巻き教育を受けて来た世代である私にとってすら不快感を抱かせる=結局は日本マスコミの自家中毒だった訳だが=ほど日本への諸隣国の風当たりが急激に強まった時代を経て、社会人になって後、アデン湾の機雷除去で活躍された海上自衛隊の落合閣下のご講演を平成3年に赴任中の広島でたまたま拝聴する機会があった。以来、私の頭の左巻きは巻き戻され真ん中からやや右寄りに落ち着いたと思う。

 

初めての海外駐在終えた平成十二年末に読むことになる小林よしのりの「台湾論」は台湾認識を新たなものにした。海外駐在時に出来た日本堪能な台湾の友人にも裏取の目的で読んで貰ったところ「二ヶ所だけ気になったが他は書いてある通り」と言われたことも大きい。

 

その後、広東省に駐在していた平成17年に、あのとんでもない官製反日デモに遭遇するが、それは帰任後、晴れて台湾担当となり、台湾への愛惜を倍加させる反応促進剤となった。  

台湾に足繁く出張する中で喜早さんに知遇を得て台中会で多くの日本語族の方々をご紹介頂いてお話を伺い、産経新聞に勤める大学同期に紹介して貰った同社台北支局長を介して「老台北」こと蔡焜燦先生に会わせて頂いたりと、積極的に日本語族に教えを乞うた。

 

 台湾で仕事をしつつ現実的な生活者としての台湾人を目の当たりにすることで、決してイデオロギーや綺麗ごとだけで台湾を一括りに出来るようなものではないことも改めて理解するきっかけとなり、友人の酒井充子監督が足掛け十年以上を掛けて撮って来たドキュメンタリの秀作/台湾三部作も、自分の頭の台湾人理解を助けてくれている。

  

台湾に心を寄せる多くの日本人同様、私に多くのことを教えて下さった日本語族の方々がこの十数年で体調を崩され、或いは鬼籍に入られたことから、日台の将来に危機感を募らせていたが、この十年で日本が次々と直面した未曾有の自然災害に際し、真心の籠った手を差し伸べてくれる真の友人を、こんなに近くに居たことを多くの日本が見つけられたことは、誤解を恐れずに言えば、神の一助であったのだと感じる。

  

今般、喜早さんが設立された「臺中五円の会」は新世代日台人の交流会としてその存在感を際立たせていくものと確信しつつ、幾ら時間とお金を掛け、神経をすり減らしてお付き合いしてもちっとも実が熟れて来ない、寧ろ腐敗していくような間柄のお国との関係を尻目に、まだ正式な国交を回復出来ていないにも関わらず、民間交流を軸に着々と積み上がる暖かい日台関係を猶更大事に、日本語族の方々が日本に送って下さって来た愛惜と叱咤激励を土台により充実した関係へと成長させて行ける我々でありたいと心から祈っている。

 

 


台湾の日本語世代からのエール(佐藤民雄)

 

     台湾の日本語世代からのエール

                             東京 佐藤 民男

 

 

 

 小学生からの質問で「一番好きな国はどこですか?」というようなものがあります。私は迷わず「台湾」と答えます。ややオーバーに言えば、台湾は私にとって第二の故郷といってもいいほどのところです。 

 

私は台北で暮らしていたことがあります。もう十五年ほど前のことです。当時、私は文科省の在外派遣教員として、台北日本人学校に赴任しておりました。日本と台湾の架け橋となっている喜早さんと知り合ったのもその頃です。

 

その二年間。私は毎朝、ガジュマルの街路樹のある中山北路を歩いて、学校まで通っていました。台北市内には大王ヤシという素敵な街路樹もあるのですが、私は毎日見ていた太く大きなガジュマルの街路樹が好きでした。

 

台湾の食べ物の美味しさは多くの人が語っています。私も例外ではなく、小籠包、マンゴー、台湾茶(台湾烏龍茶)、そして台湾ビールにハマりました。マンゴーが旬の時期は、弁当のデザートは毎日マンゴーでした。

 

「先生のお弁当のデザートは毎日マンゴーだね」

 

小学三年生の子供に言われましたことを昨日のことのように思い出します。

 

そんな素敵な台湾は、かつて日本に統治されていました。けれども、反日ではありません。反日どころか親日です。もちろん、一部には反日の声もあります。が、暮らしている最中、それを感じたことはありません。逆に親日であることを、多くの台湾人と接していて肌で感じ、過ごしていました。

 

台湾には、世界三大博物館の一つである故宮博物院があります。ある時、そこへ行こうとバス停で待っていました。そのバス停は駅前で行き先がいくつもあります。台北に住んでいる私は行き方も知っていて困っているわけではありませんでした。しかし、私の雰囲気と動作を不審に思ったのか、一人の品のある老婦人が私に話しかけてきました。

 

「日本の方ですか?」「はい」

 

「どちらまで行かれるのですか?」

 

「故宮博物院です」

 

「それでしたら、二五五のバスに乗って行けば大丈夫ですよ」

 

 あまりに流暢な日本語に正直驚きました。私は「ありがとうございます」とお礼の言葉を述べた後、バスが来るまでその老婦人とおしゃべりしました。

 

 一見、台北在住の日本人かと思いましたが、彼女は台湾人でした。日本統治下の小学校の時代に日本語を学んだと話されました。それにしてもきれいな日本語で、品がある彼女が話すのを聴いて、日本語の美しさを再認識する体験でした。

 

 この老婦人のように、日本統治下で日本語を学んだ世代を、日本語世代と言います。当たり前かつ悲しいことですが、時代とともに日本語世代は少なくなっています。

 

台北駐在時代、台湾の日本語世代が中心となって創った日本語勉強会「友愛会」に二度ほど参加したことがあります。司馬遼太郎著『街道をゆく 台湾紀行』(朝日文庫)に登場する「老台北」こと故蔡焜燦(さいこんさん)氏も関わっているサークルでした。

 

 今の若い人、いや私自身も戸惑うような漢字の読み方やむずかしい敬語を参加者である台湾人のお年寄りは学んでいました。

 

 その会で、台北駅近くで時計屋(カメラ屋だったかな?)を営んでいるご主人が話されました。

 

「今の日本人には大和魂がない。戦前の日本人はもっと胸を張って生きていた。あなたたちも大和魂をもちなさい」

 

 まさに、蔡焜燦著『台湾人と日本精神』(小学館文庫)の中で、蔡氏が主張されているようなことをストレートに言われました。

 

 今も残る台湾総統府は、日本人が設計し建てました。かつての台湾総督府庁舎です。そこに見学に行った時のボランティアガイドも日本語世代のお年寄りでした。言うまでもなく、流暢な日本語で説明してくれました。

 

「この台湾総統府の建物は実に立派な建物です。真上から見ると、日本の『日』という文字の形になっています。正面玄関は皇居に向かって建てられています」

 

建物の素材や造り方の説明もありましたが、日本礼賛の説明には、こちらの頭が下がるほどでした。彼は何度もこう繰り返しました。「こんな立派な建物を造ったあなた方の先輩、日本人は本当にすばらしい」

 

今の私たち日本人が知っておかなければならないかつての日本人のよさを、私は日本統治下で育った台湾人から教わりました。

 

台湾近現代史は複雑です。親日の理由は、様々あります。でも、私が台湾に住み、感じたことは一つの事実です。台湾は親日です。台湾と同じ日本統治下に置かれた韓国とは違っています。

 

これからの日本を考える上で、子供たちには多角的・多面的な見方で近隣諸国との関係を考えてほしいと思っています。

 

 

 



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