目次
はじめに
第一部 私と台湾
日本語は私と台湾の架け橋(アンディチャン)
台湾の楽しい思い出 (池田徳三郎)
何故台中市は大好きなのだろうか?(池田徳三郎)
台湾に残る狛犬たちを訪ねて(市来訓子)
私を台湾へ導いてくれた台中のご縁(伊勢寛)
埔里で日本語教師をして (伊藤直哉 )
いりぐち(大竹千紘)
台湾の神社に魅惑された私 (金子展也)
慰霊訪問団に参加した孫の感想(小菅亥三郎)
ドライブと温泉(駒井教雄)
私の台湾人生(酒井充子)
私の台湾史(佐藤晋)
台湾の日本語世代からのエール(佐藤民雄)
台湾へ出向(鈴木誠真)
台湾へ留学の思い出(高橋美代子)
お爺ちゃんとの思い出(舘量子)
台湾の世相の変化(陳秋蘭)
台湾の鐡道に魅せられて (戸井智博)
私と台湾(飛石秀樹)
台湾物語(中須賀重幸)
台湾と中国のはざまで揺れた心(中山孔明)
台湾と祖父母と私(永峯美津保)
環島(西川洋美) 
私と台湾 (丹羽文生)
台湾との邂逅(福田真人)
変わるものと変わらないもの(松尾功子)
台湾を歩いて(松任谷秀樹)
台湾で観たお月さま(森順子)
台湾は台湾 (李中元)
私と台湾のご縁(山本幸男)
私と台湾のかかわり (山元與一 )
日本語と私(林玫芳 )
台湾で見つけた人生の目標 (若尾彩加)
第二部 湾生と日本語人
私の一生(木村英一)
故郷の川(島崎義行)
暖かい台湾の心(瀬戸省三)
勇気ある質問(泰一則)
台中にて(堀部二三男)
二つの故郷(溝口啓二郎)
詩「戦後60年」(許育誠)
皇太子殿下のご成婚に期待をかけて(許昭栄)
昔の夢にふける(洪伯若)
冬(曹劉金花)
回顧(游大坤)
母の思い出(李栄子)
終戦当時の思い出 (李英妹)
詩「故郷」(劉心心)
私達と日本語(林陳佩芳)
僕の軍隊経験(林啓三)
私の少女時代(林翆華)
水産学校(林彦卿)
編集後記
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奥付
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台湾へ出向(鈴木誠真)

 

            台湾へ出向

 

                 高雄市 鈴木誠眞

 

 阪神大震災の概要把握もできない28日に高雄空港に出迎えてくれたのは國保善次氏でした。

「取敢えず下見に行けば?」と言われて一か月そこそこで私は高雄の子会社に派遣されて、暮らすことになったのです。

 

総務部長から『あなたは少し言葉が話せるようだから、何も心配はありませんよ、同じ中国語です。』

そう言われてそれを鵜呑みにしてきたものの、学んでいた普通話(北京語)とはかなり違う「國語」。

それに加えて「台湾語」・・・親会社からの派遣ということでそれなりに保護された様子で暮らし方のイロハなどを丁寧に教えられながら高雄での生活が始まりました。

 

 全く予想もしていなかった台湾の地理や環境を学ばせるということから、着任してまず最初に日本語の話せる社員たちと高雄から汽車に乗り新竹経由で台北に行きました。 その日は飛行機で高雄に戻りましたが、空港での待ち時間に初めて牛肉麺を食べたのがキョーレツな台湾の印象になりました。 ひっくり返るほどカライうどんのお蔭で考え方のスイッチが切り替わったのだと思います。

 

その日の旅程中に感じたのは何であんなにたくさん屋根の上に立派なステンレスと思しきタンクが並んでいる? ということでした。もう一つ印象強かったのは車窓の外、線路に沿って緑の茂みが多く、その中には常にヒルガオの様な鮮やかなブルー色をした花を見たことでした。

 

 私はもっと現地を知らねばという思いから、まず大きな本屋を見つけて興味の強いものから眺めるだけでもいいからと手当たり次第に本を買ったものです。自分の好きな地理、人文地理に関するものや建築物に関するもの(自分の本業は金属製建築材料) 地質、地形、自然に関するもの特に植物などの書籍は十分容易に購入することができました。続けて風習や住民に関するものから彼らの宗教や民族に関するもの、其れにかかわる歴史的なもの、読み切りもしないのにたちまち住まいの中は書籍で足の踏み場もないような事にもなりました。しかし手を伸ばせば何かの本を取り出せるので便利ではあったと思います。(壁一面の本棚も後に自分で作りました。)

 

 初めて住む住まいは白い壁に塗られていて病院の様でしたが、大家と掛け合って壁紙を貼ってもいいとか壁は好きにしていいという許可をもらってペンキの缶を手に入れて書斎は2面を緑に、寝室は3面をブルーを基調にした色に塗り替えました。いずれも白いペンキに5%ほどの色を混ぜて淡い色に仕上げたものです。日本ではいつも何かとDIYでこなしていたことと「建材のセールス」が施工もできなければ(という考え方から)ほぼ「何でも屋」の丁で、まず住まいを落ち着けるものにしたことが忘れられません。

 

広い部屋のまだ残る一部屋は洗濯物を干したり、レンガを敷き詰めて室内庭園を造り、たくさんの観葉植物を入れてジャングルの様なものになっていました。後でわかったのは6階建ての6階にあった部屋は最上階の住人が屋上の使用権を持っているといことを知らなくて, 後には屋上は洗濯物干しと簡易ベットを置いて日光浴の場として使いました。もし屋上に植物を置いたら日差しで枯れたでしょうね。知らなくて幸いだったかもしれません。 しかし日本人は日光浴をして健康的だという意識が強かったのでこりもせずほぼ毎週土日には日光浴をしてよく陽に焼けました。時には寝てしまい夜八時ごろに目が覚めて星を見るようなこともあり、『此処の太陽は毒ですよ』と言われるまでやけどの様な日光浴をしていた時期がありました

 

出向で初めて台湾に来た当時はまさか島流しにあったような長い時間を過ごすことになるとは思いもせずに、まずは順調な滑り出しでした。行きたくてもこれなかった人たちや、興味津々でどういうところかを知りたくてうずうずしている友人や知人は取引先を含めてたくさんいましたので、着任時期には毎日目にした物珍しいことどもを『高雄通信』の名称で随分とたくさん、会社の月刊社内報に混ぜて送りました。 当時はネット通信などはなく、郵送で、しかも私の『高雄通信』は自分でワープロを打ってA4に詰め込んで約45枚を送り続けました。送り先は社内の後輩や付合いのあった部署、国内で転勤した営業所と管轄区域の仲の良かった取引先(販売先も外注先も)などですが 編集能力のない文字でびっしり詰まったものを受け取ってうんざりしている様子を想像しながら送り続けました。書かれていることには興味を持っていただいたことは折に触れ話に出てきますのでそれなりに楽しみにしていただけていたようです。 しかしこれを始めてから、会社の郵送料が急に上がったという話も聞きましたが、さぞ迷惑をかけたろうなと思います。

 

送った先のなかにはそれをもとに日本にはない施工方法を確認しに わざわざ台湾に来られてひとしきり市場調査をされていた設計事務所もありましたので、それなりの情報発信はしていたのだろうと思います。

 

 着任して間もなく、社員や関係取引先を連れて、阪神大震災の現場検証に国外出張をしました。生々しい震災の傷跡や本社内での研修会を経て、私がなぜ、何を台湾に持ってこようとしているのかも台湾側の社員たちにも伝えることができました。壊れた家屋や二階が道路の真ん中に落ちている状況やがれきの山を見てどういうことが起きているかを知った社員たちには得難い経験をさせたと思いました。これは今後の客先に対する説得力と扱い製品に対する自信に付与することでした。当時は私たちの扱う金属製建築材はどういうものなのかを理解したと思います。

 

 私が来てから業務上の必要を超えて当時は様々な方々との出会いがあり急激にこの土地のことを知ることができたのはお付合いして頂いた方々のお蔭と思っています。日本ではこういう風に業務外での対人関係を胡散臭がる時代でしたから、お付き合い頂いた方々の人品がとても幸いしたと思います。

 

友人のNO.1

 

 社内はともかく、会社外の最初の友人は背の高いまるで原住民一族のような印象を持った張さんという方でした。出勤してほどなく、いきなり彼の友人とのドライブに誘われました。三人でまず東港の第二市場というところに行き、お魚を買いました。 通路にはね出るほど活きのいいお魚たちから選び、ドライブして山のふもとにある彼の別荘でJeepに乗り換えて家の裏の道からいきなり山道に入りました。 1時間ほど登って、道の傍にある畑で芋の葉やカボチャの芽をちぎりとり、車に用意していた大きな中華鍋で買ったばかりのお魚を揚げて,採ったばかりの緑のものも同じ鍋で炒めました。??こんなにおいしいお昼を「ご飯なしで」しかも山の中で。なんという幸せなひと時だったでしょうか。話しながら畑の持ち主かと聞くと本人は「持ち主は知らない」といいます。びっくりしました。鳥の声だけしていた明るい空の下でどこのどなたのかもしれないかぼちゃの芽を炒めて食べたのは初めてでした。そこで気軽に自然の中に入れることを学びました。山の中を車で巡り、右手の山はここから先は頂上(にレーダーがあるので)立ち入り禁止という看板を見たところは太平洋側に抜ける分水嶺でした。戻る途中の道すがらには山の人(原住民のことをこう呼んでいました)の「石を重ねた住まい」を見せてもらったりして下山しましたが、この張さんにはミニ胡蝶蘭の栽培家を紹介してもらったり、大きなお寺の紹介やゴルフ、音楽家の紹介等を受けて、彼自身はすこぶる文化的な人物でした。

当時彼の会社は有名な塗料会社で社名と同じく夢はバラ色の虹です。 折があれば彼から学んだことなどを皆様方にお話しをたいと思います。

 

こういう方々を友人に持つ社員がいると、人のつながりが実に有効に働いて会社業務にも広がりがでてくることを学びました。  

 日本国内転勤中は『郷に入れば郷に従え』のことわざ通り過ごしてきた自分は 台湾に来ても同じ作法で過ごしてゆきます。

 

(乱文ご容赦願います。)

 

 

 


台湾へ留学の思い出(高橋美代子)

 

             台湾へ留学の思い出

 

                        仙台市 高橋美代子

  

私は今から20年前にベストフレンドと共に台湾留学した。ベストフレンドとはわが夫である。49歳の時に脳梗塞で、定年直前に脳内出血と二度倒れた夫は、当時歩行困難の為に車いすの生活だった。私たちは日中友好の為に少しでもお役に立てばと、中国語を学び、中国への関心を深めてきた。言葉を覚えるには、中国に住んで勉強するのが、一番の近道ではないかと考え、色々と調べた末、三年間台湾に留学することにした。車いすの夫を連れて海外での生活には多少不安もあったけれど、何とかなるだろうと鞄一つの出発となった。

 

留学なんて言うと聞こえはいいけれど、早い話何処にでもある語学教室へ二人して通っていたのだ。学校の近くの小さなマンションの一室を借りて、毎朝きちんと学校へ週五日、午前中二時間北京語を学ぶ、帰りはあっちこっち歩き回り台湾の食文化を楽しんだ。朝晩近くの公園で太極拳や新体操をやっているので、私も毎日参加し、一時間汗を流し、近所の奥さんとだいぶ仲良しになった。

 

  台湾は中国の一地域だと日本も世界も認識しているようだけども、台湾の人々の気持ちはまるで違うような気持がする。台湾の人たちは中国に対して相当距離を置いていると思う。教育レベルも高いし、経済も発展している。また」民主化も進んでいる。「独立」と言う言葉が常に底辺を流れているような気がする。「私は台湾語と日本語以外は絶対に話さない」と中国に対する敵意をむき出しにした老人もいた。かと思うと、私の塾の先生のように「私の父は大陸生まれ、母は台湾人。どうすればいいの」と悲しそうに話されていた人もいたのだ。

  

忘れられないもう一つ大きな驚きがあった。台湾の中に日本人がいたのだ。彼らは生まれた時から日本人として育てられ日本の教育を受けている。台湾で国語と言われている北京語はよくしゃべれないけれど、日本語は自由自在だ。日本人でも忘れかけている、童謡や数え唄などよく知っている。元気なうちに日本へ行きたいと涙ぐむ。日本は50年もの長い間、台湾を統治していたのだから仕方がないのかもしれない。台湾の人々の複雑な思いを、あまりにも知らなさすぎた気がしてならない。

  

車いすを押して歩き回っていたせいか、数え切れないほどの親切を受けた。さりげなく積極的なあの優しさは、どこからくるのだろう。特に若者の親切が多かった。

 

 台湾大地震にも大水害にも遭った。総統選挙では台湾中が熱く燃えた。私たちにとってかけがえのない三年間であった。

 本当に勇気を出して、行動を起こしてよかったと思う。

 今から五年前にベストフレンドは他界してしまったが、長い結婚生活の中でも二人にとってひときわ鮮やかな思い出をきざむことが出来たのだった。南の空を見ながらふと遠く過ぎ去った台湾での生活を思い出したりする昨今である。

 


お爺ちゃんとの思い出(舘量子)

 

             爺ちゃんとの想い出

 

 

                    高雄市 舘量子

 

〈屏東の爺ちゃん〉

 

爺ちゃんの名前は郭徳発。血は繋がっていないけれど、私の爺ちゃんだ。爺ちゃんとは不思議なご縁で、アメリカに住む爺ちゃんの孫娘さんと私は同い年で、なんと誕生日まで一緒だ。大正15年生まれで、19歳まで日本人だった爺ちゃん。私たちの会話はもちろん全部日本語で、爺ちゃんの日本語は完璧だったけれど、爺ちゃんの話す日本語の語尾には台湾語の鼻音「ホッ」が多く入り、私はその優しい響きがとても好きだった。

 

 

日本語教師として働いていた私は、月曜日から  

土曜日まで授業をして、日曜日に爺ちゃんに

会いに行くのが何よりの楽しみだった。ある日、

仕事の疲れからか、爺ちゃんと話しているうちに

ソファーで寝てしまったことがあった。

気がつくと爺ちゃんが毛布をかけてくれていた。

本当の家族みたいで、優しい爺ちゃんが大好き

だった。爺ちゃんと過ごす時間は楽しくて、、

とても幸せだった。              

 

20歳からの夢〉

 

私の夢は台湾のお爺さんに会うことだった。「台湾のお年寄りは日本統治時代を懐かしく思っている。その中には戦争を経験し、かつて自分が日本兵だったことを誇りに思っているお爺さんがいる。」ということを知り、どうしても会って話を聞きたくなった。絶対に叶えたい、譲れない夢となった。

 

 

大学卒業後はすぐにでも行きたかった台湾への気持ちを抑え、戦争の話を聞くからには自分も軍隊生活を経験しようと思い、自衛隊に入隊した。そうすればお爺さんたちの気持ちに近づけると思った。2年間の自衛隊生活を無事に終え、台湾に来た私は屏東の爺ちゃんと出会った。ずっとずっと会いたかったから、爺ちゃんに会えた時は本当に夢のようだったけれど、爺ちゃんは「量ちゃんは変わっとる〜。」と言って笑った。そのあとにいつも決まって「変わっとる、から、可愛い。」と付け加えてくれた。 私の夢が実現した。それも孫娘にしてくれるという、これ以上ない形で。

 

 

〈戦争と愛国の情熱〉

 

10代の頃の私は、何となく戦争の話題はしてはいけない、戦争は悪なんだよなと思っていたから、血のつながった祖父も戦争を経験しているのに、自分の祖父に戦争の話なんて聞かなかったし、どう聞いていいかもわからなかった。 

 

私は台湾に来てから、戦争に対する考え方が全く変わった。あの戦争を戦った、台湾人日本兵を含む、かつての日本人の胸に宿った愛国殉国の情熱。それが決して間違ったものではなかったこと、それに最大の自信を持っていいことを、台湾で爺ちゃんと過ごした時間が教えてくれた。

 

 

爺ちゃんは日本兵だったことをとても誇りに思うと同時に、世の中の平和を心から祈っていた。爺ちゃんとはよく「同期の桜」を一緒に歌ったりした。「同胞だから」と言って、時代の波に流され、世から忘れ去られていく戦没者に対する慰霊を、爺ちゃんは決して忘れなかった。国のため、人のために捧げた命に対し手を合わせる爺ちゃんの姿に、 何よりも大切なことを教わった。

 

それに屏東の爺ちゃんのおかげで、戦争に行った私の祖父もきっと同じ想いを抱いて生きていたのかなと思うと、 祖父との距離が近くなった気がして嬉しくなった。 

 

 

〈最後の約束〉

 

爺ちゃんと過ごせた時間はたった3年だったけれど、 爺ちゃんの人生最後の時間を一緒に過ごせたことに、感謝の気持ちでいっぱいだ。本当はもっと長く一緒にいたかったし、爺ちゃんも「まだまだ話したいことが沢山ある。」と言って亡くなった。だから私は今でも、心の中で爺ちゃんに毎日のように話しかけている。それに今も空から見守ってくれていると思うと元気になれるし、何でも頑張れる。亡くなって8年が経つ今でも、爺ちゃんは私の大きな心の支えになってくれている 。

 

          

 

亡くなる数日前「爺ちゃんの愛した台湾を、今度は私が守るからね。」と言うと、もう話すことができなくなっていた爺ちゃんは何度も必死に頷いて見せた。これが爺ちゃんとの最後の約束になった。日本を守ってくれ、日本の心をも守ってくれ、大切なことを私に教えてくれた爺ちゃん。爺ちゃんだけでなく、命をかけ日本を守ってくれた台湾人日本兵のお爺さんたちがたくさんいた。今度は私が台湾を守る番だ。

 

 

最後に、爺ちゃんのことを話すチャンスを与えてくださった喜早さんに心より感謝申し上げます。

 

 

 

 


台湾の世相の変化(陳秋蘭)

                   台湾の世相の変化

 

                                         台中市 陳秋蘭

  

三十年前は、三十代の人は五、六十台に見える人が多い

 

三十年後は、六十代の人は三十台に見える人が多い

 

 

三十年前は、人々はいかに「太れる」かを考えていた。

 

三十年後は、人々はいかに「やせる」かを考えている。

 

 

三十年前は、貧乏な人は野菜とさつまいもを食べる

 

三十年後は、金持ちの人が野菜とさつまいもを食べる。

 

 

三十年前は、一人の働きで数人の家族が養える

 

三十年後は、夫婦共稼ぎでも一人の子供を養うのが難しい

 

 

 

三十年前は、大学入試に受かるのが非常に難しい。

 

三十年後は、大学入試に受からないのが非常に難しい。

 

 

 

三十年前は、家に老人がいることは宝があるがごとし。

 

三十年後は、家に老人がいるとみんな逃げたり避けたりする。

 

 

 

 

 

 

 


台湾の鐡道に魅せられて (戸井智博)

 

          台湾の鐡道に魅せられて

 

           東京都 戸井智博

 

〔1〕環島挑戦の思い

 

20129月、私は当時勤務していた会社の拠点長として台湾・台中市に赴任した。単身赴任であったため、休日の昼は仲間とゴルフ、夜はカラオケというお決まりの過ごし方をしていた。しかしあるとき、台湾の方々が一生のうちにやっておきたいことの中に『台湾を一周する=環島』があるということを何かで読み知った。その時から私は『環島』という言葉に興味を持った。

 

当時知り合った巨大機械工業(GIANT)さんからも、自転車での台湾一周についてお話を伺った。『環島』とはなんと魅力的な響きなんだろう、私もいつかはやってみたい、と改めて強く感じた。しかしながら、社会人になり、飲酒・不規則な生活および運動不足の3大悪癖により、30年かけてじっくりと熟成したこの身体では自転車による台湾一周は夢のまた夢であった。

 

諦めかけた時に、日本在住の台湾大好き友人から『今度台湾の鉄道で一日で台湾一周に挑戦しに行くけど、一緒にどう?』というお誘いがあった。なるほど、一周するならどんな手段でもいいな、ということで即OKの回答を出した。このとき、私の『環島』挑戦は、鐡道を使っての達成に目標を変えたのであった。

 

〔2〕環島達成

 

日本の友人との『環島』は20149月に計画されたが、まさに実施予定日に台風が台湾に上陸し、台湾の鉄道は全面的に運休になってしまい私の環島達成はお預けになった。その友人に計画立案すべてを任せていたので、リベンジの実現はいつのことやらと考えていたが、思いのほかその実現は早くやって来た。台湾人の友人が大いに興味を示してくれたので、早速私が計画を立てることになったのである。

 

その記念すべき日は2014112日。スケジュールは『朝630台中から台湾高速鉄道(高鐵)で台北へ。台北から800発の自強號(特急)で花蓮に。花蓮で莒光號(急行)に乗り換えて台東に。途中有名な池上便當を池上車站の月台(プラットフォーム)で購入し車中で頂く。台東から新左營まで再び自強號に乗り、仕上げは新左營から高鐵を利用し台中に19時半過ぎにたどり着く。』完璧であった。めでたく環島を一日で成し遂げたのである。台湾東海岸の車窓(田園風景、青い海原)はとても素敵であった。今でもくっきりと目に焼き付いてる。

 

〔3〕全線完乗への道

 

  環島は達成できた。台湾の鉄道の旅の面白さを知ることができたが、その一方で、駆け足の旅はやや味気なくも感じた。今回の環島達成ではまだ乗っていない線があり、すっきりしない気持ちを強く感じた。ここから私の怒涛の台湾鐡道乗り潰し(完全乗車=完乗という)が始まったのである。以下にお示しするのが、台湾での主な乗車及び鉄道関連施設訪問記録である。

 

 ○集集線(2013/12/2)実は先行して既に乗っていた。終点の車埕は散策に良い静かな街だった。

 

 ○環島達成(2014/11/2)上述の通り。

 

 ○彰化扇形操車場と福井食堂訪問(2014/11/22)彰化車站にある機関車トーマスたちの家そのものの操 車場。見学者のための展望台の設置も心憎い気配り。彰化から南下し社頭車站にある福井食堂も訪問。1階 が食堂で2階以上に店主の陳さん自慢の鉄道コレクションが展示されている。

 

 ○内灣線・六家線(2014/12/20)終点の内灣車站は遊技場や客家小吃のお店がいっぱい。

 

 ○沙崙線(2015/1/10)保安車站見学の際に足を延ばして完乗。沙崙車站は高鐵台南車站に隣接している。

 

平溪線(2015/1/11)会社の後輩が台湾旅行に来た際にアテンドで。十份での軒先をかすめて走る列車の迫力は必見。線路上で願い事を書いた提灯を飛ばすが、走ってくる列車にご注意を。

 

 ○西部幹線/縦貫線(2015/2/7)竹南から彰化までを區間車を乗り継ぎながら、大正から昭和初期にかけて建造された古い駅舎を巡った。途中下車して駅舎をじっくり見学したのは談文・大山・新埔・日南である。

 

いずれも県指定の歴史建築に指定されたり、台湾の鉄っちゃんに任意のある木造駅舎である。

 

 ○成追線(2015/2/7)追分・成功間の約2㎞の区間で、いつでも乗れると思いながら乗る機会がなかった区間。この区間の切符は受験生に大人気である(分=点数を、追=得て、成功に導く)。

 

 ○台鐵完乗(2015/3/22)乗り残していた蘇澳蘇澳新、基隆八堵及び瑞芳海技館を、会社の同僚・その 太太と一緒に乗車。これでめでたく完全乗車達成!その夜は台中のビール工場に隣接している食堂で祝杯。

 

舊線(および龍騰断橋)(2015/3/8)旧山線の駅を巡り、地震で壊れたまま保存されている石造りの 鉄道橋である龍騰断橋を見学。山奥深くまで鉄道を敷設した先達の努力・執念に敬服。

 

〔4〕台湾鐡道の魅力

 

  私はいわゆる鉄っちゃん=鉄道マニアではない。でもひょっとするとどこか根っこのところではその気(け)があるのかもしれない。思い起こせば高校生のとき、種村直樹氏(故人、日本で著名な鉄道ライター)のもとに出入りしていた鉄道マニアの友人に一日で国鉄(当時)の路線を何区間乗車できるかという雑誌の企画のアルバイトに誘われたことがある。(これはのちに発行される青春18きっぷ誕生前の宣伝企画でもあった)その時の楽しさがどこかに残り、その後も移動は車やバスではなく列車を優先して選択していた。

 

また、台湾の鐡道が持つ多くの人を惹きつける要素が、私を完全乗車に向けて突き動かしたのだろう。その存在が身近であること運賃がとても安いこと車両(特に青い區間車、オレンジと黄色の気動車)が幼少の頃を思い出させる懐かしい佇まいであること地元の人との温かいふれあいができること新型特別急行の車両も清潔でかっこいいこと時刻表とにらめっこして計画を立てていく楽しみがあること知らない街を訪ねて歩くワクワク感があることしかもノスタルジーあふれる街が多いことなどが主な要因である。

 

〔5〕部下からの贈り物

 

  台鐵と高鐵は今まで述べたように、すべての路線を乗ることができた。あとは阿里山鐡道を残すのみとなっていた。阿里山鐡道のふもとの始発駅があるのは嘉義である。私は嘉義の街が大好きで数回訪問したが、阿里山鐡道には乗る機会がなかった。そのうち乗れるだろうと思っていた矢先に、本社から日本への帰国命令が下った。阿里山鐡道は憧れのまま残しいずれまた、と諦め帰国する予定であった。

 

  帰国までひと月を切ったある日、部下たちから旅行のお誘いを受けた。しかもそれはなんと阿里山鐡道に乗る企画をしてくれたのである。2015321日、部下たちの家族も同伴で、観光バスを仕立ててくれ、バスで奮起湖車站に。そこで有名な奮起湖便當をみんなで食べ、その後バスで阿里山車站へ。そこから神木車站まで一駅区間だけだったが阿里山鐡道に乗車できた。みんな知っていたんだ!心に残る温かい贈り物を皆からもらえた私はとても幸せ者である。

 

〔6〕まだ続く完全乗車への挑戦

 

  20154月に日本に帰国した。台湾の鐡道・駅舎などのお蔭で台湾での生活が豊かになったのは間違いない。帰国してから撮り貯めした写真の整理や文章化を行っている。そんな折、高鐵と台湾鐡道の路線の延長のニュースが届いた。高鐵については、台北車站から北に延長され南港車站が始発駅となった。一方、台湾鐡道は、海科館から路線が延び、八斗子車站ができた。これらの区間を乗らない限り、高鐵及び台鐵の完全乗車はこと切れてしまうもうこうなったら意地である。高鐵の南港台北の区間は201610月の里帰りで乗車。また海科館八斗子の区間は昨年201810月に里帰りした際に乗車し完全乗車は保っている状態である。

 

今後も路線の延長は行われるだろうが、情報を小まめに取りながら、それに対応していきたい。そして早い段階で、阿里山鐡道全区間および現存しているサトウキビ列車の完全乗車へ挑戦したいという気持ちが、ますます募ってきている今日この頃である。

 

 

 

 

 

 

 



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