目次
はじめに
第一部 私と台湾
日本語は私と台湾の架け橋(アンディチャン)
台湾の楽しい思い出 (池田徳三郎)
何故台中市は大好きなのだろうか?(池田徳三郎)
台湾に残る狛犬たちを訪ねて(市来訓子)
私を台湾へ導いてくれた台中のご縁(伊勢寛)
埔里で日本語教師をして (伊藤直哉 )
いりぐち(大竹千紘)
台湾の神社に魅惑された私 (金子展也)
慰霊訪問団に参加した孫の感想(小菅亥三郎)
ドライブと温泉(駒井教雄)
私の台湾人生(酒井充子)
私の台湾史(佐藤晋)
台湾の日本語世代からのエール(佐藤民雄)
台湾へ出向(鈴木誠真)
台湾へ留学の思い出(高橋美代子)
お爺ちゃんとの思い出(舘量子)
台湾の世相の変化(陳秋蘭)
台湾の鐡道に魅せられて (戸井智博)
私と台湾(飛石秀樹)
台湾物語(中須賀重幸)
台湾と中国のはざまで揺れた心(中山孔明)
台湾と祖父母と私(永峯美津保)
環島(西川洋美) 
私と台湾 (丹羽文生)
台湾との邂逅(福田真人)
変わるものと変わらないもの(松尾功子)
台湾を歩いて(松任谷秀樹)
台湾で観たお月さま(森順子)
台湾は台湾 (李中元)
私と台湾のご縁(山本幸男)
私と台湾のかかわり (山元與一 )
日本語と私(林玫芳 )
台湾で見つけた人生の目標 (若尾彩加)
第二部 湾生と日本語人
私の一生(木村英一)
故郷の川(島崎義行)
暖かい台湾の心(瀬戸省三)
勇気ある質問(泰一則)
台中にて(堀部二三男)
二つの故郷(溝口啓二郎)
詩「戦後60年」(許育誠)
皇太子殿下のご成婚に期待をかけて(許昭栄)
昔の夢にふける(洪伯若)
冬(曹劉金花)
回顧(游大坤)
母の思い出(李栄子)
終戦当時の思い出 (李英妹)
詩「故郷」(劉心心)
私達と日本語(林陳佩芳)
僕の軍隊経験(林啓三)
私の少女時代(林翆華)
水産学校(林彦卿)
編集後記
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奥付
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日本語は私と台湾の架け橋(アンディチャン)

 

日本語は私と台湾の架け橋

アンディチャン(張繼昭)

San Clemente, California

 

 台中の喜早天海さんからメールが来て、今年一月の忘年会を最後に「台日会」(台日交流聯誼会)を解散することになった、以後は食事会だけとすることにしたとのことだった。「台日会」は199910月に喜早天海さんが世話人となって立ち上げた「台中会」(台湾中部地区聯誼会)を2005年に「台日会」に変えた日本語世代と日本人の聯誼会である。つまり喜早さんはこの20年来、台湾中部における台湾人日本語世代と在台日本人、及び在日湾生(台湾生まれ日本人)の聯誼会の発起人、世話人である。20年にわたる台湾と日本の架け橋、まことにご苦労様でした。

 

1945年に太平洋戦争が終わってから74年たって台湾人の日本語世代が少なくなり会員も減ってしまったので台日会の解散は当然の成り行きだった。日本語世代とは戦争が終わるまで日本語教育を受けた人たちのことである。戦争前に台湾に生まれ、ある程度の日本語教育を受けた世代は昭和一桁までである。日本語を聞いてわかる、話せる、書けるという三階段を自在にこなせる世代とは少なくとも終戦までに中学3年ぐらいの日本語教育をうけた人達のことだから90歳前後で、今ではほとんど居なくなった。

 

私は昭和9年、つまり昭和一桁最後の年に台湾嘉義市に生まれた。旭小学校で四年まで日本語教育を受けたことになっているが実際には四年に上がってまもなくアメリカの飛行機が毎日のように爆弾を落とすようになったので二学期が始まるとまもなく田舎に疎開した。つまり私が正式に受けた日本語教育は小学校三年プラス一学期だけである。戦争が終わって中学、大学と中国語の教育を受け、一年半の兵役のあと1959年に24歳でアメリカに留学し、博士号を取得した後就職してアメリカに帰化した。それから2019年の今日まで60年余りアメリカで暮らしている。台湾に生まれて24年、アメリカで60年、日本に住んだことはない。それでも私の母語は日本語で、日本語のお蔭で台湾との繋がりが続いている。

 

60年もアメリカに住んでアメリカで仕事をしていた約40年間は台湾の父母が健在だったが、父母が亡くなり、アメリカの職を引いた後の20年は個人的な台湾と繋がりである。アメリカに住んでいながら台湾との繋がりがあったのは、一つには台北俳句会に加入したこと、もう一つは日本のメルマガでAC通信を立ち上げて日本語で記事を書き、日本語世代の先達が記事をコピーして友人に送ったり、宮崎正弘さん、渡邊亮次郎さん、金谷譲さんなどがそれぞれのブログに転載してくれたおかげで台湾と日本の読者や友人が増えた。つまり台北俳句会とAC通信で書き続けたおかげ、日本語が私と台湾、私と日本の架け橋となったのである。アメリカで英語で暮らしている私が日本語の物書きとなったおかげで日本や台湾に友人知人がたくさん出来たのは誠に不思議な縁と言える。

 

 台北俳句会に入会したのはひょんな出来事からだった。中学の先輩で私と兄弟付き合いをしていた陳錫恭さんが台北俳句会で披講役をしていて、ときどき句会報を送ってくれるので、92年の夏に私が「台北俳句、みんなうまくなった。以前はオレの方が…と思っていたのが、やがてオレだって…となり、今ではオレよりも…となった」と冗談メールを送ったところ、錫恭さんが「生意気なことを言うな。それなら自分でやってみろ」と言って無理やり入会させられ、アメリカから台北俳句会にファックスで投句していたのである。

 

 それから間もなく母がボケて、父も白内障と難聴で日常生活が困難になったので兄弟に助けを求めた。ところが日本の兄弟たちいろいろ口実をつけて親の世話をしないので仕方なく私が引退してアメリカと台湾を行き来して親の世話をすることになった。こうして俳句会に出席する機会もあるようになり友人も増えた。俳句会で仲良くなった陳蘭美さんは新竹高女の出身で、96年ごろに彼女の同窓だった台中の鄭順娘さんを紹介された。鄭さんは有名な台中県霧峰の林献堂氏の後裔で、社会奉仕に熱心な方で画家でもある。順娘さんのお宅を訪問するようになったお陰で喜早さんと知り合ったのは98年ごろである。劉丕さんとも仲良くなってときどき鄭順娘さんのところで一緒になっていた。

 

 父母の世話をしていた頃はまだパソコンの日本語ソフトが普及していなかったので、ワープロで「フライディ・ランチクラブ」を書き、1996年に日本の新風舎で出版した。このあと兄弟のあまりにもひどい親不孝を書き綴った「不孝のカルテ」を1999年に東京図書出版会から出版した。

 

2000年になってパソコンでメールマガジンを発行するようになり、メール通信で私の記事を読んだ神保隆見さんに誘われて、神保さんと田中宇と私の三人でMicrosoft Magazineに「国際通信」を立ち上げたが数か月で解散になったので、Melma!から私個人の「AC通信」を立ち上げ今日で19年目になる。AC通信に登録した読者は今では805人だが、「宮崎正弘の国際ニュース」と渡邊亮次郎氏のメイ ル・マガジン「頂門の一針」が私の記事を転載してくれるので日本の読者は多い。以前は金谷譲氏も転載していたが最近の事情は知らない。他にも二三、転載許可を求めた来たブログがあったが転載は自由なので確かな読者数は知らない。

 

 台湾の日本語世代はパソコンが出来ない人が多いので台北の「友愛会」の張文芳主宰が「AC通信」をコピーして頒布していた。友愛会のほかに品川淳さんがパソコンを指導した台中一中の先輩たちと知り合い、親しく付き合っていたが今ではみんな亡くなった。日本語世代は台湾にもアメリカにもいるのでAC通信のお蔭で友人がずいぶん増えた。日本語は私と台湾と日本の架け橋なのだ。日本語世代の人たちが記事をコピーして友人に分けているので知らない読者も多い。

 

 AC通信を始めた2000年はちょうど陳水扁が台湾総統に当選して新政権を始めたばかりだったが、国民党の陳水扁政権に対する迫害があまりにも酷いので、「台湾丸の沈没?」シリーズを書き始めた。このシリーズが日本と台湾で非常に受けて、読者から中国語で書けと言われるようになった。私には日本語で書く方が早いし中国語のワープロが複雑で不便である。それでもなんとか中国語の手書きワープロで翻訳して「台湾号会沈没?」を前衛出版社から出したのが2002年。続けて日本語の記事「ガンバレ台湾丸」を翻訳して2004年に「台湾号加油!」を発表した。日本語版に続けて中国語版を作る作業は二重の労苦である。

 

 2004年に陳水扁の第二回総統選挙で狙撃事件が起きた。もちろん国民党の陰謀だが、国民党はこれを陳水扁の自作自演の陰謀と言い張って大々的なでっち上げ調査を行ったので、国民党の嘘を暴くためAC通信で狙撃事件を追及し、2005年に前衛出版社から「連宋之乱的真相」を出版した。これに続けて「台湾丸の難航」(日本語)と「台湾号的難航」(中国語)を2005年、「台湾丸的航向(台湾丸の針路)」を2009年に発行した。メルマガの「台湾丸」記事を中国語に訳して台湾で発行する仕事は2009年限りで止めた。

 

 台湾丸シリーズの外に私が国民党の汚職の真相を追求した事件がラファイェット事件である。1987年に台湾の海軍がフランスからラファイェット型巡洋艦を6隻購入する計画を立てたが、同じ巡洋艦6隻をシンガポール海軍が12.5億ドルで購入したのに、台湾の中華民国海軍は予算をどんどん追加して最終的に26億ドル余で契約し、おまけに18%のリベートと言うとんでもない契約である。ところが契約を結んだ直後に中国が抗議し反対したのでフランス政府は販売を一時中止し、デュマ外相がラファイェットの設計図を中国に「進呈」したあと、台湾の海軍は巡洋艦の武器系統全部を中国に献上し、空になった船の武器装備のために新たに20億ドルの武器購買予算を組んだのである。12.5億ドルから26億ドルに膨れ上がった予算のうち13億ドルを台湾海軍、フランスと中国の三国で分けたのである。新しい武器購買のためにフランスに赴いた尹清楓海軍大佐が台湾海軍のとんでもない汚職の事実を発見し、告発しようとして9312月に殺害された。これがラファイェット疑獄である。

 

 ラファイェット疑獄は海軍のチンパン(青幇)と竹聯幇が中国と繋がっているので、調査が進むと台湾では尹清楓大佐の外に12人ほどの関係者が不審死を遂げたし、フランスでも関係者12人ほどが不審死を遂げている。私はAC通信で200512月年から200612月までラファイェット疑獄を追及し、まとめて「拉法葉弊案的研究」を2006年に出版した。続いて2008年にはラファイェット疑獄のスライドを作って台北の楊基詮中心で台湾語で講演、友愛会で日本語の講演をしたあと日本に赴き靖国会館で日本語、東京の外人記者クラブで英語の講演を行った。日本での講演は宮崎正弘先生と東海子さんのお世話になった。

 

 日本と台湾の繋がりはアメリカでもいろいろな会合を作って行われた。2003年ごろからロスアンゼルス

の台湾人十数人と「南加州台湾会」を立ち上げ、定期的に会合があった。当時の台湾問題についてスライドを作り、年に3回ほど台湾に行き、台北の楊基詮中心、新竹や台中、嘉義などで講演していた。また、台湾人の会合とは別にロス在住の日本人と台湾人数人で「緑の会」を作り、台湾の現状や独立問題について講演会を開いていたが2011年に解散した。

 

台湾独立宣言については有名な1964年に有名な彭明敏の「台湾自救運動宣言」がある。これは台湾独立運動の重要な文献で彭明敏、謝聰敏、魏廷朝の三人がコピーを作成した時点で逮捕された。私はこの独立宣言を読んだあと、20099月に南加州台湾会で「彭明敏の独立宣言は台湾人に向けて書かれたものだが、台湾人が外国に向けて書いた宣言ではない。よって我々が外国に向けた独立宣言を発表したらどうだろう」と提案したところ全員が大賛成、我われの宣言を作ることになった。これで12人が原稿作りを始めたが、10月に私が英語、日本語、中国語の原稿を作成したが、もう一つの原稿は外国向けと台湾向けの内容となり、私の「外国向け宣言」とその他の「外国と台湾人民向け」の二つの原稿で論争が起きた。

 

20104月に二つの原稿を台湾に持ち帰って鄭自才氏と二人で6箇所ほどの団体を訪問して意見を聞いて回ったところ、台湾の諸団体はみな「台湾向けの独立主張は我われがやっている」と言い、「外国向け宣言」に賛成だった。この結果をアメリカに持ち帰って報告したが賛成を得ることが出来なかったので、やむなく私が一人で資金を集め、2010710日にニューヨークタイムスで「台湾人民独立宣言」を発表した。この発表は親友の郭さん、林さん、呉さんの援助で発表したのである。このように台湾人には独立願望があるにも拘らず意見がなかなか纏まらないのが実情である。

 

 台湾独立は政府に頼ることが出来ない。今の台湾政府は中華民国政府で台湾国政府ではない。人民団体は意見がまとまらず実践行動が少ない。中国の金銭と武力外交によって台湾とが外交関係のある国はどんどん減っていく。政府がやらないなら国民外交をやるべきだが意見が一致しない。

 

2011年に私が「東南アジア平和聯盟」(PASEA:Peace Assosiation of SouthEast Asia)を提案し、南加州台湾会では全員賛成だった。PASEAはマハティールが提案したASEAN2012年に安倍首相が提案したダイアモンド構想と同じだが、違うのは台湾の民間団体が主導して行うことである。ところが台湾で幾つかの民間団体にPASEAを説明したら誰も賛成しなかった。台湾の民間団体は国民外交に興味がなく政府もやらない。これでは国際的に孤立した台湾の状況を改善できない。私の提案も机上の空論となった。

 

思いつくままこの20年間の私と台湾の繋がりを書いてみた。この20年のあいだAC通信を通じていろいろな人と知り合い、いろいろな人に大変お世話になった。感謝の心でいっぱいである。

 

室生犀星は「ふるさとは遠くにありて思ふもの、そして悲しくうたふもの」と書き、

よしや うらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじや」と続けた。

そうだろうか?

私にとって「骨は異郷に朽ちるとも、こころは故郷台湾に」である。

遠くカリフォルニアに居ても台湾を思うこころは変わらない。

私と台湾の架け橋は日本語であることにも変わりはない。

台北俳句会は続けるし、AC通信も可能な限り続ける。

 

Andy Chang

201925


台湾の楽しい思い出 (池田徳三郎)

 

台湾の楽しい思い出(Happy memories of Taiwan)
       

                                                北九州市  池田徳三郎

 

1. (はじめに)
今から20年前に「NPO法人南国暮らしの会」を仲間と設立し、初代理事長を務めました。その間, はじめにフィリピン・台湾・タイ・インドネシヤ・マレーシア等主に東南アジアをロングステ-しておりました。会員の中でそれぞれの都市や町に定住するようになり、また既に定住していた方(多くは日本人)が会員になり、各地に当会の国内支部のほか、海外支部が設立されました。海外の生きた情報が多く集まり、各地の情報を会報に掲載するほか、新聞・雑誌からの取材を受けることが多くなり、さらに、海外の現地会員に対しましても取材・投稿依頼が盛んになり、活発な海外情報の収集・伝達の場としての法人になりました。 
私も会報に「タイの医療施設」に関しては(Vol.13~14、Vol.21)、「台湾生活をエンジョイしよう!」で台中の観光・その他施設・宿泊所並びに多くの良き台湾の方との出会いについて紹介記事(Vol.49)を掲載しました。また朝日・毎日その他の新聞・雑誌の取材を受け、依頼記事を掲載しました。
台湾・タイ・フイリピン等に長期滞在出来ましたのは、①自らに適した快適と思われる良い宿泊設備に恵まれたこと、次いで②よき人との出会いでありました。

2.(台中でのロングステイ)         
(2008年頃から冬季は台湾(台中~高雄・台北)で

過ごすようになりました。1. 台中では「振英会館」が気に入りの宿泊所でした。そしてそこには日本語ぺらぺらの素晴らしいオーナー頼崇賢様(昨年逝去された)がおられ、日本人宿泊者のため日本語の上手な従業員を揃え、両替・旅行券・観光宿泊などすべてのサービスをして頂きました。


(東京ロングステ-財団案内 後列中央 頼様)

 
2 そして今1人は台中在住で,今も台中の「台日会」のために活躍しておられ、訪台日本人のためにお世話しております喜早天海さんです。
喜早さんは「台日会」の発起人、「遥かなり台湾」(1~6)その他の著者・編者でもありますが,台中・台北・高雄等に住んでいる多くの方々(日本人・台湾人他)を私に紹介していただきました。幸い多くの方は日本語がお上手で、現在もPC・文書の交流を続けております。
3.(台日会)
 2008年以降、毎年喜早さんの案内で台中の台日会の例会(月1度の開催)に参加し、多くの台湾の方と親しくして頂き色々なご案内を受けました。
周進升さん・荘如紅さん(前会長)・林玟芳さん・徐達璋さん・お茶博士の林啓三さん(元会長)のほかに多くの方々に、台日会以外にも松井真理江さん・左さん・林さんその他多くの日本語の上手な方々と親交を深めることが出来、大変お世話になりました。さらにそれぞれの方から多くの台中の方を紹介いただき、多くの会食に、ご家庭に招待されました。
 

2お世話になった例を紙面の都合上1つだけ掲載します。
周進升さんはたびたび日本をおとずれ、

日本語はぺらぺらの日本人と同じ、若い頃は

人気アナンサーで、今は放送界の重鎮です。

当時「毎日廣播公司」」の総経理(社長)で、

ある晩餐時に「台湾の正月と日本の正月」の

放送の依頼を受け、周様の司会で放送した

ことがありました。放送は2月4日(旧暦1月2日)

7時~8時でした。また台中のFM局日本語番組    (カラオケ軽井沢で左から林様、周様)

「さくら倶楽部」のDJを務め、年末には「台湾版

紅白歌合戦」を開催し、朝日新聞にも掲載されています。国鉄台中駅の近くのカラオケ[軽井沢](崇徳路二段)は「さくら倶楽部」の会員(多くが台中の女性)が日本の歌謡曲をすべて日本語で日本人以上に上手に練習に励んでおります。再三お誘いを受け、喜早さんまたは振英会館に宿泊の日本人の仲間と出かけました。  

 

3白冷圳(新社)とその周辺訪問
 (※日本統治期 新社が茎の太いサトウキビの苗作に適している設計

  し、作り上げた磯田謙雄技師その他が、新社の奥山、八仙山に

  沿って流れる水量豊富な大甲渓から取水して、814ヘクタールの

  土地を灌漑(かんがい)した。

  地元の人々に尊敬と恩恵の深さを感謝され、今も各所に説明掲示板、           案内所を設置しています。

 

4.(高雄の志の会)
1. 2011年の2月、台日会の喜早さんと高雄の日本人学校で開催された「台日南部志の会」に出席し、先ず日本語学習・日本文学等の会話もすべて流暢な日本語で話され驚きました。校長先生・李中元会長さんはじめ多くの参加者の温かい歓迎を受け大きな感銘を受けました。さらに機関紙「橋」(文集第3号)に「志の会に参加して」と題し投稿させて頂くことができました。
② 池上文庫11周年記念イベントに2011年12月に喜早さんからの誘いで出席しました
*日本武士道:11周年記念イベントが始まる前、池上文庫前の広場では日本でも大変珍しい「二刀流」の剣道の各種の型・竹刀稽古が披露されていました。屏東県において日本で失いかけている日本武士道精神の代表的心の形象・技の伝統が、ここ屏東県の日本人並びに台湾人に脈々と継承されていました。この事実は初参加の私には真に新鮮な驚きでした。
*池上文庫イベントは概ね次の通り行われました。
記念事業は昨年同様に屏東県の代表、竹田村の代表をはじめ、池上一郎文庫の理事長ら地元の関係者の挨拶のほか、日本から参加された大阪・静岡その他のボランティアの関係者の挨拶からはじまり、まして、その後に赤いユニホームの熟年の男女たちにより、日本の歌[年の初め・富士山・夕焼け小焼けなど]並びに台湾の歌が陶笛・時にはハーモニカなどに合わせの合唱が披露されました。
* 義捐金: 池上文庫に寄せられた東日本大震災(2011年3月11日)に対する義捐金は総額で50万4千円となり、7月3日、日本赤十字社本社に寄付したことが改めて報告され、併せ東日本の一日も早い復興を参加者全員で祈念しました。 
*清々しいボランテイァ: 正午過ぎに参加者全員の記念撮影がありましたが、そのなかには多くの若い男女のボランテイアの学生の姿が見られました。

ボランテイアの人々で作られた「うどん・スープ・ 

 

煮物など」が、大きなアルミ製の容器で提供されポリの器でお昼を頂きました。

*再会と別れ: 参加者全員は輝く太陽を避け、大きな木陰で、明るく語らいながら楽しく昼食を共にしました。そして林景煌様、安城先生その他の方々との元気な再会を喜び合い、さらに

新会長にご就任の高口校長先生にも拝眉の機会を得るほか、会員の紹介を受けました

そして別れを惜みなら散会しました。 

 

               

             (左3人目から 高口新会長、李前会長)   

                           

③ 屏東駅周辺で日本と関係する建造物等見学

「駅周辺で日本人と関係する建物(台湾製糖・池上博士の宿)と朝暘門その他を「志の会」の李中元前会長さんが、台中から来た3人をご親切に車で案内してくださいました。
*台湾製糖の功労者 日本製糖時代の功労者たち(鳥居 信平・本間栄吉・牧野貞亮)の像や顕彰碑が不思議なことに、今も残されていました。
*池上軍医少佐の宿舎 池上軍医少佐が軍医長在任中に宿として利用した建物が今で も残されていました。
*朝暘門 歴史を語る旧阿猴城の朝暘門は中山公園に併設した運動場の西側に位置しています。東の朝陽門だけ残っていました。
*「媽祖」を祀る屏東の天后宮 台湾で最も多くの人に崇拝されている「媽祖」(過去に4枚組みの記念硬貨が発行された。)を祭る美しい廟です。清の乾隆2年に創建され、建物は中国の建築様式がとられ、色彩鮮やかな彫刻や装飾が施され、目も覚めるように美しい。全国各地や外国からの参拝客が多いとの説明です。
④.親切な屏東の宿     
池上文庫11周年記念イベントに参加するため、著者は前日に屏東の駅前のホテルに宿泊しました。
財布を忘れていることに気づき、台湾語を話せない著者は、李さんに連絡したら、約10分後に、忘れた 財布はホテルで保管している旨の連絡がありました。「現金の忘れ物は最近の日本でも戻らない。返らない。」との先入観ないし日本的社会通念は台湾では通用しないようです。翌々日、屏東駅前のホテル「飛馬大飯店」に李さんと共にマネジャーにお礼のご挨拶に伺いました。「現金謝礼の受理」をお願いしましたが、残念ながら最後まで手土産以外は受理しませんでした。大変恥かしい失敗体験をしました。 

⑤ 高雄の親切な「のり夫人」との出会い
 「台湾の人々の優しい親切が大変嬉しい」と多くの日本人が、台湾訪問時に感じていますが、私と妻は「親切なご夫人」との出会いで輝かしい高雄の日々でした。

 

 私たちが高雄に到着して、すぐ高雄の志の会に出席(2011.2.13)しましたが、新光三越の前で、80歳過ぎのご夫人が流暢な日本語で『どちらに行くのか』と問いかけられ、余りに日本語が上手なので、取りとめのないお話をしました。ご夫人は私たちを高雄港、旗津に案内すると言い出し、そのご厚志に甘えることにし、ご一緒した。これが「のり夫人」との奇遇の始めであり、中元・歳暮の交換、台訪時の再会を続けております。
 今回の高雄ではとても優しく親切な「のり」ご夫人と出会うことができ、併せ素晴らしい大自然の美しさ を共にすることが出来たことは大いなる感動でありました。最近3年連続の台湾ステー で最も印象に残る出会いの1つでありました。

 

 ⑥.台北の友愛グル-プ
 喜早さんの案内で台北の友愛会にも3回ほど参加しました。いずれもホテルの1室を借り、昼食を共にしながら次第により綺麗な日本語で応答し、会を進行しておりました。自己紹介も安心して日本語で北九州から参加した挨拶をしました。参加者は若者・高齢者50名以上で、皆日本語でそれぞれの情報を交換し,日本的な隠し芸を時には披露して和気藹々としおり、情報の交換が主な様子で、日本語の勉強会の雰囲気はありませんでした。
 ⑦台北周辺は教え子が案内
大学・短大で家庭経営・家庭経済・消費者のための経済当の授業を担当した教師時代に台湾からの留学生が毎年1~3名おられたが、台湾の好きな著者は台湾留学生とよくおしゃべりをし、時にはお茶や食事を馳走して台湾の様子を聞いておりました。高雄出身者2名、台北出身者1名は卒業後も文通しておりましたが、今は台北の方だけとなりました。
訪台時はいつも台北を家族ぐるみで案内して下さいます。

 

有名な湯の里・北投温泉につく。 温泉地をゆるりと

見学した後、ご尊父が奇岩にある留学生(20数年前

の留学生)の生家まで車で送迎して頂きました。生家

には両親のほか、姉夫婦が来ておられ、大勢で暖か

い歓迎 をうけ、腰の抜けるほどの笑いに包まれた明るい楽しいご家庭でした。

                  (左 父親・母親、右 留学生) 

 

 

 

 


何故台中市は大好きなのだろうか?(池田徳三郎)

 

           何故台中市は大好きなのだろうか?

 

                          北九州市 池田徳三郎 

 

   

 

 ステーの期間は冬の2~3か月間ですが、多くの現地の人々のご厚意に触れながら、楽しい生活を送ることができ、台中市民の皆様に心から感謝しております。厚く御礼申し上げます。

 

通常は、毎朝の散歩、読書、PCNHKTV, 時にはダンス・カラオケに通い、小旅行を重ねました。

 

 台中公園で朝の太極拳に参加し(週に3回)、残り半分の朝は、宿泊先(振英会館)近くのホールでダンスを楽しく習ったが、そんな時も、また日常の食事・買い物・見学時においても、手ぶり・指差し・手書きだけでなく,タブレット(スマホがない)を持ち出したり、何処からともなく日本語を話せる人が現れたりして、自然とすべてのことが進み、目的を果たしておりました。日常に、接した台湾の人々の優しさ・親切さ・ご厚志にいつも感謝しておりました。

 

台中の「台日会」の会員の方は日本語が上手で助かりますが、近くの方とも片言の日本語で交流を深めるとお互い笑顔で打ち解け、好感・友情・信頼が深まりました。

 

巴里では、英語で道を聞いてもフランス語で返事をされ、チンプンカンプン、その気位の高さに反吐が出る思いをした経験があった。その思い出とは大差です。只フランスでサッカー世界選手権の開催時は英語の看板・掲示・会話が普及したので、パリの地下鉄に乗れることができました。

 

谷関温泉・水里~豊丘・プーリ・高雄~屏東・彰化~鹿港そして市内見物をしても言葉の通じない私を親切に優しく包んでくれました。 

 

 

 7年前,ダンスの帰り,交通事故に遭い、中国薬医大学付属病院に一週間入院し、宿泊先の振英会館の頼オーナー、左マネジャーその他多くの人々に親族以上の世話になり感謝と信頼、友好と好感を禁じえませんでした。

 

そして、喜早さん・振英会館のマネジャー等と相談して、台中市長、市の警察局長宛て「バスの公共的性格と交通ルールの改善に関し意見書」を提出し、所轄署長宛てに所轄の警察官に大変お世話になったお礼と事故の現状をそれぞれ日本語で申し上げましたところ、市長・局長・署長からそれぞれご丁重で大変立派な中国語のご返事を頂き驚きました。日本語で上申したにもかかわらず、それを翻訳したのでしょうか? 役所の日本人に対する親切・丁寧なシステムに感動しました。

 

日本式交通ルールが採用され、台中のバスの公共性等が少しでもご理解頂けたら、市内バス停とその周辺の整備と掲示方法の整備等がさらに強化され、車庫制度が整備(路上駐車が多い)さたら、「自車からバスへ」と交通緩和に役たてたら、と一人かっての夢のような思いをしておりました。

 

1.台中市を選んだ理由について

 

台中市では日本人に対して世代・年齢に関係なく大変友好的で親切です。

 

 人柄が良い 敬老の慣習(席を譲る、親切な人助け、思いやり、家族愛、介護、助け合い精神)そして 対人のマナ-がよい。

 

 治安が良い。旅行者に対し「すり」、各種の「物取り」、強盗、殺人、誘拐などの犯罪が殆どない。その点EU先進国より治安はよいでしょう。

 

 インフラの整備 文化的生活に欠かせない電気・ガス・水道・排水設備・通信・TV・PC使用が整備され、しかも、停電・停ガス・断水が少ない。この点東南アジアではシンガポールに劣らないでしょう。

 

 医療設備の充実  怪我・病気の際、大学病院等の施設が充実し、外人に開放されています。

 

 気候が良い。特に12月~3月は最高。腰痛持ちの私には最高要件

 

 雨が少ない 雨季を除き天気の日が多い。雨季もスコールでカラッとして湿度は少ない。腰痛持ちの私には最高要件。

 

 金・物の流通が良い 金融機関が整備され通貨両替が簡単、衣・食等の物が豊富。 住宅事情は不明ですが、ホテルも十分な設備をもつ。

 

 買い物(生活用品) デパート、スーパーマーケット、専門店、市場、小売店などで買いものがし易い(価格の表示、デスカウントの交渉の必要がない)、日頃の生活用品がすぐに入手できる。

 

 食べ物屋  朝、昼、晩の食事が作らなくても食べられる。女性天国の都市。食べ物の店が軒を並べて多い。

 

*中華・台湾・日本料理、フランス・イタリー料理 なんでもある。

 

*お菓子の種類いも多い。

 

  *果物の王国(4季の各種果物の種類が多くおいしい)、

 

*野菜の宝庫

 

 交通の便。地下鉄,モノレール、電車等はない。(EU先進諸国・日本の大都市、台北・高雄にみられる地下鉄、モノレール等がない大都市)。

 

バスが唯一の公的性格を持つ交通手段で、多数人の輸送方法であるが、近年特にバス関連施設の整備が進み、バス利用が便利になったし、プ里までの半径の地域は日帰り旅行で楽しめる。また高鐵(新幹線)を利用するならば高雄~台北も日帰り可能。

 

台中は交通の要衝 「台湾の臍」、どこに行くにも便利、3大都市に多数人輸送手段である高鐵(新幹線)・台鉄(従来鉄道)・バス利用等のための中心的大都市。

 

 

 

 (陸上交通の改善点)

 

*国際都市として相応しくない大量の廃棄ガス充満の都市(自動車の数が多い。)

 

*バスの数を倍にし、自家用車を10分の1にする。(車庫制度の導入)

 

*交通のカーマナーが悪い(人より車優先の社会通念の打破、人優先の社会への転換)、バイクの歩道上に乗り入れ走行、歩道・横断歩道を妨げる車・バイクの駐車違反・バイクの右折・左折時の1時停止の励行なし。それらの取り締まり強化。

 

*公的性格のバス路線の優位(バスの停留所の整備、標識の整備は3年間で脅威的改善は高く評価される、なお、バス停前の駐車違反、バス乗り場のバイク駐車違反、それらの取締りの強化)、

 

   *歩道の歩行妨害物の排除 このことは実行され改善されたが、まだまだ歩道妨害の違反者があり、この取り締まりを強化する。その他改善と取締りの強化の要請については別の機会に譲る。 

 

自然との触れ合い並びに台湾伝統文化との触れ合いが簡単にできる。前記の通り交通の要衝であるため。

 

 劇場等の催しに触れる機会が多い。ただ開催のPR不足と思える。

 

 日本文化(書道、彫刻、生け花、盆栽、花作り、造園、お茶、着物、着付け、凧上げ、メンコ、コマ、切り絵、歌謡、舞踏、竹細工、木工品、塗、その他)の理解があり、各種の催しが開催され、楽しみがあり、親しみ易い。囲碁が好きですが、碁会所・麻雀屋が見当たりませんでした。

 

  ⑯ 公園・街路樹(1部)がよく整備され、木陰の憩いが心身を安めます。

 

 教育制度の外観 どこの学校も建物が立派、ローカルでは村役場や警察署より敷地も、特に建物の外見は素晴らしい。学習塾の建物も立派です。

 

 

 


台湾に残る狛犬たちを訪ねて(市来訓子)

  台湾に残る狛犬たちを訪ねて

 

                                                    大阪府 市来 訓子

 

 台湾には日本統治時代に造営された神社に据えられていた狛犬たちが、今も数多く存在していることをご存知でしょうか。

  

 私は初めて台湾を旅行した際に訪れた高雄の壽山公園にて、高雄神社の狛犬が今も当時のまま残されているのを目の当たりにし衝撃を受けた2000年末から、時間を捻出してこつこつ幾度も足を運び、2019年現在、存在が判明している狛犬について一通り訪ねることができました。

 

 その数は対で残っているものが651体のみのものが5、合計で70という、想像を超えた多さとなりました。

  

 台湾の狛犬には、日本から船で運んだ以外に、現地の職人が製作したものがあり、台湾の狛犬としての個性が満ち溢れています。愛嬌いっぱいの表情など、気候風土にぴったりの朗らかさを感じられます。

 

 現在残っている狛犬は、戦後獅子の代わりとして使われたもの、放置されたままのもの、そして数奇な運命を辿ったものがあります。

 

そのうち特に印象深かった狛犬をご紹介いたします。

 

 日本統治時代、現在の屏東県佳冬佳冬神社が鎮座していました。戦後、神社跡は荒れ果て、私が初めて神社跡を訪問した時、据えられていた石造狛犬は阿のみが本殿後に隠されるような形で残されていましたが、吽は尾の部分があるのみで、本体は行方不明となっていました。

 

しかしその後、神社跡近くにある国立佳冬高級農業職業学校の校長先生が、神社を地元の歴史を伝える遺構として重要視され、狛犬についても関心を寄せられました。そして、離れ離れになっていた狛犬の片割れを苦労の末探し出され、長い時間かけてようやく対の姿に戻ることができた狛犬を、学校の敷地内に移設することを役所へ申請、新しい校舎へ据えられることとなりました。

 

 うれしい知らせに早速学校を訪問、狛犬を見せて頂きました。残念なことに吽の尾は戻っておりませんでした。それでも小さな尾をつけてもらっていたことに、せめてもの思いやりが感じられ、温かい気持ちになりました。学校を後にし、神社跡を訪れると、なんとその尾が見つかったのです。まさかと思いつつ、学校まで運んで事情を説明、職員の方とともに形状を見比べると、まさしく吽の尾そのものでした。

 

 そこで拙い中国語で必死にどうぞこの尾を修復してやってくださいと懇願したところ、今日は学校が休みなので即答できませんが、必ず対応してご連絡いたしますと、私の連絡先を書き留めて下さいました。

 

その後、校長先生からの連絡を幾度か経て、とうとう修復できましたという朗報が届きました。すぐに旅立ち、校長先生を訪ね、狛犬を見せて頂きました。すると、吽の尾は見事に修復され、往時の姿に戻されていたのです。特に付け根の部分がきれいに仕上がっていたため、どのような方が携われたのか伺ったところ、古跡修復の専門家に依頼されたとのお話で、そこまで大切にされていることに深い感動を覚えました。

 

学校という教育の場で新しい任務を得た狛犬は、これからもきっと、歴史を伝えるという役目を果たしていくことでしょう。 

 

台湾で今も頑張っている狛犬のうち、他にも大切に保存

されたり、歴史的文物として展示されたり、寺廟前に

据えなおされたものなどもいくつかあります。中でも、

特に幸せを感じたのがこの佳冬神社の狛犬でした。

 

もちろん、このような幸せなケースばかりではありません。 しかし、台湾の人々と狛犬との間に、温かい気持ちが存在しているように思えてならない、このような出会いがあるところが、最大の魅力であり、私が台湾に足しげく通い、ただ狛犬だけをひたすら訪ね歩いた理由そのものであると思います。

 

          (佳冬農業高校なある入口左右両端の狛犬)

 

 

 

 

 

 


私を台湾へ導いてくれた台中のご縁(伊勢寛)

 

私を台湾へ導いてくれた台中のご縁

 

仙台市 伊勢 寛

 

  私はかつて台湾で短期語学留学を繰り返していた時期があり、台南・屏東・苗栗で生活した経験があります。本当に有意義な時間で、日本語世代のお年寄りたちと親交を深めたり、東日本大震災への支援に感謝する活動を行ったり、語学の傍ら様々なことに挑戦していました。

 

その間、台湾全土にたくさんの友達ができましたが、ここで書くのはそれよりもずっと前の物語です。実をいうと、私を台湾へ導いてくれたのは台中の友人たちです。今回はそんな台中のご縁について書こうと思います。

  

➀「おばあちゃんはあの時代を楽しんでいた」A姉弟

  学生の頃、夏休みにニュージーランドへ語学留学をしていた時の話です。台湾人のA姉弟と仲良くなり、生まれて初めて台湾人の友達(後に苗栗の客家人だと知る)ができました。英語のクラスは、日本人・台湾人・中国人・韓国人がいて、親日・反日がはっきり別れていました。ディベートをすると、韓国人は議題と関係ないことでも何かと歴史的なことを持ち出して日本を悪く言い出し、中国人がそれを煽るという構図でした。しかし、台湾人の彼らはそういうことは一切しませんでした。

  ある時思い切って、A姉弟の姉の方に聞いてみました。

 「台湾だって昔日本だったでしょ。韓国人の言うことはどう思う?」

 「少なくとも私のおばあちゃんはあの時代を楽しんでいたと思う。おばあちゃんは日本語が話せるし、家には畳の部屋もあるよ」

 衝撃でした。それまで台湾のことはほとんど知らなかったのですが、A姉弟のおかげで台湾に強い関心を持つようになりました。

 

 留学を終えてからしばらくは彼らと連絡を取らなかったのですが、5年くらい経ったある日、ふと懐かしくなって連絡してみたところ、A姉弟の姉はアメリカに、弟は台中にいることがわかりました。その時、私は仕事でタイにいたので、いつか台湾へ行って再会することを約束しました。後に、台中でA姉弟と再会できた時は本当に嬉しかったです。みんなで逢甲夜市へ遊びに行き、苗栗の実家にもお邪魔させてもらいました。残念ながらおばあちゃんは他界されていましたが、本当に畳の部屋があり、おばあちゃんの国民学校時代の写真が飾られていました。

 

②タイで一緒に働いたB老師・C老師

  タイの大学で日本語を教える仕事をしていた時の話です。同僚に台湾人のB老師がいました。「私は台湾語のネイティブだ。中国語より台湾語の方が得意だ」という人で、時々私に台湾語を教えてくれました。最初に習ったフレーズは、「ゴワシーリップンラン」(我是日本人)でした。タイで台湾語を習ったおかげで、私の台湾語の発音は非常にいいと、台湾人からよく言われます。

 

ところで、タイの大学では外国人講師は長期休業中の帰国が許されていたので、日本からタイへ戻るとき台湾に寄ってB老師と会う約束をしました。台中にお住まいとのことだったので、朝馬のバスターミナルでB老師と待ち合わせして、案内されて台中をあちこち巡りました。あの頃は中国語も全然わからず、台湾で見るもの全てが新鮮で、驚きと興奮の連続でした。B老師のお母さんが老人協会のようなところが開講している日本語教室に通っていて、飛び入りで授業もさせてもらえました。授業と言っても、昔の懐かしい歌をみんなで歌っただけなのですが、この体験で台湾にどっぷりはまり、いつか台湾に住みたいと思うようになりました。B老師とは退職後音信不通になってしまいましたが、風の噂で、台湾に帰ってから出家して仏門に入られたと聞きました。

 

B老師の後任として赴任してきたのが、同じく台湾人のC老師です。その頃タイ全土に中国政府肝煎りの孔子学院が設置され、中国語教育から台湾人教師が駆逐されていましたので、台湾人講師の派遣はC老師あたりが最後だったのかも知れません。そのC老師は「私は台湾語は話せない」という人(後にお父さんが外省人だと知る)で、台湾人にもいろんな人がいるのだなぁと知るきっかけになりました。

 

私がタイの大学を退職してから、C老師とも連絡が途絶えていたのですが、東日本大震災の折「心配している」とメールをいただき、再び連絡を取るようになりました。震災で台湾から多大な支援を受けたことも相まって、日本の真の友人は台湾だと強く思うようになりました。それから、台湾の人たちに感謝の気持ちを伝えるためにはちゃんと語学を勉強しなければという思いで、中国語の勉強を始めたのです。C老師とはタイでは英語で会話していましたが、今では中国語で会話できます。

 

そのC老師は台湾へ帰国後結婚して台中に住んでいましたので、台中のお宅へも高雄のご実家にお邪魔させてもらったことがあります。C老師のお父さんとも仲良くなったのですが、おっしゃっていたことが印象に残っています。

 

「戦前大陸の天津に住んでいたのだけれど、家の隣に日本の兵隊さんが住んでいて、いつも可愛がってもらっていた。あの兵隊さんにまた会いたいなぁ。お礼が言いたいから探してほしい」

 ステレオタイプ化された外省人のイメージとかけ離れていて驚きましたが、嬉しく思いましたし、本当に台湾にはいろんな人がいるのだと改めて思いました。

 

③「日本人は冷たいけどあなたは違う」と言ってくれたD副店長

 

 A姉弟の弟の方が台中で働いていて、「職場に日本語が話せる人がいるから来てほしい」と言うので、市政北三路にある某日系ゴルフ用品店にお邪魔しました。そこで知り合ったのがD副店長(現在は店長)です。日本の大学を卒業していて、日本語も堪能なのですが、日本にいた時は日本人の友達がほとんどいなかったとのこと。「日本人はシャイ。冷たい。でもあなたは違う。あなたいい人」と言ってくれて、すぐ打ち解けました(笑) お店の店員さんたちとも仲良くなって、仕事が終わってからみんなで食事に行ったりしました。実は私は20代の頃は人と関わるのが苦手で交友関係も狭かったのですが、台湾にたくさんの友達ができたことで、苦手を克服することができました。台湾に来たときはいつもこのお店に立ち寄って、楽しい時間を過ごさせてもらっていました(だいぶ仕事の邪魔をしていたと思います…)。

 

思い出深いのは、D副店長に鹿港を案内してもらった時のこと。鹿港の名所を巡っただけでなく、実家にもお邪魔させてもらいました。翌日南投の東埔へ行く予定があったので、バス停まで送ってもらったのですが、D副店長は「中国語もわからないのにひとりで行くの? 東埔までどうやって行くの? バスの乗り方わかるの?」と言って、バスが来るまでバス停を離れようとしません。私が「大丈夫。子どもじゃない。筆談するから心配いらない」と言いましたが、全く聞きいれてくれませんでした(笑)

 

 ちなみに、その時東埔まで行ったのは温泉に入りたかったからじゃありません。学生時代に北海道のアイヌ文化の研究をしていた時、調査のため泊まっていたアイヌ民宿に原住民のブヌン族の人たちが来ていて、仲良くなりました。ほとんどの人が「中国語より日本語の方がわかる」と言っていたのが驚きでした。ある時ふと思い立って、何年も前に一緒に撮った写真を持って、交換した名刺の住所を頼りに東埔まで突撃訪問してみたのです。その方は原住民委員会の顧問をしていた方でしたが、突然の訪問にも快くもてなしてくれました。この時、村で日本語を話すおばあちゃんに出会ってお話を伺ったことが、台湾日本語世代のお年寄りたちと交流の嚆矢です。

 

 以上のように、私がまだ台湾をよく知らなかった若い頃に知り合った台湾の友人が、みな台中に縁がある人たちだったという奇跡。そして、台中の友人たちが私を温かく受け入れてくれたからこそ台湾にのめり込むことができ、今の私があります。喜早さんの「臺中伍圓の會」に参加させていただくにあたり、私の台湾の原点となる台中でのご縁を、改めて大切にしたいと思いました。本当にありがとうございました。



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