目次
はじめに
第一部 私と台湾
日本語は私と台湾の架け橋(アンディチャン)
台湾の楽しい思い出 (池田徳三郎)
何故台中市は大好きなのだろうか?(池田徳三郎)
台湾に残る狛犬たちを訪ねて(市来訓子)
私を台湾へ導いてくれた台中のご縁(伊勢寛)
埔里で日本語教師をして (伊藤直哉 )
いりぐち(大竹千紘)
台湾の神社に魅惑された私 (金子展也)
慰霊訪問団に参加した孫の感想(小菅亥三郎)
ドライブと温泉(駒井教雄)
私の台湾人生(酒井充子)
私の台湾史(佐藤晋)
台湾の日本語世代からのエール(佐藤民雄)
台湾へ出向(鈴木誠真)
台湾へ留学の思い出(高橋美代子)
お爺ちゃんとの思い出(舘量子)
台湾の世相の変化(陳秋蘭)
台湾の鐡道に魅せられて (戸井智博)
私と台湾(飛石秀樹)
台湾物語(中須賀重幸)
台湾と中国のはざまで揺れた心(中山孔明)
台湾と祖父母と私(永峯美津保)
環島(西川洋美) 
私と台湾 (丹羽文生)
台湾との邂逅(福田真人)
変わるものと変わらないもの(松尾功子)
台湾を歩いて(松任谷秀樹)
台湾で観たお月さま(森順子)
台湾は台湾 (李中元)
私と台湾のご縁(山本幸男)
私と台湾のかかわり (山元與一 )
日本語と私(林玫芳 )
台湾で見つけた人生の目標 (若尾彩加)
第二部 湾生と日本語人
私の一生(木村英一)
故郷の川(島崎義行)
暖かい台湾の心(瀬戸省三)
勇気ある質問(泰一則)
台中にて(堀部二三男)
二つの故郷(溝口啓二郎)
詩「戦後60年」(許育誠)
皇太子殿下のご成婚に期待をかけて(許昭栄)
昔の夢にふける(洪伯若)
冬(曹劉金花)
回顧(游大坤)
母の思い出(李栄子)
終戦当時の思い出 (李英妹)
詩「故郷」(劉心心)
私達と日本語(林陳佩芳)
僕の軍隊経験(林啓三)
私の少女時代(林翆華)
水産学校(林彦卿)
編集後記
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奥付
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台湾で観たお月さま(森順子)

台湾で観たお月さま

                                        

                                                      島根県 森順子

 

私達家族が台湾を訪れたのは2017年10月。

亡き伯父磯田謙雄が日本統治時代総督府に赴任し白冷圳に関わった御縁で銅像を作って頂き、その頃私の父謙四郎(謙雄の弟)も台湾に住んでたということもあり、2人に想いを馳せて 私、主人、息子夫婦、娘夫婦とお婿さんのご両親と総勢8人で行きました。

亡き伯父との思い出は、私が高校生の時金沢に行き案内してくれた事。偶々我校がバスケのインターハイで金沢に来てて体育館の場所も教えてくれ、建設会社に勤めてた時この体育館も関わったとも。これが伯父と会った最後だったので、あれから50年、台湾での再会⁇どんな気持ちになるのかなあと思いながら… 最初は家族だけで伯父の銅像に会い、近くの景色見て帰る予定でしたが伯父のひ孫にあたる直子さんの計らいで、新社の皆様がわざわざ時間を作ってくださり、温かく迎えて下さいました。言葉は通じなくても、銅像にまだ対面してなかったのに、何だろう・・懐かしく なぜか涙があふれて止まりませんでした。

お陰様で灌漑工事のスケールの大きさや、そこに関わられた皆様、台湾の現地の方たちも含めて多くの方々のご苦労や偉大さを感じた一生忘れられない有意義な時間に成りました。

 

折りしも台中を訪れたのが中秋の名月の日。

夕食食べようとしてもどこもお店が早く閉まり、やっとで開いてた所がカラオケも出来る小さなお店でしたが、若い女性の方がスマホを使いながら一生懸命料理の説明してくださり食事も美味しくいただき、流れてたカラオケの歌も耳に心地よくこれ1曲聴いてから帰ろうかと話してたら、そのお姉さんが私たちの前にあったカラオケをガチャガチャと。

流れてきたのは森山良子の「涙そうそう」

マイクを私たちの所に!

 

 

 

 歌詞は中国語?かな、でも息子夫婦はアカペラやってるので日本語で熱唱(息子は風邪気味で声が…)し、台湾の人たちからも拍手喝采頂き、この出逢いも忘れられない心温まる楽しい思い出に成りました。

また台北では帰国当日の朝早く、娘夫婦とホテルの近くのお寺に散歩がてら行きました。台湾の最後の日だなあと、早朝の爽やかな風を感じなら歩いて行く途中で太極拳してる人達見かけたり、お寺では日本の方ですか?と年配の男性が声かけて下さり、こうやって日本人と話し日本語覚え、日本の歌も孫に聞かせてると。お寺の案内もして下さり奥の方にエレベーターがあり、上がると台北市内が見え、ここでも街を見渡し、今日でお別れ等々感慨にふけりました。

 

そして日本に帰ってから主人と見た建築家の津端さんご夫婦のドキュメンタリー映画『人生フルーツ』当時津端さん90歳、奥様87歳の物語。

映画の中でも台湾の映像が。

戦時中海軍に入り将校だけが優遇される事に違和感を感じ、台湾少年工達{募集を受け台湾から優秀な12歳から19歳の少年達が日本に!}の寄宿舎で一緒に暮らしてた写真や、その当時 弟の様に可愛がってた青年を戦後探して、亡くなってたことを知り、台湾に行かれた時お墓参りされてる所や設計された団地(台北から40分位離れた海の近くのニュータウンと)が映り、映画を見た帰り主人があの団地台湾で見たよねと!

そういえば淡水に行く電車の中から見たあの団地かもと。

こんなに日本と関わりある国なのにお恥ずかしい話ですが極端な言い方すれば、台湾も他の外国の中の一つ位にしか思ってませんでした。

今回旅行し自分の足で歩き、目で見て聞いて感じ、お陰様で心温まる出逢いを沢山頂き、感謝の気持ちでいっぱいです。

台中から観た中秋の名月。日本でもこのお月さま観てるだろうな。繋がってるんだよねと。

 

  ( 

伯父達含めご先祖様が遺してくれた徳。それを

戴いて 今がある様に、私は何が出来るのだろうか?

この繋がってる空の世界中の子ども達に戦争のない

平和な日々が訪れますようにと願いながら

これからも私に出来ること、徳積みしていけたらと思ってます。

台湾の皆様有難うございました。


台湾は台湾 (李中元)

 

             台湾は台湾

 

            屏東県 李中元

  

第二次戦争中、戦死された戦友達が思い出されて悲しくてたまりません。軍歌を歌いながらいつもそういう悲しい昔の姿が浮かんできて涙が溢れてしまう。

 

 当時としては仕方なかったと。でもね、たったひとつ、政府から「過去の台湾の軍人軍属の皆さん、ご苦労さんでした、ありがとうございました」、そのひと言がぼくはほしいんですよ。それを願っとるんですよ。どうしてひと言だけでももらえないかと。年金ももらっていない。日本人だけにしかやれないそうです。なんでこんなにまで見捨てられてしまうかと、これがわたしはほんとに悔しいです。政府としてはなにひとつしてくれていない。国のために死を覚悟して僕たちは志願して行ったんですよ。何も自分のためでなんのご褒美があるからと言ってそこに行ったわけじゃないですよ。だから、ぼくはすごく、政府に対しては了解できません。

 

 いつも口癖のように言いますけど、日本の皆さんには親しみを感じますよ。たしかに昔のぼくたちの同胞だと。ぼくは今でも支那人だと、そういう観念がないです。毛頭ないです。まだ日本人だというふうにね、生きてきましたよ。皆さんに会えて縁がつながってすごく楽しかったしかも、こういう年を取ってるおじいさんに対してすごくいたわってくれて、これぼくは感謝してます。

 

 でも、政府に対しては了解できません。日本の皆さんにお詫びしたいけど、実際言うとこれがほんとのわたしの気持ちですから、それを吐き出さないとほんとに胸が詰まって苦しいんですよ。

 

 日本が台湾統治した当時、2年間以内に自由に自分の国籍を決めることが出来ると公布していました。選択は三つありました。「1.清朝に帰る、2.華僑として台湾に住む、3.日本国籍で台湾に住む」があり私達は3.に決めました。それで私の身分証では

 

「祖籍は福建、国籍は日本国」。それにしても、私はいま、何者なのでしょうか。

 

19451025日陳儀行政長官が発布、「今日より台湾は正式に再び中国の領土になり、全ての土地と住民は中華民国国民政府(国民党政権)の主権下におかれる」。この声明は台湾の領有権の変更のみならず、台湾人の意思にかかわらず一方的に、その国籍を日本から中華民国に変更するものであった。この点、日清戦争後の台湾割譲に伴い、台湾住民には2年間の猶予期間が与えられ、国籍の選択が認められたのとは、著しい違いであった。

 

 鄭成功は赤嵌のプロビンシャ城を占領すると、ただちに行政区域の画定に着手した。まず台湾全島を「東都」(中国の東)と改名し、破壊したぜーランジャ城周辺の地を安平鎮と命名した。赤嵌とその周辺、つまり今日の台南市一帯を承天府とし、その

 北に天興県、南に万年県を設け、さらに膨湖島に安撫司をおき、一府ニ県一安撫司からなる東都の行政区画を整えた。また、オランダに組みした先住民の動向を警戒し、自らの一部の軍勢を率い、いくつかの社(部落)を訪れて威圧した。鄭成功はこの東都を明王朝再興の基地とし、帝位を僣称することなく「藩主」の地位にとどまった。台湾に到着した一年足らずの16625月に鄭成功反清復明の志を遂げないまま、波乱に満ちた39才の生涯を終えた。その死後、オランダを追い払い、台湾を開拓した功績を讃える移住民に「開山王」と崇められ。台南に「開山廟」が建てられた。清王朝時代の1874年に至り、勅許を得て「延平郡王祠」が建廟され、正殿には鄭成功、後殿には母の田川氏が祀られている。鄭成功の人気は日本にも及び、江戸時代には近松門左衛門の「国性爺合戦」がある。又台湾を領有した日本は「延平郡王祠」を「開山神社」に改め、鄭成功の神格化に与っている。子、鄭経は鄭成功の死から19年後の1681年に父と同じ39才で死去するまでの間、中国での征戦に腐心ゆし、政務を顧みる余裕も関心もなかった。そのため政務はもっぱら鄭成功以来の重臣である陳永華に委ねられた。

 

 陳永華は鄭氏政権の台湾経営に最も貢献した人物であり、農地開発に伴う土地制度及び戸籍の整備など統治の基本となる行政機構と制度を確立し、鄭氏政権の基礎を整えた。更に人材養成のための住民教育や、財源確保のための海外貿易を積極的に進めた。「開山王」鄭成功の陰にあって、陳永華の業績は隠れがちであるが、むしろ台湾開発に果たした貢献はより大きいものがある。しかしながら、反清復明を国是とする、軍事政権ともいうべき鄭氏政権への貢献の大きさは同時に苛劔銖求の圧政ともなり、台湾住民を苦しめた。これで台湾からの統一主導権は如何に難しいかがわかりました。

 

 1947(昭和22)227日の晩、遅くまでラジオ聴きながらその晩の事件のことを聞いておりました。闇タバコの取締中に市民一人が射殺されたという事件です。デモ隊が目指した專売局の表門は閉まっていて入れないから、脇の門から太鼓をたたきながら入っていきました。ぼくはそこはついて行っていません。すごく長い時間が過ぎました。学生も市民も皆んな来るんですよ。どんどん人が集まって来る。ワイワイ騒いで。1140分あたりかなと思うんですけど、専売局のベランダに王民寧という、戦争中は重慶に逃亡した台湾の人、この人が少将に新任されて警察の役人だったんですがこの人が現れてここは誰もいないから、ぼくが陳儀行政長官のところに連れていってあげるとデモ隊を先導して行った。行政長官公署に向かった。

 

 そこに入った途端に機銃掃射があったんです。中山路と忠孝路の十字路の真ん中にロータリーがあってそこに何人か倒れておった。それで群衆は人殺しやと言って駅の方に逃げていった。お山さんがこういう風に無残に台湾人に向けて掃射した。台湾人は甘いことで踊らされて自分の同胞だというがこういう風に殺されている、という記事を書きました。ぼくは編集長が新聞に出してくれたかどうかわからなかった。

 

 私の見方では、戦後来た大陸の人達は、台湾を治めるという気持ちはなかった、台湾は俺たちが制圧した戦利品だから、と言う気持ちで台湾に来ておって。なんでも金になるものは、自分たちのもんだという考えで来たわけだ。だから来た人達は文化的に法というものを守っていません。俺らが制圧したところだから、なんでも全部取れると。だから摩擦が毎日あるわけ。私から見たら文化衝突だ。もう一つは文化よりも心の思い。台湾を統治する、という思いがない。法を守って統治しているんじゃない。

 

 私の爺さんは日清戦争の禍いで日本に帰化し父は第二次世界大戦の禍いで祖籍に戻されて戦禍でいつも捨てられる台湾はほんとに涙の島、罪の島でございます。

 

 これからまた、世界のどの国か台湾の宗主国だとして言って来たら私達は経験からすると頑として信用しないで怒鳴り返しますでしょう。台湾という国は私達台湾人が神様から頂いた賜物です。神様への恩返しの重荷は私達台湾人の肩に担わせて頂きます。

 

 台湾は民主政治の国家です。人民達は神様を信じて國作り、法守りは勿論のことです。神様は特別に顧みて頂きましたからこういう政治が成し遂げられました。その中に有名な民主闘士が犠牲を惜しまず民主政治の実現に戦ってきました。しかし、政治の野心家は存在する筈ですがその政治の野心家達はいかに国民に排斥されたかを皆んなの目の前に現れて警戒心持つようにさせて頂きたいです。政治をやって金儲けすると言うことは間違いです。寧ろ、良い政治をやって国民の福祉を計らせて頂いた方が宜しいです。立派な国家は経営によって出来上がるものです。立派な国家は必ず立派な国民があってこそ初めて成り立ちます。中国よ、民主政治行なえよ、こうして初めて世界の平和が実現出来ますよ。_

 


私と台湾のご縁(山本幸男)

 

私と台湾のご縁

 

             台北市 山本幸男            

  

私は台湾とのご縁は些か誇張した言い方ですが運命的な繋がりを感じています。学生時代(1970年代前半)、私は恩師の著名な経済学者の市村真一先生(京都大学名誉教授)のところに下宿してお世話になっていました。40台半ばの先生はとてもご多忙だったですが、週に一回はプライベートな講義をして頂きます。主に中国の古典や吉田松陰の講孟箚記についてです。

 

講義の時に先生は時の政府が台湾の中華民国との国交を断って、大陸の中華人民共和国と国交を結ぼうとしていることを厳しく批判されていました。当時の中国は未だ文化大革命の混乱の最中であり、一方の台湾は着々と建設を続け第一次産業中心から工業中心へと経済構造の転換を成功させようとしていました。又、台湾には戦後の困った時に日本を助けてくれた恩義がありそれらを忘却して中国と国交を結ぶのは大義が無いと激しく批判されていました。台湾には先生と親しい京都大学農学部出身の李登輝さんもおられました。

  

私は大学卒業後は商社に入り、1979年には第一次中国ブームで会社派遣の最初の語学留学生として北京語言学院へ1年間留学しました。その後、中国には広州、北京、北京と3回の駐在員生活を約20年間過ごしました。会社には毎年できれば中国以外の中華圏での転勤希望を出していましたが希望叶わず、ずーと中国勤務ばかりでした。漸く定年間近の2008年秋に、思いがけず台湾からお声がかかり、台湾日本人会と台北市日本工商会の事務局総幹事として招聘したいとの話が舞い込んできました。日本人会は1961年、工商会は1971創設で既に4050年の歴史があります。ただその間の総幹事は現地の日系銀行や商社出身の台湾人の方が職を担っていました。日本語も堪能で特に支障はなかったのですが、やはり活動は若干マンネリ気味で活発でなかったようです。丁度2008年は馬英九さんが台湾総統になった年で、馬さん側から日本企業の皆さんとも是非うまくやっていきたいので何でも困った件があればどんどんと持ってきて欲しいとの伝言が寄せられていました。当時の幹部の間で協議結果、それに積極対応しようということになり、その為にもやはり日本人専任の総幹事を招聘して事務局を強化しようということになりました。この成果として工商会は翌年から台湾政府に在台日系企業の抱える課題や改善要望事項を取りまとめた「白書」を毎年秋に政府に継続して提出しています。

 

私が総幹事在任中に、台湾とはその後2011年の311震災の時にも義援金200億円のご支援も頂き、又、NHKのど自慢in台北が201110月に放送され、これらが大きな転機となって、日本人が台湾に大きな関心を示すようになってきました。日本からも多くの方が台湾を訪問するようになってきてこれが現在に繋がっています。

  

2014年末で総幹事の職を辞したタイミングで、今度は京都の公益財団法人・日本漢字能力検定協会からBJTビジネス日本語テストの台湾での普及促進を手伝って欲しいとの依頼がきました。もともと日本政府が開発した公益性の高いテストで、これの責任者が旧知の大学時代の先輩の方でした。彼も学生時代に市村先生や同僚の国際政治の著名な高坂正堯教授の指導を受けていました。大学紛争が華やかなりし頃で大学封鎖もあった時代です。高坂先生と市村先生は同志として関西の大学の正常化にとても尽力されていました。我々学生もその影響下で関西で活動していました。

  

社会に出てからも50年前にお世話になった恩師が言われた台湾のことが頭にあり、日台関係に少しでも関与できればと思って仕事をしてきました。又、50年振りに巡ってきた先輩との人生の再会も不思議なご縁だと思っています。若い頃に山の麓で一緒に遊んでいたが、山登りを始めてみると色んなルートがあり途中挫折したり回り道をしながらも、最後に山の頂上で昔のご縁で再び相見えることができたのは本当に不思議な感じです。恩師の市村先生とも昨年台北でお会いすることが出来ました。今は神が与えた天命だと思って日本と台湾の橋渡しの一端を担わせて頂いています。

 


私と台湾のかかわり (山元與一 )

 

           私と台湾のかかわり

 

                  鹿児島県 山元與一

 

 

今までに台湾を5回ほど訪れている。初回は平成13年12月大学時代の親友楢崎政志氏(前三沢市立第5中学校校長)から誘われた。それまでの私は、台湾についての知識は、漠然としたもので、まったくと言っていいぐらい持ち合わせていなかった。ただ、鹿児島は地理的に台湾には近く、鹿児島、台北間に週4便の飛行機が飛んでいる。戦前に親戚が台湾で働いていたり、同僚の先輩で、台湾の師範学校や旧制の中学校を卒業されているとかいう方とは接していた。台北・台中・台南を訪れ多くの方々や場所を知り、いろいろなことを知る機会を得た。

 

 

最初のきっかけは、青森県三沢市立三沢第5中学校(校長楢崎政志)と台北市天母國民中学の姉妹盟約式に参加することであった。楢崎校長は、常日頃から、生徒に何とかして国際感覚を身につけさせようと考えていた。修学旅行で日光に行ったとき、ふとしたことで台湾のご夫婦と知り合ったことがきっかけであった。ご夫婦のお孫さんが通っていたのが台北市士林区の天母國中学であった。ご夫婦の肝いりの結果、天母國民中学との交流として実を結んだのである。以来毎年、三沢第5中学の生徒・職員10数名と天母國民中学からは生徒20名に職員・保護者合わせて40名前後の方々が相互訪問を続けている。平成23年以降(楢崎政志氏が死亡)は交流範囲を広げたり、隔年おきにしたりして現在も続いている。その時通訳として来日した淡紅大学の学生(陳韻文)さんや、当時から毎回来日していらっしゃる当時のPTA会長(林 秀宗・朱 淑慧)さんご夫婦とは今も交流している。6年ほど前にはご夫婦で鹿児島まで来られて鹿児島旅行を堪能された。桜島を案内していたとき爆発して私らにとっては、日常茶飯事のことではあるが、ご夫婦にとっては驚きであり、大感激であった。鹿児島、台湾は直行便が開通してより便利になった。初めは羽田から飛び立ち、福岡になり、今では鹿児島からの直行便が週4便はある。

 

 

 訪台する前に台湾のことを知りたくてインターネットを通じて、台中で活躍している喜早天海さんを知った。彼は日台間の草の根交流に懸命に努力し、台湾を愛し、台湾情報を発している方である。また、「台日会」の世話役である。「台日会」とは、日台双方の台中にゆかりのある人たちが草の根交流を図っている親睦団体である。

 

 初めて訪台したときに「台日会」の忘年会に参加させていただいた。そこに、静宜大学日本語学科教授許世楷先生(元台北駐日経済文化代表処)ご夫婦も参加されていた。

 

 その静宜大学から、先生の教え子5名が鹿児島県薩摩川内市の鹿児島純心女子大学に平成15年4月から1年間、留学のため来日してきた。喜早さんの連絡で知った。時々面倒を見てもらえたら嬉しいとのことであった。

 

 

何か私が協力出来ることはないかと思い、さっそく鹿児島純心女子大学を訪れ、彼女らの受け入れ窓口になっている学生課の係長さんにお会いして、協力を申し入れた。夫婦で彼女たちと昼食を交えて楽しいひと時を過ごした。実に素直で、向学心に燃えた、やる気満々の学生さんたちに感じられた。

 

寮生活だけでは味気ないのではないかと考え、時々自宅に招いて食事会をしたり、妻の手作りの料理を差し入れたり、自炊用の炊飯器、電子レンジ、ポット、トースター等を差し入れたり、日本料理の作り方を教えたりした。

 

レンタカーを借りて県内をくまなく旅行したりもした。お互いの生活習慣の違いを話したりしおおいに盛り上がった。 今では彼女らは、私たち夫婦を鹿児島のお父さん、お母さんと慕って電話やメール、ラインを通じて気さくに付き合っている。

 

留学中の彼女たちは、日本文化に興味を示し、茶道部に入部して所作などを懸命に学んでいた。また、ボート部にも入部して川内川レガッタに参加したり、地元の夏祭りや川内大綱引き等の行事にも積極的に参加したり、弁論大会に出場して自分の感じたことを話したりと、留学生活を堪能していた。

 

平成16年3月の帰国前には自宅に招いて盛大な送別会を開いたりもした。彼女らとの繋がりを深めようと、その時のメンバーで「静純会」という名前を付けて、今でも交流を続けている。

 

 

帰国後彼女らは、留学の経験を活かして台中日本人学校や日系企業で働いている。一人は日系企業で働いていた日本人男性と結婚し、今では枚方市に住む2児の母親である。彼女はよくメールやラインで家族写真などを頻繁に送って連絡してくれる。

 

平成22年4月には、帰国後初めて5人全員で鹿児島を再訪問した。6日間の日程ではあったが、私の家に宿泊したので5人の娘が嫁ぎ先から帰ってきたみたいな気分を味わうことができた。というのは、私は、男の子二人のみで女の子がなく、それはそれは華やかな6日間だった。

 

彼女らとの交流を機会に、私は鹿児島県で台湾にゆかりのある方々で作っている「台湾の会」に入会させていただいた。この会は、戦前台湾に住んでいたり、仕事をしたりして鹿児島に引き揚げてこられた方々の親睦団体である。

 

平成17年3月にはどうしても彼女らと会いたくて旅行業者の団体ツアーで2回目の訪問となった。このツアーには前に勤めていた学校の先生夫婦も参加していてびっくり。

 

 

平成19年9月の3回目の台湾を訪れたときは、嫁ぎ先の娘たちを訪ねるような、それはそれは楽しい旅であった。彼女らの案内で台北、台中、台南をまわり見聞を広めた。すべて彼女らが計画し、都合をつけて全日程を、一日一人ずつ付きっきりで案内してくれた。単なる観光地巡りではない、台湾の実生活を体験できたのは、すごくいい体験となった。

 

4回目の訪台は平成22年12月のことである。留学生の一人の結婚式に参列させてもらった。厳粛な中にも楽しい結婚式で初めての経験であった。

 

5回目は平成25年2月で、妻と二人での結婚記念日旅行の台湾訪問であった。彼女らの子供たちとも会うことができ、実際の孫に会えたような喜びであった。

 

 

今まででの台湾旅行で一番印象に残っているのは「八田與一」のことである。初めて台湾を訪れたとき、台南市にある、奇美博物館を訪ねた。そこに台湾に貢献した日本人という紹介パネルがあり。乃木希典、児玉源太郎、後藤新平、新渡戸稲造、八田與一等の写真が展示されていた。「八田與一」以外の名前は知っていたが、彼の名前は知らなかった。初めて聞く名前であった。自分と同じ名前「與一」に興味を持ち、帰国後、台湾に関する書物などで調べたら必ず「八田與一」という名前が出てくる。

 

彼は台湾の不毛の地・嘉南平原に壮大なダム「烏山頭ダム」を造り、台湾一の近代的で肥沃な土地に変え、嘉南平野は今では台湾一の穀倉地帯となっている。

 

また、元台湾総統李登輝は講演「日本人の精神」の中で、日本統治時代の台湾において、10年の歳月をかけて大規模な灌漑プロジェクト「嘉南大しゅう(烏山頭ダム・給排水路)」を完成させた「日本人技師・八田與一」の功績を取り上げている。いつか、「嘉南大しゅう(烏山頭ダム・給排水路)」を見てみたいと思っていたところ、平成19年に見学する機会を得た。このダムは普通のダムとは違っていた。普通のダムは、山間の深い谷間を堰き止め、水を貯めるが、このダムは、お椀を逆さにしたような小高い丘がダムになっていた。ダムの周辺は観光地となり、ホテルなども建って多くの観光客が訪れていた。この北岸の一角に、湖面を見下ろすように、平地に作業服姿で片膝をたてた「八田與一」の銅像が、日本式のお墓(八田與一夫婦)の前に建立されている。

 

この銅像は昭和6年に地元の農民の方々が、「八田與一」の功績を忘れずに建立し、彼が亡くなるとお墓を建て、翌年の昭和22年、命日の5月8日から一度も欠かすことなく慰霊追悼式を催し、恩人としてずっと守り続けているとのことである。ところが3年ほど前、心無い人が銅像を傷つけるという事件が発生したが、すぐに修復して事なきをえている。

 

ここを訪れる観光客は皆、墓前で両手を合わせてお祈りしていた。外国人のお墓の前で観光客全員の方々がお祈りしている姿に感動を覚えた。

 

全く台湾への関心がなかった私が、ちょっとしたきっかけで台湾にはまってしまった。これからも彼女らを通じて、台湾との関わりを保ちたいと思っている。

 

 

 


日本語と私(林玫芳 )

 

             日本語と私

 

                      台中市 林玫芳

 

 

日本語勉強のきっかけ

 

日本語の勉強を開始したのは1997年高校時代だった。「哈日族」の流行で日本の歌やドラマがもちろん、日本語学習も大人気だった。もともと外国語学習に興味があった私、家族と相談後、「宜寧中学」という商業学校の日本語学科に入学した。

 

日本語の授業は毎日があり、会話や文法、更に日本語タイピングの授業もあった。家に帰ると、テープを聴いて発音練習するのが日課となっていた。

 

学校で使用したテキストは「新日本語の基礎」、研修関連の内容になっているので、クラスメートの間では「こんな内容を勉強するのは退屈だ」というクラスメートもいた。

 

更に高三に初めて訪れた日本修学旅行がとても印象に残った。初めて飛行機に乗り、なんだかんだ新鮮だった。今まで勉強してきた日本語を実際使ってみるとわくわくしていた。日本旅行から戻ると、もっと頑張って日本語を勉強して、また日本に行きたいと決心した。

 

 

日本留学 前編

 

商業学校卒業を控え、そろそろ進路を決める時期が来ている。当時台湾の教育制度では、一般の大学は一般高校卒業生向けになっている。よって商業学校卒業の私は一般の大学に入れなかった。

 

一応、運が良く「南台応用科技大学」の日本学科に合格しているが、家族と相談後、台湾で日本語を専門とした勉強するより、日本に行って本場の日本語を勉強した方がためになるという結論に至った。

 

そして、18歳の私が、高校卒業式の日に、日本留学へと旅立った。一人で異国で生活するのは怖くないかと聞かれたことがあるが、たぶん若さゆえに怖いものはなかっただろう。が、時々ホームシックになる。

 

大阪の日本語学校に入学して、日本語勉強漬けの日々だった。そして運がよく、半年で日本語能力試験一級に合格、早速大学入試情報を収集したり、応募書類作成に取り掛かった。そして何校か面接を受けたものの、なかなか合格に至らなかった。このままだと、台湾に帰るしかないと焦り始めた。

 

 

 

日本留学 後編

 

その時、目に留まったのが私の誕生日に入試面接予定のある大学だった。その学校の名前は「下関市立大学」である。いちかばちか入試を受けることにした。

 

実はその時、大阪と下関がそんな離れていることすら知らなかった。

 

入試の前日に夜行バスに乗り、いざ大阪から下関へ移動。夜九時半大阪を出て、翌朝五時半に下関に到着。大阪と下関は結構離れていることを、この時初めて身をもって知った。夜行バスに揺られてあまり眠れなかったが、車窓越しのキラキラした夜景がとても素敵と思った。

 

そして本当に運がよく、「下関市立大学」の経済学部に合格した。合格と知った時は安堵してすごく嬉しかった。無事に入学できて、新生活に右も左も分からない不安があったが、学校の職員が丁寧に対応してくれて、いよいよ新生活にスタートを切った。

 

大学生活と言えば、勉強、部活、バイトという人は少なくないと思う。私の場合は勉強(資格取得)、バイト、国際交流で充実な日々だった。

 

まずは勉強と資格取得、将来のためと思い、勉強の傍ら、英語検定、韓国語検定や秘書検定の資格を取得した。学校の専門科目が難しくよく分からない時もあったが、親切な先生とクラスメートがいてくれたからこそなんとか無事に乗り越えられた。

 

日本語学校の時、勉強に専念できるようにバイトしなかったが、大学に入ってからバイトし始めた。最初は近所のラーメン屋さんでバイトしていた、賄いつきで、仕事が終わるとから揚げやラーメンが頂ける。残念ながら、私が大学卒業直前に店主が体調により、店をたたんだが、今でもこの店のラーメンやから揚げが本当に美味しいと思う。ラーメン屋の次は「平家茶屋」という料亭でバイトしていた。最初は分からないことがたくさんあったが、先輩たちが親切に教えてくれて、接客について大変勉強になった。「平家茶屋」は関門海峡の景色がよく見えるし、料理も美味しいと評判なので、皆さんは下関に行くことがあれば、ぜひ立ち寄ってみると良い。

 

そして国際交流、留学生同士のホームパーティーを参加したり、ロータリークラブやライオンズクラブの国際交流の行事に参加したりしていた。留学生スピーチ大会で知り合った元市議員の鵜原様ご夫妻は自分の娘のように接してくれて、また、国際交流サロンでお世話になった和泉さん、本当に感謝感謝!

 

晴れて迎えた卒業の日は留学生を代表して挨拶をした。会場に置いてある台湾の国旗を見ると感無量で胸一杯だった。

 

 

まとめ

 

帰国後、ある日偶然でネットで検索してみたら、「台日会」という日本語を話す交流団体に出会えた、毎月の例会が楽しみだった。自分が日本でお世話になった分、微力ながらも台日交流に貢献しようと、少しでも恩返しできたらと思っている。そして、日本語を使う仕事をしてきて、現在に至る。仕事で嫌なことがあっても、好きだから頑張れると思う。最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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