編集後記
編集後記
編集後記
平成元年に(1989年)に湾生の人たちとの出会いがその後のぼくの台湾生活に大きな影響を与えるとは思いもよりませんでした。それは同年七月に台中市100周年の佳節に大勢の湾生の人たちがやって来たからです。これがきっかけでその時から湾生の人たちと個人的なつながりを持つようになり日本時代の台湾に首を突っ込むようになったのです。当時は日本語教師をしていて、よく学生からは「台中には日本人も日系会社も少ないし勉強しても話し相手がいない。」と言って途中でやめていく人が多かったのです、そしてある年のことです。台中市内で商業高校の卒業式が終わった後、「先生!日本語の教科書もういらないから返します!」と生徒から言われたことがずっと頭に残っていました。それで1996年に台中で、日本語を話す機会を作るために、社会人や学生さんたちを中心にして、「日本語聯誼会」を発足させ、その後、日本語世代の人たちにも呼びかけて、1999年10月に「台中会」(台湾中部地区聯誼会)を結成した後2005年に「台日会」(台日交流聯誼会)と改称しながら日台交流ボランティア活動をしてきました。考えてみれば、日本語教師をやめたあとサラリーマンの身分でこうした活動が出来たのは、会社人間にならず、出世を望まず、会社に束縛されずに自由に余暇を利用してきたからにほかなりません。おかげで台中に限らず台北、高雄などにも行動範囲が広がり、かつ日台交流仲間とも知り合いが増え、会社と自宅の往復だけの人生とは違った道を歩めることができました。
本についても、1998年に作った本『台湾見聞録』を皮切りに出版は会の活動と言うよりぼくの趣味の一環としてやってきました。2002年8月から15年間メルマガ「遥かなり台湾」を配信、そして2年に一回の割合でメルマガ記事をまとめて一冊の冊子にしたり本にしたりして自費出版してきました。メルマガや本を作ってきたりした原因は「あまりにも日本人は台湾のことを知らないし、台湾の若い人たちも自分たち台湾のことを特に日本時代のことを知らなすぎる」と思ったからです。
それは又、中国語・台湾語のあまり話せない自分がこうやって平穏に住める台湾に対しての恩返しのつもりだったのです。
また台日会の例会に新来者を連れて来ると「まるでこの会は老人会みたいだ」と若い人からよく言われました。「あの人たちから台湾の昔の日本時代の話を聞けるのも今の時期だけだよ。」と答えましたが、大抵の新来者は昔の話は興味がないようで一回だけの参加が多く定着させるのが難しかったです。
そうこうしている間に高齢化で前述の湾生の集いも5年前に解散し、同様に台日会も今年の春節を前に解散を余儀なくされました。
もうすぐ幕を下ろす平成時代を振り返ってみると「幸せ」の一言に尽きます。ご縁があって色々な人たちと知り合えて、またこのように原稿をいただいたものをカタチにできたからです。来月からの来る「令和」以降も何とぞご厚誼のほどよろしくお願いいたします。ご協力いただいた皆さんに重ねて謝意を述べたいと思います。本当に有難うございました。