目次
はじめに
第一部 私と台湾
日本語は私と台湾の架け橋(アンディチャン)
台湾の楽しい思い出 (池田徳三郎)
何故台中市は大好きなのだろうか?(池田徳三郎)
台湾に残る狛犬たちを訪ねて(市来訓子)
私を台湾へ導いてくれた台中のご縁(伊勢寛)
埔里で日本語教師をして (伊藤直哉 )
いりぐち(大竹千紘)
台湾の神社に魅惑された私 (金子展也)
慰霊訪問団に参加した孫の感想(小菅亥三郎)
ドライブと温泉(駒井教雄)
私の台湾人生(酒井充子)
私の台湾史(佐藤晋)
台湾の日本語世代からのエール(佐藤民雄)
台湾へ出向(鈴木誠真)
台湾へ留学の思い出(高橋美代子)
お爺ちゃんとの思い出(舘量子)
台湾の世相の変化(陳秋蘭)
台湾の鐡道に魅せられて (戸井智博)
私と台湾(飛石秀樹)
台湾物語(中須賀重幸)
台湾と中国のはざまで揺れた心(中山孔明)
台湾と祖父母と私(永峯美津保)
環島(西川洋美) 
私と台湾 (丹羽文生)
台湾との邂逅(福田真人)
変わるものと変わらないもの(松尾功子)
台湾を歩いて(松任谷秀樹)
台湾で観たお月さま(森順子)
台湾は台湾 (李中元)
私と台湾のご縁(山本幸男)
私と台湾のかかわり (山元與一 )
日本語と私(林玫芳 )
台湾で見つけた人生の目標 (若尾彩加)
第二部 湾生と日本語人
私の一生(木村英一)
故郷の川(島崎義行)
暖かい台湾の心(瀬戸省三)
勇気ある質問(泰一則)
台中にて(堀部二三男)
二つの故郷(溝口啓二郎)
詩「戦後60年」(許育誠)
皇太子殿下のご成婚に期待をかけて(許昭栄)
昔の夢にふける(洪伯若)
冬(曹劉金花)
回顧(游大坤)
母の思い出(李栄子)
終戦当時の思い出 (李英妹)
詩「故郷」(劉心心)
私達と日本語(林陳佩芳)
僕の軍隊経験(林啓三)
私の少女時代(林翆華)
水産学校(林彦卿)
編集後記
編集後記
奥付
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第二部 湾生と日本語人

私の一生(木村英一)

               私の一生

                                  大阪市  木村英一


 この世に生を受けて八十五年、省みまれば実に多くの人々とめぐり合わせていただきました。両親、弟妹と共に送った幼かった日々。龍ちゃん、四郎さん等と呼び合って遊び、学んだ小学校時代を過ごし、台北高等学校尋常科に入学以来、親元を離れた寮生活が始まりました。田舎町より出てきた私は都会の洗練された秀才少年達の中で目を見張るような毎日を送りました。開学第一回生として台北帝国大学医学部入学後は、新進気鋭の教授たちの教えを受けて、自分は言うの及ばずクラス全員が将来に夢を膨らませました。しかし、中国大陸に起こった戦禍は次第に拡大するばかりで、研究の夢半ばにして軍医教育もそこそこに南支派遣軍歩兵部隊に従軍し、雷州半島、海南島方面千三百キロメートルを踏破、敗戦の後、無事広東より帰還できました。

  その後福島県長塚村で地域医療に携わっておったところ、大阪市立医科大学に恩師細谷教授の導きにて奉職、その後大阪市立大学となり、四十五年間を過ごしました。途中いわゆ
る大学紛争で研究室を水浸しにされ、折角の科研費で製作した機械を破損されたのは、この上もなく残念なことでした。その後、大学も落ち着き、大阪市立大学の歴史も百周年を超え、大阪市の全面的なご支援のもと、阿倍野の地に斬新な医学部研究棟、付属病院が完成した事は誠に喜びにたえません。
 退職後はロータリークラブ会員諸兄と友好で結ばれ、実に多数の方々の友情、恩恵を賜わりました。振り返りますれば、何処にあっても暖かな友情に恵まれ、幸せな人生であったと感謝致しております。
 歳と病は如何ともし難く、断ち難きを断って皆様に永遠のお別れをせねばならなくなりました。語れば際限がありませんが、これまで友好を賜りました総ての方々にお別れのご挨拶をさせていただきます。ありがとうございました

                   

          (平成13年1月4日没 享年85歳)


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


故郷の川(島崎義行)

 

              故郷の川

 

                        仙台市 島崎義行

  

台中は、台湾の小京都と言われただけあって、整然と区画された街中を柳川と緑川が流れ、郊外にも旱溪、大肚溪、それによく名前のわからない大小の河川に恵まれていました。緑川、柳川は、柳の緑色と岸から川面に向かって、垂れ下がっているブーゲンビリア(いかだかずら)の華麗な紫とが、鮮やかなコントラストを示して印象的でした。

 

 緑川は、北屯方面から出て、台中公園と第三大隊の間を流れ、街中を抜け老松町に入ると、山線の土手下にしばらく並行して、四丁目から東に九十度カーブして専売局の裏あたりから、郊外の団圃の中を緩やかに屈折しながら頂橋付頭を過ぎ、最後は烏溪に吸収されていました。

  

今、奈良にいる渋谷香代子さん(同級生)や森村さんの家は、みな川沿いにありました。東本願寺も、四丁目の橋のすぐ袂にあり、先輩の鶴岡にいる本間辰五郎さんは、このお寺から明治に通学していました。

  

昔は、柳川も緑川も本当に清流と言ってよいほど水がきれいでした。台中は、もともと地下水が豊富なところで、水道の水も地下水を汲みあげていました。緑川、柳川の河床のいたる所に湧き水が噴出していて、川岸の階段を下りていくと、湧き水の周りに石囲いをした洗濯場がありました。上が白で下が黒いの服をまとった台湾婦人が、石にどっかと腰を下ろし、両脚を横に広げ、ズボンを股のあたりまでまくり上げて、平たい石に洗濯物をのせ石鹸をぬりつけて、叩き棒でピチャピチャと数回叩いてはひっくり返して水に着け、また石鹸をぬって叩いていました。ダブダブの黒いズボンの間から真白な脚が内股のあたりまで見えると、久米の仙人ならぬ凡俗のわたくしなど、自転車ごと危うく川底へ転落しそうになるのでした。

 

 柳川も、北屯の方から流れてきて、柳町をほぼ一直線に流れ、陸軍墓地の裏で、九十度一旦師範の方に曲がり、すぐまた向きを変えて南屯を通り、最後は烏渓に注いでいました。

 

柳川が、街中に入る一番北の川沿いに西本願寺があり、たしか水上さんと言ってとても有難い声でお経を読んでくれた和尚さんがいました。西本願寺から少々下って橋を渡り少し西寄りの所に、小西湖という高級台湾料亭がありました。緑川にも酔月楼がありましたが、夜になると毎夜のように、胡弓や月琴の音が風に乗って流れてきました。裾割れの長衫が肉体に密着し、肢体の曲線が魅力的でしたが、なにしろ学生の身、財布の中に五円と入ったことのないわたくしですから、風とともに流れてくる脂粉の香を嗅ぐだけで満足せざるを得ませんでした。それと小西湖や酔月楼のような高級料亭には、チン蹴りの秘技を持っている老鰻(ローモア)の用心棒がいると聞かされていましたから、とてもひやかすなどという大それたことをする勇気はなかったのです。

  

柳町に住んでいた頃、すぐ川向に楽舞台という劇場がありました。京劇の公演が始まると満員札止めの盛況で、あの独得の隈取り、立ち回りが珍しく、わたくしは川向いのジップンギナアというので、よくペロンコで入れてもらったものです。柳町の家の裏に第二市場があり、安西畳屋さんや、梅木智先生の家もすぐ近所でした。楽舞台から下ると、青果会社、台中病院と川沿いに続き、陸軍墓地の裏あたりから流れが澱みはじめ、水も汚れていました。

 

 川端町に住んでいた頃、警察官舎の人たちは、我々が通称アメ屋の橋と呼んでいた付近は、とても良い魚釣り場でした。浅野君のお父さんは休日によく弘さん、守さんの兄弟を連れて魚釣りに行ってました。浮き草を竹竿でかき分けて、撒き餌のヌカ団子を投げ込んでいる姿を羨ましく眺めたものです。私も一度、夕立ちで俄に増水し、濁りはじめた時、アメ屋の水車小屋から出る水が、柳川に落ち込む場所に投網をぶったところ、網一面真白になるぐらい魚が入り、一網でバケッツがいっぱいになったことがありました。

 

 柳川の他に、師範の裏や農事試験場の裏にも、魚、鯉、オイカワ、ギュウギュウ、川エビ、スッポン、鰻などのいる川が流れていました。台湾人の川エビ職漁者は、ヘエーランと言って、竹で編んだ小型のエビ胴に糠団子の焼いたのを入れて、川底に沈めて置き、翌朝早く挙げに行ってました。まだ水の滴るエビ胴を天秤棒がくの字に撓うぐらい担いでいる姿を、皆さんも一度や二度みたことがおありになると思います。

  

休みの日には、あの辺の川にエビ捕りに行くと、とく武藤さんの正ちゃんに会いました。仕掛けは簡単で、八番線で直径五十センチぐらいの輪を作り、古くなった蚊帳を切って縫い付け、真中に豚肉のスジをくくり付けて沈めておくだけです。四、五分して短い竹竿に吊した蚊帳を張った輪を、そっと上げると必ずと言ってよいほど、二、三匹から多いと五、六匹、あの長い赤い輪の入った鋏足で豚のスジにしがみついていました。こうして、数箇所の置いたエビ網を交互に揚げていくと、二時間ぐらいで結構夕飯の天婦羅の材料ぐらいはとれました。

 

 しかし、エビ網をつくってくれた母も、一緒に掻い掘りや、シジミ採りをした武藤さんの正ちゃんも、この世にはいない。五年前台中に行って時には、もうアメ屋の水車小屋もなく、周囲の景観が一変してしまって、澱んだ水面のところどころでオイカワの呼吸する小さな円い波紋だけが、わずかに昔を偲ばせるだけでした。

 

 それでも、目をつぶると、鮮明に故郷の川が見えてきて、そこには透き通った川底をはっているエビや、オイカワや魚がゆっくり動き、正ちゃんの明るい声がはずみ、母がやさしくほおえみかけてくれるのです。

  

台中で生まれ、台中で育った私には故郷は台中しかありません。人それぞれの心の中に忘れられない故郷の山があり、川があり、街角があります。

 

誰も知らないあの農事試験場の裏の小さな流れも、私にとっては、生ある限り忘れ得ない、懐かしい懐かしい故郷の川なのです。

 

 

 


暖かい台湾の心(瀬戸省三)

 

             暖かい台湾の心                     

                        福島県 瀬戸省三

 

 

 

昭和202月学徒出陣で台湾北部海岸を守った。9月に入ってようやく終戦を知らされ、現地除隊となって台中陸軍航空隊の南にあった自宅に向かった。台中駅に降りて自宅付近まで来ると家は一軒もなく、生い茂る夏草の所々にコンクリートの土台だけが白く見えた。アメリカの4月の爆撃でやられたとのことである。ところで父母は生きているだろうか。急いで姉の家を訪ね父母の所在を確かめた。健在で台中市郊外の乾溝子という部落に、台湾の方のお世話になって暮らしているということであった。

 

 早速乾溝子の父母を探して、夕方暗くなるころ乾溝子にたどりついた。父母は4月の爆撃以来、着の身着のままで乾溝子の藍淵さんの世話になっていた。そこへ8月の終戦で兵役免除なった兄弟4人もお世話になることになった。台湾の人たちは竹で作った寝台に寝て暮しているが、日本の方は畳の上でないと暮らしにくいだろうと、台湾の藍淵さんが早速煙草乾燥場に板をはって、その上にどこから探してきたのか、畳を敷いて下さった。これには驚いた。感謝しながら翌年の3月までお世話になったが、日本人は市内の小学校に集合して日本に引き揚げることになった。丸一年家族6人でお世話になった上に、一文なしの私たちに食物を与えてくださったのである。

 

いよいよ21年3月に別れの日がやってきた。藍淵さんが言うには「台湾から福島まで一週間もあれば到着していたのだが、今は終戦の混乱期、途中どんなことに出会うかわからないから、この一斗缶を福島まで捨てないで持って行ってください。中に干飯が入っています。」と言って一斗缶を餞別にくださった。市内の小学校に集合する途中どんな危険があるかもわからないから、部落の若者を護衛につけてあげますと言われ、5人の若者に守られて何事もなく市内の集合場所に着いた。集合場所で別れを惜しんで話が弾んだ。

 

「藍淵さはじめ部落の人にお世話になったことは一生忘れません。お互いに頑張って生きていきましょう」といって別れた。やがて基隆まで汽車に乗ったが汽車は超満員で、足の踏み場もなくトイレにも行けない状態だった。基隆から船に乗ったが船の中も混雑していて三度の食事は子供のいる親たちがうばいあい、我々の口に入ることはなかった。仕方ないから藍淵さんにいただいた一斗缶の干飯を毎日少しずつ食べて、命をつないだが日本に上陸して東北方面の汽車に乗るまで何日もかかった。

 

台湾を出発してから福島に着くまで藍淵さんの予想した通り一か月もかかった。食堂があるわけでなし食べ物はどこにもない。藍淵さんの餞別にいただいた干飯だけがたよりで、ようやく福島にたどり着いた。それから35年後、教職を退職してお世話になった台湾の人たちをたずねたが、昔の家は残っていても、お世話になった人たちに会うことが出来なくて残念でなりません。暖かい台湾の心が、いつまでも忘れられず、感謝して毎日を送っています。

 

       

               (小ざくら会報NO52 平成221014日より転載) 

 


勇気ある質問(泰一則)

 

          勇気ある質問 

 

                                                                     泰一則

  

FORMOSA(美麗島)と呼ばれる日本の植民地だった島(現在の台湾)に私は生まれ育った。そしてそこの大学(台北帝国大学)を出て、

旧制の中学校の国語の教師になった。思えば台湾は今でも私の故郷である。私の皮膚にも、目にも鼻にも口にも、台湾の風土はなじみすぎるほどなじんだ。幼い頃には、家庭内の会話でも、時として台湾語を操って母を驚かせた。私にとって外国とは、とても思えない。しかし、私が台湾に惹かれるのは、そんな情緒的なもののためではない。私の長い教師生活の、最初の貴重な四年間を過ごした、悔恨や苦悩につながる忘れ得ない土地なのだ。

 

 

「台湾人」が全校生徒の九割以上を占めるという台南第二中学校、その特殊性には驚かなかったけど、そこで私は大きな体験をした。それは一言でいえば、どんな形にせよ、一つの民族が他の民族を支配してはならない、またそれは不可能だということである。その当時の台湾人に対する日本人の気違いじみた同化政策が、どんなに人間の自然を損ねたか、それをいやという程見てきた私は、日本人であることが厭になることさえあった。

 だから、校内では台湾語を使うことは厳禁されていた。それを犯せば

 退学させられたのである。だから、校庭のあちこちで談笑している生徒たちは、私が仲間に入ろうとして近づくと、ぴたりと話をやめた。そんな時のいいようのない白々しい空気は、どんなに辛く私の心に突き刺さったことだろう。一つの民族からその言語を奪う、それが大きな悪であり、反自然的であることを、私は痛烈な実感として思い知らされた。

  

こんなこともあった。日本が太平洋戦争の緒戦の勝利に酔っていたある日、校庭の朝礼で、校長がこんな訓示をした。大陸で戦っている勇敢な日本兵の一人が、敵のトーチカを奪取するために、機関銃が火を吹き止まぬ銃眼に片腕を突っ込んで沈黙させたという、当時の新聞の報道を伝えて話した後で、 

「どうだ、お前たちもこんな勇ましい行為ができるか。できると思う者は

 手を挙げよ。」と言った。すると全校800人の生徒が一斉に、一人残らず手を挙げたではないか。その日の一時間目、私はいきなりそのクラスの生徒に問うた。

 

「もう一度尋ねる。銃眼に片腕を突っ込めると本当に思う者は手を挙げよ。」

 

私のけんまくに恐れをなしたのか、誰一人手を挙げなかった。

 「なぜ嘘をつくのか」

 と私はたたみかけて問うた。誰も答えない。私は「この嘘つきめ」と罵りながら、どうしようもない悲しみに沈んでいった。

 

 私の叱積が的外れであることはわかっていたのだ。あの朝礼の雰囲気の中で台湾人である生徒が手を挙げなかったらどんなことになるか。手を挙げること、嘘をつくことが、止むを得ない自衛手段であることは、若い私には本当によくわかっていたのだ。だから私は腹が立った。彼らに嘘を強いる大きな力が憎かったのだ。

 

 しかしその後で、鮮やかな三段論法で教壇上に私を窮死せしめた生徒がいたのである。

 

「先生、盛者必滅、栄枯盛衰は世の習いという平家物語の一節は真理ですか」と彼は真面目に問うた。

私は「然り」と答えた。かれはつづいて

 「真理に例外がありますか」と問うた。私はためらうことなく、

「ない」と答えた。するとまたもや問うた。

 

「では日本も滅びる時がありますか」

  

ああ、あの時の困惑と狼狽を、半世紀以上経った今でも、ありありと思い浮かべることができる。あの時ほど自分がくだらなく小さな人間であることを思い知らされたことはなかった。生徒たちの心にもない挙手に怒った私が、心にもない沈黙で答えなければならなかったのだ。しかもなお、

そこには意地悪さはなく、全く透明なロジックの見事さだけが光っていた。そのことを今でもすがすがしく思い出すことができる。それ以後での日本内地での教師生活でも、これほど論理的に考え、それを堂々と表現する生徒に出会ったことはなかった。

  

その日の授業のあとで、その生徒は私の所に

 「さっきは悪いことを質問した」と侘びに来た。ただならぬ事態を心配した同級生から言われたらしかった。しかし私にどんな対応ができたであろう。ただ一言「不問に付す」と言っただけで、みずからをごまかすより外はなかったのである。

  

台湾はいま生まれ変わろうとしている。どうかその名前の通り「フォルモサ(美麗島)」として末永く栄えてほしい。かっての罪深い支配国の一人として、またその島をひそかに「故郷」と思っている者の一人として、そう願わずにはいられない。

 

 

 

 

 

 

 


台中にて(堀部二三男)

 

               台中にて  

                      堀部二三男(14)    

            小ざくら会報1978(民国97) 昭和53

 

 

今年の元旦は台中で迎えた。前日に台北から昨年の10月に開通したという高速道路を通って来た。僅か3時間で着いてしまった。台湾にも大きな近代化の動きが感じられた。あとから聞いた話だが、高速道路と前後して完成した鉄道の電化が、開業直後に機関車の故障で動かなくなり、世間の非難を浴びたと言う。何処かがヨーロッパの製品だったらしく、日本のものを買えば良かったのにという落ちがついたのには微笑ましくなった。

 

 

 高速道路から台中へのインターチェンジを出ると、広い道路に沿って立派な家並みが続いている。然しその沿道の何処にも見覚えがない。やっと見覚えのある建物を見かけたら、そこはもう町の中心に近かった。私たちの住んでいる頃は人口5、6万。今は560万という。あの落ち着いた小都市のたたずまいを知っている人は、今の台中には案外と少ないのかもしれない。

 

 今度の台湾旅行には3つばかり大事な用事があった。その1つは大晦日の昨晩、台中で無事に終わった。戦前この町で医院をやっていた兄が、台中でお世話になった人々をお招きして一席設けたいという意向を以前から私に伝えて来ていた。それを昨晩実行したのである。20数名の方々に来ていただいた。彼らの見事なホスピリティは、主催者である我々兄弟をむしろ客のように扱ってくれた。その席上、古い友人知人の子供さんたちの中に日本語を解する人が少なかったのはやむを得ないことであった。私はこのような日のために、昨年の春から中国語を習っていた。週に3回夜の2時間を生みだすことは相当な難行であったが、何とかこれまで続けて来た。実はその前の年に台湾に行ったとき、知人の子供さん達と顔を合わせていて、お互い好意を持ちながら共通の言語がないために、ただニコニコしているだけでバツが悪く歯がゆかったのが、直接のきっかけであった。中国語は入り易いが、少し進むとどの言語にあるように、ある種の困難にぶつかる。その困難を感じはじめたときの台湾旅行であった。内心どのくらい通じるか楽しみであった。しかし、台北の飛行場で、知人の立派な日本語に迎えられて、中国語を口にするきっかけを失ったように思えた。しかし、私は昨日の宴会の席で、日本語を話せぬ人達に何とか中国語で話をしようと努めた。酔いが手伝ったのであろうが、そのために更に酔ったのも確かである。しかし彼らが私の話によく笑ってくれたのは彼らの好意ではあったろうが、私の努力もいささか報いられたと、元日の寝覚めはすこぶる快調であった。


快い寝覚めは気温との関係があったようである。窓から爽やかな朝の風が入って来る。正月だと言うのに一晩中窓を開けて寝ていたのだ。私は兄には声かけずに宿を出た。通りの屋台でユーチャコエを売っている。私は揚げたてのそれを2本と豆乳を注文した。しめて40円、私は満足した。


宿は昔私が住んでいた家の近くであった。私はここから中学に通っていたときのことを思い出した。そうだ。2中に行ってみよう。私は30数年前の昔に通い馴れた道をためらわずに歩き始めた。道は昔のままの屈曲を示しているが、建物はほとんど変わっているように思える。時に記憶のある建物を見るとえらく感傷的になる。そして様々なことが思い出される。


2中は昔の実感よりも遥かに近くにあった。挨拶して入ろうと思ったが、休みのためか早朝のためか人影がないのでそのまま入って行った。中庭の方に廻ると、開校当時に建てた平屋の教室が高いものに変わっている。こんな木があったのかと思うほどに樹木が大きく育っている。私はその木の下のベンチに腰を下ろした。玉山の姿を求めたが見えない。昔は田んぼと甘薯畑だった校庭の周りにはびっしりと家が建っている。


私たち兄弟6人がこの学校を卒業した。兄弟の序列に学校の先輩後輩の序列までついてはたまったもんではないと、末の方に近い私は昔よく思ったものだ。しかし今こうしてこの学校の庭を眺めていると、私の兄弟、その友人が幾十年の昔にこうしてここの学校で学び遊んだのかという感慨が湧いてくる。


私は立ちあがってゆっくりとトラックを歩き始めた。このトラックの草取りをしたことがあった。手の入らない夏休みには、校庭全体に背丈ほどに雑草が生い茂ったことがあった。トラックを一周して寮のあった方から外に向かった。靴屋が終日トントンと生徒の靴を修理していた便所あたりはそのままであった。


校門を出たばかりの所で子供の群れに出会った。5、6人の男の子が小さなコロコロした犬と遊んでいる。停仔脚の下で無心に子犬と戯れている子供たちは可愛かった。私は自分の心が和しているのが分かった。そして今は異国であるはずのこの土地が、どうしても私には異国とは思えなかった。


それは郷愁と言う個人的な感情が、この町この土地への愛を感じさせているからではなかろうか。私を育ててくれたこの町とこの自然。私はこの町のために何かしたいと思った。台中のため、そして台湾のために私は何が出来るであろうかと考えていた。そして、奇しき縁で同窓となった台中2中の人々と、このことについて話し合いたいと思った。


二つの故郷(溝口啓二郎)

         二つの故郷 

 

                                 溝口啓二郎

 

1945年(昭和20年)八月十五日、日本も暑い日だったらしいが、台湾はもっと暑い日だったと思う。正午に天皇陛下の重大放送があると知らされて、われわれはラジオの放送に耳を傾けた。雑音がひどく声も低かったので、「玉音」は聞き取りにくかった。仕事から帰った父が、「けっきょく、降伏だな」と言うのを聞いて、「敗戦」という事実を始めて確認した、というのがあの日のわが家の実態だった。当然、内地人、特に大人達のショックは大きかった。虚脱状態がしばらく続いた。

 

一方、台湾の人達の反応はどうだったかと言えば、満州と呼ばれた中国東北部や朝鮮の人々のように、日本の敗戦を歓呼の声を挙げて迎えるというシーンは見られなかった。私があの頃の台湾の民衆の表情から感じたのは、安堵感と解放感だった。「台湾人として暮らしていける」ということは歓迎すべき出来事だったと思うが、それが内地人に対する報復行為に結びつくことは、台湾ではあまりなかった。台湾人と日本人の関係は戦後も比較的良好だったと思う。

  

あの頃、私の家に「彩さん」と呼ばれていたお手伝いさんがいたが、この女性は敗戦後もずっと我が家で働き続け、われわれが日本に引揚げるまで一緒に住んでいた。帰国の際、彼女が駅まで送ってくれて、プラットフォームでハンカチを目に当てていた姿を、今でも思い出すことができる。

  

私の友人の中には、台湾人の同級生に殴られて学校へこなくなった者もいたが、彼らは皆戦争中に、少数派で弱い立場にあった台湾人の生徒をいじめていたようだ。「報復」を受けても仕方がない過去を持っていたと思う。

  

二中は校長が中国人に変わったが、学校での授業はわれわれが引揚げるまで続けられ、大多数の生徒が出席していた。昔の友人に同総会で会っても、この敗戦後のことが話題になるのは稀であるが、私は戦後の学校生活を結構楽しんだ。興味を持って学んだのは中国語だった。「国語」と呼ばれていたが、予、復習をきちんとして授業に出ていた。この頃から私は語学が好きだった。

  

台湾に住んでいたわれわれは、戦後も恵まれた生活をしていたと思う。戦後職場が接収された後も、引揚げるまで父は給料を貰っていたので生活に困ることはなかった。敗戦国民ではあったが、台湾人の人々と共に、戦争中の抑圧から解放されて、私は伸び伸びとした雰囲気の中で暮らしていた。

  

敗戦後数ヶ月経ち、日本人の引揚が話題になり始めた頃だったと思う。「台湾に留まって台湾人になろう」と父が家族の者に提案した。夕食後、父は家族全員を前にして次のように語った。「今更日本に帰っても仕方がない。こちらに残って台湾人になろう。名前も中国風に変えることにしたい。」と言った。台湾で生涯を終わるつもりでいた父は、敗戦後も台湾に残りたかったのだろう。台湾人の知人の中には、「一緒に仕事をしましょう」と言う人もいたらしい。

 

しかし、結局、この話しは立ち消えになり、翌年の三月故国に引揚げることになったが、あの時父が口にしたわが家の家族の中国名は、今でもはっきりと私の記憶に残っている。父の名は故郷大分県の名勝耶馬渓からとった「馬渓」だった。「引き揚げ」の話は、1946年(昭和21年)の年が明けた頃から次第に具体化していった。

  

終戦の頃、台湾には、軍人を別にして三十万余の日本人がいたらしいが、日本本土の混乱と食料難、台湾での生活に馴染んでいたこと、敗戦国民だったとはいえ、台湾人からの報復がほとんどなかったことなどから、一時は約二十万人が台湾に留まることを希望したと言われる。この事実はそれだけ台湾が、「戦後も居心地のいい場所だった」ことを物語っている。当時に台湾において、父がしたような台湾残留の意思表明は、我が家だけに限られた特殊な現象ではなかったと言えるであろう。もっとも、進んで「台湾人になろう」とまで思った人が、他にいたかどうかについては、定かではないが。

  

しかし、台湾を接収した国民党政権が、大量の日本人の残留(少数の徴用者とその家族を除いて)を許さなかったのと、インフレをはじめとする社会的な混乱が生じたことにより、1946年三月までには、全員が帰国を希望したようである。その頃父は愚痴をこぼしたり、悲観的な言葉を口にしたりはしなかったが、新任の中国人の分(支)局長にポストを明け渡し、手持ち無沙汰だった父が胸中に抱いていたさびしい思いは、私にもわかるような気がする。

 

新しい政府の評判はあまりよくなかった。台湾人の国籍は中華民国となったが、台湾人は「本省人」と称され、中国から新たに渡ってきた中国人は「外省人」と呼ばれ、区別されていた。われわれが帰国する頃この両者の間には反目がすでに生じていた。新政府のことを台湾の人達は「ブタ政府」と呼び始めていた。われわれが台湾を去った後、本省人(台湾人)は、「イヌ去って、ブタ来たる」と言ったらしい。イヌとは日本人をさしていた。イヌは番犬として多少役に立ったが、ブタ(外省人)は台湾の財産を食い散らかして、肥え太るだけだったらしい。もっとも時間的な前後関係からすれば、「ブタ来たりして、イヌ去る」だったと思う。

  

われわれは三月下旬に引き揚げ船に乗って、かつての内台航路の基点基隆を離れた。デッキは追われて島を去る人々で満たされていた。おそらく多くの人達がこの島に骨を埋める覚悟だったのであろう。デッキに立って遠ざかる島影を見るめる大人達の顔には惜別の念が浮かんでいた。船脚が速まるにつれて、私の胸中に次第に別離の思いがこみ上げてきた。「再見(さようなら)」水平線の彼方にかすんで見える故郷の島に向って、私は心の中で叫んでいた。

  

四年前訪台した際、私はこの港町を再び訪れた。あれから半世紀余の時が流れていた。私は港を見下ろす丘の上に立って、記憶にかすかに残る風景をカメラに収めながら、しばし懐旧の情に浸った。「(一年に)三百六十六日雨が降る」と言われたくらい雨の多い町基隆らしく、その日も煙るような小糠雨に濡れていた

 

 


詩「戦後60年」(許育誠)

 

        詩 「戦後60年」           

                     台中市 許 育誠

 

 

私は、大正14111日生まれの台湾人

昭和20年8月15日までは日本人であった

 

 戦後60

 

台湾は、宿命的な歴史の十字架を背負わされ、

 

国際孤児とみなされ、

 

世界の多くの人たちから見放されている

 

  

若い女性からは、敬意の目で言われる

 

「おじさんの日本語お上手ね」

 

年嵩の者が、感じ入った顔で言う

 

「日本語よく覚えているね」

 

若い女性は、私がかって日本人だったことを知らない

 

年嵩(としかさ)の者は、私の日本語への郷愁の深さを知らない

 

 戦後60

 

台湾社会における日本語はいつしか風化し

 

おじさん世代の多くは忘れかけている

 

 しかし、今もなお、日本語の言霊にひかれ

 

毎日朗読して親しむ人もいるのだ

 

 戦後60

 

日台文化交流の架け橋と自負する私も

 

既に齢80

 

残された日々は決して多くない

 

されど、私は今日も日本語文の研鑽に、

 

習得に身を入れている

 

 


皇太子殿下のご成婚に期待をかけて(許昭栄)

 

                   皇太子殿下のご成婚に期待をかけて
                   

                                           高雄市  許 峯禎(昭栄)

        
戦後、もはや52年。日本と台湾は近くて遠くなったような気がする。とくに日本皇室に対するイメージは一般的に薄れ、戦時中、日本人とともに泣き笑い、ともに苦労し、ともに天皇陛下のために尽くした「皇民」も、今はあかの他人となってしまった。その責任を問うならば、すべて日本側にあり、私ども台湾人が取るべきものではない、と私は思う。
 
何故ならば、台湾を蒋介石に手渡したのは日本であり、台湾と国交を断絶したのも日本である。もっとも嘆かわしく思うのは、今日に至って、世界中で親日感の一番強い民族は台湾人である、と云うことを日本の皇室も政府も忘れている。
 
日本はかつて台湾を植民地として50年間統治したことは抹殺できない史実。幾ら戦後生まれの皇太子殿下とは言え、この歴史を知らないわけはないでしょう。統治上の功罪は別として、日支事変から太平洋戦争にかけて、「皇民」として動員された台湾人は20万人を超え、その中、約5万人が戦病死、または行方不明のまま消えてしまった。彼らは戦時中「赤いたすきに誉れの軍夫、嬉し僕らは日本の男」、と声高らかに歌って出征し、「天皇陛下の為ならば、何んで命が欲しかろう」と笑って死んで行った。彼らの殆どは家族に一言の遺書も残さず、只、日本の為、天皇陛下の為に尽くした、と笑って散華したのである。しかし、日本政府と皇室は、一体彼らを何者と思っているのか、私は不思議で仕様がない。
 
昭和49年の暮れ、インドネシアのモノタイ島で元日本兵中村輝夫が発見されたことは、日本国民もいまだに記憶に残っている筈だ。やっとの思いで日本に帰り着いた彼は、日本政府から受けた冷遇と云ったら、実に冷酷極まりないものだった。あとで発見された横井庄一と小野田寛朗両氏の受けた優遇と比べたら、実に雲泥の差。日本政府の解釈では、中村輝夫はサンフランシスコ和平条約によって、日本国籍を亡くしてしまったから、と云う。はっきり言い換えれば、中村輝夫は「台湾人」が故に、「日本兵」として31年間軍職に勤めながら、一円の軍人恩給すら与えない日本政府の冷酷無情・・・・。なーるほど、日本政府の「価値観」とか、「政治道徳」とか、皇室の「人間宣言」とか、日本人の「義理人情」とは、そんなもんだったのか!と、台湾の人々が驚嘆するのも無理はない。
  

憶えば昔、明治天皇は「新高の山の麓の民草も、茂りまさると聞くぞ嬉しき」と御詠あそばされ、台湾島民に温かい関心を寄せた。台湾統治後期の長谷川総督は、温厚に仁政を施し、徳望高く、強く台湾人民の心をゆさぶった。台湾人の胸の中には、明治天皇の恩澤と長谷川総督や後藤新平の仁政がいまだに息づいている。だが、終戦53年を迎えようとする現今、日本政府や皇室は、一言も台湾人に「贖罪」、或いは「感謝」、または「慰問」の言葉を寄せたことはない。
 
その反面、日本は廃墟から立ち直ると、裏切り者の如く、かつて「徳を以って怨みに報いる」と主張した中華民国政府と国交を断絶し、自ら中共に走り寄った。畏れ多くも、明仁天皇、皇后両陛下は、1992年の秋、中国を訪れ、「中国国民に多大な苦難を与えた不幸は、私の深く悲しみとするところであります」、と「謝罪」に近いお言葉を述べた。
元自民党の副総裁金丸信もかつて政府の代表として南朝鮮を訪れ、公的に韓国人に謝罪したのみならず、韓国に対する戦時損害賠償を承諾した。また、平成四年4月、北朝鮮と国交のない日本は、金日成の80歳誕生日を祝うため、平壌直航の特別チャーター機を動用して自民、社会両党の「訪朝使節団」を送り出した。
しかも、その時の北朝鮮は、1983年のラングーン爆殺事件と1987年の大韓航空旅客爆破事件とを踏まえ、国際的にテロ国家視されていたにもかかわらず、日本は喜んで諂媚の表敬に赴いた。
 
金泳三氏が南朝鮮の大統領に当選したとき、彼の就任を慶ぶと云う意味で、日本政府は韓国の「慰安婦補償問題」解決を受諾した。しかし日本政府の元日本軍人軍属台湾人に対する補償や未払い給料、並びに軍事郵便貯金などの戦後処理問題に就いては、又々暗い!
 
1993
年お正月早々、日本皇太子殿下が外交官大和田雅子嬢を皇太子妃とご決定なされ、この夏にご成婚なされることを知りました私は、お慶びを申し上げると云うよりか、寧ろ、皇太子殿下のご成婚に期待をかけていた。それは昭和天皇時代、「台湾人民にもたらした多大なる苦難」が、今ながらも台湾人の心に深く残っており、太平洋戦争の悲痛を物語続けているからです。

 残念ながら、世界60ヶ国を訪問し廻った明仁天皇は何故か、目の前にある台湾に一足も運び入れなかった。日本の諺で云えば、「灯台下暗し」であろう! ご成婚なされた後、徳仁殿下ご夫婦は恐らく欧米諸国を巡礼あそばされるでしょうが、願わくは、皇室外交をより一層充実し、祖父裕仁天皇と父明仁天皇の遺憾を補い、台湾人の心に残した汚点と日本に対する不信感をきれいに拭き消すのも、皇太子殿下の重要な使命でござる、と心に銘記して頂きたい。我々台湾人はそれを期待して止まぬ次第であります。    (終わり)

 

 

 

 

(備考)

 本稿は平成5年(1993)に産経新聞社の「オピニオンプラザーわたしの正論」で「皇太子殿下のご成婚に思う」というテーマで論文募集した作品の中で見事入選した文章です。許昭栄さん本人は当時投稿した時の心情を、台湾2千万島民の言いたいことを語り、元日本軍人軍属台湾老兵の苦情を吐き出し、さっぱりした快感に浸しみ、入選するとは夢にも期待してなかったそうです。

審査委員の辻村明東京大学名誉教授は「佳作一位の許氏は台湾出身の元日本兵が戦後の日本政府からいかに不当な扱いを受けてきたかを訴え、その解消を皇太子殿下に期待している。その心情は非常によくわかるが、それは日本政府に訴えるべきであろう。敢闘賞として別扱いにし、何らかの形での公表に値する」と述べていました。
 
しかし、残念ながら、何らかのご配慮に因り、いまだに「公表」されなかった(ようである)。と許さんは語り、「私の拙文が、もし何らかのご縁で皇太子殿下ご夫妻の目にかかる奇跡に恵まれましたら、私個人でなく台湾2千万住民の光栄の至りでございます」

 

 2008520日 許さんは高雄市内で焼身自殺した(享年80歳)

 

関連HP https://ameblo.jp/lancer1/entry-10100287348.html

 


昔の夢にふける(洪伯若)

 

昔の夢にふける

 

                            台中市 洪伯若

  

昭和5年に生を受けた私は小学校に入るまで平和な環境に育ちました。当時すでに35年間日本統治下にあった台湾は、産業、交通が発達し、物価は安く、治安は良くて、教育は普及され、人々の生活は安定していて楽でした。島民はみなよく法律や公衆道徳を守り、他人を尊重し、物事の道理をよくわきまえ、何時も他人に迷惑をかけまいと心掛けるので、日常生活で他人より利己的な行為や理の通らぬ事、憤らせることをされる事がありませんでした。

 

是非の判別がはっきりしていて、正しいことはあくまでも正しく、非が是に変わることもありません。そこにはじめて社会の秩序が保たれたのです。またほとんどの人がみな正直で、信用を重んじた当時の社会では人を騙す必要もなく、人に騙される気がかりもいりません。皆がお互いに尊重しあい、和気藹々とした環境で生活を営むことが出来ました。これは一に日本の徹底した良き教育の賜物であると思います。

 

小学校一年の年、中日戦争が勃発したが人々の生活にはすぐに影響はなく、小学四年に太平洋戦争が起こってから、物資の統制で米、砂糖、肉などの生活必需品が配給制になり、物資的に欠乏をもたらしたが、特権を振舞って他人より格別楽な生活をする人がなく、ほとんどの国民が同じく苦しい生活をしたのです。いわゆる社会の公平が保たれていたのです。

 

異民族の殖民統治下にいたと言えども、台湾人は日本人と若干の差別待遇があったが、法律に違反しない限り、身体の自由や生命を奪われる心配はありませんでした。こんな社会こそが幸せになり、希望をもてる文明社会なのです。

 

戦争は私の師範学校一年生まで続きました。ようやく平和がやって来たと喜んでいたら、祖国復帰の歓喜は白色恐怖と変わり、世相の移り変わりは皆を悲嘆と絶望のどん底にぶち込んだのです。人々の価値観は変わり、道徳観念が薄れ、正義観、是非観が失われて利己主義的になり、社会の秩序が乱れて来ました。それで今までの考え方で暮らして行くのが難しくなったのです。どうして世の中がこう変わってしまったのかと悲哀を感じざるをえません。何時になったら再び住みよい社会になるのでしょうか。最近は、しょっちゅうこういう夢にふけって日々を過ごしています。

 

最後に、暇つぶしに作った幼稚な短歌を数首載せて、皆様のご指導を仰ぎたいと思います。

 

懐しき 恩師の便り 見ていれば 

   幼き頃の 思い出浮かぶ

   

五月晴 ロッキーの山は 一面に 

     積雪白く 杉の木青し

 

図らずや 大和男子と 生まれしも 

   戦終わりて 国籍変わる

 

ライン川、昔の伝説 思いつつ 

  舟で歌うよ ローレライの唄

  

晩春に 故里遠く 旅に来る 

  シドニーの町は 秋風涼し

 

 

 


冬(曹劉金花)

 

            「冬」                  

                      宜蘭県 曹劉金花

                  1935年(昭和10年)6年生

 

 

冬と言えば誰でも寒い寒いと言って、いやがる季節です。けれども季節は定まっていますのでどうする事も出来ません。おばあさんの様な年寄りになりますと、もう寒さに負けて一日中家の中にひっこむばかりです。

 

鳥やひよこは寒そうに今までの元気を失ったかの如く軒下にかくれるばかりです。

 

ひよこは親鳥の懐にかくれて、ばっちりと小さな目を開けて如何にも寒そうです。

 

 水道の栓をひねった時しぶきが自分の手に当たって全身ひやりと冷たく感じます。本当に近頃急に寒くなって来て、何を見ても冬らしい感じがします。台湾はほとんど熱帯に入っている島ですから、寒いと言ったって北海道、樺太、満州の寒さに比べてみると、まだまだいい方です。北海道は今頃零下30度という寒さで、見渡す限り、白銀の雪が降り積もって森も野もすっかり雪に包まれてしまわれているのだそうです。学校に出かける子供たちは、雪をざくざくふみならしながら行く有様をよく絵本で見ます。私どもはその人たちと比べて、どれほど幸せかしれません。そんな所にいるにもかかわらず、せっせと働く人は何て感心な事でしょう。私どもも寒さに負けず一生懸命にやっていくだけの元気を出さねばなりません。

 

ある晩のことでした。雑誌を読んでいる中、満州の兵隊さんと言う題について書いた文がありました。あそこにおいでなられる我が国の兵隊さんは零下30度と言う寒い日にも、雪におおわれた野原を通って匪族の征伐に出かけたり、或いは鉄道の警備に当たったりしていらっしゃいます。はたはたと風雪のたなびく日の丸の旗の下に立っておいでになる兵隊さんのお姿を拝む時、冬のいやなことを忘れてしまって只ありがたいばかりです。

 

いつの間にか火鉢の火も今にも消えそうになりました、お母さんは「ああ寒い」と言ってあわてて炭を足して下さいました。私はこんな火鉢を満州の兵隊さんに送ってあげたい気がしました。冬が来るたびに思いだされるのはあの寒い所においでになる兵隊さんです。

 

 

 

 

 


回顧(游大坤)

 

回顧

 

                          台北市 游大坤

 

私が生まれた時は日本人であった。日本人として、教育の義務、兵役の義務も果たして来た。しかし、私の心の奥に中国と言う祖国を持っていた為か、時には思想が悪いといわれた事もある。今にして思えば、同じ頃、生粋の日本人の中にも反戦論者もいたし、神社参拝を拒否する者まで居たのだから、私一人が思想云々とは不思議な話である。勿論、予料練にも、予備学生にも志願せず、のうのうと学徒出陣の命令が出る迄暮らしていたのだから、忠君愛国の端くれにも入れて貰えなかったかも知れない。

  

六十を迎えたから、人生の整理期に入ったと思う。私が人生を回顧するのに、今は台湾人であっても、日本人であった頃を空白にする事は出来ない。

  

日本は変わった、その変化が余りにも多く、しかも日本人自身が良く気づかない面も多々ある。例をあげて見よう。「けふがくかふで、てふてふを見ました」明治のおじいさん、少しぼけている、と言うだろうか、或は外国人だから不明瞭のまま相槌を打ってくれるだろうか。では新かな使いで書いて見よう。「きょう、がっこうで、ちょうちょうを見ました。」即ち「今日、学校で蝶々を見ました。」である。私が怪しげな日本語を使用した、と誤解しては困る。昔は前のほうが正しいかな使いであったのだ。戦後フイリッピンで三十年間戦闘を継続した兵隊さんが、いきなり日本に帰って来たら、言葉を忘れかけていたと言う。ペルーと一緒に日本に来た外人が明治初期に再度日本を訪問したと仮定するなれば「刀をさげていたあの丁髷(ちょんまげ)さんが見当たらないが。」と質問したくなるであろう。今時、お侍さんの風態で街を歩くと、道を行く人はチンドン屋が通るとしか思わないだろう。今頃「俺は士族でござる」と鼻にかけていたら笑われる。終戦後、四十年を経過している。終戦の年に生れた赤ちゃんは今頃四十歳のおじさん、おばさんになっている。世の中の変化は当然あって然るべきだ。子供がいつの間にか大人になった、と驚かないのは側において育っているからである。たまにしか見ない親戚の人が、まあ!この間よちよち歩きのあの子が、と驚くのは、たまにしか見ないから、その差が特に目に付くのである。山の中にいては森が見えないのである。吉野山の桜は山の外からでなくては満開の味を、その雄大さを知ることができない。奥千本の中に閉じこんで桜を論ずるならば日本至る処でそれが出来る。限られた何本かの桜を例にして千本の桜の味は表現できないのである。私は日本に入国したり、出国したり、日本人であったり、なかったりで、ちょうど吉野山に入ったり出たりしているつもりで、日本を論じたり批判したりしてみたい。或いは別の趣がある事を期待しながら。

  

靖国神社の大鳥居に台湾阿里山奉納、と書いているのは国辱だ、と台湾の新聞に出ていた。まるで取り返したら日本帝国に五十年支配された史実が帳消しになる、と言わんばかりだ。しかし第一、台湾に持ち帰っても薪{まき}にするならいざ知らず、鳥居以外に使用したら、その美的感覚は消えるのである。又使い処もない。

 

 左右二本の柱に笠木を渡した靖国神社の神明鳥居は名実共に「空を衝く様な大鳥居、こんな立派なお社に、神と祭られ、勿体なさに」と身の引きしまる思いがする傑作である。大柱二本、笠木一本、貫一本、と四本の木材から出来ている鳥居の木材は、同じ山からでも得がたい。同じ阿里山の檜であって、太さと長さが足りたら良い、だけには行かない。同じ岡でなければ色合いが合わないのである。その他、質等の問題もあるから、鳥居を造るための檜材を発注しても、値段を張っただけで得られるものではない。鳥居は神明鳥居とか木島鳥居に関係なく、木材で造るなら、以上の配慮が必要である。こんな意味で靖国神社の鳥居は、日本にとって国宝的存在であると言える。

 

 

 

 

 


母の思い出(李栄子)

                          母の思い出

 

                       

                        台北市 李栄子

 

 「うさぎうさぎ何見て跳ねる

 

十五夜お月様見て跳―ねる」

 

 毎年八月になりますと懐かしい幼年時代を思い出し、つい口ずざんでしまいます。あの頃は人生で一番楽しい時で、思い出が走馬灯の様に次々と出て来ます。縁側は嵐か冬の寒い時しか閉めません。平和な時代でした。

  

 八月十五日には縁側にテーブルを二つ並べて、私は山の麓で切って来て芒の花を花瓶に挿して、お月様の歌を歌っていると、お月様の中からうさぎの餅つきが出てきて、弟妹に「見てごらん、兎が餅をついているよ。」と言うのです。みんなで大賑いしながら、お母さんがお萩を作ってくれるのを待っていました。私は十人兄弟の長女ですので、お手伝いしたり、子守りをしたり、たいへんでした。

 

時が変わるり、お月見も変化し、若者達の「フンイキ」も違います。月の世界に行けるようになり、何でもお金の時代になり、昔のロマンチックな気分も薄くなり、月餅とお月様を結び付ける事も少なくなりました。

 

「どこどこの月餅がおいしい。」とか「一個何百元でも食べで見たい。」とか若者同志で遊びに行くことが楽しみで、バーベキューなどで賑やかに楽しんでいるようです。

 

 

思えば、むかし父の誕生日が十五夜と近い日で、結婚後、父に会う日がお月見より嬉しくて、里帰りをしました。当時はいまと違って、里帰りは、一年に何回かで、たまに婚家に用事が出来た時などお祝い物を送ると、父は不機嫌になり「栄ちゃん、帰れないなら品物を返しなさい」と言ってひねくれます。「やっぱり親孝行に帰らなくては」と思って遅れても父に、甘えて帰りました。

 

父が早く亡くなったので、母が可哀想なので、父が生きている時よりも、よく帰りました。でも、母を慰めに帰ったのに、(お父さん子でしたので、私は、何時までも、悲しくたまりません。)母に会うたびに「お前のように、くよくよしていたら、妹弟がまだ何人残ってる。結婚してない。ママはどうするの?しっかりしなさい。」と反対に励まされました。母は「強い」です。母は十人の子供を皆自分一人手で育てました。里帰りもせず、一生懸命に子供を育ててくれたのです。「御恩返しをしなくては」と、私達は毎年母の誕生日には、母の側にいて上げました。

 

その後、母亡き後十人の子の内で六十歳、七十歳、八十歳の誕生日には、母を忍んで、十人が集まることを、約束したわけではないけど、今でも、兄は七十八歳、末弟は、来年六十歳でまた集まります。母の下さった私達の宝物、十人兄弟姉妹は、お金で買えられません。私達は思い出をたくさん集めては母を忍んで、昼食をとり、二次会は、カラオケで十人の家族も一緒に賑わいます。

 

お母様有難う。神様感謝します。いつまでも私達をお守りください。

 

      20031016

 

 

 

 

 


終戦当時の思い出 (李英妹)

            終戦当時の思い出             

                     高雄市 李 英妹

  

南投県の双冬学園に疎開していた私は、そこで終戦を迎え11月末に父に連れられて故郷に帰って来ました。既に変わっていた町を見る暇も無く、仲良しのお友達とお別れの挨拶をする時間もなく、急に台北転勤に成った父の後を追って台北に来ました。

 

本当に慌ただしい毎日の中で、日本人だった台湾人は何時の間にか中国人になっていたのでした。

 

疎開以来、来た事のない台北の町はごった返していました。

町はみな傷ついていました。そして黙々として笑い声の無い町になっていました。

日本語しか話せなかった私達は、他人に聞かれたら怒鳴られるのが怖いのでお話もせずに、大人の側でおとなしくしていました。

 

父は台北の本社に、姉は当時教員をしておりましたが父の転勤で、200人に一人の女性しか採用しない省政府の試験に通り既に就職しておりました。終戦で私が未だ疎開地にいた少しの間に台湾も随分変わって言語習得の早い、そして職場の関係で父と姉は随分と頑張ったのでしょうね。多少なり北京語が話せる様でした。

 

落ち着かない生活の中に、学校は既に復校しており日本時代に残された学生は二百人余りその中に女学生が八人だけでした。男生徒ばかりの学校の女生徒が混ざって何だか変な感じでした。新制女子師範から一年下って学校に戻る様にと言われましたが、一年下るのも嫌だし唐校長も私達を残したいと言うお気持も御座いましたので、今迄の台北師範に残りたいと云う意味を書いてもらった手紙を持って八人で談判に行きました。

 

手紙を出して、「好不好」「好不好」としか云えなかったので、身振り手振りを加えたあの頃の談判を今思い出しますと随分滑稽な事でした。「残って宜しい」との返事を貰って校長先生がとても喜んで下さった事を覚えております。

 

台湾で始めての男女共学でした、そして始まったのは新しい中国教育でした。

 男生徒の中に、北京語の話せる人が四人位おりました。私は自分が話せないので、何時も羨ましく思っておりました。授業の始まる前に一人一人名前を呼ばれますが、皆同じく聞こえて「有」と三・四人が同時に返事をして立ち上がり、皆ビックリして又皆座ってしまう事も度々でした。先生も心得て居ますので笑っているだけ。

  

ある朝、どういう風廻しか私に領隊(級長の様な役目)という命令の紙が一枚渡されましたが、何か分からないので男生徒に聞いて見ますと或る人に「北京語も台湾語も話せないのにこんな事を引き受けたら駄目だ」と叱られたので、泣く泣く教官に、「我不会做、不想做」(できないから、やりたくない)と断りに行きましたら、台湾語・北京語交じりに何かと説明して下さり、最後は先生が手伝うからと手振り身振りを合わせて、丸められて代表役を務めさせられた事も懐かしい思い出です。

  

又、戦争で習えなかったピアノの授業が、此処に残された日本人の先生が私達を教えて下さっておりました。私は、同級生より少し遅れて復校しましたので、ピアノも少し遅れておりました、ある朝少し早めに学校へ行ってピアノ教室で練習しておりましたら、練習不足できちんと弾けなくて聞いて耳障りだったのでしょうか。私は人が入って来たのも知らないで夢中で練習していたらしくその人が後に来て、頭の上から手をピアノに伸ばして「此処は、こうやって弾くのだ」と云って、ポンポンピアノを叩いて師範してくれましたが、私しかいないと安心して練習していた所の出来事にビックリした私は何処を教えてくれたのも知らずに、どうしたらよいのか、一言も言わずに頭を下げておりました。

 

その人は、云い終わると俯いて何も云えない私を見て直ぐに出て行きました。

 こっそり見ると、髪の毛がグチャグチャした背の高い人でした。私は其の人が出て行くと直ぐピアノの本を閉じて、足音を忍ばせて教室を出て行きました。同級生が来て其の事を言いますと皆大笑いでした。

 

どうして「怒鳴らなかったの」と言われて、私は俯いて声も出なかった位怖かったのにと心の中で恨めしく思いました。学生時代の忘れられない思い出です。

 

その後は授業以外は、その教室に行く事もなく、ピアノは進歩しませんでしたが、

 娘や孫達にはピアノ位は少し弾けて、疲れた時や頭がスッキリしない時は自分を諌める様にと習わせました。

 

 ピアノの代わりに四月の卒業までの短い間、絵を少し描きました。

 

皆、負けない様に北京語を習い講習会に参加して勉強しましたが、毎日お習字の宿題等があったりして卒業の四月を目の前にしても私達の北京語はなかなか進歩しませんでした。 

 

卒業試験は、四ヶ月の中国式の授業をもとに始まりした。

音楽は李金土先生で発声の試験と楽譜を読む簡単な事で済み、ピアノの試験はなかった様に覚えております。体操は温先生でバレーボールをお互いに渡して行く試験でしたが、丁度その日は、靴を濡らして(当時は未だ随意に靴が買えなかった)母の中ヒールをはいて行き試験に出会って、裸足ではおかしいのでそのまま靴を履いて走ったり、飛んだりして、失敗もせずヒールも折れなかった事は、幸いな事でこれも思い出せは随分無茶な事でした。


 一番愉快だったのは、四ヶ月の勉強を終えた筆記試験の時でした。男の学生から「先生は女の子に甘いから試験の内容をこっそり聞き出して来る様に」と頼まれました。試みにと行きましたら、「女の子だから特別に」と教えて下さったのです。

「但し、男の学生に分からせたらいけないよ」との約束でしたが、男の学生の頼みでしたので待ち構えていた方にそれを渡し、答案を研究して、ほしい人に廻したものです。試験当日同じ答えを書いた人は何人いたかしら。そして同じ答えと作文を採点された先生は、どう思われたでしょうか。

 

沢山の楽しかった事辛かった事、そして失敗事を残して皆無事に卒業して社会に出て活躍が始まったのでした。 あの当時は、私には言葉が話せないと言う事が一番苦しい事でした。

其の為学校の推薦で台大か師大に進学出来る機会を、自信が無くて断った事は今になっても未だ悔しく思っております。

 

 卒業後は、直ぐ家の近くの昔の幸小学校の教員になりました。

 初日は、一生懸命に覚えた一行だけの初対面の挨拶もそこそこに、台を降りてしまい

緊張した一日でした。

 当時は未だ日本教育の名残があり、暫くは日本語台湾語交じりの授業でしたが、早く北京語を覚える為に講習会と云うものがあり先生方はそれに参加して、発音・文法・作文等を習い翌日は早速それを利用して、子供達に教えました。文章を書くのに接続詞や形容詞が難しくて頭を痛めました。


ある日弟が帰って来て、老師が「明天没有学校、你們不要来上学」(明日は休みだから登校しなくてよい)と言ったけど、学校はちゃんとあるのにどうして「没有学校」と言っているのかと不思議そうに言っていたので、私も考えて見ましたら、台湾語を直訳、北京語にした言葉でした。こう云う言葉が沢山あって面白い時代でした。

 

五年生の受け持ちでしたので、家事の課目に女学校で習ったお裁縫の基礎を教え、材料の無い時期に廃物利用で簡単な上着を、手縫いで作ったり、寒天を作ったりして、女生徒を喜ばせたものでした。まだ軌道に乗っていない時でしたので、わりと開放的でした。

 

初めての林間学校が夏休みに開かれて、私も其れに参加出来る機会が与えられました。その後は、此の林間学校の行事も無くなった様でした。

 

選ばれた生徒、教員、教育局、市政府の役員、医者二人に、看護師等が一緒に成って授業したり、運動したり、絵を描いたりして楽しく過ごしました。

  

寝癖の悪い子達が風邪を引かない様に夜は何度も起きて布団を被せたり、子供達が怪我をしない様細心の注意を払って毎日を過ごし、子供を育てる事の難しさ、責任、和気あいあいと云う言葉の真実さを切実に身に感じさせられ、私には大きな収穫でした。


其の時もまだ北京語が皆、良く話せなかったので台湾語、日本語混じりの毎日でした。 付属小学校から、自分の学校に帰って来る様にと言われて、民国三十七年(1948年)八月に付属小で教える事に成りました。


其の頃百人位の教員の中、台湾人は男の先生が五人、女の先生二人だけでした。

外省人の先生とは、習慣から生活様式等、何もかも違い話も各地(大抵は福建省)の方言の訛りが強く、聞き取れない事も度々で私は台湾の先生の後を追って助けを請う事が多く有りました。

 

一年生を受け持たされた私は、子供達と始めから北京語の勉強をやり直しました。

 注音(日本のアイウエオに当る)から始まり。一字一字口の開き方、紙を口に当てて、息の入れ方、鼻から出る音の練習、其れに声母二十一字、韻母十六字から成り、加えて結合韻母二十二音、四つの音調―・/・\・∨・を正確に教えなければ成らなかった。


丸一ヶ月の時間を掛けて毎日練習し、その後も機会の有る度に教科書に合わせて練習しました。当時、附小の生徒は試験を受けて入って来る制度でしたが、クラスの中には有名人の子や孫が多かったので親も台湾の学校はどんな風かと心配と興味もあったのでしょう。


私の教室の机の後ろに、家から椅子を持って来て二十人位の親が座ったり立ったりして授業を見ているのには、新米の私にはとても緊張させられました。

でも、皆教養が有ってやさしく愉快な人ばかりで、文句を云われたことも無く、間違った所があった時等、休み時間に「先生ちょっと」と言って、人に気づかれない様に教えてくれたりしたのには、とても感謝しました。ある親達は、子供と一緒に勉強している方々もいて、何かと聞かれる事がある時等、出来る親が代わりに答えてくれたり、親同士が教え合って居るのを見て微笑ましい感じを受けました。


誰もが早く台湾の現状に慣れようとしたのでしょうね、そして子供と同じく正しい北京語を話したかったのでしょうと思いました。

其の頃の学校の方針は、まだ日本時代のを受け継いでいる様に思いましたが、段々と一切が中国的に軌道に乗ってきて実験班とか、色々の研究が次々に始まり私達も其の波に乗って、言葉の困難を通り、毎日の勉強と努力に励まなければ成りませんでした。

こうして振り返って見ますと、戦争中に鍛えられた負けじ魂と若かったから、どんな辛い事も切り抜けられたのですね。この年になって字も文も思う様に書けなくなって「若い」と云う事はとても尊いものだとつくづく感じさせられます。

 

 若い人は後で後悔しない様、今のうちに頑張ってくださいね。(了)


 

 

 


 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


詩「故郷」(劉心心)

 

             「故 郷

                            劉心心

 

 

半世紀以前のある日、学校の先生は生徒に言いました。

 

「今日からお前たちはみんな日本人だ。北の方、東海の向う。

 

天皇陛下のおわす内地が、お前たちが忠誠を尽くすべき

 

国家。」

 

  

40年前のある日、学校の先生が学生に言いました。

 

「今日からお前たちはみんな中国人だ。西の方、台湾海峡の

 

向う。中国大陸がお前たちの愛する祖国。」

 

  

20年前の学生は友達に言いました。

 

「東の方、太平洋の向うに広大な土地がある。みんな一緒に

 

移住しよう。みんなでアメリカ人になるんだ。我々のドリームはアメリカにある。」

 

 今の大人たちは自分のアメリカの子供に言いました。

 

「太平洋の向うの小さな小さな海島、緑濃き山々、清らかな

 

流れ、純朴な人々。あそこがお前たちの故郷。我々の真の

 

国土なのだ。」

 

 暖かい母親の懐(ふところ)よ。赤子の揺りかごよ、

 

懐はいずこに。揺りかごは?

 

寂しい台湾人よ、流浪の台湾人よ。

 

どうして、お前の故郷はいつも海の向うでなければ

 

ならないのだろう。

 


私達と日本語(林陳佩芳)

 

           私達と日本語                

                          林陳 佩芳

 

台湾が日本の植民地だったとき、私たちは日本国民だと、日本語を「国語」として教えられ、国語を話すことを要求され、奨励され、家庭内で日本語を常用するものは、「国語の家」と言われました。

 

 終戦後、祖国中国の統治を受けるようになると、今度の国語は「北京語」です。昔国語の家に育った私たちは、今度は北京語と台湾語を常用することになりましたが、台湾語は先祖代々の言葉、たやすくその環境にもどれましたが、北京語は遥か北方の言葉、直接社会との接触の少ない家庭主婦は、生活の必要に迫られず、すぐには話せませんでした。それでも子供たちの進学と共に、子供達の口から、北京語は家庭内に持ち込まれ、家庭主婦たる私たちも、だんだん北京語がわかるようになりました。

  

中国大陸から来た人達は、多かれ少なかれ日本軍のために、心身を傷つけられたことのある人々です。台湾人が、日本語を使うのを聞くと、あからさまに憎悪の情を表し、叱りつけたり、にらんでいく人もありましたし、公然と新聞や雑誌で非難する人もありました。祖国中国の懐にかえったのに、いつまでもかつての統治者の言葉を話すのは、彼らにとってきっと耳障りだったのでしょう。それ故に私達は公の場所では、つとめて日本語を使うのを遠慮しましたが、家の中では、同じ日本教育を受けた者同志、つい日本語が交じります。

 

 その結果、私達の年輩の人達は、北京語、台湾語、日本語の交じった会話が、何時の間にかこの三十余年の言葉になりました。それ故私達の子供達も、日本語は話せずとも、簡単な単語はいくらか知り、知らず知らずのうちに使用していることがあります。時々町を歩いていたり、市場などで、日本語を知らないはずの人達が、話す中に日本語を交えているのを聞くと、オヤッと振り返ってみたりします。

  

テレビの影響力は強く、その普及と共に私達の北京語も上達し、見、聞き、話すことも、一応不自由しなくなりました。家を離れて勉学中の子供達との文通も、一応意識が通じるほどの中国文が書けるようになりましたが、台北方面の多くの家庭は、日用語が殆ど北京語です。

 

近年は、日本とは国交断絶をしましたが、お互いに関係を持っているので、観光、貿易、或いは学術上の必要から、若い人達も第二外国語として、英語の次に日本語を学ぶ者が多くなりました。

  

今年の初め、満二歳に満たない孫が、二ヶ月近く日本に滞在して、帰国しましたら、なんと日本語を上手に話すのです。びっくりしました。しかし大部分のお話しには、台湾語をちゃんと忘れずにいてくれています。日本から帰った日、独りで遊んでいた孫が「オウマチャン トウ シチャッタ」と言いました。私は何のことかとキョトンとしました。私が不審に思っているので「アマァ オウマチャン トウ シチャンッタヨ」と

二、三回言いました。彼の目の前に倒れている玩具の小馬を見て、彼が何を言っているのか判りました。「トウ」は倒れるの台湾語で、孫はお馬が倒れちゃったと、私に言ったのです。彼はまた日本語の祖母は「バアチャン」で台湾の祖母は「アマァ」だとはっきり区別しています。また我が家のダックスフンドが小犬を産んだとき、「シャオ コウチャン」「シャオ コウ チャン」と大喜びで小犬を抱いたり、さわったりするのです。シャオコウは小狗の北京語で、小さい者はチャン、可愛いものはチャンと呼ぶのだと、ちゃんと知っているようです。

  

テレビの広告を見ては、その歌を真似る幼児ですが、将来この子達は、北京語、台湾語、英語、日本語を使っている親たちよりも、もっと多くの言葉を使用することでしょう。

  

<久しぶりに啄木歌集を手にして>

 夢にまで見たとは言わないが、従兄何金生氏夫婦と、親友の兄上にすすめられ、励まされて、「三十一文字」に感情や景色、遭遇などを表すことを試みて以来、久しく忘れていた啄木の歌がしきりに懐かしく思い出され、その歌集を今一度読んでみたいと思うようになった。

 

思えば久しく忘れもし、ご無沙汰もしていた「和歌」である。戦時中の女学生だった私達は、作文の時間に先生から「五、七、五、七、七」の口調を教えられ、何度か作らされたと覚えている。和歌のうわべしか本当は知らないのだが、それを長年「生活の芸術」として「和歌」を作っている従兄夫婦からしきりにすすめられた時、私はちゅうちょした。

  

終戦後祖国中国に管轄されて三十余年、私達は自分の先祖の言葉、文化を理解することに努力した。

 

学業を終戦前におえているので国語(北京語)は一応、見、聞き、話せても。書くことは難しく、充分には意志表示が出来ない。もし詩や歌を詠むのなら、中国字で、中国の詩を!歌を!作ってみたいものだと私は良く思うのだが、残念ながら心余りあれど力足らず、漢文の基礎のない悲しさ、やはり漢詩の出来ない自分である。それに純粋の日本語とは三十余年ご無沙汰をしている。

 

 しばらく躊躇した後物は試しと、忘れていた日本語を、一生懸命思い出しながら、指折り作ったのが、父の一周忌の礼拝を詠んだ和歌で、台北からの帰りの汽車の中で、窓外に眼をやりながら、心の中で言葉探しをし、指を折りつつ字数を数えて作ったものである。そばに座っている夫は、口を動かしてブツブツ言いながら、しきりに指を折っている私の姿に「どうしたの?」と聞いた。私は「いいえ、別に」と答えただけで夢中だった。そして父の一周忌の一ヵ月半後、今度は亡き次女の命日に、私は娘を偲び悼んで、また指折りつつ何首かをつくった。皮肉なことに娘がこの世を去った日は、私達をこよなく愛してくれた父の誕生日だった。だから父亡きあと、娘の命日は父の誕生日にもなるのである。この私にとって万感迫り感慨無量の日、その気持ちを何首かの和歌にうたってみた。こうして私は和歌を作り始め、その作品を求められるままに、従兄夫婦に見せて指導と批評を頼んだり、親友の兄上にも見ていただいたりした。嫂上は啄木の和歌を何首か写してくださった。私は実はそれで啄木の和歌を思いだしていたのだった。もう一度啄木の歌をもっとたくさん詠んでみたい。

 


僕の軍隊経験(林啓三)

 

            僕の軍隊経験

                                                       

                                                       南投市 林啓三

 

 昭和16年(1941年)12月8日に勃発した大東亜戦争(アメリカは太平洋戦争といっているが)18年頃から戦局は緊迫し、人的、物的消耗は厳しくなった。台湾では皇民化運動が進み、本島人も日本人として権利と義務を平等に付与するという美名と、兵員の不足補充のためか昭和19(1944)本島人に対し、徴兵制度が施行された。

 

 大正14(1925)1月8日生まれの僕は台湾第1回徴兵の適齢者として、徴兵検査を受け、第1乙種合格で徴集され昭和20年(1945年)2月1日の鳳山の敢部隊に入営した。そして日本敗戦のおかげで当年9月3日に除隊、故郷の竹山に無事戻った。このように日本が台湾で徴兵を実施したのはたった1回で終わった。

 

僕は屏東農業学校卒業後、三井農林会社に勤務していたが徴兵令を受領した20年の1月末に原籍地の竹山に戻り、郡役所に出頭してからみんないっしょに出発した。出発前父から「軍隊に入ったら万事程よくやり、決してでしゃばるな。」と注意された。

 

 2月1日の夕刻、鳳山の部隊に入営し、翌日新しい軍服、軍帽、軍靴、下着等受領した。三日目部隊のトラックに乗り南に向かいの駅前で下車し、又南へ進んだ。今度は行軍である。そして夕刻枋山に到着、民家の空家で一夜の休息、翌朝枋山を発ち午後楓港から東の山脈の方向に行軍し始めた。これでは中央山脈を超えて台東方面へ行くものらしい。兵は何もわからない。ただ命令どおりに行動すればよいのだ。夜は牡丹社の学校で一泊、次の日寿峠を越えれば太平洋は眼下に現れた。初めてみるこの太平洋は黒く荒れている。風も強い。これから先が思いやられる。

 

 続く行軍で、新兵は落伍者が続出、僕は学校教練を受けているので、この行軍には耐えることができた。しかし数日後連続行軍のため腿が堅くなり、足は思うように運べなくなった。「足が棒になる」とはこのことかと痛感した。

 

 新兵が更に北上する次の宿泊地は大武そして太麻里、知本を通り台東に到着した。台東女学校の運動場で敢1787部隊各中隊の人事係准尉と下士官が各々の中隊に適する兵を栓衝し、必要兵員だけまとめて連れ去る。僕は歩兵砲中隊に選ばれた。見ればみな体格の良い者ばかり。残った兵はことごとく小銃隊に廻された。

 

 歩兵砲中隊編入の兵は、准尉の指揮のもとに又北上し、卑南を通り、日奈敷の中隊駐屯地に向かった。途中「台湾軍の歌」を大声で歌ったからか到着後、僕は選ばれて新兵を代表し山田中隊長に入隊の申告をした。

 

  台湾軍の歌

 

太平洋の空遠く 輝く南十字星

 

黒潮しぶく椰子の島

 

荒波吼ゆる 赤道を睨みて立てる南の

 

護りは我等台湾軍、ああ厳として台湾軍

 

歴史は薫る五十年 島の鎮めと畏しくも

 

神去りましし大宮の

 

流れを受けて蓬莱に 勲を立てる南の

 

護りは我等台湾軍、ああ厳として台湾軍

 

 いよいよ翌朝から初年兵の訓練が始まった。初年兵の基本教育は白石兵長、高橋上等兵があたった。各個動作から団体行動、小銃(三八式歩兵銃)の操作等で中等学校出身者は学校で習得済みなので動作が熟練しているが、公学校出の新兵はなかなかうまく操作が出来ない。

  

 台湾本島人の徴兵はこれが最初なので、台湾軍司令部から特に体罰は控えめにするよう達しがあったとか、僕の見たところでは訓練中の不合理な制裁はないが、しかし内務班では時々不始末な古兵から叩かれることはあった。

 

 日奈敷の兵舎は台東の北方約10km先にあり、蕃社の隅にあった。歩兵砲中隊は速射砲(口径僅か37mm)小隊と聯隊砲(山砲)小隊に分けられている。更に前者は八部隊後者は二部隊に分けられ、一部隊の人数は20数人、伍長が分隊長、僕は速射砲の第五分隊に配属された。分隊長は岩男伍長、中隊の兵舎は仮兵舎で藁葺きに竹の柱、竹の寝床、地面は土間という簡単なもの、兵舎は周囲にあり中央の空き地は野菜畑、右側に坑道があって砲をしまっている。

  

日奈敷での初年兵の訓練が二週間経った頃、中隊は動き出した。今度は南に向かう、知本、太麻里そして大武に進む。入営時とは逆のコース又中央山脈を越えて西部に進むらしい。今度は若干の装備もあるので入隊時のような身軽ではない。行軍は夜間が多い。米機の空襲を避けるためと思う。大武から寿峠、牡丹社、楓港、山を通り寮に着く。ここで汽車にのり台北州の樹林駅まで、下車すればまた行軍、北西に向かう。夕刻林口台地の公学校に部隊は一応落ち着く。その後わが歩兵砲中隊は湖子の製茶工場に移動し、その二階の 調室を借りて兵舎とした。

  

ここでは、「挺身奇襲」と速射砲の操作の訓練、教官は岩男分隊長である。林口台地は広い茶畑のある所で地面は粘り気の強い赤土、この茶畑の中に無数の「蛸壺」が掘られてある。この蛸壺の中に隠れ兵はガソリンを入れた酒瓶(火炎瓶という)を持ち、近くまで攻めてきた敵の戦車のキャタビラの前に投げつけ火災を起こさせる戦法である。

 

 次は本職ともいうべき37速射砲の訓練である。速射砲は別名「直射砲」ともいわれ、速やかに移動し敵の戦車や上陸舟艇を直射するのが目的で弾には鉄甲弾と手弾の二種類がある。先ず砲の各部門の名称,操作、点検要領、作戦要領等を訓練する。成績の良い者が砲手になり其の他は弾薬手となる。

 

 砲の平地での移動は兵が肩にベルトをかけて引っ張って進むか或いは馬か牽引車で移動する。しかし我が中隊には牽引車は一台しかない。 次に山地に入って移動する場合は砲を「分解搬送」する。そして速やかに次の目的地にはこび組み立てて据え付け戦闘を続ける。この分解搬送は兵がそれぞれ分解した砲の部分、即ち砲身、砲架、車輪、脚等かついで移動するが一番軽い部分でも40kg位はあり、体力の充分でない僕は一番苦手であった。

  

また次に苦しかったのは「匍匐前進」の訓練である。林口台地は赤土で粘っている。この上を這って爬虫類のように進めば胸から脚まで泥だらけ特に雨の後は泥人形そのもの、この苦労を厭わぬのもお国のためか。ここで内務班に帰った時、古兵達の歌っている歌を思い出した。

       

  連射砲の兵隊さんにゃ

娘が惚れる  

 

 惚れちゃいけない苦労する

 

 苦労は厭わぬお国のためだ

 

 わたしゃ待ちますいつまでも

 

広い練兵場に黄昏迫る

 

今日の演習も無事でした

 

泥にまみれた軍服脱げば

 

かわいいあの娘のマスコット

 

  3月中旬頃か、我が歩兵砲中隊は湖子の茶工場から発って、台地を降り、瑞樹口という所に駐屯地をかえる。中隊本部は集会所を借りるがあとの兵舎はなく、兵が建てなければならない。あいにく最初の一夜は大雨で雨露をしのぐ所もなく兵は濡れ鼠同然、しかし訓練を受けたお蔭か風邪を引いた兵はいなかったようだ。

 

 職人出身の多い我が中隊の兵であるので、竹の柱で藁葺の仮兵舎を建てるのはお手の物、兵舎は数日後に完成した。

 

僕は本島人出身の兵の中から選ばれて中隊本部付となり、連絡と文書事務をとった。

 中隊長は田中中尉に更迭する。この隊長は若く気が荒い。よく兵を叩く。中隊には年配者を召集した第二国民兵がいるが若い兵隊や下士官は彼らを馬鹿にしている。僕の知る一人の老兵は嘉義農林学校の教諭だったが肥しかつぎをし野菜づくりをさせられている。これは無意味で国家の損失ではないのか?

  

4月頃から戦局は緊迫しつつあるかのよう、中隊の各分隊は陣地構築と訓練を強化した。僕も下福の分隊に派遣され、昼は樹を切り、坑木を運び、坑道堀の作業と砲架の強化改善作業で忙しい毎日で夜は壕の中で寝ることもしばしばあった。

  

我々の敢部隊は陣構部隊で決戦部隊ではないと耳にしていた。兵は工事には熟練しているが、その反面戦闘には強くないようだ。その上砲は古い。僕は入隊中実弾射撃を見たことすらない。今にして思えば榴弾で敵を倒すことは出来ても、鉄甲弾で米軍の壁厚い戦車を貫くことは到底不可能だろう。皇軍の精神訓練は充分といえるが近代戦において精良なる武器との組み合わせがなければ、勝利は勝ち取れないだろう。

  

幸いにしてマッカーサーの反攻軍は台湾を飛び越して沖縄を攻略したので台湾は戦火から免れた。彼らは日本本土攻撃へ早道を取ったのだろう。台湾をフィリピンの次に攻めたら損傷は莫大で時間もかかったろう。

 

 台湾軍20数万は無傷のまま昭和20年8月15日天皇の無条件降伏の玉音を聞いた。今までと違う不気味な沈黙の中、その一日三大隊本部に兵は集結し、軍旗の焼却式があった。僕ら台湾出身の兵は、9月2日新しい軍服と軍靴に若干の米、砂糖を渡され、翌日の9月3日に帰郷が許された。所謂軍隊地獄から娑婆に戻れた喜びは筆舌では尽せない。

 

 戦友よさようなら!さようなら!また会う日まで!!

 

駐屯地の林口庄から皆台北駅に向かって走った。瞬く間に台北駅に到着、軍用列車でそれぞれの故郷の近くの駅まで送ることになった。僕は二水駅で降り、濁水渓の鉄橋から清水渓を渡り故郷の竹山街猪頭粽の我が家に夕刻辿りついた。両親や親戚の喜び又とあろうか。思えば僅か7箇月という短い軍隊生活であったが事実よりずっと長い月日という感じであった。

 

 この軍隊生活は一生忘れることの出来ない貴重な体験であった。日本は敗戦した。

しかしただひとつ日本政府に叫びたいことは元日本籍だった台湾人日本兵が戦後中国の行政長官の一方的宣言によって中国籍に帰したものの、そのために日本から見放される一方、お前達は曽て祖国軍に対し銃を向けた不届者として、中国からも除者扱いにされ、いわば孤児的存在となった僕らに対して暖かい言葉をかけてくれたことがあったろうか?この道義的責任を日本国会に訴えたい!!

 

 

 

 


私の少女時代(林翆華)

 

          私の少女時代

                                                                                                   台中市 林 翠華

  

 私の少女時代は、国民学校時代でした。

 

 当時、台湾は日本の植民地で、台湾の子供たちは、日本側の厳格の中にも、十分愛のこもった教育を受けていました。

 

 私は昭和9年の台湾生まれで、7歳の時に、台湾人の通う国民学校に入学しました。登校後校庭に集合して朝会。先ず、宮城遥拝、ラジオ体操と校長訓話。最後に、一斉に声を張り上げて、

 

一つ、私共は大日本帝国の臣民であります。

 

一つ、私共は御国の為に尽くします。

 

一つ、私共はどんな苦しい事でも成し遂げます。と、青少年奉條を唱えます。

 済むと教室に戻り、修身時間です。修身は礼儀作法や身だしなみを習います。

 

天皇陛下御製の習得もこの時間です。御製の「新高の、山の麓の民草も、茂りまさると聞くぞ嬉しき」が印象的でした。

 

 昭和18年、10歳の私は4年生になりました。

  ちょうど世界二次戦争たけなわで、作文時間は、殆どが前線の兵隊さんに送る慰問文作りでした。

 「身体に気をつけて、にくい英米をやっつけて下さい。」とか、

 「山奥へ逃げた蒋介石、宋美齢を生捕りして下さい。」云々の、すさましい文句が主な内容でした。

 

 工作時間には、男の子はグライダー造り、女の子は千人針を縫います。そして、体育時間は防空演習でした。

 

 昭和19年、5年になった私は登下校の途中で、時々アメリカのB29に襲われました。敵機来襲空襲警報のサイレンが鳴ったかと思うと、頭上にB29機が現れ、急直下して来たと、見た途端、ダダダ・・・と機関銃で掃射。弾丸は頭や耳脇を通りぬけ、目の前の家壁や地面に吸い落ちます。命からがらです。授業時間は、空襲退避の仕方と防空演習になり、間もなく休校となりました。

 

 昭和20年は防空壕生活になり、8月に私は天皇陛下の無条件降伏宣言をラジオで聞きました。

 

 ずっと長い間、生死を共にして来た日本人が間もなく日本国へ引き揚げて行きました。なまなましい突如としてやって来た生き別れでした。

 

 翌年の昭和21年春、私は彰化高等女学校の入学試験に合格して、台湾人としての初めての中国属中学の第一期生になりましたが、学校の上級生がみんな日本語教育の日本語使いで、日本教育伝統気質の中で、中国式中学時代を迎え、7月に中学側から暇をもらって、7月卒業の中国式に合う為に、卒業を半年延ばした国民学校の卒業式に出席したのです。そして、幼い私は何が何やら見当がつかない中に、中国人になっていて、いつの間にか日本人時代の休止符を打っていたのです。

 

 

 


水産学校(林彦卿)

 水産学校

                                           台北市 林彦卿

 

事前に中学の先輩である中谷武さんから電話連絡があり、去年(2010年)の暮れ基隆水産学校の同窓会に参加した。武さんの御尊父の中谷啓二氏は水産学校第三代の校長で、彼は東大出で当初は技師として台湾水産試験所に居られた。

 

第一代校長は劉明朝氏(基隆税関に勤務)第二代は興儀喜宜氏だ。この水産学校は台湾総督府水産試験所設立以前に開校され、その後安平、東港、澎湖、高雄にも漁業発展の為続々水産学校が開校された。一時は鹿港にも、養殖業推進の為作られたがこれは間もなく廃校になった。

 

水産学校は三年制で受験資格は公学校もしくは小学校卒業後更に高等科二年修業した者である。日本人には日本国内からの無線学士か中学校中退で成績の良い者も受験できた。

 入学当初は漁撈科50人、製造科10人、養殖科10人で二年生三年生になると生徒数は多少減少するが約40人~45人が卒業している。但し漁撈科では航海日数が足らないと卒業出来ない事になっている、日本人台湾人の差別がなく成績が優秀な者が級長、副級長になっていた。

 

 戦後水産学校は水産高級職業学校と改称したが教育部公認の学校であった。

終戦後、鄧火土氏は台湾大学の教授であったが台湾省水産試験場の所長も兼任していた。戦後卒業生達はかっての恩師を台湾に招待していたから師弟の関係の良さが伺える。卒業生の多くは台湾島内五州三庁にある水産業の要職に就き、更に国外水産会社の指導者になった者もいる。

  去年暮の同窓会は約90人の参加者があって実に盛大だった。その中には校友の姿もチラホラ見られた。多くの校友たちがマイクを取って一席喋ったが達者な日本語だった。宴会の後半からはカラオケが始まり、これまた盛り上りのあるのど自慢大会になった。小生も出て「お手手つないで野道を行けば・・・・」で始まる「靴が鳴る」を歌ったら何人かが唱和してくれたので嬉しかった。席に戻ると呉文達さんが封筒を一つ渡してくれた。中に千二百元が入っており、呉文達さんは檀上に上がって歌った人には全員一封を差し上げていた。この方は第九期で、入学第三年目で終戦になった。在学中は学徒動員で瑞芳の炭礦と蘇澳の缶詰工場で働き終戦になって学校に戻った。呉文達さんは現在台湾全民羽毛球「バトミントン」発展協会の会長で選手を引率して日本に数回遠征、日台友好に努力され日本からは勲章を授与されている。

  

二年前基隆中学校同窓会会長、王進益さんの好意で基隆中学の同窓会に参加する機会があった。参加者約六十人の盛会で、私が「大勢居りますね」と云うと「前の年は八十人だった」との声が返って来た。日本側の校長会会長廣繁喜代彦さんのお顔も見えた。 基隆中学の台湾人生徒は三割程度で、宜蘭地方には女学校は古くからあったが中学校はなかったので男の子は基隆中学に入学し台北二中に進学した子もいる。

 

 当時台北には台北州立とされていた四つの公立中学がありその中、台北二中には台湾人の秀才が集まっていた年一度の同窓会は百人を越える。この学校には日本人学生二割程いるが日本人はこの会に参加していない。 台中では一中が台湾人の中学で日本人は一クラスに一人位しか居ない。 

 

前述中谷校長の長男、武さんは中学では小生の六期先輩だが台北高校の高等科で小生の兄と一緒で二人ともサッカー部の部員だった。 もっとも中谷さんも私と同じ附属小学校卒なので同窓会では度々顔をあわせる。彼は広島で、いくつかの高校の校長をされた後、今は「広島台湾会」の会長に納まっている。数年前来台した折には基隆の水産学校に同行し、彼は学校に中谷校長の写真が掲げられているのを見て、「台湾人は心が優しい」と喜んで居られた。 中谷校長は来台後、水産関係の技師をして居られたが第三代校長として基隆水産学校に招待された。基隆水産試験所の所長になられた事もあり、校長と所長を兼任された事もあったが終戦で帰国の際には思わぬハプニングに遭遇された。即ち基隆の波止場で引揚船に乗る為列を作って並んでいると、前方から 

「中谷啓二さん、中谷啓二さん居りますか」と大声で叫びながら元日本軍人の服装をした男が歩いて来る。武さんが 

「中谷啓二は私の父で後ろのほうに居りますがどうしましたか」と尋ねると

 「中谷啓二さんは乗船していけません」と云う。

 

実は中谷校長を探していたのは元陸軍の兵隊で戦時中軍の方から何度でも水産学校の生徒を基隆の波止場で荷物を揚げ降ろしする苦力の様な仕事をさせる指令が有ったのだが、中谷校長はなぜ水産学校の生徒にその様な重労をさせるのかと抗議を申し立てた。大体波止場での仕事は何時米軍の襲撃を受けるのかも分からず非常に危険である。いずれにしろ生徒をこの様な危険な目に遭わす事は出来ないと何度も軍の申し出を断った事で怨みを買っていたのであった。

 

 引揚船は十数メートル先の目の前にある。船上からこの様子を見ていた上司の台湾人が事情を察し大声で「もう戦争は終わった。家族と一緒に帰国させるべきだ」と言明した。

 

お蔭で啓二氏は無事家族と日本に帰る事が出来た。乗船後お礼を云おうとこの台湾人を探したが当人とは会えなかった。ついでに一言加えれば終戦によって日本人と台湾人の立場が逆転し、この台湾人が上役となり前上司だった日本人がその管轄下におかれたのだ。 

 

中谷武さんが台北高等学校高等科在学中の昭和18年の暮、時の台湾総督長長谷川清は高等科の文科生全員を総督官邸に呼寄せた。時局柄この大戦に勝つ為一層奮勵努力せよと訓示をされるものと思っていたが、話の内容は予想はずれのものだった。即ち

 「日本は今建国以来の大きな国難に遭遇している。米軍の軍事力は実に巨大で日本は非常な苦戦を強いられている。運悪く負けるかも知れないが、米国は民主国家故、日本の国体を滅ぼす事はなかろう。それ故前途有望な君たちは体を大切にし、戦後の日本の再建に努力して貰いたい。くれぐれも自殺等をすべきではない。今一機の特攻機で敵艦一艘を撃沈すると言っているがそうは行かない。 百機の特攻機で一艦を沈められるかどうかである。君達は命を更に大切に扱い国の為に働くべきである。」と云った話だった。

 

 因みに台北高校の尋常科と云えば全台湾中学校の入試に先駆けて生徒を募集した定員40名だけのエリート中のエリートであるが尋常科の生徒でも学校を中退し、海軍飛行士予科練習生「予科練」に行ったのがいる。

 

当時の情勢で自分の子が軍事学校に進学するとか更に危険性の高い飛行兵を志願すると言いだせば親でも反対出来ない雰囲気だった。元中興医院の院長呉添裕氏は新竹の生まれで新竹中学校在学中軍から派遣された将校が来て、厳しい時局について話をした。講演の後呉氏が 

「自分は予科練を志願する」と配属将校に話したら、大反対され

 「お前みたいな優秀な生徒はあんな予科練等に行くのではない。君は虎の子部隊だ。台北高校か台大予科の様な所に進学しろ。」と云われた。

 

 大東亜戦争は軍の暴走に依って全く勝ち目のない無謀な戦争に突入し国民全体に非常な迷惑を掛けた。学生は本来学習が本分なのに軍は屢屢大した必要性もない勤労奉仕の為に動員命令を下した。私達の一期下の学生の者が梅屋敷(現孫中山記念公園―中山北路一段)に集合させられた。級長が作業の内容を尋ねると、

 「ここにある200程の盆栽を全部向こうの軒下に並べろ」との事。作業完了の報告を兼ねて次の仕事を聞くと、

 「又元の所に持ち帰れ」と、級長は我慢できず

 「私達は大事な授業を休んで勤労奉仕に来たのにその様な無駄骨を・・・・」

 と言うと、指揮を取っていた兵隊は

 「青二才のくせに生意気云うな」と怒鳴りつけた。日本の軍隊では「上官の命令には絶対服従」が大前提ではあるがこの様な口をきく上官は尊敬に値しない。

又ある学生が

 「勤労奉仕などあまり意味が無い」と言った発言が職員会議に載せられ彼は危うく退学処分になる所だった。非常時とは確かこの様に非ずであった。

  

日本本土にも水産学校は多くみんな港町にある。

 

基隆市郊外の八斗子漁港あたりによく蝶コレクションに行った。オオゴマダラは普通種であった。そこには琉球人の集落があり現地の人達とは折合がいい。彼等は魚とりのベテランで台湾人に漁の技術指導をしている。戦後も帰らずずっと居残っていたという。 人は何か特技を持っていると生活には事欠かないものだ。