目次
はじめに
第一部 私と台湾
日本語は私と台湾の架け橋(アンディチャン)
台湾の楽しい思い出 (池田徳三郎)
何故台中市は大好きなのだろうか?(池田徳三郎)
台湾に残る狛犬たちを訪ねて(市来訓子)
私を台湾へ導いてくれた台中のご縁(伊勢寛)
埔里で日本語教師をして (伊藤直哉 )
いりぐち(大竹千紘)
台湾の神社に魅惑された私 (金子展也)
慰霊訪問団に参加した孫の感想(小菅亥三郎)
ドライブと温泉(駒井教雄)
私の台湾人生(酒井充子)
私の台湾史(佐藤晋)
台湾の日本語世代からのエール(佐藤民雄)
台湾へ出向(鈴木誠真)
台湾へ留学の思い出(高橋美代子)
お爺ちゃんとの思い出(舘量子)
台湾の世相の変化(陳秋蘭)
台湾の鐡道に魅せられて (戸井智博)
私と台湾(飛石秀樹)
台湾物語(中須賀重幸)
台湾と中国のはざまで揺れた心(中山孔明)
台湾と祖父母と私(永峯美津保)
環島(西川洋美) 
私と台湾 (丹羽文生)
台湾との邂逅(福田真人)
変わるものと変わらないもの(松尾功子)
台湾を歩いて(松任谷秀樹)
台湾で観たお月さま(森順子)
台湾は台湾 (李中元)
私と台湾のご縁(山本幸男)
私と台湾のかかわり (山元與一 )
日本語と私(林玫芳 )
台湾で見つけた人生の目標 (若尾彩加)
第二部 湾生と日本語人
私の一生(木村英一)
故郷の川(島崎義行)
暖かい台湾の心(瀬戸省三)
勇気ある質問(泰一則)
台中にて(堀部二三男)
二つの故郷(溝口啓二郎)
詩「戦後60年」(許育誠)
皇太子殿下のご成婚に期待をかけて(許昭栄)
昔の夢にふける(洪伯若)
冬(曹劉金花)
回顧(游大坤)
母の思い出(李栄子)
終戦当時の思い出 (李英妹)
詩「故郷」(劉心心)
私達と日本語(林陳佩芳)
僕の軍隊経験(林啓三)
私の少女時代(林翆華)
水産学校(林彦卿)
編集後記
編集後記
奥付
奥付

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第一部 私と台湾

日本語は私と台湾の架け橋(アンディチャン)

 

日本語は私と台湾の架け橋

アンディチャン(張繼昭)

San Clemente, California

 

 台中の喜早天海さんからメールが来て、今年一月の忘年会を最後に「台日会」(台日交流聯誼会)を解散することになった、以後は食事会だけとすることにしたとのことだった。「台日会」は199910月に喜早天海さんが世話人となって立ち上げた「台中会」(台湾中部地区聯誼会)を2005年に「台日会」に変えた日本語世代と日本人の聯誼会である。つまり喜早さんはこの20年来、台湾中部における台湾人日本語世代と在台日本人、及び在日湾生(台湾生まれ日本人)の聯誼会の発起人、世話人である。20年にわたる台湾と日本の架け橋、まことにご苦労様でした。

 

1945年に太平洋戦争が終わってから74年たって台湾人の日本語世代が少なくなり会員も減ってしまったので台日会の解散は当然の成り行きだった。日本語世代とは戦争が終わるまで日本語教育を受けた人たちのことである。戦争前に台湾に生まれ、ある程度の日本語教育を受けた世代は昭和一桁までである。日本語を聞いてわかる、話せる、書けるという三階段を自在にこなせる世代とは少なくとも終戦までに中学3年ぐらいの日本語教育をうけた人達のことだから90歳前後で、今ではほとんど居なくなった。

 

私は昭和9年、つまり昭和一桁最後の年に台湾嘉義市に生まれた。旭小学校で四年まで日本語教育を受けたことになっているが実際には四年に上がってまもなくアメリカの飛行機が毎日のように爆弾を落とすようになったので二学期が始まるとまもなく田舎に疎開した。つまり私が正式に受けた日本語教育は小学校三年プラス一学期だけである。戦争が終わって中学、大学と中国語の教育を受け、一年半の兵役のあと1959年に24歳でアメリカに留学し、博士号を取得した後就職してアメリカに帰化した。それから2019年の今日まで60年余りアメリカで暮らしている。台湾に生まれて24年、アメリカで60年、日本に住んだことはない。それでも私の母語は日本語で、日本語のお蔭で台湾との繋がりが続いている。

 

60年もアメリカに住んでアメリカで仕事をしていた約40年間は台湾の父母が健在だったが、父母が亡くなり、アメリカの職を引いた後の20年は個人的な台湾と繋がりである。アメリカに住んでいながら台湾との繋がりがあったのは、一つには台北俳句会に加入したこと、もう一つは日本のメルマガでAC通信を立ち上げて日本語で記事を書き、日本語世代の先達が記事をコピーして友人に送ったり、宮崎正弘さん、渡邊亮次郎さん、金谷譲さんなどがそれぞれのブログに転載してくれたおかげで台湾と日本の読者や友人が増えた。つまり台北俳句会とAC通信で書き続けたおかげ、日本語が私と台湾、私と日本の架け橋となったのである。アメリカで英語で暮らしている私が日本語の物書きとなったおかげで日本や台湾に友人知人がたくさん出来たのは誠に不思議な縁と言える。

 

 台北俳句会に入会したのはひょんな出来事からだった。中学の先輩で私と兄弟付き合いをしていた陳錫恭さんが台北俳句会で披講役をしていて、ときどき句会報を送ってくれるので、92年の夏に私が「台北俳句、みんなうまくなった。以前はオレの方が…と思っていたのが、やがてオレだって…となり、今ではオレよりも…となった」と冗談メールを送ったところ、錫恭さんが「生意気なことを言うな。それなら自分でやってみろ」と言って無理やり入会させられ、アメリカから台北俳句会にファックスで投句していたのである。

 

 それから間もなく母がボケて、父も白内障と難聴で日常生活が困難になったので兄弟に助けを求めた。ところが日本の兄弟たちいろいろ口実をつけて親の世話をしないので仕方なく私が引退してアメリカと台湾を行き来して親の世話をすることになった。こうして俳句会に出席する機会もあるようになり友人も増えた。俳句会で仲良くなった陳蘭美さんは新竹高女の出身で、96年ごろに彼女の同窓だった台中の鄭順娘さんを紹介された。鄭さんは有名な台中県霧峰の林献堂氏の後裔で、社会奉仕に熱心な方で画家でもある。順娘さんのお宅を訪問するようになったお陰で喜早さんと知り合ったのは98年ごろである。劉丕さんとも仲良くなってときどき鄭順娘さんのところで一緒になっていた。

 

 父母の世話をしていた頃はまだパソコンの日本語ソフトが普及していなかったので、ワープロで「フライディ・ランチクラブ」を書き、1996年に日本の新風舎で出版した。このあと兄弟のあまりにもひどい親不孝を書き綴った「不孝のカルテ」を1999年に東京図書出版会から出版した。

 

2000年になってパソコンでメールマガジンを発行するようになり、メール通信で私の記事を読んだ神保隆見さんに誘われて、神保さんと田中宇と私の三人でMicrosoft Magazineに「国際通信」を立ち上げたが数か月で解散になったので、Melma!から私個人の「AC通信」を立ち上げ今日で19年目になる。AC通信に登録した読者は今では805人だが、「宮崎正弘の国際ニュース」と渡邊亮次郎氏のメイ ル・マガジン「頂門の一針」が私の記事を転載してくれるので日本の読者は多い。以前は金谷譲氏も転載していたが最近の事情は知らない。他にも二三、転載許可を求めた来たブログがあったが転載は自由なので確かな読者数は知らない。

 

 台湾の日本語世代はパソコンが出来ない人が多いので台北の「友愛会」の張文芳主宰が「AC通信」をコピーして頒布していた。友愛会のほかに品川淳さんがパソコンを指導した台中一中の先輩たちと知り合い、親しく付き合っていたが今ではみんな亡くなった。日本語世代は台湾にもアメリカにもいるのでAC通信のお蔭で友人がずいぶん増えた。日本語は私と台湾と日本の架け橋なのだ。日本語世代の人たちが記事をコピーして友人に分けているので知らない読者も多い。

 

 AC通信を始めた2000年はちょうど陳水扁が台湾総統に当選して新政権を始めたばかりだったが、国民党の陳水扁政権に対する迫害があまりにも酷いので、「台湾丸の沈没?」シリーズを書き始めた。このシリーズが日本と台湾で非常に受けて、読者から中国語で書けと言われるようになった。私には日本語で書く方が早いし中国語のワープロが複雑で不便である。それでもなんとか中国語の手書きワープロで翻訳して「台湾号会沈没?」を前衛出版社から出したのが2002年。続けて日本語の記事「ガンバレ台湾丸」を翻訳して2004年に「台湾号加油!」を発表した。日本語版に続けて中国語版を作る作業は二重の労苦である。

 

 2004年に陳水扁の第二回総統選挙で狙撃事件が起きた。もちろん国民党の陰謀だが、国民党はこれを陳水扁の自作自演の陰謀と言い張って大々的なでっち上げ調査を行ったので、国民党の嘘を暴くためAC通信で狙撃事件を追及し、2005年に前衛出版社から「連宋之乱的真相」を出版した。これに続けて「台湾丸の難航」(日本語)と「台湾号的難航」(中国語)を2005年、「台湾丸的航向(台湾丸の針路)」を2009年に発行した。メルマガの「台湾丸」記事を中国語に訳して台湾で発行する仕事は2009年限りで止めた。

 

 台湾丸シリーズの外に私が国民党の汚職の真相を追求した事件がラファイェット事件である。1987年に台湾の海軍がフランスからラファイェット型巡洋艦を6隻購入する計画を立てたが、同じ巡洋艦6隻をシンガポール海軍が12.5億ドルで購入したのに、台湾の中華民国海軍は予算をどんどん追加して最終的に26億ドル余で契約し、おまけに18%のリベートと言うとんでもない契約である。ところが契約を結んだ直後に中国が抗議し反対したのでフランス政府は販売を一時中止し、デュマ外相がラファイェットの設計図を中国に「進呈」したあと、台湾の海軍は巡洋艦の武器系統全部を中国に献上し、空になった船の武器装備のために新たに20億ドルの武器購買予算を組んだのである。12.5億ドルから26億ドルに膨れ上がった予算のうち13億ドルを台湾海軍、フランスと中国の三国で分けたのである。新しい武器購買のためにフランスに赴いた尹清楓海軍大佐が台湾海軍のとんでもない汚職の事実を発見し、告発しようとして9312月に殺害された。これがラファイェット疑獄である。

 

 ラファイェット疑獄は海軍のチンパン(青幇)と竹聯幇が中国と繋がっているので、調査が進むと台湾では尹清楓大佐の外に12人ほどの関係者が不審死を遂げたし、フランスでも関係者12人ほどが不審死を遂げている。私はAC通信で200512月年から200612月までラファイェット疑獄を追及し、まとめて「拉法葉弊案的研究」を2006年に出版した。続いて2008年にはラファイェット疑獄のスライドを作って台北の楊基詮中心で台湾語で講演、友愛会で日本語の講演をしたあと日本に赴き靖国会館で日本語、東京の外人記者クラブで英語の講演を行った。日本での講演は宮崎正弘先生と東海子さんのお世話になった。

 

 日本と台湾の繋がりはアメリカでもいろいろな会合を作って行われた。2003年ごろからロスアンゼルス

の台湾人十数人と「南加州台湾会」を立ち上げ、定期的に会合があった。当時の台湾問題についてスライドを作り、年に3回ほど台湾に行き、台北の楊基詮中心、新竹や台中、嘉義などで講演していた。また、台湾人の会合とは別にロス在住の日本人と台湾人数人で「緑の会」を作り、台湾の現状や独立問題について講演会を開いていたが2011年に解散した。

 

台湾独立宣言については有名な1964年に有名な彭明敏の「台湾自救運動宣言」がある。これは台湾独立運動の重要な文献で彭明敏、謝聰敏、魏廷朝の三人がコピーを作成した時点で逮捕された。私はこの独立宣言を読んだあと、20099月に南加州台湾会で「彭明敏の独立宣言は台湾人に向けて書かれたものだが、台湾人が外国に向けて書いた宣言ではない。よって我々が外国に向けた独立宣言を発表したらどうだろう」と提案したところ全員が大賛成、我われの宣言を作ることになった。これで12人が原稿作りを始めたが、10月に私が英語、日本語、中国語の原稿を作成したが、もう一つの原稿は外国向けと台湾向けの内容となり、私の「外国向け宣言」とその他の「外国と台湾人民向け」の二つの原稿で論争が起きた。

 

20104月に二つの原稿を台湾に持ち帰って鄭自才氏と二人で6箇所ほどの団体を訪問して意見を聞いて回ったところ、台湾の諸団体はみな「台湾向けの独立主張は我われがやっている」と言い、「外国向け宣言」に賛成だった。この結果をアメリカに持ち帰って報告したが賛成を得ることが出来なかったので、やむなく私が一人で資金を集め、2010710日にニューヨークタイムスで「台湾人民独立宣言」を発表した。この発表は親友の郭さん、林さん、呉さんの援助で発表したのである。このように台湾人には独立願望があるにも拘らず意見がなかなか纏まらないのが実情である。

 

 台湾独立は政府に頼ることが出来ない。今の台湾政府は中華民国政府で台湾国政府ではない。人民団体は意見がまとまらず実践行動が少ない。中国の金銭と武力外交によって台湾とが外交関係のある国はどんどん減っていく。政府がやらないなら国民外交をやるべきだが意見が一致しない。

 

2011年に私が「東南アジア平和聯盟」(PASEA:Peace Assosiation of SouthEast Asia)を提案し、南加州台湾会では全員賛成だった。PASEAはマハティールが提案したASEAN2012年に安倍首相が提案したダイアモンド構想と同じだが、違うのは台湾の民間団体が主導して行うことである。ところが台湾で幾つかの民間団体にPASEAを説明したら誰も賛成しなかった。台湾の民間団体は国民外交に興味がなく政府もやらない。これでは国際的に孤立した台湾の状況を改善できない。私の提案も机上の空論となった。

 

思いつくままこの20年間の私と台湾の繋がりを書いてみた。この20年のあいだAC通信を通じていろいろな人と知り合い、いろいろな人に大変お世話になった。感謝の心でいっぱいである。

 

室生犀星は「ふるさとは遠くにありて思ふもの、そして悲しくうたふもの」と書き、

よしや うらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじや」と続けた。

そうだろうか?

私にとって「骨は異郷に朽ちるとも、こころは故郷台湾に」である。

遠くカリフォルニアに居ても台湾を思うこころは変わらない。

私と台湾の架け橋は日本語であることにも変わりはない。

台北俳句会は続けるし、AC通信も可能な限り続ける。

 

Andy Chang

201925


台湾の楽しい思い出 (池田徳三郎)

 

台湾の楽しい思い出(Happy memories of Taiwan)
       

                                                北九州市  池田徳三郎

 

1. (はじめに)
今から20年前に「NPO法人南国暮らしの会」を仲間と設立し、初代理事長を務めました。その間, はじめにフィリピン・台湾・タイ・インドネシヤ・マレーシア等主に東南アジアをロングステ-しておりました。会員の中でそれぞれの都市や町に定住するようになり、また既に定住していた方(多くは日本人)が会員になり、各地に当会の国内支部のほか、海外支部が設立されました。海外の生きた情報が多く集まり、各地の情報を会報に掲載するほか、新聞・雑誌からの取材を受けることが多くなり、さらに、海外の現地会員に対しましても取材・投稿依頼が盛んになり、活発な海外情報の収集・伝達の場としての法人になりました。 
私も会報に「タイの医療施設」に関しては(Vol.13~14、Vol.21)、「台湾生活をエンジョイしよう!」で台中の観光・その他施設・宿泊所並びに多くの良き台湾の方との出会いについて紹介記事(Vol.49)を掲載しました。また朝日・毎日その他の新聞・雑誌の取材を受け、依頼記事を掲載しました。
台湾・タイ・フイリピン等に長期滞在出来ましたのは、①自らに適した快適と思われる良い宿泊設備に恵まれたこと、次いで②よき人との出会いでありました。

2.(台中でのロングステイ)         
(2008年頃から冬季は台湾(台中~高雄・台北)で

過ごすようになりました。1. 台中では「振英会館」が気に入りの宿泊所でした。そしてそこには日本語ぺらぺらの素晴らしいオーナー頼崇賢様(昨年逝去された)がおられ、日本人宿泊者のため日本語の上手な従業員を揃え、両替・旅行券・観光宿泊などすべてのサービスをして頂きました。


(東京ロングステ-財団案内 後列中央 頼様)

 
2 そして今1人は台中在住で,今も台中の「台日会」のために活躍しておられ、訪台日本人のためにお世話しております喜早天海さんです。
喜早さんは「台日会」の発起人、「遥かなり台湾」(1~6)その他の著者・編者でもありますが,台中・台北・高雄等に住んでいる多くの方々(日本人・台湾人他)を私に紹介していただきました。幸い多くの方は日本語がお上手で、現在もPC・文書の交流を続けております。
3.(台日会)
 2008年以降、毎年喜早さんの案内で台中の台日会の例会(月1度の開催)に参加し、多くの台湾の方と親しくして頂き色々なご案内を受けました。
周進升さん・荘如紅さん(前会長)・林玟芳さん・徐達璋さん・お茶博士の林啓三さん(元会長)のほかに多くの方々に、台日会以外にも松井真理江さん・左さん・林さんその他多くの日本語の上手な方々と親交を深めることが出来、大変お世話になりました。さらにそれぞれの方から多くの台中の方を紹介いただき、多くの会食に、ご家庭に招待されました。
 

2お世話になった例を紙面の都合上1つだけ掲載します。
周進升さんはたびたび日本をおとずれ、

日本語はぺらぺらの日本人と同じ、若い頃は

人気アナンサーで、今は放送界の重鎮です。

当時「毎日廣播公司」」の総経理(社長)で、

ある晩餐時に「台湾の正月と日本の正月」の

放送の依頼を受け、周様の司会で放送した

ことがありました。放送は2月4日(旧暦1月2日)

7時~8時でした。また台中のFM局日本語番組    (カラオケ軽井沢で左から林様、周様)

「さくら倶楽部」のDJを務め、年末には「台湾版

紅白歌合戦」を開催し、朝日新聞にも掲載されています。国鉄台中駅の近くのカラオケ[軽井沢](崇徳路二段)は「さくら倶楽部」の会員(多くが台中の女性)が日本の歌謡曲をすべて日本語で日本人以上に上手に練習に励んでおります。再三お誘いを受け、喜早さんまたは振英会館に宿泊の日本人の仲間と出かけました。  

 

3白冷圳(新社)とその周辺訪問
 (※日本統治期 新社が茎の太いサトウキビの苗作に適している設計

  し、作り上げた磯田謙雄技師その他が、新社の奥山、八仙山に

  沿って流れる水量豊富な大甲渓から取水して、814ヘクタールの

  土地を灌漑(かんがい)した。

  地元の人々に尊敬と恩恵の深さを感謝され、今も各所に説明掲示板、           案内所を設置しています。

 

4.(高雄の志の会)
1. 2011年の2月、台日会の喜早さんと高雄の日本人学校で開催された「台日南部志の会」に出席し、先ず日本語学習・日本文学等の会話もすべて流暢な日本語で話され驚きました。校長先生・李中元会長さんはじめ多くの参加者の温かい歓迎を受け大きな感銘を受けました。さらに機関紙「橋」(文集第3号)に「志の会に参加して」と題し投稿させて頂くことができました。
② 池上文庫11周年記念イベントに2011年12月に喜早さんからの誘いで出席しました
*日本武士道:11周年記念イベントが始まる前、池上文庫前の広場では日本でも大変珍しい「二刀流」の剣道の各種の型・竹刀稽古が披露されていました。屏東県において日本で失いかけている日本武士道精神の代表的心の形象・技の伝統が、ここ屏東県の日本人並びに台湾人に脈々と継承されていました。この事実は初参加の私には真に新鮮な驚きでした。
*池上文庫イベントは概ね次の通り行われました。
記念事業は昨年同様に屏東県の代表、竹田村の代表をはじめ、池上一郎文庫の理事長ら地元の関係者の挨拶のほか、日本から参加された大阪・静岡その他のボランティアの関係者の挨拶からはじまり、まして、その後に赤いユニホームの熟年の男女たちにより、日本の歌[年の初め・富士山・夕焼け小焼けなど]並びに台湾の歌が陶笛・時にはハーモニカなどに合わせの合唱が披露されました。
* 義捐金: 池上文庫に寄せられた東日本大震災(2011年3月11日)に対する義捐金は総額で50万4千円となり、7月3日、日本赤十字社本社に寄付したことが改めて報告され、併せ東日本の一日も早い復興を参加者全員で祈念しました。 
*清々しいボランテイァ: 正午過ぎに参加者全員の記念撮影がありましたが、そのなかには多くの若い男女のボランテイアの学生の姿が見られました。

ボランテイアの人々で作られた「うどん・スープ・ 

 

煮物など」が、大きなアルミ製の容器で提供されポリの器でお昼を頂きました。

*再会と別れ: 参加者全員は輝く太陽を避け、大きな木陰で、明るく語らいながら楽しく昼食を共にしました。そして林景煌様、安城先生その他の方々との元気な再会を喜び合い、さらに

新会長にご就任の高口校長先生にも拝眉の機会を得るほか、会員の紹介を受けました

そして別れを惜みなら散会しました。 

 

               

             (左3人目から 高口新会長、李前会長)   

                           

③ 屏東駅周辺で日本と関係する建造物等見学

「駅周辺で日本人と関係する建物(台湾製糖・池上博士の宿)と朝暘門その他を「志の会」の李中元前会長さんが、台中から来た3人をご親切に車で案内してくださいました。
*台湾製糖の功労者 日本製糖時代の功労者たち(鳥居 信平・本間栄吉・牧野貞亮)の像や顕彰碑が不思議なことに、今も残されていました。
*池上軍医少佐の宿舎 池上軍医少佐が軍医長在任中に宿として利用した建物が今で も残されていました。
*朝暘門 歴史を語る旧阿猴城の朝暘門は中山公園に併設した運動場の西側に位置しています。東の朝陽門だけ残っていました。
*「媽祖」を祀る屏東の天后宮 台湾で最も多くの人に崇拝されている「媽祖」(過去に4枚組みの記念硬貨が発行された。)を祭る美しい廟です。清の乾隆2年に創建され、建物は中国の建築様式がとられ、色彩鮮やかな彫刻や装飾が施され、目も覚めるように美しい。全国各地や外国からの参拝客が多いとの説明です。
④.親切な屏東の宿     
池上文庫11周年記念イベントに参加するため、著者は前日に屏東の駅前のホテルに宿泊しました。
財布を忘れていることに気づき、台湾語を話せない著者は、李さんに連絡したら、約10分後に、忘れた 財布はホテルで保管している旨の連絡がありました。「現金の忘れ物は最近の日本でも戻らない。返らない。」との先入観ないし日本的社会通念は台湾では通用しないようです。翌々日、屏東駅前のホテル「飛馬大飯店」に李さんと共にマネジャーにお礼のご挨拶に伺いました。「現金謝礼の受理」をお願いしましたが、残念ながら最後まで手土産以外は受理しませんでした。大変恥かしい失敗体験をしました。 

⑤ 高雄の親切な「のり夫人」との出会い
 「台湾の人々の優しい親切が大変嬉しい」と多くの日本人が、台湾訪問時に感じていますが、私と妻は「親切なご夫人」との出会いで輝かしい高雄の日々でした。

 

 私たちが高雄に到着して、すぐ高雄の志の会に出席(2011.2.13)しましたが、新光三越の前で、80歳過ぎのご夫人が流暢な日本語で『どちらに行くのか』と問いかけられ、余りに日本語が上手なので、取りとめのないお話をしました。ご夫人は私たちを高雄港、旗津に案内すると言い出し、そのご厚志に甘えることにし、ご一緒した。これが「のり夫人」との奇遇の始めであり、中元・歳暮の交換、台訪時の再会を続けております。
 今回の高雄ではとても優しく親切な「のり」ご夫人と出会うことができ、併せ素晴らしい大自然の美しさ を共にすることが出来たことは大いなる感動でありました。最近3年連続の台湾ステー で最も印象に残る出会いの1つでありました。

 

 ⑥.台北の友愛グル-プ
 喜早さんの案内で台北の友愛会にも3回ほど参加しました。いずれもホテルの1室を借り、昼食を共にしながら次第により綺麗な日本語で応答し、会を進行しておりました。自己紹介も安心して日本語で北九州から参加した挨拶をしました。参加者は若者・高齢者50名以上で、皆日本語でそれぞれの情報を交換し,日本的な隠し芸を時には披露して和気藹々としおり、情報の交換が主な様子で、日本語の勉強会の雰囲気はありませんでした。
 ⑦台北周辺は教え子が案内
大学・短大で家庭経営・家庭経済・消費者のための経済当の授業を担当した教師時代に台湾からの留学生が毎年1~3名おられたが、台湾の好きな著者は台湾留学生とよくおしゃべりをし、時にはお茶や食事を馳走して台湾の様子を聞いておりました。高雄出身者2名、台北出身者1名は卒業後も文通しておりましたが、今は台北の方だけとなりました。
訪台時はいつも台北を家族ぐるみで案内して下さいます。

 

有名な湯の里・北投温泉につく。 温泉地をゆるりと

見学した後、ご尊父が奇岩にある留学生(20数年前

の留学生)の生家まで車で送迎して頂きました。生家

には両親のほか、姉夫婦が来ておられ、大勢で暖か

い歓迎 をうけ、腰の抜けるほどの笑いに包まれた明るい楽しいご家庭でした。

                  (左 父親・母親、右 留学生) 

 

 

 

 


何故台中市は大好きなのだろうか?(池田徳三郎)

 

           何故台中市は大好きなのだろうか?

 

                          北九州市 池田徳三郎 

 

   

 

 ステーの期間は冬の2~3か月間ですが、多くの現地の人々のご厚意に触れながら、楽しい生活を送ることができ、台中市民の皆様に心から感謝しております。厚く御礼申し上げます。

 

通常は、毎朝の散歩、読書、PCNHKTV, 時にはダンス・カラオケに通い、小旅行を重ねました。

 

 台中公園で朝の太極拳に参加し(週に3回)、残り半分の朝は、宿泊先(振英会館)近くのホールでダンスを楽しく習ったが、そんな時も、また日常の食事・買い物・見学時においても、手ぶり・指差し・手書きだけでなく,タブレット(スマホがない)を持ち出したり、何処からともなく日本語を話せる人が現れたりして、自然とすべてのことが進み、目的を果たしておりました。日常に、接した台湾の人々の優しさ・親切さ・ご厚志にいつも感謝しておりました。

 

台中の「台日会」の会員の方は日本語が上手で助かりますが、近くの方とも片言の日本語で交流を深めるとお互い笑顔で打ち解け、好感・友情・信頼が深まりました。

 

巴里では、英語で道を聞いてもフランス語で返事をされ、チンプンカンプン、その気位の高さに反吐が出る思いをした経験があった。その思い出とは大差です。只フランスでサッカー世界選手権の開催時は英語の看板・掲示・会話が普及したので、パリの地下鉄に乗れることができました。

 

谷関温泉・水里~豊丘・プーリ・高雄~屏東・彰化~鹿港そして市内見物をしても言葉の通じない私を親切に優しく包んでくれました。 

 

 

 7年前,ダンスの帰り,交通事故に遭い、中国薬医大学付属病院に一週間入院し、宿泊先の振英会館の頼オーナー、左マネジャーその他多くの人々に親族以上の世話になり感謝と信頼、友好と好感を禁じえませんでした。

 

そして、喜早さん・振英会館のマネジャー等と相談して、台中市長、市の警察局長宛て「バスの公共的性格と交通ルールの改善に関し意見書」を提出し、所轄署長宛てに所轄の警察官に大変お世話になったお礼と事故の現状をそれぞれ日本語で申し上げましたところ、市長・局長・署長からそれぞれご丁重で大変立派な中国語のご返事を頂き驚きました。日本語で上申したにもかかわらず、それを翻訳したのでしょうか? 役所の日本人に対する親切・丁寧なシステムに感動しました。

 

日本式交通ルールが採用され、台中のバスの公共性等が少しでもご理解頂けたら、市内バス停とその周辺の整備と掲示方法の整備等がさらに強化され、車庫制度が整備(路上駐車が多い)さたら、「自車からバスへ」と交通緩和に役たてたら、と一人かっての夢のような思いをしておりました。

 

1.台中市を選んだ理由について

 

台中市では日本人に対して世代・年齢に関係なく大変友好的で親切です。

 

 人柄が良い 敬老の慣習(席を譲る、親切な人助け、思いやり、家族愛、介護、助け合い精神)そして 対人のマナ-がよい。

 

 治安が良い。旅行者に対し「すり」、各種の「物取り」、強盗、殺人、誘拐などの犯罪が殆どない。その点EU先進国より治安はよいでしょう。

 

 インフラの整備 文化的生活に欠かせない電気・ガス・水道・排水設備・通信・TV・PC使用が整備され、しかも、停電・停ガス・断水が少ない。この点東南アジアではシンガポールに劣らないでしょう。

 

 医療設備の充実  怪我・病気の際、大学病院等の施設が充実し、外人に開放されています。

 

 気候が良い。特に12月~3月は最高。腰痛持ちの私には最高要件

 

 雨が少ない 雨季を除き天気の日が多い。雨季もスコールでカラッとして湿度は少ない。腰痛持ちの私には最高要件。

 

 金・物の流通が良い 金融機関が整備され通貨両替が簡単、衣・食等の物が豊富。 住宅事情は不明ですが、ホテルも十分な設備をもつ。

 

 買い物(生活用品) デパート、スーパーマーケット、専門店、市場、小売店などで買いものがし易い(価格の表示、デスカウントの交渉の必要がない)、日頃の生活用品がすぐに入手できる。

 

 食べ物屋  朝、昼、晩の食事が作らなくても食べられる。女性天国の都市。食べ物の店が軒を並べて多い。

 

*中華・台湾・日本料理、フランス・イタリー料理 なんでもある。

 

*お菓子の種類いも多い。

 

  *果物の王国(4季の各種果物の種類が多くおいしい)、

 

*野菜の宝庫

 

 交通の便。地下鉄,モノレール、電車等はない。(EU先進諸国・日本の大都市、台北・高雄にみられる地下鉄、モノレール等がない大都市)。

 

バスが唯一の公的性格を持つ交通手段で、多数人の輸送方法であるが、近年特にバス関連施設の整備が進み、バス利用が便利になったし、プ里までの半径の地域は日帰り旅行で楽しめる。また高鐵(新幹線)を利用するならば高雄~台北も日帰り可能。

 

台中は交通の要衝 「台湾の臍」、どこに行くにも便利、3大都市に多数人輸送手段である高鐵(新幹線)・台鉄(従来鉄道)・バス利用等のための中心的大都市。

 

 

 

 (陸上交通の改善点)

 

*国際都市として相応しくない大量の廃棄ガス充満の都市(自動車の数が多い。)

 

*バスの数を倍にし、自家用車を10分の1にする。(車庫制度の導入)

 

*交通のカーマナーが悪い(人より車優先の社会通念の打破、人優先の社会への転換)、バイクの歩道上に乗り入れ走行、歩道・横断歩道を妨げる車・バイクの駐車違反・バイクの右折・左折時の1時停止の励行なし。それらの取り締まり強化。

 

*公的性格のバス路線の優位(バスの停留所の整備、標識の整備は3年間で脅威的改善は高く評価される、なお、バス停前の駐車違反、バス乗り場のバイク駐車違反、それらの取締りの強化)、

 

   *歩道の歩行妨害物の排除 このことは実行され改善されたが、まだまだ歩道妨害の違反者があり、この取り締まりを強化する。その他改善と取締りの強化の要請については別の機会に譲る。 

 

自然との触れ合い並びに台湾伝統文化との触れ合いが簡単にできる。前記の通り交通の要衝であるため。

 

 劇場等の催しに触れる機会が多い。ただ開催のPR不足と思える。

 

 日本文化(書道、彫刻、生け花、盆栽、花作り、造園、お茶、着物、着付け、凧上げ、メンコ、コマ、切り絵、歌謡、舞踏、竹細工、木工品、塗、その他)の理解があり、各種の催しが開催され、楽しみがあり、親しみ易い。囲碁が好きですが、碁会所・麻雀屋が見当たりませんでした。

 

  ⑯ 公園・街路樹(1部)がよく整備され、木陰の憩いが心身を安めます。

 

 教育制度の外観 どこの学校も建物が立派、ローカルでは村役場や警察署より敷地も、特に建物の外見は素晴らしい。学習塾の建物も立派です。

 

 

 


台湾に残る狛犬たちを訪ねて(市来訓子)

  台湾に残る狛犬たちを訪ねて

 

                                                    大阪府 市来 訓子

 

 台湾には日本統治時代に造営された神社に据えられていた狛犬たちが、今も数多く存在していることをご存知でしょうか。

  

 私は初めて台湾を旅行した際に訪れた高雄の壽山公園にて、高雄神社の狛犬が今も当時のまま残されているのを目の当たりにし衝撃を受けた2000年末から、時間を捻出してこつこつ幾度も足を運び、2019年現在、存在が判明している狛犬について一通り訪ねることができました。

 

 その数は対で残っているものが651体のみのものが5、合計で70という、想像を超えた多さとなりました。

  

 台湾の狛犬には、日本から船で運んだ以外に、現地の職人が製作したものがあり、台湾の狛犬としての個性が満ち溢れています。愛嬌いっぱいの表情など、気候風土にぴったりの朗らかさを感じられます。

 

 現在残っている狛犬は、戦後獅子の代わりとして使われたもの、放置されたままのもの、そして数奇な運命を辿ったものがあります。

 

そのうち特に印象深かった狛犬をご紹介いたします。

 

 日本統治時代、現在の屏東県佳冬佳冬神社が鎮座していました。戦後、神社跡は荒れ果て、私が初めて神社跡を訪問した時、据えられていた石造狛犬は阿のみが本殿後に隠されるような形で残されていましたが、吽は尾の部分があるのみで、本体は行方不明となっていました。

 

しかしその後、神社跡近くにある国立佳冬高級農業職業学校の校長先生が、神社を地元の歴史を伝える遺構として重要視され、狛犬についても関心を寄せられました。そして、離れ離れになっていた狛犬の片割れを苦労の末探し出され、長い時間かけてようやく対の姿に戻ることができた狛犬を、学校の敷地内に移設することを役所へ申請、新しい校舎へ据えられることとなりました。

 

 うれしい知らせに早速学校を訪問、狛犬を見せて頂きました。残念なことに吽の尾は戻っておりませんでした。それでも小さな尾をつけてもらっていたことに、せめてもの思いやりが感じられ、温かい気持ちになりました。学校を後にし、神社跡を訪れると、なんとその尾が見つかったのです。まさかと思いつつ、学校まで運んで事情を説明、職員の方とともに形状を見比べると、まさしく吽の尾そのものでした。

 

 そこで拙い中国語で必死にどうぞこの尾を修復してやってくださいと懇願したところ、今日は学校が休みなので即答できませんが、必ず対応してご連絡いたしますと、私の連絡先を書き留めて下さいました。

 

その後、校長先生からの連絡を幾度か経て、とうとう修復できましたという朗報が届きました。すぐに旅立ち、校長先生を訪ね、狛犬を見せて頂きました。すると、吽の尾は見事に修復され、往時の姿に戻されていたのです。特に付け根の部分がきれいに仕上がっていたため、どのような方が携われたのか伺ったところ、古跡修復の専門家に依頼されたとのお話で、そこまで大切にされていることに深い感動を覚えました。

 

学校という教育の場で新しい任務を得た狛犬は、これからもきっと、歴史を伝えるという役目を果たしていくことでしょう。 

 

台湾で今も頑張っている狛犬のうち、他にも大切に保存

されたり、歴史的文物として展示されたり、寺廟前に

据えなおされたものなどもいくつかあります。中でも、

特に幸せを感じたのがこの佳冬神社の狛犬でした。

 

もちろん、このような幸せなケースばかりではありません。 しかし、台湾の人々と狛犬との間に、温かい気持ちが存在しているように思えてならない、このような出会いがあるところが、最大の魅力であり、私が台湾に足しげく通い、ただ狛犬だけをひたすら訪ね歩いた理由そのものであると思います。

 

          (佳冬農業高校なある入口左右両端の狛犬)

 

 

 

 

 

 


私を台湾へ導いてくれた台中のご縁(伊勢寛)

 

私を台湾へ導いてくれた台中のご縁

 

仙台市 伊勢 寛

 

  私はかつて台湾で短期語学留学を繰り返していた時期があり、台南・屏東・苗栗で生活した経験があります。本当に有意義な時間で、日本語世代のお年寄りたちと親交を深めたり、東日本大震災への支援に感謝する活動を行ったり、語学の傍ら様々なことに挑戦していました。

 

その間、台湾全土にたくさんの友達ができましたが、ここで書くのはそれよりもずっと前の物語です。実をいうと、私を台湾へ導いてくれたのは台中の友人たちです。今回はそんな台中のご縁について書こうと思います。

  

➀「おばあちゃんはあの時代を楽しんでいた」A姉弟

  学生の頃、夏休みにニュージーランドへ語学留学をしていた時の話です。台湾人のA姉弟と仲良くなり、生まれて初めて台湾人の友達(後に苗栗の客家人だと知る)ができました。英語のクラスは、日本人・台湾人・中国人・韓国人がいて、親日・反日がはっきり別れていました。ディベートをすると、韓国人は議題と関係ないことでも何かと歴史的なことを持ち出して日本を悪く言い出し、中国人がそれを煽るという構図でした。しかし、台湾人の彼らはそういうことは一切しませんでした。

  ある時思い切って、A姉弟の姉の方に聞いてみました。

 「台湾だって昔日本だったでしょ。韓国人の言うことはどう思う?」

 「少なくとも私のおばあちゃんはあの時代を楽しんでいたと思う。おばあちゃんは日本語が話せるし、家には畳の部屋もあるよ」

 衝撃でした。それまで台湾のことはほとんど知らなかったのですが、A姉弟のおかげで台湾に強い関心を持つようになりました。

 

 留学を終えてからしばらくは彼らと連絡を取らなかったのですが、5年くらい経ったある日、ふと懐かしくなって連絡してみたところ、A姉弟の姉はアメリカに、弟は台中にいることがわかりました。その時、私は仕事でタイにいたので、いつか台湾へ行って再会することを約束しました。後に、台中でA姉弟と再会できた時は本当に嬉しかったです。みんなで逢甲夜市へ遊びに行き、苗栗の実家にもお邪魔させてもらいました。残念ながらおばあちゃんは他界されていましたが、本当に畳の部屋があり、おばあちゃんの国民学校時代の写真が飾られていました。

 

②タイで一緒に働いたB老師・C老師

  タイの大学で日本語を教える仕事をしていた時の話です。同僚に台湾人のB老師がいました。「私は台湾語のネイティブだ。中国語より台湾語の方が得意だ」という人で、時々私に台湾語を教えてくれました。最初に習ったフレーズは、「ゴワシーリップンラン」(我是日本人)でした。タイで台湾語を習ったおかげで、私の台湾語の発音は非常にいいと、台湾人からよく言われます。

 

ところで、タイの大学では外国人講師は長期休業中の帰国が許されていたので、日本からタイへ戻るとき台湾に寄ってB老師と会う約束をしました。台中にお住まいとのことだったので、朝馬のバスターミナルでB老師と待ち合わせして、案内されて台中をあちこち巡りました。あの頃は中国語も全然わからず、台湾で見るもの全てが新鮮で、驚きと興奮の連続でした。B老師のお母さんが老人協会のようなところが開講している日本語教室に通っていて、飛び入りで授業もさせてもらえました。授業と言っても、昔の懐かしい歌をみんなで歌っただけなのですが、この体験で台湾にどっぷりはまり、いつか台湾に住みたいと思うようになりました。B老師とは退職後音信不通になってしまいましたが、風の噂で、台湾に帰ってから出家して仏門に入られたと聞きました。

 

B老師の後任として赴任してきたのが、同じく台湾人のC老師です。その頃タイ全土に中国政府肝煎りの孔子学院が設置され、中国語教育から台湾人教師が駆逐されていましたので、台湾人講師の派遣はC老師あたりが最後だったのかも知れません。そのC老師は「私は台湾語は話せない」という人(後にお父さんが外省人だと知る)で、台湾人にもいろんな人がいるのだなぁと知るきっかけになりました。

 

私がタイの大学を退職してから、C老師とも連絡が途絶えていたのですが、東日本大震災の折「心配している」とメールをいただき、再び連絡を取るようになりました。震災で台湾から多大な支援を受けたことも相まって、日本の真の友人は台湾だと強く思うようになりました。それから、台湾の人たちに感謝の気持ちを伝えるためにはちゃんと語学を勉強しなければという思いで、中国語の勉強を始めたのです。C老師とはタイでは英語で会話していましたが、今では中国語で会話できます。

 

そのC老師は台湾へ帰国後結婚して台中に住んでいましたので、台中のお宅へも高雄のご実家にお邪魔させてもらったことがあります。C老師のお父さんとも仲良くなったのですが、おっしゃっていたことが印象に残っています。

 

「戦前大陸の天津に住んでいたのだけれど、家の隣に日本の兵隊さんが住んでいて、いつも可愛がってもらっていた。あの兵隊さんにまた会いたいなぁ。お礼が言いたいから探してほしい」

 ステレオタイプ化された外省人のイメージとかけ離れていて驚きましたが、嬉しく思いましたし、本当に台湾にはいろんな人がいるのだと改めて思いました。

 

③「日本人は冷たいけどあなたは違う」と言ってくれたD副店長

 

 A姉弟の弟の方が台中で働いていて、「職場に日本語が話せる人がいるから来てほしい」と言うので、市政北三路にある某日系ゴルフ用品店にお邪魔しました。そこで知り合ったのがD副店長(現在は店長)です。日本の大学を卒業していて、日本語も堪能なのですが、日本にいた時は日本人の友達がほとんどいなかったとのこと。「日本人はシャイ。冷たい。でもあなたは違う。あなたいい人」と言ってくれて、すぐ打ち解けました(笑) お店の店員さんたちとも仲良くなって、仕事が終わってからみんなで食事に行ったりしました。実は私は20代の頃は人と関わるのが苦手で交友関係も狭かったのですが、台湾にたくさんの友達ができたことで、苦手を克服することができました。台湾に来たときはいつもこのお店に立ち寄って、楽しい時間を過ごさせてもらっていました(だいぶ仕事の邪魔をしていたと思います…)。

 

思い出深いのは、D副店長に鹿港を案内してもらった時のこと。鹿港の名所を巡っただけでなく、実家にもお邪魔させてもらいました。翌日南投の東埔へ行く予定があったので、バス停まで送ってもらったのですが、D副店長は「中国語もわからないのにひとりで行くの? 東埔までどうやって行くの? バスの乗り方わかるの?」と言って、バスが来るまでバス停を離れようとしません。私が「大丈夫。子どもじゃない。筆談するから心配いらない」と言いましたが、全く聞きいれてくれませんでした(笑)

 

 ちなみに、その時東埔まで行ったのは温泉に入りたかったからじゃありません。学生時代に北海道のアイヌ文化の研究をしていた時、調査のため泊まっていたアイヌ民宿に原住民のブヌン族の人たちが来ていて、仲良くなりました。ほとんどの人が「中国語より日本語の方がわかる」と言っていたのが驚きでした。ある時ふと思い立って、何年も前に一緒に撮った写真を持って、交換した名刺の住所を頼りに東埔まで突撃訪問してみたのです。その方は原住民委員会の顧問をしていた方でしたが、突然の訪問にも快くもてなしてくれました。この時、村で日本語を話すおばあちゃんに出会ってお話を伺ったことが、台湾日本語世代のお年寄りたちと交流の嚆矢です。

 

 以上のように、私がまだ台湾をよく知らなかった若い頃に知り合った台湾の友人が、みな台中に縁がある人たちだったという奇跡。そして、台中の友人たちが私を温かく受け入れてくれたからこそ台湾にのめり込むことができ、今の私があります。喜早さんの「臺中伍圓の會」に参加させていただくにあたり、私の台湾の原点となる台中でのご縁を、改めて大切にしたいと思いました。本当にありがとうございました。


埔里で日本語教師をして (伊藤直哉 )

 

                埔里で日本語教師をして

 

         南投県 伊藤直哉

 

1、はじめに

 

 現在、台中及び埔里にて日本語教師をさせてもらっている伊藤直哉と申します。  

台湾に来た当初、台北で語学の勉強と、その後は大学院にて研究をしておりました。台湾中部に来るようになったきっかけは、中部の大学から講師としてお誘いを頂いた為であります。ここ台湾中部に来て早10年、まったく人脈(友人)のない状態から、現在は至る所に友人ができ、多くの人に支えられ、有意義な毎日を過ごしております。

 

2、埔里に来てから

 

ここでは私が埔里で行ってきた人々の意識改革についてお話させて頂きます。 

 当時の埔里では、日本語学習塾がなく日本語教育環境が整っていない環境のため、人々は「日本語を勉強したいが、いい先生がいない」や「いい塾がないから私はダメ」だなどという声を聞いておりました。まさに環境が整っていない=我々にはできない、といった風潮があり、その為日本語の勉強できないというものでした。

 

 埔里に来てまず行ったことは、日本語を教える以前に、人々の考え方を変える必要がありました。自分は出来る、または埔里ででも出来るという考えです。それらを生徒に身につけさせるための努力の日々が始まりました。それらは日本語を教える以前の作業です。台北のように沢山の塾が存在し、多くの教師や生徒がいる環境であれば、そのような作業を行うは必要ありません。ですが埔里ではこのレベルから作業する必要がありました。

 

 まず行った事は、勉強は楽しい事だと教えることから始まりました。今までは先生からやらされて行う勉強に慣れてしまっていた生徒を、自らするものだという考えを学ばせました。それらには勉強を行う動機が必要でした。その為、なぜ日本語を勉強するのか、なぜ勉強が大切なのかという事を学ばせ、如何に本人にやる気を起こさせるかが課題となりました。それらは元々のネガティブな感情をポジティブに変える作業ですから、簡単なことではありません。

 

 これらの考えを伝えるにはただ一つ、生徒を信じ、教え続ける事でした。生徒を必ず成功させるという思いで日々努力し、日本語を教え続けました。多くの生徒が集まりは消えを繰り返し、私自身も何度も心が折れそうになりましたが、次第に私の努力を理解してくれる生徒が一人二人と現れ始め、一人で始めた日本語の授業も徐々に多くの生徒が集まるようになってきました。心の変化が現れてきたのです。生徒たちの勉強する意識や雰囲気が変わるのが感じ取れました。

 

 次は結果です、勉強を行う限りは結果が求められます。結果を出さなければただのボランティア活動をしているにすぎません。私は次に生徒たちには日本語能力試験を受けるように動機付けを行いました。そしてその結果次第では、日本に交換留学やワーキングホリデーに行けるという目標を与えたのです。夢を与える事で生徒のやる気を起こさせる方法です。実際成功している台湾人の先輩が日本で活躍している姿などを見せ、私達でもできるという勇気を与えたのです。

 

 結果、日本語能力試験においてはN1合格者も出し、多くの学生を交換留学やワーキングホリデーで日本に送り出すことができました。結果が出たときは、生徒のみならず生徒の親御さん、そして私自身も達成感でいっぱいとなり、頑張ってきた甲斐があったと実感できます。

 

3、最後に

 

 以上が私の埔里で行っている日本語教育です。目標がなくてはやる気が出ません。これは何をするにしてもそうです。人から与えられた課題をこなすのではなく、自ら夢や目標を見つけ、それに向かって努力する。そしてその手助けをするのが我々教員の仕事だと思っています。基本的に私は生徒に対してはこのような指導を続けております。

 

 人々の意識が変わり、その結果環境も変わり、現在埔里では多くの生徒が日本語を勉強しており、その礎となることができました。埔里で日本語教育を通して、両国にとって利益のある社会貢献ができていることを誇りに思っております。これからも多くの台湾人を育成する為に努力をし続けていきたいと思っております。

 


いりぐち(大竹千紘)

 

                 「 い り ぐ ち 」

 

                   

           千葉県 大竹 千紘


-出会い

ひょんなことから私の中で台湾という存在が次第に大きくなりました。始まりは、インターネットで見つけた大叔父に関する記事からです。 私とは100歳以上年齢差があり、もちろん生前会ったことはない大叔父。

祖母から話を聞いていましたが、まさかその大叔父が台湾で銅像になっているなんて。生前会う夢は叶わなかったけれども、せめて銅像に会えたら、大叔父が台中市新社区で手掛けた白冷圳を自分の目で見ることができたら.. そんな興味と好奇心がきっかけで、私は台湾に惹かれていきました。


2度の渡航

念願叶い、銅像の大叔父に対面したのは平成2910月。当初は個人で白冷圳を巡る予定でしたが、ご縁もあって、現地の方々と共に白冷圳周遊ツアーの催行に至りました。大叔父が指揮を執った白冷圳を水源から終着地まで一通り訪れ、食事をともにお話を聞く機会も設けて頂きました。

白冷圳の完成により農業用水や生活が潤ったこと、1999年の台湾中部大地震による水路倒壊で改めてその恩恵を実感したこと。私も当時に思いを馳せながら、貴重なお話を聞かせて貰いました。建設当時は、日々の生活さえも想像に及ばない程の苦労があったと拝察します。その尽力の結果、水路ができ土地が潤沢となったことはもちろん、100年以上先の祖先である私たちと台湾を繋ぐきっかけとなるなんて、きっと大叔父は想像しなかったことでしょう。帰り際「来年の白冷圳文化節に参加してほしい」とお声をかけて頂き、次回の約束をして帰国の途に就きました。


2度目の渡航は、平成3010月。


1度目訪台時の約束を果たすべく、白冷圳建設を祝うお祭り・白冷圳文化節に参加した2回目。 何よりも、想像以上に大きなお祭りで驚きました。地元の方による演奏や踊り、演劇を楽しみ白冷圳が愛されている様子を垣間見ることが出来ました。

そして私たちが白冷圳建設に関わったかのように、始終歓待して下さいました。 私も例外ない日本人のようで、そのご厚意に遠慮し、何やら恥ずかしいような申し訳ないような経験したことのない気持ちでいっぱいでした。

加えて「来年もこの先も参加してほしい」との言葉を頂き、2回目の訪台も終了しました。

2度に渡る台湾訪問後、私自身は建設と全く無関係であるのに何故これほど歓迎されるのか、有難いと思うと同時に、ふと素朴な疑問が湧きました。

 

そしてそれは、大叔父の軌跡が世代を超え今なお、台湾と日本を結び付けているという事実への敬意からではないか、という考えが浮かんだのです。更に今を生きる私たちは、この先も繋がりを絶やさず、なおかつ育んでいく使命を担っているのではないか、と。私の心に引っかかっていた遠慮や恐れ多い気持ちは全くもって不要なものでした。それよりも、このご縁を後世へ伝えるために自分に何ができるのか、そう考えるきっかけとなりました。


-新たな発見とこれから

訪台以降、家族や親戚とも台湾の話題を共有する機会が増え、大叔父の弟にあたる祖父と祖母達も昔台湾に住んでいたということを初めて知りました。 私が今生かされているのは、そのようなルーツがあったようです。 今はもう当時の話を聞くことは叶いませんが、いつか祖父達の所縁の地も訪ねてみたいと思っています。 この出来事以降、私が台湾をより身近に感じたことは言うまでもありません。


そして今現在、私は農業に携わっています。


それは従来の土耕農業とは異なり植物の水耕栽培と魚の養殖を掛け合わせた新しい農法で、台湾では「魚菜共生」、欧米等では「アクアポニックス」と呼ばれています。国連の農業支援活動の1つとしても採用されており、世界中に広まりつつあります。しかし日本を含むアジアはこれからで、今後の広がりが期待されています。 私の目標の1つは、近い将来、台中でもこの魚菜共生を実践することです。 願わくは白冷圳の水を使って。


大叔父が築いてくれた軌跡から、次は私が台湾と日本の架け橋になる番です。そのために、私にできることを小さくても少しずつ、始めていければと思っています。数年前には予期せぬ未来が、今は待ち遠しくて仕方がありません。


私と台湾、まだ始まったばかりです


 

  

 

 

 

 



台湾の神社に魅惑された私 (金子展也)

                                      台湾の神社に魅惑された私 

 

                                                    埼玉県 金子展也

 

 台湾に駐在していたころ、当時の本社の社長から「少なくとも駐在員は、その国の文化を知れ」といわれたことがある。またたま、2002年、台湾北西部の金宝山に東洋の歌姫といわれたテレサ・テン(鄧麗君)のお墓を見に行った帰りに、金瓜石(きんかせき)に神社の遺構があるというので立ち寄った。何もわからずに、黄金博物館横の参道を登り始めると、灯籠と鳥居に遭遇し、参道の先に延びる山腹を見上げると、城壁のような上に鳥居の一部が見えた。一目散に石段を登りつめると、アテネのパルテノン神殿を彷彿させるコンクリートの石柱が目の前に現れた。これらは拝殿の柱に使用されたものであった。鳥居の柱には「昭和拾貮年七月吉日 金瓜石鑛山事業所職員一同」と刻まれていた。かつては東北アジア第1の金山と呼ばれ、明治29年(1896)に田中長兵衛率いる田中組によって採掘がおこなわれた。昭和11年(1936)には金5トン、銀15トン、そして銅11000トンを産出した日本鉱業の構内神社であった。

 

金瓜石神社の遺構が頭から離れないなか、たまたま雑誌に掲載されていた神社遺構や遺物の記事に接して神社跡地に対する興味と一種の懐かしさを抱きつつ、週末を利用して所在地がわかる神社跡地を訪ねるようになった。せいぜい2030ヶ所と鷹をくくっていた。ところが、台湾総督府が昭和18年(1943)に発行した『台湾に於ける神社及宗教』により201ヶ所の神社(遥拝所含む)一覧表を見つけて驚いた。5年間の駐在期間を終え、帰国後も調査を継続し、15年が過ぎた。これまでの私の調査では、私設神社や本殿だけの小さな神社(祠)や小・公学校校内神社などを含めるとその数は約400ヶ所になり、これまで380ヶ所を訪れた。これまでの調査・研究の集大成として昨年5月に『台湾に渡った日本の神々』を出版することができた。この中で、台湾総督府が公認した神社を含めて230ヶ所を紹介した。

 

神社跡地を調査する過程で、当時の多種多様な日本人の生活空間に数多くの神社が造営されたことから、「ひょっとして神社を調査することで、日本統治時代の台湾の産業史及び社会史に迫ることができるのではないか」と考えるようになった。台湾神宮など、正式な社格を持つ神社とは別に官営企業(樟脳、林業、酒造)、水力発電所から民間企業(製糖業、鉱業など)、さらには軍隊、移民村、小・公学校、先住民部落、刑務所、遊廓、デパート、動物園などありとあらゆる場所に土地守護神としての神社が造営された。これらの神社造営の背景とわずかに残された神社遺構と遺物から当時の台湾で起きたドラマの数々を垣間見ることが出来た。その一例として宜蘭神社跡地に残された遺物から製糖会社の歴史の一部について述べてみたい。

 

宜蘭神社跡地の一部は員山公園と忠烈祠になっている。忠烈祠内には当時の宜蘭庁にあった神社の資料センターにもなっており、貴重な情報が残っている。忠烈祠に至る石段前には、神社遺物として狛犬や神馬(しんめ)、さらには石灯籠の一部がオブジェの様に多く残されている。特に石段前のブロンズで出来た狛犬は非常に珍しい。当時の本殿に至る石段手前に「奉獻 台南製糖株式会社」と刻まれた灯籠の一部がある。

なぜこのような場所に()()製糖の奉納物があるのであろうか。さらに市内の分昌廟に「馬到成功」として残る神馬

(石段前の神馬は複製品である)があるが、この神馬を奉納したのが昭和製糖であった。これら製糖会社と宜蘭はどのような関係があったのであろうか。


 宜蘭神社跡地の一部は員山公園と忠烈祠になっている。忠烈祠内には当時の宜蘭庁にあった神社の資料センターにもなっており、貴重な情報が残っている。忠烈祠に至る石段前には、神社遺物として狛犬や神馬(しんめ)、さらには石灯籠の一部がオブジェの様に多く残されている。特に石段前のブロンズで出来た狛犬は非常に珍しい。当時の本殿に至る石段手前に「奉獻 台南製糖株式会社」と刻まれた灯籠の一部がある。なぜこのような場所に()()製糖の奉納物があるのであろうか。さらに市内の分昌廟に「馬到成功」として残る神馬(石段前の神馬は複製品である)があるが、この神馬を奉納したのが昭和製糖であった。これら製糖会社と宜蘭はどのような関係があったのであろうか。

 

 

明治35年(19026月に「台湾糖業奨励規則」が発布され、新渡戸稲造は殖産局長に任命された。そしてこれまでの水牛が旧式の石車を引いて廻る旧式製糖から新式製糖産業に対する資本投下が本島及び内地より矢継ぎ早に行われた。折から、日露戦争後のにわか景気に沸き、明治38年(1905)に陳中和など台湾の有力者5人により資本金24万円で鳳山(現在の高雄市鳳山)に新興製糖、また、阿緱(現在の屏東県屏東)では蘇雲梯などが6万円を投じで南昌製糖を興した。内地の資本家も台湾の製糖事業の有望性に着眼し、明治39年(1906)には明治製糖、翌年には塩水港製糖及び東洋製糖が設立された。また、少し遅れて明治42年(1909)には新高製糖、林本源製糖、大日本製糖、翌年には帝国製糖や中央製糖など主要な製糖会社が設立された。

 

 

数多くの本島人及び内地人による投資が矢継ぎ早に行われた中で、本島人である陳鴻鳴(ちんこうめい)により、明治39年に当時の台南庁噍吧(タバニー)永興製糖が創立され、明治42年(1909)に初めての圧搾が開始された。明治45年(1912)には圧搾能力を上げるために英国資本系の怡記洋行(The Bain & Company)から新式圧搾機械を購入するが、当初予定されていた能力300トンを大幅に下回る180トン程度しか実現できなかったため、怡記洋行と係争問題に発展する。さらに、同年6月の豪雨により曾文溪が増水し、同社の鉄橋が流失し、多大な損失を負い、経営危機に陥った。

 

 

大正2年(1913)に永興製糖の事業を継承することにより、資本金300万円で台南製糖が創立され、噍吧と呼ばれた新化郡玉井庄に本社を置いた。大正4年(1915)に勃発した西来庵(しらいあん)事件により、現地での労働力を失しなってしまう。さらに、玉井は地理的に交通手段の便が悪く自社の軽便鉄道の敷設ができず、雨季には鉄道の橋梁を流失する。また、既に、台南の各地は外の大手製糖会社により甘蔗(サトウキビ)作付け地盤が固められており、台南製糖が事業を拡大する余地は少なかった。大正5年(1916)に台南製糖はこれまで大手製糖会社が見向きもしなかった宜蘭の合名会社宜蘭製糖所の傘下にある七張庄製糖所の事業を継承した。その後、宜蘭製糖所を羅東郡五結庄二結(現在の二結郷)に移設し、同時に本社をそれまでの噍吧から宜蘭に移転する。大正7年(191812月には甘蔗のバガス(搾汁後の搾りカス)を利用して製紙工場を建設し、翌年の5月に操業を開始した。その後、昭和8年(19337月に製紙工場を新たに台湾紙業株式会社として設立したが、昭和10年(1935)に内地の王子紙業株式会社が四結に台湾興業株式会社を創設し、台湾紙業は合併される。 

 

 

順調に進んだ製糖事業も、欧州大戦(大正37年)後の世界経済恐慌による糖価暴落及びその後の事業拡大で資金調達が出来なくなり、遂に大正14年(1925)に破産宣言を行った。そして台南製糖は昭和2年(1927)、新たに誕生した昭和製糖に事業が継承される。その昭和製糖は昭和8年に新竹及び沙轆(しゃろく)の製糖会社と合併し、本社をそれまでの宜蘭から台中州の苗栗に移すが、昭和14年(1939)に大日本製糖と合併し、宜蘭工場は二結製糖所と呼ばれることになった。目まぐるしく変動する業界で、昭和17年(1942)に米作への作付け転換を推進する総督府の要請により、宜蘭工場の閉鎖を余儀なくされた。製糖工場の設備機材は全て船で南シナ海北部の海南島に移す予定であったが、途中で米軍の攻撃により海底深く沈没した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 


慰霊訪問団に参加した孫の感想(小菅亥三郎)

 

        慰霊訪問団に参加した孫の感想

 

                    福岡市 小菅亥三郎

 

 私は平成11年から20年間継続し慰霊を目的に台湾への訪問を続けております。この企画は100%民間主体です。わが国の公的機関から1円の予算措置も講じられておりませんが、これが私たちの団体の健全性を将来に亘っても担保する必要にして最低限の条件であると思います。名もない市井の人の依頼心なき善意の結集がどれほど強力な力を発揮するかが鮮明に把握できる環境の構築保持こそがこの慰霊訪問の原動力であるからです。

 

 この団の目的はあくまで大東亜戦争で亡くなられた元台湾人日本兵軍人軍属33000余柱の慰霊におくということです。かつて天皇陛下の臣民として、わが国のために戦い尊い命を捧げられた台湾人の皆様の勲を、戦後の日本人である私たちが現地・台湾で顕彰するというところがポイントであると思います。

 

 過去、幾世紀にも及ぶアジアにおける欧米列強(白色人種・ユダヤ)による植民地支配の軛から、黄色人種を解放するという世界史的な偉業に貢献した彼らを、私たち・日本人が発掘し顕彰し続けなくて一体誰がこの作業をするのか、私はこの問題意識と使命感こそが団の魂と思っております。

 

 最後に家族交流・兄弟交流について一言申し上げます。私たちは現地の人々と一緒に慰霊祭を執り行いますが、ともすると戦死者を「犠牲者」として把えがちな現代の風潮とは逆に、お国のために、そして共通の目的のために殉じた「英雄」として顕彰してきております。かくあってこそ慰霊祭の場は、私たちが彼らと同胞の契りを結ぶ格好の機会になり得るのです。ここから両者の間に家族交流・兄弟交流の関係が芽生えるにはさして時間はかかりません。団の目的からして必然的結果といえばそれまでですが、両者の関係はここまで昇華させなければまごころの交流はないと思います。

 

 お互いにたった一つしかない命を楯(たて)に、大東亜の解放という壮挙に生死を賭け、世界史のうねりを大きく変えた若かりし日の実績を正しく認知し、その価値を共有することこそが誠の家族交流・兄弟交流の基盤を構築していくものと確信し、私たち訪問団は今年もわが国を代表し、この行事を実行していく所存です。台湾に思いを寄せる多くの皆さまのご教示、ご支援をお願いする次第です。

 

 以下に、一昨年と昨年続けて2年続けて参加した私の孫の感想文を掲載致します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本と台湾の永遠の友好を願って「日本の一角」に起つ

 

                 第二班 田口班 茅野櫻(中学2年)

 

 私は今回初めてこの慰霊訪問団に参加しました。まだお腹の中にいた頃に一度行ったことがあるそうですが、もちろん覚えていません。私はこの旅に参加して「楽しい」よりも「嬉しい」の方が多かったです。

 

 まず、台湾の方が日本語を上手に話していること。次にその方々が日本についていろんなことを知ってくれていること。私はこの2つが特に嬉しかったです。

 

 私は台湾について、祖父や母から教えてもらった少しのことしか知りません。日本のことを日本人よりも好きでいてくれる台湾の国のこと、人のこと、歴史のことなどたくさん知りたいと思いました。

 

 今回の旅で私が心に残っている場所は、六士先生のお墓です。私は将来、海外青年協力隊に入り、世界の困っている子供達に勉強を教えたいと思っています。六士先生は台湾の子供達に教育をしに来たのに殺されてしまったと聞き、すごく悲しくなりました。でも、それと同時に立派なお墓があることが嬉しかったです。

 

 台湾での5日間、私はたくさんの人に会いました。その中には、母が「台湾での私のお父さんとお母さんよ」といって紹介してくれた方や、日本で兵士をしていた方、小学校の校長先生、看護婦だった方など尊敬できる方がたくさんいました。そんな方々と名刺を交換して当時の話などを聞いて、私たちが今、学校で習っている歴史とは違うことに悲しい、悔しいと思いました。そして、私は正しいことを学ばないといけないと思いました。また、祖父がお寺やお墓の前で読んでいた祭文の「日台の生命の絆死守せんと 吾日本の一角に起つ」の言葉が心に残りました。

 

 私も日本と台湾の永遠の友好を願って「日本の一角」に起ち、これからも日華()親善友好慰霊訪問団に参加したいと思いました。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私はおじいちゃんがおじいちゃんで良かったです

 

                 第二班 田口班 茅野慧(小学6年)

 

 私は今年初めて日華()親善友好慰霊訪問団に参加し台湾に行きました。これが私にとって初めての海外旅行です。私が訪問団に参加しようと思ったきっかけは、参加した人の感想文を読んでとても感動し、興味を持ったからです。

 

 私が心に残ったのは5つあります。1つ目は「台湾日本関係協会主催歓迎夕食会」で外務省の李恵珊さんが、おばあちゃんの誕生日を祝ってくれたことです。まるで自分のことのようにうれしかったし、おじいちゃんとおばあちゃんを誇りに思いました。またその中で、李さんが言っていた「恩返し」という言葉です。日本人でも恩返しという言葉はあまり使わないので驚きました。そして、李さんは日本や日本人を心から好きなんだなと思いました。

 

 2つ目は潮音寺です。あの突風の中で国旗を持つのは大変でした。でも、訪問団の人たちも風に耐えて立っていたのですごいなと思いました。

 

 3つ目は宝覚寺です。日本の人たちが90年前に立てた木造のお寺を、台湾の人たちは建て替えるのではなくて、「日本人が建ててくれたから」と寺を覆う蔵を建てて下さったことに感動しました。私は台湾の方々が日本のことを守って下さっているように思えました。

 

 4つ目は南天山濟化宮の位牌の数です。私は本当に4万柱もあるのか気になったので、位牌の数を計算してみました。すると、約34千柱くらいありました。私はそれに対して、日本が他国の戦死者をお寺で祀っているとはあまり聞きませんが、台湾は日本の戦死者をちゃんと祀っている事に、感謝の気持ちでいっぱいになりました。

 

 5つ目は鹽水國民小學校です。私は学校で南京大虐殺は本当の話だった、真珠湾攻撃は日本が予告せずにやった等の、反日的なことを教えられています。学校のみんなは、日本は最低だ、中国はかわいそうだと思っています。私は日本の小学生なのに、私よりも日本らしい教育を受けている台湾の小学生達がうらやましいと思いました。また私は、日本の子なのに日本のことを誇りに思えないのはとても悔しいです。

 

 私は訪問団としての5日間で、本当にたくさんのことを学びました。きっと普通の小学校生活では学べないと思います。私はおじいちゃんがおじいちゃんで良かったと思っています。もしも、おじいちゃんがいなかったら、今頃私は日本のことが大嫌いだったと思います。おじいちゃんがこういうことを真剣に考えてくれるお陰で、私も本当の歴史が知れたし、台湾でたくさんの良い人たちに出会うことができたからです。

 

 私は台湾で学んだことを学校の友達に伝えたいと思っています。また台湾に行きたいです。これからも「日華()親善友好慰霊訪問団」が長く続くことと、日本と台湾の国交がもと通りになることを願っています。

 

 

 

尊敬される国に戻りたい

 

           第二班 柴崎班 茅野櫻(中学3年)

 

 私が今回、台湾慰霊訪問の旅に参加して一番強く感じたことは「尊敬される国に戻りたい」ということです。

 

 台湾の方々は、私たちが行くととても喜んで下さり、盛大な歓迎をして下さいました。また、昔の日本と台湾のことなど、慣れない日本語で一所懸命教えて下さいました。日本のことが大好きで、とても尊敬してくれて

 

いるんだなと感じる機会がたくさんありました。とても嬉しかったです。でも、それと同時に今の日本は台湾の方々の期待に応えることができるのだろうかと不安になりました。

 

 私は最近、「カエルの楽園」という本を田口さんから薦められて読んでみました。とても面白くて一気読みしました。でもカエル達の世界を今の日本におきかえてみると、とても恐ろしくなりました。この本のように、今の日本はバラバラで、中国、韓国、北朝鮮、ロシアなどたくさんの国に国土を奪われたり、狙われたりしているのに、国民は危機感を持っていません。このままでは、尊敬されるどころかバカにされてしまいます。

 

 今の日本の状況を少しでも良くするためには、私たちの取り組みをもっと伝え、広げていくことが大切だと思います。日本が明治の頃のように活気があふれ、尊敬される国に戻ることを願って、これからも毎年参加していきたいです。

 

 

私達にもできること

 

          第二班 柴崎班 茅野慧(中学1年)

 

 私がこの台湾慰霊訪問の旅に参加するのは今年で2回目です。2回目なので去年と違う見方で訪問することが出来ました。また、2回目で慣れていたけれど、やはり台湾に行くと改めてすごいなと思うことが多かったです。

 

 特に私がすごいと思ったのは、まず台湾の方々が上手な日本語を話されることです。台湾ではどのお寺に行っても、どこの食事会に呼ばれても、ほとんどの方が上手な日本語を話されていました。その中には、今の日本人の知らない「教育勅語」や「軍人勅諭」などを暗唱している人もいました。台湾の方々は日本のことを本当に信頼してくれていて、心の底から感動できる旅でした。

 

 でも、戦争で亡くなられた日本人のためにお寺を建てたり、日本人に親切にしてくださる台湾の方々に、私たちは国として何かをしたでしょうか。台湾の兵隊さんのためにお寺を建てましたか。何もできていませんでした。

 

 ただでさえ国交が断たれている今、台湾とではなく、中国と仲を深めようとしている人の方が多いです。

 

 そんな中、20年前、祖父がこの慰霊訪問団を立ち上げ、こんなにも団員が増えています。この慰霊訪問団は祖父のたくさんの努力と、たくさんの方々の協力のお陰だと思っています。今では、台湾と日本を繋ぐ数少ない存在となってしまいました。これからは、台湾と日本の国交が回復する事と、この慰霊訪問団が末永く続くように、私も参加していきたいです。

 

 

 

 


ドライブと温泉(駒井教雄)

 

             ドライブと温泉

 

                台中市 駒井 教雄

 

 

 人生には初めてのことがある。

 

 左ハンドルの車を運転するとは思ってもいなかった。台中日本人学校に赴任が決まり、左ハンドルの車で通勤すると知った時から心の中で不安が徐々に膨らんでいった。イメージが湧かなかったと言っていい。

 

 台中市内を初めて運転した時のことを鮮明に思い出す。六月初旬の日曜日、早朝、午前五時三十分。マンションの地下駐車場から不安気に路上に出た私の車。右側車線を走る。一つ目の青信号を右折。二つ目の信号を慎重に左折。三つ目の信号は赤。信号は青に。右折の指示器を出して発進。ワイパーが動いている。歩道を歩いている人が私の車を見て、怪訝な顔をしている。やってしまった。私は左側を運転していたのだ。しかもワイパーを動かしながら。幸いにして対向車が来なかったので事なきを得たのだった・・・。

 

 そんな私は、今では左ハンドルの車で、快調に回転しているエンジンの音を聞きながらドライブを楽しんでいる。私のドライブには温泉がつきものである。

 

 春、谷関温泉に初めて行く。ここは一九〇七年に原住民タイヤル族が明治時代に発見したことから、「明治温泉」とも呼ばれている。台中市内からは二時間ほどで着くことができる。快速七四号線・一二九号線・八号線を通って山道のカーブに気を付けながら車を走らせる。途中、新社區白冷圳に寄ってみる。白冷圳とは、台中市の山間部(新社区を中心とした周辺地域)にある大規模な水利施設のこと。この水利施設の設計・建設にあたったのが、磯田謙雄技師で、台湾では今でも「水利事業の父」と呼ばれて、台湾の歴史に名を残すほどに有名である。到着後、ホテルの温泉に入る。温泉と言えば裸と思っていた私にとっては水着で入る温泉は初めてである。温めのお湯に浸かり、手足を伸ばし対岸の緑の山を見ながらドライブの緊張感をほぐす。

 

 冬、南部横貫公路を使って台東までの長距離ドライブに出かける。台東の富岡港から船に揺られること一時間。船酔いに悩まされ、緑島を訪れた日は生憎の雨。ここは周囲二十キロほどの小さな島で、バイクで一周するのに多くの時間を要しない。島の南東にある朝日温泉を目ざす。世界に四カ所しかないという珊瑚礁の中から湧き出る珍しい温泉。「雨にも負けず、風にも負けず」の気持ちで露天風呂入る。タオルを頭にのせ肩まで浸かりながら波を見つめる。雨に打たれ、風を頬に受けながら肩まで浸かり、耐えること三十分。我慢の限界を超えた頃、屋内の温泉に駆け込む。今度はゆったりと太平洋を眺めながら、次回のことを考える。

 

 秋、烏来まで車を走らせる。烏来はタイヤル語の「温泉」という言葉に漢字を当てたもの。台北からは三十キロのところにあるが、台中からはかなりの距離である。早朝に出かけたので渋滞に巻き込まれることもなく目的地に着くことができた。老街を抜け賢勝大橋に立つと、河原の石を動かし、露天風呂を作っている人々を目にする。見よう見まねで身体を横たえるための穴を掘る。湧き出てくる温泉はとても熱い。程よい熱さになるように川の水を引き入れる。露天風呂づくりに疲れた体を横たえる。熱さに我慢ができなくなったら川に浸かる。河原での温泉、日本にはなかったのでこれも初めての体験である。

  まだまだドライブは続いている。

  

 右ハンドルを握っている私は赤信号で停車。信号が青に変わる。右折した私の車はどっちの車線を走っているのだろうか・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


私の台湾人生(酒井充子)

 

            私の台湾人生 

 

                        東京都 酒井充子

 

台湾は1895年(明治28年)から1945年(昭和20年)までの51年間、日本の統治下にあった。日本語世代は、日本の教育システムにより日本語教育を受けた人々で、特に現時点で80歳以上の人たちは、日本の戦時体制のもと皇民化教育の影響も受けている。

 

「下関条約により台湾が日本に割譲された」という、歴史の教科書レベルの知識だけしか持ち合わせていなかった私は、今から12年前の1998年夏、初めて訪れた台湾で大きな衝撃を受けた。一本の台湾映画を見て、舞台となっていた台北を歩いてみたいと思い、ふらりと訪れたのが台湾との出合いだ。その旅先で、流暢な日本語で話しかけられた。子供のころにかわいがってくれた日本人教師がいて、戦後、連絡先がわからなくなってしまった。もしお元気なら会いたいと、バス停での立ち話で滔々と語られた。台湾のお年寄りは日本語が話せる人が多い、という程度の認識だった私は、あまりの流暢さに驚くとともに、当時戦後53年経っていたにもかかわらず、恩師を大切に思う気持ちを持ち続けている人がいるということに心を揺さぶられた。

 

 

このバス停での出会いをきっかけに、台湾と日本の歴史をきちんと知りたいと思い、自分なりに勉強を始めた。知らないことが多すぎて唖然とした。周囲の友人たちに聞いても台湾のことを考えたこともないという。日本に対する「悔しさと懐かしさ」が複雑に絡まりあった気持ちを抱えて生き、今も厳しくかつ優しい視線を日本に送り続けている人たちが台湾にいる。そのことを日本人に伝えたい、その一心から映画を作った。

 

 

映画には「私は今の若い日本人より日本人」という女性や、日本兵としてインパール作戦に参加し、なんとか生きて帰国したら自分の国が敵対国の中華民国になっていたという男性らが登場する。彼らの人生は、日本統治時代には日本人との差別があり、戦後は、中国国民党による台湾人の弾圧を経験するという過酷なものだった。日本の統治は日清戦争の結果として始まり、中国国民党の中華民国による統治は、連合国の委託という形で始まったもので、台湾人の民意はどこにも反映されていない。

 

 

台湾人としてのアイデンティティは日本統治時代に芽生え、戦後強固になっていったと言われている。特に日本語世代の人たちは自らの体験から「自分たちの国を持たなければだめだ」という思いが強い。しかし、今の台湾では「現状維持」を望む声が最も大きく、彼らの気持ちと乖離しているというのが現状だ。国連に加盟し、世界に「台湾」を認めてほしいと願う日本語世代は、「日本にも責任がある」という。敗戦国になったとはいえ、かつての領土に対する責任があると。いまの日本そして日本人にできることは、将来、台湾の2300万人の国民が民主的な方法で導き出す結果を支持することだと思う。

 

 

私は七年間も台湾に通いながら、台湾語も北京語もマスターすることなくきてしまった。不遜にも取材はすべて日本語で通したからだ。インタビューを日本語にしたのは、台湾の老人たちが流暢ながらも微妙にイントネーションが違う日本語を操る様子を伝えたかったから。私は彼らの日本語の流暢さに驚きながらも、ある種の違和感のようなものを常に感じていた。歴史の中で強制された言語で語られる言葉を、どのように受け止めればよいのか。スクリーンを通して訴えたかった。

 

いま、台湾でこの原稿を書いている。次作の撮影のためだ。日本統治下の台湾に生まれ、戦時中の1943年、日本に渡った郭茂林(かくもりん)という台湾人建築家の人生を追っている。来年90歳を迎える彼は、日本最初の超高層ビルとなった霞ヶ関ビル(1968年竣工)や新宿副都心開発、池袋のサンシャイン60の建設など、日本の超高層建築の黎明期を支え、台湾の李登輝元総統とともに台北の都市開発の礎を築いた人物なのだが、あまりその名を知られていない。彼の人生は日本の戦後復興から高度経済成長、台湾の民主化の時代と軌を一にする。建築という視点から、 日本と台湾の近現代史をあぶりだしたいと思っている。

 

そして、この次には、いまの若者たちの姿を追いたいと思っている。「台湾人生」で取材した日本語世代たちの思いを彼らは果たして受け継いでいるのか、いないのか。国際的に不安定な立場にある自国をどのような方向に導いていこうとしているのか。

 

わたしの「台湾人生」はまだまだ続く。

 

 

 

        

 

         (注)VIEWS 2010年秋号(第23号)掲載より転載 

 

        (http://www.wjwn.org/

 

 

 


私の台湾史(佐藤晋)

 

            私の台湾史

 

            東京都府中市 佐藤晋

 

 

私個人の台湾との繋がりはまだ二十年にも満たないが、少し視野を広げ、家族史という視点で眺めると、凡そ80年前にあった台湾とのご縁に遡ることが出来そうである。

 

昭和16年になると、時の政府は効率的な戦時体制構築を目的とした産業統制を進めるため、海運分野においては戦時海運管理要綱を閣議決定し、船舶や船員の管理制度の一元化を進めた。昭和173月には戦時海運管理令の公布、同年4月には船舶運営会が設立され、戦時海運事業の統制を担うこととなる。

 

 

私の母方の祖父は船員であった関係で、戦時中、船舶運営会の統制下、主に南方に物資・兵員の輸送を行っていたと見られる。「見られる」と書いたのは、当時、海外航路の船員は家族にも仕事内容や渡航先を伝えられることは禁じられ、何の情報ももたらされ無かったからである。 ただ、平成29年秋、祖父の元勤務先に依頼していた戦時中の乗船記録を開示して貰う事が出来、祖父の足跡の一端を知ることが出来た(とは言っても、乗船した船名、城仙期間、職位のみであったが)。

  

 昭和16128日の開戦半年前から既に洋上にあり、昭和20815日の終戦を跨ぎ、昭和224月に日本に帰国するまでの足掛け丸6年の乗船記録を見てみると、陸に上っていた時間は延べ5か月にも満たない。今の感覚で言えば「ブラック」な香りの芬々とするところだが、国運を賭した非常事態の連続する中、そのようなことを考える余裕もなかったことだろう。

 

連合軍に空を制圧された危険極まりない海から奇跡的に生還した祖父であったが、私の生まれる前に他界しており、祖父のことを直接は知らないが、家族から祖父の台湾に纏わる話を二つだけ、一つは実母から、一つは妻の母方の叔父から聞いたことがある。 

  

前者は祖父が戦後の日本と台湾の民間交易船の第一便の船長を担うという光栄に浴し新聞記事にもなったらしいという話。後者は、昭和181021日雨の神宮外苑で挙行された学徒出陣壮行会を経て台湾に通信将校として出征した妻の大叔父が、出征兵士への労いの挨拶をしに輸送船内を巡回していた祖父と遭ったことがあるという嘘のような話で、十年ほど前、法事の席で祖父のことを話した折、鹿児島出身の祖父の特徴的な苗字が記憶に残っていた大叔父が昨日のことのように反応したのを覚えている。

  

蛇足だが、この妻の大叔父、高砂族のとある酋長さんにえらく気に入られて「うちに婿入りして台湾に残れ」とかなり熱心に誘われた由。もしそのまま残っていたら、巡り巡って高砂族の親戚が居たことになったかもしれない。

 

 長い前置きになったが、私自身、自らの手で紡いだ、細やかな台湾史とはどんなものか。

  秋葉原のラジオ会館に時間があれば通っていた少年時代、とある輸入雑貨商で購入した小さなトランジスタラジオの裏側に「Made in Taiwan」と刻印してあった記憶があるが、恐らくそれが一番古い台湾体験だったのではないかと思う。

 

その次に思い出すのはずっと後年、昭和の終り頃所属していた大学のクラブの台湾国籍の友人が「俺、高校から日本なんだけど、その高校の修学旅行、行き先が中国で俺だけ行けなかったんだよね」という話を発端に彼の身の上から台湾のお国事情まで聞かせて貰ったことである。 また当時、業界団体の仕事で台湾を訪れた父が、台湾総統に就任された李登輝閣下ご挨拶させて頂く光栄に浴したと自慢げに話していた記憶もあるが、「総統」という呼称を聞いて宇宙戦艦ヤマトの「デスラー総統」、ナチスドイツの「ヒトラー総統」といった、マイナスイメージを持った記憶があり、無知蒙昧と罵倒されても仕方ない恥ずかしい記憶でもある。

  

高校生だった昭和50年代後半までに左巻き教育を受けて来た世代である私にとってすら不快感を抱かせる=結局は日本マスコミの自家中毒だった訳だが=ほど日本への諸隣国の風当たりが急激に強まった時代を経て、社会人になって後、アデン湾の機雷除去で活躍された海上自衛隊の落合閣下のご講演を平成3年に赴任中の広島でたまたま拝聴する機会があった。以来、私の頭の左巻きは巻き戻され真ん中からやや右寄りに落ち着いたと思う。

 

初めての海外駐在終えた平成十二年末に読むことになる小林よしのりの「台湾論」は台湾認識を新たなものにした。海外駐在時に出来た日本堪能な台湾の友人にも裏取の目的で読んで貰ったところ「二ヶ所だけ気になったが他は書いてある通り」と言われたことも大きい。

 

その後、広東省に駐在していた平成17年に、あのとんでもない官製反日デモに遭遇するが、それは帰任後、晴れて台湾担当となり、台湾への愛惜を倍加させる反応促進剤となった。  

台湾に足繁く出張する中で喜早さんに知遇を得て台中会で多くの日本語族の方々をご紹介頂いてお話を伺い、産経新聞に勤める大学同期に紹介して貰った同社台北支局長を介して「老台北」こと蔡焜燦先生に会わせて頂いたりと、積極的に日本語族に教えを乞うた。

 

 台湾で仕事をしつつ現実的な生活者としての台湾人を目の当たりにすることで、決してイデオロギーや綺麗ごとだけで台湾を一括りに出来るようなものではないことも改めて理解するきっかけとなり、友人の酒井充子監督が足掛け十年以上を掛けて撮って来たドキュメンタリの秀作/台湾三部作も、自分の頭の台湾人理解を助けてくれている。

  

台湾に心を寄せる多くの日本人同様、私に多くのことを教えて下さった日本語族の方々がこの十数年で体調を崩され、或いは鬼籍に入られたことから、日台の将来に危機感を募らせていたが、この十年で日本が次々と直面した未曾有の自然災害に際し、真心の籠った手を差し伸べてくれる真の友人を、こんなに近くに居たことを多くの日本が見つけられたことは、誤解を恐れずに言えば、神の一助であったのだと感じる。

  

今般、喜早さんが設立された「臺中五円の会」は新世代日台人の交流会としてその存在感を際立たせていくものと確信しつつ、幾ら時間とお金を掛け、神経をすり減らしてお付き合いしてもちっとも実が熟れて来ない、寧ろ腐敗していくような間柄のお国との関係を尻目に、まだ正式な国交を回復出来ていないにも関わらず、民間交流を軸に着々と積み上がる暖かい日台関係を猶更大事に、日本語族の方々が日本に送って下さって来た愛惜と叱咤激励を土台により充実した関係へと成長させて行ける我々でありたいと心から祈っている。

 

 


台湾の日本語世代からのエール(佐藤民雄)

 

     台湾の日本語世代からのエール

                             東京 佐藤 民男

 

 

 

 小学生からの質問で「一番好きな国はどこですか?」というようなものがあります。私は迷わず「台湾」と答えます。ややオーバーに言えば、台湾は私にとって第二の故郷といってもいいほどのところです。 

 

私は台北で暮らしていたことがあります。もう十五年ほど前のことです。当時、私は文科省の在外派遣教員として、台北日本人学校に赴任しておりました。日本と台湾の架け橋となっている喜早さんと知り合ったのもその頃です。

 

その二年間。私は毎朝、ガジュマルの街路樹のある中山北路を歩いて、学校まで通っていました。台北市内には大王ヤシという素敵な街路樹もあるのですが、私は毎日見ていた太く大きなガジュマルの街路樹が好きでした。

 

台湾の食べ物の美味しさは多くの人が語っています。私も例外ではなく、小籠包、マンゴー、台湾茶(台湾烏龍茶)、そして台湾ビールにハマりました。マンゴーが旬の時期は、弁当のデザートは毎日マンゴーでした。

 

「先生のお弁当のデザートは毎日マンゴーだね」

 

小学三年生の子供に言われましたことを昨日のことのように思い出します。

 

そんな素敵な台湾は、かつて日本に統治されていました。けれども、反日ではありません。反日どころか親日です。もちろん、一部には反日の声もあります。が、暮らしている最中、それを感じたことはありません。逆に親日であることを、多くの台湾人と接していて肌で感じ、過ごしていました。

 

台湾には、世界三大博物館の一つである故宮博物院があります。ある時、そこへ行こうとバス停で待っていました。そのバス停は駅前で行き先がいくつもあります。台北に住んでいる私は行き方も知っていて困っているわけではありませんでした。しかし、私の雰囲気と動作を不審に思ったのか、一人の品のある老婦人が私に話しかけてきました。

 

「日本の方ですか?」「はい」

 

「どちらまで行かれるのですか?」

 

「故宮博物院です」

 

「それでしたら、二五五のバスに乗って行けば大丈夫ですよ」

 

 あまりに流暢な日本語に正直驚きました。私は「ありがとうございます」とお礼の言葉を述べた後、バスが来るまでその老婦人とおしゃべりしました。

 

 一見、台北在住の日本人かと思いましたが、彼女は台湾人でした。日本統治下の小学校の時代に日本語を学んだと話されました。それにしてもきれいな日本語で、品がある彼女が話すのを聴いて、日本語の美しさを再認識する体験でした。

 

 この老婦人のように、日本統治下で日本語を学んだ世代を、日本語世代と言います。当たり前かつ悲しいことですが、時代とともに日本語世代は少なくなっています。

 

台北駐在時代、台湾の日本語世代が中心となって創った日本語勉強会「友愛会」に二度ほど参加したことがあります。司馬遼太郎著『街道をゆく 台湾紀行』(朝日文庫)に登場する「老台北」こと故蔡焜燦(さいこんさん)氏も関わっているサークルでした。

 

 今の若い人、いや私自身も戸惑うような漢字の読み方やむずかしい敬語を参加者である台湾人のお年寄りは学んでいました。

 

 その会で、台北駅近くで時計屋(カメラ屋だったかな?)を営んでいるご主人が話されました。

 

「今の日本人には大和魂がない。戦前の日本人はもっと胸を張って生きていた。あなたたちも大和魂をもちなさい」

 

 まさに、蔡焜燦著『台湾人と日本精神』(小学館文庫)の中で、蔡氏が主張されているようなことをストレートに言われました。

 

 今も残る台湾総統府は、日本人が設計し建てました。かつての台湾総督府庁舎です。そこに見学に行った時のボランティアガイドも日本語世代のお年寄りでした。言うまでもなく、流暢な日本語で説明してくれました。

 

「この台湾総統府の建物は実に立派な建物です。真上から見ると、日本の『日』という文字の形になっています。正面玄関は皇居に向かって建てられています」

 

建物の素材や造り方の説明もありましたが、日本礼賛の説明には、こちらの頭が下がるほどでした。彼は何度もこう繰り返しました。「こんな立派な建物を造ったあなた方の先輩、日本人は本当にすばらしい」

 

今の私たち日本人が知っておかなければならないかつての日本人のよさを、私は日本統治下で育った台湾人から教わりました。

 

台湾近現代史は複雑です。親日の理由は、様々あります。でも、私が台湾に住み、感じたことは一つの事実です。台湾は親日です。台湾と同じ日本統治下に置かれた韓国とは違っています。

 

これからの日本を考える上で、子供たちには多角的・多面的な見方で近隣諸国との関係を考えてほしいと思っています。

 

 

 


台湾へ出向(鈴木誠真)

 

            台湾へ出向

 

                 高雄市 鈴木誠眞

 

 阪神大震災の概要把握もできない28日に高雄空港に出迎えてくれたのは國保善次氏でした。

「取敢えず下見に行けば?」と言われて一か月そこそこで私は高雄の子会社に派遣されて、暮らすことになったのです。

 

総務部長から『あなたは少し言葉が話せるようだから、何も心配はありませんよ、同じ中国語です。』

そう言われてそれを鵜呑みにしてきたものの、学んでいた普通話(北京語)とはかなり違う「國語」。

それに加えて「台湾語」・・・親会社からの派遣ということでそれなりに保護された様子で暮らし方のイロハなどを丁寧に教えられながら高雄での生活が始まりました。

 

 全く予想もしていなかった台湾の地理や環境を学ばせるということから、着任してまず最初に日本語の話せる社員たちと高雄から汽車に乗り新竹経由で台北に行きました。 その日は飛行機で高雄に戻りましたが、空港での待ち時間に初めて牛肉麺を食べたのがキョーレツな台湾の印象になりました。 ひっくり返るほどカライうどんのお蔭で考え方のスイッチが切り替わったのだと思います。

 

その日の旅程中に感じたのは何であんなにたくさん屋根の上に立派なステンレスと思しきタンクが並んでいる? ということでした。もう一つ印象強かったのは車窓の外、線路に沿って緑の茂みが多く、その中には常にヒルガオの様な鮮やかなブルー色をした花を見たことでした。

 

 私はもっと現地を知らねばという思いから、まず大きな本屋を見つけて興味の強いものから眺めるだけでもいいからと手当たり次第に本を買ったものです。自分の好きな地理、人文地理に関するものや建築物に関するもの(自分の本業は金属製建築材料) 地質、地形、自然に関するもの特に植物などの書籍は十分容易に購入することができました。続けて風習や住民に関するものから彼らの宗教や民族に関するもの、其れにかかわる歴史的なもの、読み切りもしないのにたちまち住まいの中は書籍で足の踏み場もないような事にもなりました。しかし手を伸ばせば何かの本を取り出せるので便利ではあったと思います。(壁一面の本棚も後に自分で作りました。)

 

 初めて住む住まいは白い壁に塗られていて病院の様でしたが、大家と掛け合って壁紙を貼ってもいいとか壁は好きにしていいという許可をもらってペンキの缶を手に入れて書斎は2面を緑に、寝室は3面をブルーを基調にした色に塗り替えました。いずれも白いペンキに5%ほどの色を混ぜて淡い色に仕上げたものです。日本ではいつも何かとDIYでこなしていたことと「建材のセールス」が施工もできなければ(という考え方から)ほぼ「何でも屋」の丁で、まず住まいを落ち着けるものにしたことが忘れられません。

 

広い部屋のまだ残る一部屋は洗濯物を干したり、レンガを敷き詰めて室内庭園を造り、たくさんの観葉植物を入れてジャングルの様なものになっていました。後でわかったのは6階建ての6階にあった部屋は最上階の住人が屋上の使用権を持っているといことを知らなくて, 後には屋上は洗濯物干しと簡易ベットを置いて日光浴の場として使いました。もし屋上に植物を置いたら日差しで枯れたでしょうね。知らなくて幸いだったかもしれません。 しかし日本人は日光浴をして健康的だという意識が強かったのでこりもせずほぼ毎週土日には日光浴をしてよく陽に焼けました。時には寝てしまい夜八時ごろに目が覚めて星を見るようなこともあり、『此処の太陽は毒ですよ』と言われるまでやけどの様な日光浴をしていた時期がありました

 

出向で初めて台湾に来た当時はまさか島流しにあったような長い時間を過ごすことになるとは思いもせずに、まずは順調な滑り出しでした。行きたくてもこれなかった人たちや、興味津々でどういうところかを知りたくてうずうずしている友人や知人は取引先を含めてたくさんいましたので、着任時期には毎日目にした物珍しいことどもを『高雄通信』の名称で随分とたくさん、会社の月刊社内報に混ぜて送りました。 当時はネット通信などはなく、郵送で、しかも私の『高雄通信』は自分でワープロを打ってA4に詰め込んで約45枚を送り続けました。送り先は社内の後輩や付合いのあった部署、国内で転勤した営業所と管轄区域の仲の良かった取引先(販売先も外注先も)などですが 編集能力のない文字でびっしり詰まったものを受け取ってうんざりしている様子を想像しながら送り続けました。書かれていることには興味を持っていただいたことは折に触れ話に出てきますのでそれなりに楽しみにしていただけていたようです。 しかしこれを始めてから、会社の郵送料が急に上がったという話も聞きましたが、さぞ迷惑をかけたろうなと思います。

 

送った先のなかにはそれをもとに日本にはない施工方法を確認しに わざわざ台湾に来られてひとしきり市場調査をされていた設計事務所もありましたので、それなりの情報発信はしていたのだろうと思います。

 

 着任して間もなく、社員や関係取引先を連れて、阪神大震災の現場検証に国外出張をしました。生々しい震災の傷跡や本社内での研修会を経て、私がなぜ、何を台湾に持ってこようとしているのかも台湾側の社員たちにも伝えることができました。壊れた家屋や二階が道路の真ん中に落ちている状況やがれきの山を見てどういうことが起きているかを知った社員たちには得難い経験をさせたと思いました。これは今後の客先に対する説得力と扱い製品に対する自信に付与することでした。当時は私たちの扱う金属製建築材はどういうものなのかを理解したと思います。

 

 私が来てから業務上の必要を超えて当時は様々な方々との出会いがあり急激にこの土地のことを知ることができたのはお付合いして頂いた方々のお蔭と思っています。日本ではこういう風に業務外での対人関係を胡散臭がる時代でしたから、お付き合い頂いた方々の人品がとても幸いしたと思います。

 

友人のNO.1

 

 社内はともかく、会社外の最初の友人は背の高いまるで原住民一族のような印象を持った張さんという方でした。出勤してほどなく、いきなり彼の友人とのドライブに誘われました。三人でまず東港の第二市場というところに行き、お魚を買いました。 通路にはね出るほど活きのいいお魚たちから選び、ドライブして山のふもとにある彼の別荘でJeepに乗り換えて家の裏の道からいきなり山道に入りました。 1時間ほど登って、道の傍にある畑で芋の葉やカボチャの芽をちぎりとり、車に用意していた大きな中華鍋で買ったばかりのお魚を揚げて,採ったばかりの緑のものも同じ鍋で炒めました。??こんなにおいしいお昼を「ご飯なしで」しかも山の中で。なんという幸せなひと時だったでしょうか。話しながら畑の持ち主かと聞くと本人は「持ち主は知らない」といいます。びっくりしました。鳥の声だけしていた明るい空の下でどこのどなたのかもしれないかぼちゃの芽を炒めて食べたのは初めてでした。そこで気軽に自然の中に入れることを学びました。山の中を車で巡り、右手の山はここから先は頂上(にレーダーがあるので)立ち入り禁止という看板を見たところは太平洋側に抜ける分水嶺でした。戻る途中の道すがらには山の人(原住民のことをこう呼んでいました)の「石を重ねた住まい」を見せてもらったりして下山しましたが、この張さんにはミニ胡蝶蘭の栽培家を紹介してもらったり、大きなお寺の紹介やゴルフ、音楽家の紹介等を受けて、彼自身はすこぶる文化的な人物でした。

当時彼の会社は有名な塗料会社で社名と同じく夢はバラ色の虹です。 折があれば彼から学んだことなどを皆様方にお話しをたいと思います。

 

こういう方々を友人に持つ社員がいると、人のつながりが実に有効に働いて会社業務にも広がりがでてくることを学びました。  

 日本国内転勤中は『郷に入れば郷に従え』のことわざ通り過ごしてきた自分は 台湾に来ても同じ作法で過ごしてゆきます。

 

(乱文ご容赦願います。)

 

 

 


台湾へ留学の思い出(高橋美代子)

 

             台湾へ留学の思い出

 

                        仙台市 高橋美代子

  

私は今から20年前にベストフレンドと共に台湾留学した。ベストフレンドとはわが夫である。49歳の時に脳梗塞で、定年直前に脳内出血と二度倒れた夫は、当時歩行困難の為に車いすの生活だった。私たちは日中友好の為に少しでもお役に立てばと、中国語を学び、中国への関心を深めてきた。言葉を覚えるには、中国に住んで勉強するのが、一番の近道ではないかと考え、色々と調べた末、三年間台湾に留学することにした。車いすの夫を連れて海外での生活には多少不安もあったけれど、何とかなるだろうと鞄一つの出発となった。

 

留学なんて言うと聞こえはいいけれど、早い話何処にでもある語学教室へ二人して通っていたのだ。学校の近くの小さなマンションの一室を借りて、毎朝きちんと学校へ週五日、午前中二時間北京語を学ぶ、帰りはあっちこっち歩き回り台湾の食文化を楽しんだ。朝晩近くの公園で太極拳や新体操をやっているので、私も毎日参加し、一時間汗を流し、近所の奥さんとだいぶ仲良しになった。

 

  台湾は中国の一地域だと日本も世界も認識しているようだけども、台湾の人々の気持ちはまるで違うような気持がする。台湾の人たちは中国に対して相当距離を置いていると思う。教育レベルも高いし、経済も発展している。また」民主化も進んでいる。「独立」と言う言葉が常に底辺を流れているような気がする。「私は台湾語と日本語以外は絶対に話さない」と中国に対する敵意をむき出しにした老人もいた。かと思うと、私の塾の先生のように「私の父は大陸生まれ、母は台湾人。どうすればいいの」と悲しそうに話されていた人もいたのだ。

  

忘れられないもう一つ大きな驚きがあった。台湾の中に日本人がいたのだ。彼らは生まれた時から日本人として育てられ日本の教育を受けている。台湾で国語と言われている北京語はよくしゃべれないけれど、日本語は自由自在だ。日本人でも忘れかけている、童謡や数え唄などよく知っている。元気なうちに日本へ行きたいと涙ぐむ。日本は50年もの長い間、台湾を統治していたのだから仕方がないのかもしれない。台湾の人々の複雑な思いを、あまりにも知らなさすぎた気がしてならない。

  

車いすを押して歩き回っていたせいか、数え切れないほどの親切を受けた。さりげなく積極的なあの優しさは、どこからくるのだろう。特に若者の親切が多かった。

 

 台湾大地震にも大水害にも遭った。総統選挙では台湾中が熱く燃えた。私たちにとってかけがえのない三年間であった。

 本当に勇気を出して、行動を起こしてよかったと思う。

 今から五年前にベストフレンドは他界してしまったが、長い結婚生活の中でも二人にとってひときわ鮮やかな思い出をきざむことが出来たのだった。南の空を見ながらふと遠く過ぎ去った台湾での生活を思い出したりする昨今である。

 


お爺ちゃんとの思い出(舘量子)

 

             爺ちゃんとの想い出

 

 

                    高雄市 舘量子

 

〈屏東の爺ちゃん〉

 

爺ちゃんの名前は郭徳発。血は繋がっていないけれど、私の爺ちゃんだ。爺ちゃんとは不思議なご縁で、アメリカに住む爺ちゃんの孫娘さんと私は同い年で、なんと誕生日まで一緒だ。大正15年生まれで、19歳まで日本人だった爺ちゃん。私たちの会話はもちろん全部日本語で、爺ちゃんの日本語は完璧だったけれど、爺ちゃんの話す日本語の語尾には台湾語の鼻音「ホッ」が多く入り、私はその優しい響きがとても好きだった。

 

 

日本語教師として働いていた私は、月曜日から  

土曜日まで授業をして、日曜日に爺ちゃんに

会いに行くのが何よりの楽しみだった。ある日、

仕事の疲れからか、爺ちゃんと話しているうちに

ソファーで寝てしまったことがあった。

気がつくと爺ちゃんが毛布をかけてくれていた。

本当の家族みたいで、優しい爺ちゃんが大好き

だった。爺ちゃんと過ごす時間は楽しくて、、

とても幸せだった。              

 

20歳からの夢〉

 

私の夢は台湾のお爺さんに会うことだった。「台湾のお年寄りは日本統治時代を懐かしく思っている。その中には戦争を経験し、かつて自分が日本兵だったことを誇りに思っているお爺さんがいる。」ということを知り、どうしても会って話を聞きたくなった。絶対に叶えたい、譲れない夢となった。

 

 

大学卒業後はすぐにでも行きたかった台湾への気持ちを抑え、戦争の話を聞くからには自分も軍隊生活を経験しようと思い、自衛隊に入隊した。そうすればお爺さんたちの気持ちに近づけると思った。2年間の自衛隊生活を無事に終え、台湾に来た私は屏東の爺ちゃんと出会った。ずっとずっと会いたかったから、爺ちゃんに会えた時は本当に夢のようだったけれど、爺ちゃんは「量ちゃんは変わっとる〜。」と言って笑った。そのあとにいつも決まって「変わっとる、から、可愛い。」と付け加えてくれた。 私の夢が実現した。それも孫娘にしてくれるという、これ以上ない形で。

 

 

〈戦争と愛国の情熱〉

 

10代の頃の私は、何となく戦争の話題はしてはいけない、戦争は悪なんだよなと思っていたから、血のつながった祖父も戦争を経験しているのに、自分の祖父に戦争の話なんて聞かなかったし、どう聞いていいかもわからなかった。 

 

私は台湾に来てから、戦争に対する考え方が全く変わった。あの戦争を戦った、台湾人日本兵を含む、かつての日本人の胸に宿った愛国殉国の情熱。それが決して間違ったものではなかったこと、それに最大の自信を持っていいことを、台湾で爺ちゃんと過ごした時間が教えてくれた。

 

 

爺ちゃんは日本兵だったことをとても誇りに思うと同時に、世の中の平和を心から祈っていた。爺ちゃんとはよく「同期の桜」を一緒に歌ったりした。「同胞だから」と言って、時代の波に流され、世から忘れ去られていく戦没者に対する慰霊を、爺ちゃんは決して忘れなかった。国のため、人のために捧げた命に対し手を合わせる爺ちゃんの姿に、 何よりも大切なことを教わった。

 

それに屏東の爺ちゃんのおかげで、戦争に行った私の祖父もきっと同じ想いを抱いて生きていたのかなと思うと、 祖父との距離が近くなった気がして嬉しくなった。 

 

 

〈最後の約束〉

 

爺ちゃんと過ごせた時間はたった3年だったけれど、 爺ちゃんの人生最後の時間を一緒に過ごせたことに、感謝の気持ちでいっぱいだ。本当はもっと長く一緒にいたかったし、爺ちゃんも「まだまだ話したいことが沢山ある。」と言って亡くなった。だから私は今でも、心の中で爺ちゃんに毎日のように話しかけている。それに今も空から見守ってくれていると思うと元気になれるし、何でも頑張れる。亡くなって8年が経つ今でも、爺ちゃんは私の大きな心の支えになってくれている 。

 

          

 

亡くなる数日前「爺ちゃんの愛した台湾を、今度は私が守るからね。」と言うと、もう話すことができなくなっていた爺ちゃんは何度も必死に頷いて見せた。これが爺ちゃんとの最後の約束になった。日本を守ってくれ、日本の心をも守ってくれ、大切なことを私に教えてくれた爺ちゃん。爺ちゃんだけでなく、命をかけ日本を守ってくれた台湾人日本兵のお爺さんたちがたくさんいた。今度は私が台湾を守る番だ。

 

 

最後に、爺ちゃんのことを話すチャンスを与えてくださった喜早さんに心より感謝申し上げます。

 

 

 

 


台湾の世相の変化(陳秋蘭)

                   台湾の世相の変化

 

                                         台中市 陳秋蘭

  

三十年前は、三十代の人は五、六十台に見える人が多い

 

三十年後は、六十代の人は三十台に見える人が多い

 

 

三十年前は、人々はいかに「太れる」かを考えていた。

 

三十年後は、人々はいかに「やせる」かを考えている。

 

 

三十年前は、貧乏な人は野菜とさつまいもを食べる

 

三十年後は、金持ちの人が野菜とさつまいもを食べる。

 

 

三十年前は、一人の働きで数人の家族が養える

 

三十年後は、夫婦共稼ぎでも一人の子供を養うのが難しい

 

 

 

三十年前は、大学入試に受かるのが非常に難しい。

 

三十年後は、大学入試に受からないのが非常に難しい。

 

 

 

三十年前は、家に老人がいることは宝があるがごとし。

 

三十年後は、家に老人がいるとみんな逃げたり避けたりする。

 

 

 

 

 

 

 


台湾の鐡道に魅せられて (戸井智博)

 

          台湾の鐡道に魅せられて

 

           東京都 戸井智博

 

〔1〕環島挑戦の思い

 

20129月、私は当時勤務していた会社の拠点長として台湾・台中市に赴任した。単身赴任であったため、休日の昼は仲間とゴルフ、夜はカラオケというお決まりの過ごし方をしていた。しかしあるとき、台湾の方々が一生のうちにやっておきたいことの中に『台湾を一周する=環島』があるということを何かで読み知った。その時から私は『環島』という言葉に興味を持った。

 

当時知り合った巨大機械工業(GIANT)さんからも、自転車での台湾一周についてお話を伺った。『環島』とはなんと魅力的な響きなんだろう、私もいつかはやってみたい、と改めて強く感じた。しかしながら、社会人になり、飲酒・不規則な生活および運動不足の3大悪癖により、30年かけてじっくりと熟成したこの身体では自転車による台湾一周は夢のまた夢であった。

 

諦めかけた時に、日本在住の台湾大好き友人から『今度台湾の鉄道で一日で台湾一周に挑戦しに行くけど、一緒にどう?』というお誘いがあった。なるほど、一周するならどんな手段でもいいな、ということで即OKの回答を出した。このとき、私の『環島』挑戦は、鐡道を使っての達成に目標を変えたのであった。

 

〔2〕環島達成

 

日本の友人との『環島』は20149月に計画されたが、まさに実施予定日に台風が台湾に上陸し、台湾の鉄道は全面的に運休になってしまい私の環島達成はお預けになった。その友人に計画立案すべてを任せていたので、リベンジの実現はいつのことやらと考えていたが、思いのほかその実現は早くやって来た。台湾人の友人が大いに興味を示してくれたので、早速私が計画を立てることになったのである。

 

その記念すべき日は2014112日。スケジュールは『朝630台中から台湾高速鉄道(高鐵)で台北へ。台北から800発の自強號(特急)で花蓮に。花蓮で莒光號(急行)に乗り換えて台東に。途中有名な池上便當を池上車站の月台(プラットフォーム)で購入し車中で頂く。台東から新左營まで再び自強號に乗り、仕上げは新左營から高鐵を利用し台中に19時半過ぎにたどり着く。』完璧であった。めでたく環島を一日で成し遂げたのである。台湾東海岸の車窓(田園風景、青い海原)はとても素敵であった。今でもくっきりと目に焼き付いてる。

 

〔3〕全線完乗への道

 

  環島は達成できた。台湾の鉄道の旅の面白さを知ることができたが、その一方で、駆け足の旅はやや味気なくも感じた。今回の環島達成ではまだ乗っていない線があり、すっきりしない気持ちを強く感じた。ここから私の怒涛の台湾鐡道乗り潰し(完全乗車=完乗という)が始まったのである。以下にお示しするのが、台湾での主な乗車及び鉄道関連施設訪問記録である。

 

 ○集集線(2013/12/2)実は先行して既に乗っていた。終点の車埕は散策に良い静かな街だった。

 

 ○環島達成(2014/11/2)上述の通り。

 

 ○彰化扇形操車場と福井食堂訪問(2014/11/22)彰化車站にある機関車トーマスたちの家そのものの操 車場。見学者のための展望台の設置も心憎い気配り。彰化から南下し社頭車站にある福井食堂も訪問。1階 が食堂で2階以上に店主の陳さん自慢の鉄道コレクションが展示されている。

 

 ○内灣線・六家線(2014/12/20)終点の内灣車站は遊技場や客家小吃のお店がいっぱい。

 

 ○沙崙線(2015/1/10)保安車站見学の際に足を延ばして完乗。沙崙車站は高鐵台南車站に隣接している。

 

平溪線(2015/1/11)会社の後輩が台湾旅行に来た際にアテンドで。十份での軒先をかすめて走る列車の迫力は必見。線路上で願い事を書いた提灯を飛ばすが、走ってくる列車にご注意を。

 

 ○西部幹線/縦貫線(2015/2/7)竹南から彰化までを區間車を乗り継ぎながら、大正から昭和初期にかけて建造された古い駅舎を巡った。途中下車して駅舎をじっくり見学したのは談文・大山・新埔・日南である。

 

いずれも県指定の歴史建築に指定されたり、台湾の鉄っちゃんに任意のある木造駅舎である。

 

 ○成追線(2015/2/7)追分・成功間の約2㎞の区間で、いつでも乗れると思いながら乗る機会がなかった区間。この区間の切符は受験生に大人気である(分=点数を、追=得て、成功に導く)。

 

 ○台鐵完乗(2015/3/22)乗り残していた蘇澳蘇澳新、基隆八堵及び瑞芳海技館を、会社の同僚・その 太太と一緒に乗車。これでめでたく完全乗車達成!その夜は台中のビール工場に隣接している食堂で祝杯。

 

舊線(および龍騰断橋)(2015/3/8)旧山線の駅を巡り、地震で壊れたまま保存されている石造りの 鉄道橋である龍騰断橋を見学。山奥深くまで鉄道を敷設した先達の努力・執念に敬服。

 

〔4〕台湾鐡道の魅力

 

  私はいわゆる鉄っちゃん=鉄道マニアではない。でもひょっとするとどこか根っこのところではその気(け)があるのかもしれない。思い起こせば高校生のとき、種村直樹氏(故人、日本で著名な鉄道ライター)のもとに出入りしていた鉄道マニアの友人に一日で国鉄(当時)の路線を何区間乗車できるかという雑誌の企画のアルバイトに誘われたことがある。(これはのちに発行される青春18きっぷ誕生前の宣伝企画でもあった)その時の楽しさがどこかに残り、その後も移動は車やバスではなく列車を優先して選択していた。

 

また、台湾の鐡道が持つ多くの人を惹きつける要素が、私を完全乗車に向けて突き動かしたのだろう。その存在が身近であること運賃がとても安いこと車両(特に青い區間車、オレンジと黄色の気動車)が幼少の頃を思い出させる懐かしい佇まいであること地元の人との温かいふれあいができること新型特別急行の車両も清潔でかっこいいこと時刻表とにらめっこして計画を立てていく楽しみがあること知らない街を訪ねて歩くワクワク感があることしかもノスタルジーあふれる街が多いことなどが主な要因である。

 

〔5〕部下からの贈り物

 

  台鐵と高鐵は今まで述べたように、すべての路線を乗ることができた。あとは阿里山鐡道を残すのみとなっていた。阿里山鐡道のふもとの始発駅があるのは嘉義である。私は嘉義の街が大好きで数回訪問したが、阿里山鐡道には乗る機会がなかった。そのうち乗れるだろうと思っていた矢先に、本社から日本への帰国命令が下った。阿里山鐡道は憧れのまま残しいずれまた、と諦め帰国する予定であった。

 

  帰国までひと月を切ったある日、部下たちから旅行のお誘いを受けた。しかもそれはなんと阿里山鐡道に乗る企画をしてくれたのである。2015321日、部下たちの家族も同伴で、観光バスを仕立ててくれ、バスで奮起湖車站に。そこで有名な奮起湖便當をみんなで食べ、その後バスで阿里山車站へ。そこから神木車站まで一駅区間だけだったが阿里山鐡道に乗車できた。みんな知っていたんだ!心に残る温かい贈り物を皆からもらえた私はとても幸せ者である。

 

〔6〕まだ続く完全乗車への挑戦

 

  20154月に日本に帰国した。台湾の鐡道・駅舎などのお蔭で台湾での生活が豊かになったのは間違いない。帰国してから撮り貯めした写真の整理や文章化を行っている。そんな折、高鐵と台湾鐡道の路線の延長のニュースが届いた。高鐵については、台北車站から北に延長され南港車站が始発駅となった。一方、台湾鐡道は、海科館から路線が延び、八斗子車站ができた。これらの区間を乗らない限り、高鐵及び台鐵の完全乗車はこと切れてしまうもうこうなったら意地である。高鐵の南港台北の区間は201610月の里帰りで乗車。また海科館八斗子の区間は昨年201810月に里帰りした際に乗車し完全乗車は保っている状態である。

 

今後も路線の延長は行われるだろうが、情報を小まめに取りながら、それに対応していきたい。そして早い段階で、阿里山鐡道全区間および現存しているサトウキビ列車の完全乗車へ挑戦したいという気持ちが、ますます募ってきている今日この頃である。

 

 

 

 

 

 

 


私と台湾(飛石秀樹)

 

                   私と台湾

 

               台中市 飛石英樹

 

私は台中市在住の男です。出身は長崎で、妻は台湾人です。妻とは東京で出会いました。私が台湾と関係ないというと嘘になりますが、台湾に移住して半年も満たない私が台湾とはと語るのはおかましさがあります。しかし、折角ご縁を頂きましたので私なりの台湾に対する想いを拙文ではございますが、書かせて頂きたいと思います。

 

始めに私から読んでくださっているみなさんにお聞きしたいのですが、"台湾"にどういう印象をお持ちですか?親日国、美食、夜市、暑い(熱い)、野球、自転車(バイク)挙げればキリがありませんが、概ねこんなところではないでしょうか。私は東日本大震災直後、台湾からの多額の義援金寄付が忘れられません。そのことで親日家が多い印象が強くありました。一方で私は妻と出会うまで台湾人(女性)のことは苦手でありました。それは10年くらい前に旅行先で知り合った台湾人のコンパニオンに遊ばれた苦い経験もあり(恋愛、社会経験が浅かったと自虐的)台湾人は信用できない、台湾人も中国人も同じという印象さえ少なからずあったのです。なんとまあ無知からくる身勝手な解釈だけで生きてきたか。妻や妻の家族と出会うまでの自分がいかに未熟だったか情けなさを感じてしまう次第です。その前にまさか私が台湾人と結婚するとは考えてもみませんでした。

 

 

私が初めて台湾を訪れたのは今から5年前になります。私の初来台いうこともあり、妻の家族が総出で歓迎してくれました。妻の両親、祖母、親戚のおじさん、おばさん、その知人わざわざ私の為に集まって頂き日本料理店で食事をしたことは忘れられません。台湾人のおもてなしと心遣いに驚きと感動を体感した瞬間でした。また、ここで驚いたのは食事の量の多さも然る事乍ら食べ切れなかった料理を袋に入れて持ち帰ることでした。日本では「勿体ない」とよく口にしますが、"勿体ない"の前に "はしたない" "みっともない"という美的感覚が優先してしまいます。私にとってそれは初めての経験でもあったので驚いたことを覚えています。

 

 

妻の話をしたいと思います。私は台湾人の女性は妻しか知りません。なので妻が私の中の台湾人女性像であります。妻は日本が好きで日本に語学留学の経験があります。私より年下ですが、出会ってすぐ隔たりなく話してくる彼女を気の強い女性だなというのが第一印象でした。それまで日本でしか生活したことがない私からして異国の地で生活する人間に尊敬の念と魅力を抱くことは自然な事でした。台湾の諺で「惹熊惹虎,毋通惹著刺某」という諺があります。虎を怒らせるより気の強い女性を怒らせる方が恐いという意味です。妻を怒らせると恐いのは言うまでもなく、台湾にこんな諺があるということは「台湾人女性は気が強い」という見解は強ち間違いではないようです。

 

 

まだ私の台湾生活は短いですが、至る所で台湾人の素顔が見えてきました。現在、201811月から台中フローラ世界博覧会が開催されています。私も昨年12月に行ってきました。ここで感嘆したのは花の美しさよりも、壮大で精巧なユーモア溢れる台湾人アーティストの工芸品の数々でした。木材や竹材で造られた作品には自然の暖かさを感じ、昔懐かしあの頃を思い出させてくれるような空間がありました。ここに台湾人の手間暇かけて造るモノ作りへの拘りと情熱を感じられます。また、クリエイティブな演出で近代的な空間にも浸れます。昔懐かしい空間の中に近代的な要素がありふれ、新旧のテイストが混在しています。まさに時を超えて造り出されたエンターテイメントの世界がそこにはありました。こういった感覚は台湾のあちらこちらで抱くことがあります。観光スポット、市集、建物にも台湾人の遊び心とモノ作りへの拘りを感じずにはいられません。台中駅も201610月に高架化し新駅舎として新しく生まれ変わりましたが、赤レンガの旧駅舎はそのまま付帯施設として存在しています。旧駅舎の存在感は新駅舎に勝るとも劣らず、私も含め外国人の友達も旧駅舎の方に魅力を感じてしまい無意識にシャッター数も増えてしまいました。私もお気に入りの場所である「彩虹眷村」は元々は国民党軍の集合住宅域であり、時代と共に老朽化を防げず取り壊し寸前状態だったと聞いています。しかし、黄永阜さんのエネルギッシュでカラフルな絵が話題を集め、現在ではインスタ映えする若者に人気のスポットになっています。90歳を越えて描かれた黄さんの絵のセンスといいパワーはどこから湧いてきたのか不思議でなりません。古きものを残し未来へと繋げる台湾人の情熱と、遊び心を忘れない台湾人の感性に触れた気がします。

 

 

最後に私の妻の祖母の話をしたいと思います。義祖母は少し日本語を話せます。日本語教育を受けた世代で、私との日本語での会話に喜びを感じて頂き、日本統治時代の良き思い出を語ってくれます。義祖母は10歳の時に日本人邸宅のお手伝いさんとして働いていました。まず、10歳で働いていたことに驚きますよね。当時の写真を今でも大切に保管しており私に見せてくれ、日本人はとても親切で優しい方だったと語ってくれました。義祖母の日本人との濃い思い出と絆には胸が熱くなりました。

 

 

私は現在台中市の太平區に住んでいます。ある日、知り合いの日本人が北屯區に住んでいるので近くに会いに行くことを義祖母に話しました。義祖母は昔は台中市に住む日本人は北屯區に住んでいる人が多かったといいます。北屯區は字の通り台中市の北側に位置し、盆地である台中市の中では比較的に高い場所にあります。日本人は土地が硬い場所に住居を構え、少しでも地震に備えた工夫をしていたそうです。義祖母は日本人は頭が良いと尊敬してくれています。義祖母のように日本語を話せる世代が減りつつあり、日本統治時代の貴重な生の声が聴けなくなる寂しさがあります。

 

 

日本と台湾は切っても切れない関係にあります。 私と台湾も同じです。私も台湾に対する想いをこの地に残していきたいと思います。

 


台湾物語(中須賀重幸)

 

台湾物語

                      香川県 中数賀 重幸

  

 私は外国という言葉に憧れを持ち続けていました。というのは、父は海軍、弟たちは商船、海上自衛隊で働いたという共通の経験をしていたことがあり、三人が揃えば必ず世界の国の話で盛り上がりました。教員生活2年目に在外教育施設に欠員ができ緊急募集があり、海外教育施設派遣制度があることを知りました。チャンスがあれば海外教育施設派遣に挑戦をしたいという気持ちを持ち続けていましたが、家族のこと、職務の関係から実現することが長く叶いませんでした。

 

  やっと思いが実現でき、2002年3月19日ムッとする熱気の中、台北国際空港のタラップを降り台中日本人学校に赴任して早いもので17年が過ぎようとしています。帰国して思い出されることは、すべて楽しかったことばかりで、辛かったと思ったことは一度もありませんでした。赴任した時は、平成11年に起きた大地震より復興が一段落し、台中校は台湾を始め世界中の方々より善意をいただき、新しく生まれ変わり、素晴らしい校舎が誕生して1年が過ぎた時でした。

 

 校舎には、新築の臭いに充ち満ち、地震を経験した子どもたちは、不便を乗り越えきた自信がみなぎっておりいきいきと活動し、着任式では体育館が割れんばかりの大きな歌声で迎えてくれたことを忘れられません。入学式、運動会、水泳学習、宿泊学習、秋祭り、学習発表会、マラソン大会、餅つき大会、卒業式と多くの行事をしていく中で、子どもたちが日々成長していく姿を見ていました。

 

 私もこの子どもたちと一緒に何ができるのかを考え、文部科学省の方と約束をした「育む」ことを教えていきたいと考えていました。台湾の学校だから台湾らしい植物を育ててみようと考え、育てた後は食べる楽しみも考えました。バナナ、ライチ、パッションフルーツ、ドラゴンフルーツ、アップルマンゴ、シャカトウを植栽しました。バナナは70株も植栽をしましたから、収穫時期になると校庭のあちらこちらに黄色く色づいたバナナがたわわ実り、お弁当の時間に食べてもらいました。校庭には今もこの果物たちは実をたわわにつけ、子どもたちを楽しませてくれていることと思います。台中校の1ページに、自分が勤めることができたことを誇りに思うと共に、台湾の方々の優しさを思い出させてくれる心の故郷(ふるさと)になりました。

 

 その中でも、とても印象に残っているとっても不思議なめぐり合わせがありました。 

 

 話しの始まりは、2002年8月13日(火)台北へ出張することになり急行「呂光号」の切符を買い時間待ちをしました。8時過ぎの列車に乗り込むと、前の席には子どもつれのお母さんがいろいろと世話をしているのですが、下の子どもはじっとしていません。私たちにもちょっかいを出して来るのですが無視をしていました。前の子どもたちは相変わらずゴソゴソしています。(そのうち妻が駅の名前を書き始めると、お姉さんが読んでくれました。私が持っていた指差し中国語の本を覗き込んできました。通じない北京語と指差し中国語の本で、彼女との会話が始まりました。学校、年、どこから、どこへなど、一番肝心な名前を聞くのを忘れました。下の子どもは4歳、彼女は9歳との事でした。 下の子どもがゴソゴソするので、横に座っていた若い女性が注意をしました。中々厳しい言葉だったようで引き下がりました。その女性は、英語の問題集を広げていました。

 

 台北で出張が終わったので、台北発15:00の「自強号」に乗るため月台にいると、ニコッとする女性がいるのです。列車で一緒だった女性なのです。乗車をするとその女性は立っていたので、手招きで呼び、席を交代で使いましょうと言うと頷いて、話が始まったのです。もちろんほとんど通じませんが。私の片言の英語(?)、彼女の片言の日本語、ゼスチャーであっと(言う間に1時間過ぎ。今あったばかりの彼女に18日(日)に家に来てくださいと言われました。どうしたものかと思案をしましたが、私も名刺を渡し、初めて名前を言いました。しかし、彼女の名前は聞いていないという失敗をしました。ただし、家が「美濃客」という食堂をしているとのことでした。彼女は、中壢でもう一人の女性(家庭教師)と一緒に降りて行きました。

 

小説にでも出てきそうな話なので、半信半疑で待っていると16日(金)夜電話があり、18日(日)12時に家に来て欲しいとのことでした。

 

分かっているのは「美濃客」という料理店であるだけでした。台中のことが不十分な私たちですので、笑われそうですが17日家を探しに行くことにしました。自転車でウロウロ迷いながら家を確認することができ一安心したことを憶えています。18日(日)11時15分、家を自転車で出発、少し早く着いたので台中師範大学の横で調整し、いざ「美濃客」へとペダルをこぎました。

 家に行くと3人のお客さんが店先でお茶を飲んでいました。すると家の中から、見覚えのある彼女が笑顔で迎えてくれました。そばにお年を召した方がおい出て、名刺をいただくと「医学博士 陳」とあり、彼女の日本語の家庭教師をしている方でした。陳さんは、東京の法政二校に入学して、東邦大学医学部を卒業して、30歳のとき彰化縣に帰り、兄と一緒に総合病院をしていたそうです。今は退職をして、ボランテイアで日本語を3箇所で教え、毎週、台中に来ているそうです。本人は、「認めの親」と言いますが少し意味が分かりませんでした。そのとき、初めて彼女の名前を耳にしました。「イーテ」と聞こえましたが、まだはっきりしません。

 

それから、食事をいただくことになりました。魚、野菜の炒め物、鶏肉、板條(台南のうどん)臭豆腐、豚の角煮、塩卵と苦瓜の炒め物、など盛りだくさん。失礼な言い方ですみませんが、どれも台湾味のしない食べ易い物でした。

 

 食事をしながらやっと彼女の名前が分かりました。「謝 依庭」という女性で、9月に中学3年生になる予定です。もう一人の彼女は、家庭教師の「葉(イェ)さん」だったのでした。中壢大学の学生で、速読を教えているようです。

 台中の名物、太陽餅を食べたことがあるかということでしたので、あると言うと、台中で最初に太陽餅を作ったところの物をあげましょうと、お母さんと依庭がバイクで買いに行ってくれました。それと豆干というものも買ってきてくれました。

 

 お父さんがお茶はどのようなものを飲んでいるのか、と尋ねられたのでウーロン茶を飲んでいると答えると、テーバッグかと尋ねられるとハイと答えるとそれは美味しくない。ここで飲んでいるお茶は、1斤2500元します。1年間で200斤ほど飲みます。それは友達、お客などに接待するためのものです。そのためお父さんは腱鞘炎になり、2度手術をしたそうです。中国式のお茶を入れていると急須の蓋をしっかり抑えていなければいけないので、腱鞘炎になったそうです。今は、日本式の急須を使っていますが、日本の物はとても高いそうです。

 

話しが進んでいくうちに、遠慮なく家に来てくださいと何度となく言葉をいただきました。日本に是非依庭が来るようにしてください。もし学校に行くのなら私たちが面倒を見ますと妻が言いました。この言葉が出るぐらいとても気持ちのいい家族でした。親御さんが、何かのご縁があったのでしょうと言ってくれたことに、また感心しました。

 

 長居をしたので、お暇をすることにしたのは2時少し回ったころでした。妻が帰るとき一声、「お父さんに素敵な急須をプレゼントさせていただきます。」と発言。今日のことを一言で言い表していました。後日、急須を日本より送ってもらいお父さんにプレゼントをさせていただきました。

 

 

 とても良い台湾の方に出会えたことが嬉しかった。依庭に感謝するとともに、列車の中の子どもにも感謝をします。真実は小説より奇なりと言う言葉がありますが、本当にその通りのことを経験できたと思います。

 

 語れば言い尽くせないほどの思い出をいただいた台湾、そこでの出会いが縁となり、2018年9月には教え子の結婚式に参列をすることができました。台湾は、私にとって人生を如何に豊かにしていただいたかと言うことである。感謝。


台湾と中国のはざまで揺れた心(中山孔明)

 

           台湾と中国のはざまで揺れた心

 

                   大津市 中山 孔明            

 

私と台湾とのお付き合いは戒厳令下の1980年代初めから始まりました。 私が決定的に台湾を好きになったのはある台湾人を好きになったと云うのが、その出発点の様に思います。

 

友人の一人で台湾人のH先生とは彼が赴任してきたO赤十字病院で知り合いました。多くの台湾人がそうであるように大の親日家でした。 お子さんの教育には随分気にされていたのでしょう?長女の小学校進学に合わせて台北に帰られた後も事あるごとに台湾に来られた時には連絡をくださいと言われていました。甥が京都の大学に入学した際の入学祝に異文化を体験させるという目的で台湾一周をプレゼントしました。最終日に故宮博物院の公衆電話からH先生に電話したのですが、生憎電話に出られたのは彼の父親でした。息子は嫁の里高雄に行っていませんがと云うお父様に、別段用もないのですが、たまたま台湾に来ましたので、いらっしゃればと思い電話しただけです。お帰りになられましたら電話があった事をお伝えくださいという事で電話を終了しました。

 

それから2年後ぐらいにご夫妻に会った時の事です。

  

奥様から以前訪台の際お電話いただきましたね?あの後義父はすぐに高雄に電話を入れ主人を電口に呼び出し、開口一番お前は人間じゃない、何故中山さんが来られるのに家を空けていたのだ!お前にそんな教育をした覚えはないと叱られたと聞きました。

私は彼に旅行の話は一切していませんので、これはある意味無茶苦茶ですが、私はこれに痛く感激し、彼の父親のフアンになりました。

 又、耳鼻科医の御両親が観光で台北を訪問した際彼の父親が物凄く世話をしたようです。しかし、帰国後礼状も来ないとボヤいていた話も聞きました。

 

要するにこのお父様は人間としてどうあるべきかという事に厳しい方で、これはとりもなおさず戦前の日本人の多くが持っていたもので、後日御本人からもそういった事は日本人から学んだことですと聞きました。

  

変わって中国との縁ですが、19852度目の中国旅行をした際上海蘇州間の列車の中で中国医大のL校長と出会いました。 娘さんが上海音楽院でヴァイオリンを学んでおられ、大いに話が弾みました。 そういう事がきっかけとなり1987年から中国医大の客員教授としてその関係は2014年まで続きました。

   

L校長(満州医大OB現在91歳)から感じたことはやはり戦前の満州支配を是々非々で考え、日本人の良い所を中国人もどしどし学ぶべしと云った態度で、気温の差は大きくとも南国台湾のH先生の父親(長崎大学医学部OB)と変わらないものでした。  

天安門事件や尖閣島問題のみならず、日々の暮らしの中で、中国では不愉快なことが沢山起こります。

 例えば手紙の検閲、電話の盗聴は日常茶飯事で、外国人の雇用契約の更新の際には私は政府の方針に批判的な事は言いませんという誓約書にサインさせられ常に国家が個人を監視し、全体として利用価値がある間は野放しでも価値がなくなるとたちまち何かあるとそういった過去を理由に拘束留置などもよく起こります。  

世界には庶民はいい人が多くとも、国家としては問題がある国もあるという事実です。

  

昔、清朝の最後の皇帝は溥儀だが、その後を毛沢東皇帝がつぎ今は鄧小平皇帝だという話を田舎の老人から何度も聞きました。

 絶対的な権力は必ず腐敗するという事は歴史の事実ですが、そういった国を離れて、政治面では極めて普通の親日的な台湾と再び強い縁が出来たことは嬉しい限りです。

 加えて私の様な高齢者にとって暖かい国と云うのは何よりも有難い事なのです。

 

 


台湾と祖父母と私(永峯美津保)

 

「台湾と祖父母と私」

  

                           神奈川県 永峯美津保

  

私の祖父母の故郷は、海を越えた台湾です。今は外国です。母方の両親は台湾で育ち、結婚し子どもも出来て家族をつくりました。私達には計り知れない祖父母の思い出が、そこには沢山あります。

  そんな祖父母は、戦後一度も故郷である台湾には、戻っていません。引き揚げ後、祖父母達は、馴染みも全くない双方の両親の故郷である、鹿児島県指宿に足を踏み入れました。周囲から引き揚げ者として、白い目で見られたり、自分の祖母にでさえ冷たくあしらわれたりされた様です。当時は、辛いとか、悲しいとかの感情を圧し殺して必死に生きていたのだと思います。

 

 私の祖父は新竹で育ちました。祖父の家は40頭以上の牛を飼い、「新竹牧場」という牛乳屋さんとして営んでいました。また台湾人の人や、曾祖父の弟達と一緒に働いていました。祖父は、長男だったので教師の夢を捨て、獣医師になりました。戦後もずっと獣医師でした。倒れて働けなくなるまで36524時間ずっと働きぱなしでした。その為、依頼があれば、寝ていても、体調が悪くても、子どもの行事があっても直ぐに駆けつけていた様です。祖父は、私には台湾での思い出をそれなりに話しては、くれました。しかし、自分の子ども達には話したがらなかった様です。敗戦後、全ての財産を没収され情けない姿で日本に戻らなければならない、男としての悔しさがあったからだと思います。母曰く、祖父は台湾に対して帰りたい気持ちと、帰って現実を突きつけられたくはないという思いがあったのではないか?と言ってました。けれど孫の私には、友だちとの思い出や、台湾で好きだった食べ物、どんな事をして遊んだのか?を話してくれました。今思えば、どうして祖父が私に話してくれたかと考えてみると、祖父と孫の関係だったからかと思います。

 

 祖母は、純粋に台湾に帰りたいという思いが強かったかと思います。しかし、自営業の夫を支えたり、何かにつけて忙しかったのと、なんだかんだで台湾には一度も戻れませんでした。祖母は、彰化で生まれ魚池で9歳位まで居た後、終戦時までほぼ台中に居ました。そんな祖母の家は、父が小学校教師でした。祖母は、6人兄弟の2番目でかなりのじゃじゃ馬だった様です。祖母は、父親っ子だったので、よく曾祖父の話をしてくれて会ったこともないのに、身近な存在に感じていました。台中公園で曾祖父と二人でボートに乗ったり、曾祖父と二人で喫茶店でクリームソーダを飲んだりしたこと。通信簿を曾祖父に見せる時は、キセルで叩かれる前に即逃げた事などを話してくれました。また、曾祖父が校長をしていた学校に姉と通っていた為、家で姉妹喧嘩をすると、全校朝礼で暴露され恥ずかしかった事など、沢山沢山話してくれました。

  

 私が、最初に台湾に興味を持ったきっかけは、小さい頃に祖父が往診の帰りにビーフンを買ってきてくれて、祖母が作ってくれた時「これが、じいさんとばあさんの故郷の味だよ」と祖父が言った言葉です。それから、毎年祖父母に台湾での思い出をねだるようになりました。私は、社会人1年目の時初めて台湾に行きました。祖父は、既に他界していましたが鹿児島にいる祖母に台湾のお土産を送ると、大変喜んでくれました。私は、祖母に喜んでもらいたくて、毎年台湾に行くようになりました。

 

 ある日、ネットを通して喜早さんの存在を知り、知り合いになる事が出来ました。

また、喜早さんのお陰で素晴らしい台湾人のご家族に出会い、毎年行く度に泊まらせて頂いたり、そのご家族のご子息様や、愛娘様、お孫さんとの交流もさせてもらっています。以前は、祖母の母校の校長先生とも交流させてもらっていましたが、他界されました。戦前は私の先祖がお世話になり、戦後は、私が台湾の方々にお世話になっております。私にとって台湾は、すでに故郷になりつつあります。

 

 

 


環島(西川洋美) 

 

             環   島

 

          

 

                            台中市 西川 洋美        

  

 台湾に来て間もなく、近畿半島を制覇したこともない私が心を惹かれた言葉「環島」。台湾を一周するという意味。

 

 一年目、西側と違って道路は狭いし、高速道路もない。もっと運転に慣れてからにしたらどう?というアドバイスに、それもそうだと断念。

 

  二年目、西側と違って、英語が通じないことが多いよ。もっと中国語が上達してからの方がいいんじゃない?というアドバイスに、それもそうだと二度目の断念。

 

  三年目、台湾での運転にも慣れたし息子も免許を取った。中国語の上達は望めない。もう行くしかないと決断。娘は、北の龍洞と、南の墾丁に計一ヶ月いた経験があり、台中以外のことを話してくれた。私の知らない台湾を見てみたい気持ちは更に強くなった。

 

 一週間に二年分の思いを込めて、「環島」スタート。娘は就職し、旦那と息子との三人の旅となった。家族旅行なので、たくさんの人と出会うわけではないかも知れないが、旅は出あう人で楽しくもなり、残念にもなる。今回の旅でどんな人と関われるのかが楽しみの一つでもあった。

  

 淡水から太魯閣・花蓮・台東・鵝鑾鼻・懇丁・高雄・台南・台中に帰るまで、たくさんの人の優しさに触れることができた。そして、私たちを支えてくれた。

 

 淡水の宿の人は、予約を入れた段階からlineを送ってくれ、写真や簡単な英語を使って一生懸命迷わず来られるように、そして温かいメッセージを送ってくれた。

 

 そして、東海岸の圧倒的な美しさに魅了されながら、台湾を満喫していたころ、駐車場のトークンを機械の間に落とし込むという大失敗が起こる。駐車場には灼熱の太陽が照り付け、自分が止めてしまった出口には列ができ、係員室は無人。もう万事休すと思ったその時、その列から一人の人が現れた。中国語ができないとわかると英語で対応してくれ、私の代わりに電話をかけ遠隔操作でゲートを開けてくれるよう頼んでくれた。お礼を言う私たちに笑顔で「没關係」と言って去って行った。女神様が現れたとしか思えなかった。

 

 ある人は、パラグライダーがしたいという私たちに、場所と時間を調べてくれ、もし迷ったらこれを見せろとメモを書いてくれた。

 

 パイナップルケーキを買うなら、ぜったいこの店がいいと携帯電話を片手に教えてくれた人もいた。レストランに入ったら、「うちは終わりだけど。」と言いながら、近所のお店を紹介してくれ、連絡を取ってくれたこともあった。

 

道を教えてくれること一つとっても温かさが感じられた。

 

 無事一周が終わり振り返ってみると、高速道路は無くても道はとてもきれいだったし、中国語が出来なくても困らないよういろんな人が助けてくれた。

 

人のアドバイスを聞いたり、インターネットで情報を仕入れたりというのもとても大切なことだけど、まず行ってみる。そこに立つということはとても価値のあることだと思う。でも、これは台湾だからできたことかもしれない。困ったことがあったら、誰かがきっと助けてくれるという安心感。日本に帰って大丈夫なのだろうかと、ふと不安になる。日本に来た人は、私のように感じているだろうか。感じて、日本を好きになってくれたらいいな。日本人であってもなくても、言葉が通じても通じなくても私が経験した温かさをたくさんの人に感じてほしいと思った。

 

「台湾和台湾人」真的很好!

 

 

 

 

                        私のお気に入りの高美(台中市)の夕日  

 

  

 

 

 

 


私と台湾 (丹羽文生)

 

             台湾と私

 

        東京都 丹羽文生

 

1999年9月21日早朝、倒壊した建物や逃げ惑う人々の様子を映し出すテレビ画面に目を奪われた。4年前に見た阪神・淡路大震災の時の映像と、よく似ていた。

 

南投県集集鎮付近を震源とするマグニチュード7.6の巨大地震が台湾を襲った。台湾史上稀にみる天災地妖である。

衝撃だった。この日は確か、大学のサークルかゼミナールの合宿で神奈川県逗子市の研修施設にいたと記憶している。いても立ってもいられなくなった。

 

発生から10日後、ある種の使命感から筆者は60名の仲間と一緒に災害救援ボランティアの1人として初めて台湾の地に足を踏み入れた。当時、19歳だった。

震源地に近い埔里鎮に向かった筆者たちは、主に仮設住宅の建設、救援物資の仕分け、さらに瓦礫の中に入って、現金、印鑑、パスポートといった貴重品、家具や家電製品の運び出し作業を行った。夜はテントの中で過ごした。余震が続いて眠れない日もあった。

 

そんな中、逆に筆者たちを励ましてくれたのが、先行きの見えない不安を抱える被災者たちだった。差し入れのためベースキャンプにやって来る人は後を絶たなかった。筆者たちのために炊き出しまでしてくれた。文字通り台湾の「親日」に触れたのである。 その際、ベースキャンプ近くに住む日本語の流暢な1人の老人と知り合った。涙を流しながら筆者の手を握り、感謝の言葉を述べ、続いて直立不動で唱歌「ふるさと」、軍歌「海行かば」を唄ってくれた。

 

ある時、その老人が筆者に、こう問うてきた。君は「教育勅語」を知っているか・・・。

 余りに唐突な問いに戸惑ったが、明治生まれの祖父、大正生まれの祖母と同居して育った筆者は、幼少の頃から少なからず教育勅語に触れていた。

 自信たっぷりに「爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ」と、その一節を述べると、老人は大きく頷きながら手を叩いた。

 

その後、この老人とは昼休憩の度に顔を合わせた。元日本軍人らしく、筆者の姿を見ると、まず敬礼する。そして握手を交わし、続いて「日本精神」とは何たるかを熱っぽく語ってくれた。勤勉、正直、親切、礼儀、勇気、規律遵守、滅私奉公・・・。

 サラリーマンの頃は家族のために只管に働き、東京出張の際は必ず靖国神社に詣でたという。戦友が祀られているらしい。

 自宅にも招かれた。家具が転倒したぐらいで、それほど大きな被害はなかったようである。

 書斎には厖大な数の日本語の書物が並んでいた。どれも、たくさんの付箋紙が張られてある。そのうちの1冊を手に取って開いてみると、何本もの傍線が引かれ、空白スペースには走り書きのメモも記されてあった。もちろん日本語である。

 朝起きると太陽に向って手を合わせ、昼間は読書を嗜み、キリスト教系慈善団体のメンバーとしてボランティアに精を出す。老人にとって教育勅語は人生の支柱だという。

 

これが台湾と筆者との出逢いである。当時は、かつて台湾が「日本」だったことぐらいは常識として知っていたが、台湾に関する知見はゼロに近かった。

 以来、筆者は足繁く台湾に通うようになる。この間、台湾に関する書物を読み漁り、台湾研究を「趣味」とし、やがて「哈日族」ならぬ「哈台族」になっていった。

 

台湾に到着した時に感じる何とも言えない親和的空気・・・。日本でないのに、まるで故郷に帰ってきたような気分になれる。

 世界広しと言えど、郷愁を覚える外国というのは台湾以外にないのではないか。日本が失ってしまった物的、精神的遺産が、50年間の歴史を共有した台湾に未だ生き続けているのである。

 

あの巨大地震から今年で20年が経つ。筆者と台湾との交流も20年である。今では「第2の祖国」と呼んでいる。

 筆者が今、准教授として奉職している拓殖大学も「台湾協会学校」を源流としており、そのアイデンティティーの源は台湾にある。何となく運命的なものを感ずる。

 ただし、学問人としての筆者の専攻分野は政治学と日本外交史である。繰り返しになるが、台湾研究は筆者にとって趣味である。

 

大学院在学中に中国語の語学研修と在外研究で中国に長期滞在したことはあるが、台湾に留学したこともない。それでも近頃は趣味の域を超え、台湾をテーマとする講演・執筆依頼を受けるようになり、今年度からは台湾に関する授業も担当している。

 

これまで、多くの台湾の友人にも恵まれ、数え切れないほどの「幸福」を味わってきた。その幾分かの恩返しのつもりで、これからも日台関日台関係の前進に向けて努力を重ねていきたい。

 

 

 

 

 

 


台湾との邂逅(福田真人)

 

         『台湾との邂逅』

 

             大阪府 福田 真人

 

私が『台湾と出会った』のは2002年春の事である。当時、台湾ブーム到来にはまだ早く、テレビや雑誌で特集が組まれるような時代でもない。前年暮れに亡くした父の遺品の中に古ぼけたガイドブックを見つけたのがそもそもの発端である。

 

交通公社()発行の小さな古ぼけたガイドブック。あれこれ情報が溢れる今日の視点で読み返してみれば、内容的には今一つ物足りないというか、お約束のような観光地が文字だけで羅列された様な、ありきたりの内容である。 

 しかしながら生前中に一度も国外の土を踏むこともなく、海外にさしたる興味もなかったように思えた亡父が唯一持っていた海外のガイドブック『台湾』。私は興味を覚え始めていった。 

 遺品と出会うまでの自分自身を振り返ると、それまで台湾と接点が全く無かったといえば嘘になる。

 

たまにテレビで台湾鐡道の車窓が流れたときには『日本の風景と似てるなぁ』と驚きもし、大学には台湾からの留学生がいた関係で『どんな国なの?』と尋ねたりもした。しかし逆に言えばそこまでで、それ以上の興味や関心が膨らむ事もなく時が過ぎていたのである。

 

20029月、初めて台北の地を踏んだ。街中いたるところにバイクが溢れる交通事情に圧倒されながらも龍山寺や行天宮を見た。それだけでなく、ふとした瞬間に飛び込んでくる街の風景を『何だか懐かしく、何だか新しく』感じた。

 

帰国後すぐに半年後の台湾行きを決めた。2度目にして臨んだのは環島旅行である。美味しい花蓮・扁食、喧騒の中で静かに佇む台南・赤崁樓、熱帯で味わう台東・知本温泉に惹かれ、心がはしゃいだ。  しかし、台湾の魅力がそれだけなら一度リピートしただけで別の地に興味を移しただろう。

 

私にとって台湾をより身近なものにし、より心を惹かせたのは『人との出会い』に他ならない。 迷子の私をバイクに乗せて疾走してくれた鹿港の歐巴桑、初対面の私を家に泊めてくれた屏東の高中老師、マンゴー畑と烏山頭水庫を案内してくれた台南歐吉桑、言葉が通じない中で必死に道案内してくれた新竹の年輕小姐。その他たくさんの台湾人との心温まる邂逅が三十数回の訪台につながった。

 

私も50歳間際になった。日々の忙しさに囚われてそうそう気軽に台湾にも行けなくなってきた。 

それでも関西空港から旅立つ際には『ああ、今度も台湾に、みんなに会える』と目頭を熱くし、桃園や高雄の機場から離陸する際には『必ず台湾に戻って来よう』と心に誓う。それだけは今も変わらない。

 

 

 


変わるものと変わらないもの(松尾功子)

 

                                         変わるものと変わらないもの

 

                                                          台中市 松尾 功子 

  

平成の時代が終わろうとしています。

 

平成三十一年。日本では、今上天皇陛下が御譲位され、年号が改められます。次の北回帰線は、新たな年号での発行となります。

 

 「平成」という時代から、次はどのような時代が始まるのか。現在の子どもたちは、平成の時代に学校に入学し、次の新しい年号で卒業を迎えます。年号は変わりますが、学校は変わらない。平成最後の年の北回帰線の巻頭言は、【変わるものと変わらないもの】について、考えてみたいと思います。

 

台中日本人学校は、今年創立四十二年目を迎えています。昭和の時代に開校し、平成となり、地震を乗り越えて、今の台中校の姿があります。

 

子どもたちの数は、大きく変わりました。昭和五十二年の創立時は、小学生六名でした。その後、平成元年の子どもの数は、小学部百十一名、中学部二十九名、合計百四十名。そして、現在は、小学部八十九名、中学部二十六名、合計百十五名。十年ほど前は、二百名に近くなったこともありましたが、ここ数年、少しずつ減少していることは、寂しいことです。台中校の変わるものは、子どもの数です。

 

校舎も、変わるものの一つです。平成十一年の集集大地震で崩壊した太平の校舎から、この秀山里の校舎に移りました。わずか一年の工事で、多くの方々の寄付によって、この美しい校舎が建てられました。

 

学校の規模や校舎の他にも教育内容や教材、先生方など、変わるものは多くあります。

 

反対に、四十二年の中で変わらないものの最たることは、やしまるとやしまるの子どもたちでしょう。

 

台中校のシンボルツリーである「やしまる」。正門の前で、毎日、

孤高に凛として立つ。雨にも日照りにも、台風にも負けず、愚痴を言うこともなく、ずっと子どもたちを見守り、そびえ立っている。その強い姿は、子どもたちの憧れでもあります。そんな姿を子どもたちが、「やしまる」にして、台中校のキャラクターとして表してくれました。バナナを持つ可愛いやしまるの姿は、三十周年記念に誕生しました。今では、大きなパネルになって、職員室の入り口で子どもたちを出迎えています。時々は、ほんもののやしまる(木が動くのではありません)が登場することもあります。七夕集会で登場することが恒例になっており、子どもたちは大歓声でやしまるを迎えています。

 

 そして、変わらないもののもう一つは、「台中っ子魂」だと思います。

 

台中日本人学校の子どもたちは、優しさを持っています。とてつもなく寛大な心を持っているのだと思います。それは、子どもたちに様々な状況があり、それを受け入れ、飲み込み、今の状況をより良くするために努力してきた結果、身に付いたものでしょう。また、この台湾の地の人間的に大きく温かい風土に関係があるのかもしれません。小学部六年生の学級目標は「ベストフレンド」でした。ベストフレンドであるために、友だちを責めない、良いところを見る、励まそうと努力する態度に感心しました。六年生だけでなく、台中校の子どもたちの多くが、この優しい心を持っていることを、この三年間で見ることができました。優しさをいつまでも持ち続けてほしいと願っています。台中校の変わらないものは、やしまると子どもたちの優しさです。

 

私の台中校での任期も終わりを迎えようとしています。十四代の校長から十五代の校長へとバトンを渡します。台中校の変わるものはより新しくより良く、変わらないものは永遠に変わらず続いてほしい。

 

灼熱の太陽を身に浴びて 異国の友と手をつなぎ 

 

みんなの学校 台中校  永遠に 栄えあれ


台湾を歩いて(松任谷秀樹)

 

「台湾を歩いて」

 

                           杉並区 松任谷秀樹

  

80歳半ばの母と台湾に何回も行った。母は足が不自由だったので、移動の際は車椅子を利用した。台湾では、街中だけでなく郊外にも行ったので、通常のトイレタイム以外にも、行き先にトイレがあるかどうか分からないと頻繁にトイレに行きたがった。 その度に車椅子を押し女性用トイレに行った。母は平らなところは杖で歩けるので、トイレ内に段差がなければ一人で使用できるが、段差があると手助けをしなければならない。なので女性用トイレの中をその度ごとに見に行った。

 

 男が女性用トイレを見ているので、日本では怪訝そうに見られることも多かったが、台湾では母のために見ているのが分かると、大概はウェルカムでもっと中まで見るよう勧められることも多かった。言葉は通じないけれども、台湾の人の持っている年長者や弱者に対する敬意を肌で強く感じた。とても気持ちが温かくなった。

  

2 母は好奇心があったので、台湾の街中でも、あっちに行こうこっちに行こうと街中を車椅子を押し随分歩いた。

  ところが、例えば台鐵の台中駅から宮原眼科に行くにも、街の中を歩いて五分ぐらいの距離なのに、歩道を歩いて行けない。亭仔脚の名残なのか、歩道が段差ばかりだ。車椅子では歩道を行けない、車道を車を気をつけながら随分歩いた。その度ごとに、車椅子を押しながら不自由を随分感じた。

 

 

3 料理店にもよく行った。初めての台湾行の際、どのガイドブックにも載っているような台湾料理の店に行った。どの料理も皆美味しかったが、特に杏仁豆腐が美味しかった。 なので、次の機会にも同じ料理店に行き同じ杏仁豆腐を注文したが、味が薄く、がっかりするくらい美味しくなかった。

  それでも最初の味が忘れられず、三回目行って同じく杏仁豆腐を注文した。すると、皿の中の一部が美味しく、一部は美味しくなかった。 その場では理解出来なかったが、後で、杏仁豆腐を作る際、混ぜ方が均等でなく、器の下は濃くなり、上は薄くなるのではないかと思った。

 

 4 今の日本人は、同じ一万円を使うとしたら、山登りよりディズニーランドに行くことを好む人が多いという。山登りは、予定時点では分からない天候次第で、最高にも最悪にもなるが、ディズニーランドは一定しているので、同じ一万円を使うのに満足できる可能性が高いからだという。

 

 5 台湾を歩いて、心暖かい町や人を感じるか、不自由を感じるか、濃厚な味にあたるか、上澄みの薄い味を感じるか、分からない。同じ一万円を使うとして、満足できるかは、その時次第で謎ばかりだ。

  

6 これからは、台湾を歩くだけでなく、台湾に滞在して、謎を少しでも解決したいと思っている。

 


台湾で観たお月さま(森順子)

台湾で観たお月さま

                                        

                                                      島根県 森順子

 

私達家族が台湾を訪れたのは2017年10月。

亡き伯父磯田謙雄が日本統治時代総督府に赴任し白冷圳に関わった御縁で銅像を作って頂き、その頃私の父謙四郎(謙雄の弟)も台湾に住んでたということもあり、2人に想いを馳せて 私、主人、息子夫婦、娘夫婦とお婿さんのご両親と総勢8人で行きました。

亡き伯父との思い出は、私が高校生の時金沢に行き案内してくれた事。偶々我校がバスケのインターハイで金沢に来てて体育館の場所も教えてくれ、建設会社に勤めてた時この体育館も関わったとも。これが伯父と会った最後だったので、あれから50年、台湾での再会⁇どんな気持ちになるのかなあと思いながら… 最初は家族だけで伯父の銅像に会い、近くの景色見て帰る予定でしたが伯父のひ孫にあたる直子さんの計らいで、新社の皆様がわざわざ時間を作ってくださり、温かく迎えて下さいました。言葉は通じなくても、銅像にまだ対面してなかったのに、何だろう・・懐かしく なぜか涙があふれて止まりませんでした。

お陰様で灌漑工事のスケールの大きさや、そこに関わられた皆様、台湾の現地の方たちも含めて多くの方々のご苦労や偉大さを感じた一生忘れられない有意義な時間に成りました。

 

折りしも台中を訪れたのが中秋の名月の日。

夕食食べようとしてもどこもお店が早く閉まり、やっとで開いてた所がカラオケも出来る小さなお店でしたが、若い女性の方がスマホを使いながら一生懸命料理の説明してくださり食事も美味しくいただき、流れてたカラオケの歌も耳に心地よくこれ1曲聴いてから帰ろうかと話してたら、そのお姉さんが私たちの前にあったカラオケをガチャガチャと。

流れてきたのは森山良子の「涙そうそう」

マイクを私たちの所に!

 

 

 

 歌詞は中国語?かな、でも息子夫婦はアカペラやってるので日本語で熱唱(息子は風邪気味で声が…)し、台湾の人たちからも拍手喝采頂き、この出逢いも忘れられない心温まる楽しい思い出に成りました。

また台北では帰国当日の朝早く、娘夫婦とホテルの近くのお寺に散歩がてら行きました。台湾の最後の日だなあと、早朝の爽やかな風を感じなら歩いて行く途中で太極拳してる人達見かけたり、お寺では日本の方ですか?と年配の男性が声かけて下さり、こうやって日本人と話し日本語覚え、日本の歌も孫に聞かせてると。お寺の案内もして下さり奥の方にエレベーターがあり、上がると台北市内が見え、ここでも街を見渡し、今日でお別れ等々感慨にふけりました。

 

そして日本に帰ってから主人と見た建築家の津端さんご夫婦のドキュメンタリー映画『人生フルーツ』当時津端さん90歳、奥様87歳の物語。

映画の中でも台湾の映像が。

戦時中海軍に入り将校だけが優遇される事に違和感を感じ、台湾少年工達{募集を受け台湾から優秀な12歳から19歳の少年達が日本に!}の寄宿舎で一緒に暮らしてた写真や、その当時 弟の様に可愛がってた青年を戦後探して、亡くなってたことを知り、台湾に行かれた時お墓参りされてる所や設計された団地(台北から40分位離れた海の近くのニュータウンと)が映り、映画を見た帰り主人があの団地台湾で見たよねと!

そういえば淡水に行く電車の中から見たあの団地かもと。

こんなに日本と関わりある国なのにお恥ずかしい話ですが極端な言い方すれば、台湾も他の外国の中の一つ位にしか思ってませんでした。

今回旅行し自分の足で歩き、目で見て聞いて感じ、お陰様で心温まる出逢いを沢山頂き、感謝の気持ちでいっぱいです。

台中から観た中秋の名月。日本でもこのお月さま観てるだろうな。繋がってるんだよねと。

 

  ( 

伯父達含めご先祖様が遺してくれた徳。それを

戴いて 今がある様に、私は何が出来るのだろうか?

この繋がってる空の世界中の子ども達に戦争のない

平和な日々が訪れますようにと願いながら

これからも私に出来ること、徳積みしていけたらと思ってます。

台湾の皆様有難うございました。


台湾は台湾 (李中元)

 

             台湾は台湾

 

            屏東県 李中元

  

第二次戦争中、戦死された戦友達が思い出されて悲しくてたまりません。軍歌を歌いながらいつもそういう悲しい昔の姿が浮かんできて涙が溢れてしまう。

 

 当時としては仕方なかったと。でもね、たったひとつ、政府から「過去の台湾の軍人軍属の皆さん、ご苦労さんでした、ありがとうございました」、そのひと言がぼくはほしいんですよ。それを願っとるんですよ。どうしてひと言だけでももらえないかと。年金ももらっていない。日本人だけにしかやれないそうです。なんでこんなにまで見捨てられてしまうかと、これがわたしはほんとに悔しいです。政府としてはなにひとつしてくれていない。国のために死を覚悟して僕たちは志願して行ったんですよ。何も自分のためでなんのご褒美があるからと言ってそこに行ったわけじゃないですよ。だから、ぼくはすごく、政府に対しては了解できません。

 

 いつも口癖のように言いますけど、日本の皆さんには親しみを感じますよ。たしかに昔のぼくたちの同胞だと。ぼくは今でも支那人だと、そういう観念がないです。毛頭ないです。まだ日本人だというふうにね、生きてきましたよ。皆さんに会えて縁がつながってすごく楽しかったしかも、こういう年を取ってるおじいさんに対してすごくいたわってくれて、これぼくは感謝してます。

 

 でも、政府に対しては了解できません。日本の皆さんにお詫びしたいけど、実際言うとこれがほんとのわたしの気持ちですから、それを吐き出さないとほんとに胸が詰まって苦しいんですよ。

 

 日本が台湾統治した当時、2年間以内に自由に自分の国籍を決めることが出来ると公布していました。選択は三つありました。「1.清朝に帰る、2.華僑として台湾に住む、3.日本国籍で台湾に住む」があり私達は3.に決めました。それで私の身分証では

 

「祖籍は福建、国籍は日本国」。それにしても、私はいま、何者なのでしょうか。

 

19451025日陳儀行政長官が発布、「今日より台湾は正式に再び中国の領土になり、全ての土地と住民は中華民国国民政府(国民党政権)の主権下におかれる」。この声明は台湾の領有権の変更のみならず、台湾人の意思にかかわらず一方的に、その国籍を日本から中華民国に変更するものであった。この点、日清戦争後の台湾割譲に伴い、台湾住民には2年間の猶予期間が与えられ、国籍の選択が認められたのとは、著しい違いであった。

 

 鄭成功は赤嵌のプロビンシャ城を占領すると、ただちに行政区域の画定に着手した。まず台湾全島を「東都」(中国の東)と改名し、破壊したぜーランジャ城周辺の地を安平鎮と命名した。赤嵌とその周辺、つまり今日の台南市一帯を承天府とし、その

 北に天興県、南に万年県を設け、さらに膨湖島に安撫司をおき、一府ニ県一安撫司からなる東都の行政区画を整えた。また、オランダに組みした先住民の動向を警戒し、自らの一部の軍勢を率い、いくつかの社(部落)を訪れて威圧した。鄭成功はこの東都を明王朝再興の基地とし、帝位を僣称することなく「藩主」の地位にとどまった。台湾に到着した一年足らずの16625月に鄭成功反清復明の志を遂げないまま、波乱に満ちた39才の生涯を終えた。その死後、オランダを追い払い、台湾を開拓した功績を讃える移住民に「開山王」と崇められ。台南に「開山廟」が建てられた。清王朝時代の1874年に至り、勅許を得て「延平郡王祠」が建廟され、正殿には鄭成功、後殿には母の田川氏が祀られている。鄭成功の人気は日本にも及び、江戸時代には近松門左衛門の「国性爺合戦」がある。又台湾を領有した日本は「延平郡王祠」を「開山神社」に改め、鄭成功の神格化に与っている。子、鄭経は鄭成功の死から19年後の1681年に父と同じ39才で死去するまでの間、中国での征戦に腐心ゆし、政務を顧みる余裕も関心もなかった。そのため政務はもっぱら鄭成功以来の重臣である陳永華に委ねられた。

 

 陳永華は鄭氏政権の台湾経営に最も貢献した人物であり、農地開発に伴う土地制度及び戸籍の整備など統治の基本となる行政機構と制度を確立し、鄭氏政権の基礎を整えた。更に人材養成のための住民教育や、財源確保のための海外貿易を積極的に進めた。「開山王」鄭成功の陰にあって、陳永華の業績は隠れがちであるが、むしろ台湾開発に果たした貢献はより大きいものがある。しかしながら、反清復明を国是とする、軍事政権ともいうべき鄭氏政権への貢献の大きさは同時に苛劔銖求の圧政ともなり、台湾住民を苦しめた。これで台湾からの統一主導権は如何に難しいかがわかりました。

 

 1947(昭和22)227日の晩、遅くまでラジオ聴きながらその晩の事件のことを聞いておりました。闇タバコの取締中に市民一人が射殺されたという事件です。デモ隊が目指した專売局の表門は閉まっていて入れないから、脇の門から太鼓をたたきながら入っていきました。ぼくはそこはついて行っていません。すごく長い時間が過ぎました。学生も市民も皆んな来るんですよ。どんどん人が集まって来る。ワイワイ騒いで。1140分あたりかなと思うんですけど、専売局のベランダに王民寧という、戦争中は重慶に逃亡した台湾の人、この人が少将に新任されて警察の役人だったんですがこの人が現れてここは誰もいないから、ぼくが陳儀行政長官のところに連れていってあげるとデモ隊を先導して行った。行政長官公署に向かった。

 

 そこに入った途端に機銃掃射があったんです。中山路と忠孝路の十字路の真ん中にロータリーがあってそこに何人か倒れておった。それで群衆は人殺しやと言って駅の方に逃げていった。お山さんがこういう風に無残に台湾人に向けて掃射した。台湾人は甘いことで踊らされて自分の同胞だというがこういう風に殺されている、という記事を書きました。ぼくは編集長が新聞に出してくれたかどうかわからなかった。

 

 私の見方では、戦後来た大陸の人達は、台湾を治めるという気持ちはなかった、台湾は俺たちが制圧した戦利品だから、と言う気持ちで台湾に来ておって。なんでも金になるものは、自分たちのもんだという考えで来たわけだ。だから来た人達は文化的に法というものを守っていません。俺らが制圧したところだから、なんでも全部取れると。だから摩擦が毎日あるわけ。私から見たら文化衝突だ。もう一つは文化よりも心の思い。台湾を統治する、という思いがない。法を守って統治しているんじゃない。

 

 私の爺さんは日清戦争の禍いで日本に帰化し父は第二次世界大戦の禍いで祖籍に戻されて戦禍でいつも捨てられる台湾はほんとに涙の島、罪の島でございます。

 

 これからまた、世界のどの国か台湾の宗主国だとして言って来たら私達は経験からすると頑として信用しないで怒鳴り返しますでしょう。台湾という国は私達台湾人が神様から頂いた賜物です。神様への恩返しの重荷は私達台湾人の肩に担わせて頂きます。

 

 台湾は民主政治の国家です。人民達は神様を信じて國作り、法守りは勿論のことです。神様は特別に顧みて頂きましたからこういう政治が成し遂げられました。その中に有名な民主闘士が犠牲を惜しまず民主政治の実現に戦ってきました。しかし、政治の野心家は存在する筈ですがその政治の野心家達はいかに国民に排斥されたかを皆んなの目の前に現れて警戒心持つようにさせて頂きたいです。政治をやって金儲けすると言うことは間違いです。寧ろ、良い政治をやって国民の福祉を計らせて頂いた方が宜しいです。立派な国家は経営によって出来上がるものです。立派な国家は必ず立派な国民があってこそ初めて成り立ちます。中国よ、民主政治行なえよ、こうして初めて世界の平和が実現出来ますよ。_

 


私と台湾のご縁(山本幸男)

 

私と台湾のご縁

 

             台北市 山本幸男            

  

私は台湾とのご縁は些か誇張した言い方ですが運命的な繋がりを感じています。学生時代(1970年代前半)、私は恩師の著名な経済学者の市村真一先生(京都大学名誉教授)のところに下宿してお世話になっていました。40台半ばの先生はとてもご多忙だったですが、週に一回はプライベートな講義をして頂きます。主に中国の古典や吉田松陰の講孟箚記についてです。

 

講義の時に先生は時の政府が台湾の中華民国との国交を断って、大陸の中華人民共和国と国交を結ぼうとしていることを厳しく批判されていました。当時の中国は未だ文化大革命の混乱の最中であり、一方の台湾は着々と建設を続け第一次産業中心から工業中心へと経済構造の転換を成功させようとしていました。又、台湾には戦後の困った時に日本を助けてくれた恩義がありそれらを忘却して中国と国交を結ぶのは大義が無いと激しく批判されていました。台湾には先生と親しい京都大学農学部出身の李登輝さんもおられました。

  

私は大学卒業後は商社に入り、1979年には第一次中国ブームで会社派遣の最初の語学留学生として北京語言学院へ1年間留学しました。その後、中国には広州、北京、北京と3回の駐在員生活を約20年間過ごしました。会社には毎年できれば中国以外の中華圏での転勤希望を出していましたが希望叶わず、ずーと中国勤務ばかりでした。漸く定年間近の2008年秋に、思いがけず台湾からお声がかかり、台湾日本人会と台北市日本工商会の事務局総幹事として招聘したいとの話が舞い込んできました。日本人会は1961年、工商会は1971創設で既に4050年の歴史があります。ただその間の総幹事は現地の日系銀行や商社出身の台湾人の方が職を担っていました。日本語も堪能で特に支障はなかったのですが、やはり活動は若干マンネリ気味で活発でなかったようです。丁度2008年は馬英九さんが台湾総統になった年で、馬さん側から日本企業の皆さんとも是非うまくやっていきたいので何でも困った件があればどんどんと持ってきて欲しいとの伝言が寄せられていました。当時の幹部の間で協議結果、それに積極対応しようということになり、その為にもやはり日本人専任の総幹事を招聘して事務局を強化しようということになりました。この成果として工商会は翌年から台湾政府に在台日系企業の抱える課題や改善要望事項を取りまとめた「白書」を毎年秋に政府に継続して提出しています。

 

私が総幹事在任中に、台湾とはその後2011年の311震災の時にも義援金200億円のご支援も頂き、又、NHKのど自慢in台北が201110月に放送され、これらが大きな転機となって、日本人が台湾に大きな関心を示すようになってきました。日本からも多くの方が台湾を訪問するようになってきてこれが現在に繋がっています。

  

2014年末で総幹事の職を辞したタイミングで、今度は京都の公益財団法人・日本漢字能力検定協会からBJTビジネス日本語テストの台湾での普及促進を手伝って欲しいとの依頼がきました。もともと日本政府が開発した公益性の高いテストで、これの責任者が旧知の大学時代の先輩の方でした。彼も学生時代に市村先生や同僚の国際政治の著名な高坂正堯教授の指導を受けていました。大学紛争が華やかなりし頃で大学封鎖もあった時代です。高坂先生と市村先生は同志として関西の大学の正常化にとても尽力されていました。我々学生もその影響下で関西で活動していました。

  

社会に出てからも50年前にお世話になった恩師が言われた台湾のことが頭にあり、日台関係に少しでも関与できればと思って仕事をしてきました。又、50年振りに巡ってきた先輩との人生の再会も不思議なご縁だと思っています。若い頃に山の麓で一緒に遊んでいたが、山登りを始めてみると色んなルートがあり途中挫折したり回り道をしながらも、最後に山の頂上で昔のご縁で再び相見えることができたのは本当に不思議な感じです。恩師の市村先生とも昨年台北でお会いすることが出来ました。今は神が与えた天命だと思って日本と台湾の橋渡しの一端を担わせて頂いています。

 


私と台湾のかかわり (山元與一 )

 

           私と台湾のかかわり

 

                  鹿児島県 山元與一

 

 

今までに台湾を5回ほど訪れている。初回は平成13年12月大学時代の親友楢崎政志氏(前三沢市立第5中学校校長)から誘われた。それまでの私は、台湾についての知識は、漠然としたもので、まったくと言っていいぐらい持ち合わせていなかった。ただ、鹿児島は地理的に台湾には近く、鹿児島、台北間に週4便の飛行機が飛んでいる。戦前に親戚が台湾で働いていたり、同僚の先輩で、台湾の師範学校や旧制の中学校を卒業されているとかいう方とは接していた。台北・台中・台南を訪れ多くの方々や場所を知り、いろいろなことを知る機会を得た。

 

 

最初のきっかけは、青森県三沢市立三沢第5中学校(校長楢崎政志)と台北市天母國民中学の姉妹盟約式に参加することであった。楢崎校長は、常日頃から、生徒に何とかして国際感覚を身につけさせようと考えていた。修学旅行で日光に行ったとき、ふとしたことで台湾のご夫婦と知り合ったことがきっかけであった。ご夫婦のお孫さんが通っていたのが台北市士林区の天母國中学であった。ご夫婦の肝いりの結果、天母國民中学との交流として実を結んだのである。以来毎年、三沢第5中学の生徒・職員10数名と天母國民中学からは生徒20名に職員・保護者合わせて40名前後の方々が相互訪問を続けている。平成23年以降(楢崎政志氏が死亡)は交流範囲を広げたり、隔年おきにしたりして現在も続いている。その時通訳として来日した淡紅大学の学生(陳韻文)さんや、当時から毎回来日していらっしゃる当時のPTA会長(林 秀宗・朱 淑慧)さんご夫婦とは今も交流している。6年ほど前にはご夫婦で鹿児島まで来られて鹿児島旅行を堪能された。桜島を案内していたとき爆発して私らにとっては、日常茶飯事のことではあるが、ご夫婦にとっては驚きであり、大感激であった。鹿児島、台湾は直行便が開通してより便利になった。初めは羽田から飛び立ち、福岡になり、今では鹿児島からの直行便が週4便はある。

 

 

 訪台する前に台湾のことを知りたくてインターネットを通じて、台中で活躍している喜早天海さんを知った。彼は日台間の草の根交流に懸命に努力し、台湾を愛し、台湾情報を発している方である。また、「台日会」の世話役である。「台日会」とは、日台双方の台中にゆかりのある人たちが草の根交流を図っている親睦団体である。

 

 初めて訪台したときに「台日会」の忘年会に参加させていただいた。そこに、静宜大学日本語学科教授許世楷先生(元台北駐日経済文化代表処)ご夫婦も参加されていた。

 

 その静宜大学から、先生の教え子5名が鹿児島県薩摩川内市の鹿児島純心女子大学に平成15年4月から1年間、留学のため来日してきた。喜早さんの連絡で知った。時々面倒を見てもらえたら嬉しいとのことであった。

 

 

何か私が協力出来ることはないかと思い、さっそく鹿児島純心女子大学を訪れ、彼女らの受け入れ窓口になっている学生課の係長さんにお会いして、協力を申し入れた。夫婦で彼女たちと昼食を交えて楽しいひと時を過ごした。実に素直で、向学心に燃えた、やる気満々の学生さんたちに感じられた。

 

寮生活だけでは味気ないのではないかと考え、時々自宅に招いて食事会をしたり、妻の手作りの料理を差し入れたり、自炊用の炊飯器、電子レンジ、ポット、トースター等を差し入れたり、日本料理の作り方を教えたりした。

 

レンタカーを借りて県内をくまなく旅行したりもした。お互いの生活習慣の違いを話したりしおおいに盛り上がった。 今では彼女らは、私たち夫婦を鹿児島のお父さん、お母さんと慕って電話やメール、ラインを通じて気さくに付き合っている。

 

留学中の彼女たちは、日本文化に興味を示し、茶道部に入部して所作などを懸命に学んでいた。また、ボート部にも入部して川内川レガッタに参加したり、地元の夏祭りや川内大綱引き等の行事にも積極的に参加したり、弁論大会に出場して自分の感じたことを話したりと、留学生活を堪能していた。

 

平成16年3月の帰国前には自宅に招いて盛大な送別会を開いたりもした。彼女らとの繋がりを深めようと、その時のメンバーで「静純会」という名前を付けて、今でも交流を続けている。

 

 

帰国後彼女らは、留学の経験を活かして台中日本人学校や日系企業で働いている。一人は日系企業で働いていた日本人男性と結婚し、今では枚方市に住む2児の母親である。彼女はよくメールやラインで家族写真などを頻繁に送って連絡してくれる。

 

平成22年4月には、帰国後初めて5人全員で鹿児島を再訪問した。6日間の日程ではあったが、私の家に宿泊したので5人の娘が嫁ぎ先から帰ってきたみたいな気分を味わうことができた。というのは、私は、男の子二人のみで女の子がなく、それはそれは華やかな6日間だった。

 

彼女らとの交流を機会に、私は鹿児島県で台湾にゆかりのある方々で作っている「台湾の会」に入会させていただいた。この会は、戦前台湾に住んでいたり、仕事をしたりして鹿児島に引き揚げてこられた方々の親睦団体である。

 

平成17年3月にはどうしても彼女らと会いたくて旅行業者の団体ツアーで2回目の訪問となった。このツアーには前に勤めていた学校の先生夫婦も参加していてびっくり。

 

 

平成19年9月の3回目の台湾を訪れたときは、嫁ぎ先の娘たちを訪ねるような、それはそれは楽しい旅であった。彼女らの案内で台北、台中、台南をまわり見聞を広めた。すべて彼女らが計画し、都合をつけて全日程を、一日一人ずつ付きっきりで案内してくれた。単なる観光地巡りではない、台湾の実生活を体験できたのは、すごくいい体験となった。

 

4回目の訪台は平成22年12月のことである。留学生の一人の結婚式に参列させてもらった。厳粛な中にも楽しい結婚式で初めての経験であった。

 

5回目は平成25年2月で、妻と二人での結婚記念日旅行の台湾訪問であった。彼女らの子供たちとも会うことができ、実際の孫に会えたような喜びであった。

 

 

今まででの台湾旅行で一番印象に残っているのは「八田與一」のことである。初めて台湾を訪れたとき、台南市にある、奇美博物館を訪ねた。そこに台湾に貢献した日本人という紹介パネルがあり。乃木希典、児玉源太郎、後藤新平、新渡戸稲造、八田與一等の写真が展示されていた。「八田與一」以外の名前は知っていたが、彼の名前は知らなかった。初めて聞く名前であった。自分と同じ名前「與一」に興味を持ち、帰国後、台湾に関する書物などで調べたら必ず「八田與一」という名前が出てくる。

 

彼は台湾の不毛の地・嘉南平原に壮大なダム「烏山頭ダム」を造り、台湾一の近代的で肥沃な土地に変え、嘉南平野は今では台湾一の穀倉地帯となっている。

 

また、元台湾総統李登輝は講演「日本人の精神」の中で、日本統治時代の台湾において、10年の歳月をかけて大規模な灌漑プロジェクト「嘉南大しゅう(烏山頭ダム・給排水路)」を完成させた「日本人技師・八田與一」の功績を取り上げている。いつか、「嘉南大しゅう(烏山頭ダム・給排水路)」を見てみたいと思っていたところ、平成19年に見学する機会を得た。このダムは普通のダムとは違っていた。普通のダムは、山間の深い谷間を堰き止め、水を貯めるが、このダムは、お椀を逆さにしたような小高い丘がダムになっていた。ダムの周辺は観光地となり、ホテルなども建って多くの観光客が訪れていた。この北岸の一角に、湖面を見下ろすように、平地に作業服姿で片膝をたてた「八田與一」の銅像が、日本式のお墓(八田與一夫婦)の前に建立されている。

 

この銅像は昭和6年に地元の農民の方々が、「八田與一」の功績を忘れずに建立し、彼が亡くなるとお墓を建て、翌年の昭和22年、命日の5月8日から一度も欠かすことなく慰霊追悼式を催し、恩人としてずっと守り続けているとのことである。ところが3年ほど前、心無い人が銅像を傷つけるという事件が発生したが、すぐに修復して事なきをえている。

 

ここを訪れる観光客は皆、墓前で両手を合わせてお祈りしていた。外国人のお墓の前で観光客全員の方々がお祈りしている姿に感動を覚えた。

 

全く台湾への関心がなかった私が、ちょっとしたきっかけで台湾にはまってしまった。これからも彼女らを通じて、台湾との関わりを保ちたいと思っている。

 

 

 


日本語と私(林玫芳 )

 

             日本語と私

 

                      台中市 林玫芳

 

 

日本語勉強のきっかけ

 

日本語の勉強を開始したのは1997年高校時代だった。「哈日族」の流行で日本の歌やドラマがもちろん、日本語学習も大人気だった。もともと外国語学習に興味があった私、家族と相談後、「宜寧中学」という商業学校の日本語学科に入学した。

 

日本語の授業は毎日があり、会話や文法、更に日本語タイピングの授業もあった。家に帰ると、テープを聴いて発音練習するのが日課となっていた。

 

学校で使用したテキストは「新日本語の基礎」、研修関連の内容になっているので、クラスメートの間では「こんな内容を勉強するのは退屈だ」というクラスメートもいた。

 

更に高三に初めて訪れた日本修学旅行がとても印象に残った。初めて飛行機に乗り、なんだかんだ新鮮だった。今まで勉強してきた日本語を実際使ってみるとわくわくしていた。日本旅行から戻ると、もっと頑張って日本語を勉強して、また日本に行きたいと決心した。

 

 

日本留学 前編

 

商業学校卒業を控え、そろそろ進路を決める時期が来ている。当時台湾の教育制度では、一般の大学は一般高校卒業生向けになっている。よって商業学校卒業の私は一般の大学に入れなかった。

 

一応、運が良く「南台応用科技大学」の日本学科に合格しているが、家族と相談後、台湾で日本語を専門とした勉強するより、日本に行って本場の日本語を勉強した方がためになるという結論に至った。

 

そして、18歳の私が、高校卒業式の日に、日本留学へと旅立った。一人で異国で生活するのは怖くないかと聞かれたことがあるが、たぶん若さゆえに怖いものはなかっただろう。が、時々ホームシックになる。

 

大阪の日本語学校に入学して、日本語勉強漬けの日々だった。そして運がよく、半年で日本語能力試験一級に合格、早速大学入試情報を収集したり、応募書類作成に取り掛かった。そして何校か面接を受けたものの、なかなか合格に至らなかった。このままだと、台湾に帰るしかないと焦り始めた。

 

 

 

日本留学 後編

 

その時、目に留まったのが私の誕生日に入試面接予定のある大学だった。その学校の名前は「下関市立大学」である。いちかばちか入試を受けることにした。

 

実はその時、大阪と下関がそんな離れていることすら知らなかった。

 

入試の前日に夜行バスに乗り、いざ大阪から下関へ移動。夜九時半大阪を出て、翌朝五時半に下関に到着。大阪と下関は結構離れていることを、この時初めて身をもって知った。夜行バスに揺られてあまり眠れなかったが、車窓越しのキラキラした夜景がとても素敵と思った。

 

そして本当に運がよく、「下関市立大学」の経済学部に合格した。合格と知った時は安堵してすごく嬉しかった。無事に入学できて、新生活に右も左も分からない不安があったが、学校の職員が丁寧に対応してくれて、いよいよ新生活にスタートを切った。

 

大学生活と言えば、勉強、部活、バイトという人は少なくないと思う。私の場合は勉強(資格取得)、バイト、国際交流で充実な日々だった。

 

まずは勉強と資格取得、将来のためと思い、勉強の傍ら、英語検定、韓国語検定や秘書検定の資格を取得した。学校の専門科目が難しくよく分からない時もあったが、親切な先生とクラスメートがいてくれたからこそなんとか無事に乗り越えられた。

 

日本語学校の時、勉強に専念できるようにバイトしなかったが、大学に入ってからバイトし始めた。最初は近所のラーメン屋さんでバイトしていた、賄いつきで、仕事が終わるとから揚げやラーメンが頂ける。残念ながら、私が大学卒業直前に店主が体調により、店をたたんだが、今でもこの店のラーメンやから揚げが本当に美味しいと思う。ラーメン屋の次は「平家茶屋」という料亭でバイトしていた。最初は分からないことがたくさんあったが、先輩たちが親切に教えてくれて、接客について大変勉強になった。「平家茶屋」は関門海峡の景色がよく見えるし、料理も美味しいと評判なので、皆さんは下関に行くことがあれば、ぜひ立ち寄ってみると良い。

 

そして国際交流、留学生同士のホームパーティーを参加したり、ロータリークラブやライオンズクラブの国際交流の行事に参加したりしていた。留学生スピーチ大会で知り合った元市議員の鵜原様ご夫妻は自分の娘のように接してくれて、また、国際交流サロンでお世話になった和泉さん、本当に感謝感謝!

 

晴れて迎えた卒業の日は留学生を代表して挨拶をした。会場に置いてある台湾の国旗を見ると感無量で胸一杯だった。

 

 

まとめ

 

帰国後、ある日偶然でネットで検索してみたら、「台日会」という日本語を話す交流団体に出会えた、毎月の例会が楽しみだった。自分が日本でお世話になった分、微力ながらも台日交流に貢献しようと、少しでも恩返しできたらと思っている。そして、日本語を使う仕事をしてきて、現在に至る。仕事で嫌なことがあっても、好きだから頑張れると思う。最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


台湾で見つけた人生の目標 (若尾彩加)

 

          台湾で見つけた人生の目標

 

           台中市 若尾彩加  

 

 私は20113月に初めて台湾を訪れました。その当時、台湾に対しては何の興味関心もなく、ただ友人に誘われての訪台でした。 初めて訪れた感想は「スクーターが多い」「日本の店が多い」といった観光客が抱くごくありふれたものでした。それからしばらくし、当時通っていた中国語教室の先生から台湾への短期留学を勧められました。大学での専攻が中国文学だったこともあり、台湾で中国語を勉強するのも悪くないかな、という安易な気持ちで人生二度目の訪台を決めました。

  

 なんとなくやって来た二度目の台湾ですが、その時の思い出は私の留学経験の中で最も忘れがたいものとなりました。日本人、台湾人ともに素敵なご縁に恵まれ、今までにないくらい楽しく充実した時を過ごすことができました。 今まで短期長期の留学を数多く経験してきましたが、また行きたいと思えたのは台湾が初めてでした。この留学をきっかけに私は台湾の魅力にはまっていきました。それから大学を卒業するとすぐ台湾へ渡り中国語の学習を始めました。

  

その時ある一人の台湾人の医学生と知り合いました。彼は台湾の医療制度が直面している問題やこれからの医療の在り方、西洋医学と中医学の比較など今まで私が知らなかったことをたくさん教えてくれました。

 彼は、貧しい人は医者にかかることすらできない、田舎では医療者の数が不足している為十分な治療が受けられない等、台湾における医療格差の問題に特に関心を持っていました。 いずれは医師としてその問題を解決したいという夢も語ってくれました。

 まだ学生の身でありながら、しっかりと未来を見据えているその姿に、今までただ何となく生きてきた自分が恥ずかしくなりました。 それと同時に自分も目標を持ちたいと強く思うようになりました。

  

 私は、彼の話の中で出てきた「中医学」に興味を抱いていました。せっかく台湾にいるのだから中国語を勉強するだけでなく、何か専門的な知識も得たいと思い、こちらで大学に入り本格的に勉強することを決めました。

 

台湾で中医学部への進学を決めた私ですが、彼の話を初めて聞いたときは「チュウイガク?なにそれ」といった具合でした。確かに日本ではあまり馴染みのない学問だと思います。

 

中医学とは中国を中心とする東アジアで行われてきた伝統医学であり、人の持つ生命力を重視し、病気として表面に現れる前に身体のバランスを整えて予防することに重きを置いている医学です。近年では欧米でも広まりつつあります。

 

西洋医学が細かく遺伝子レベルまで分析し治療するのに対し、中医学は身体全体のバランスを整える治療であると言えます。中医学では、人の体は自然から影響を受ける存在であり、また体の内部でも様々な部位が影響し合う存在故に、一つの臓器の働きが乱れることでほかの臓器にも影響を及ぼすと考えられています。

 

そのため、病気の表れている部分だけを見るのではなく、人間を全体として捉え、症状がたとえ1つの部位に限られたものであってもそれが他の臓器と関連して起きているのか、それとも局所だけの問題なのか、というように身体全体を診て治療していきます。

 

また処方される薬も西洋医学は化学薬品ですが、中医学は動物、鉱物それと植物を材料として作られています。私にとって西洋医学は馴染みがあるけれども、どこかとっつきにくい印象でした。しかし、中医学の考えはすんなり受け入れることができました。

 

 それから2年間に及ぶ受験勉強を経て、無事に第一志望の大学に合格することができました。現在私は中医学部の1年生として日々勉強に励んでいます。

 大学での勉強はとても大変です。ただでさえ難解で専門用語の飛び交う医学。しかもそれを中国語で学ぶのですからいばらの道です。台湾人でも難しいといわれる勉強内容にただでさえ言葉の壁がある私は毎日予習、復習に必死です。 クラスメイトはみな狭き門を突破したエリートたち。そんな彼らと自分を比べて落ち込むこともありますが、日々楽しんで勉強しています。

 

大きな目標もなくやって来た台湾で、自分の生きる道を見つけることができました。 台湾に留学しなければ中医学について深く知ろうとも思わなかったでしょうし、そのきっかけをくれた彼とも出会うことはなかったはずです。

 

未来のことはまだ分かりませんが、台湾とのご縁に感謝しながらこれからも生きていこうと思います。また、彼の目標である「すべての人が平等に治療を受けられる社会」の実現に私も貢献できるよう努力していきます。