閉じる


目次

<目次>

 

 (1) 空飛ぶ車に乗っ……

 

 (2) 心を撼わす黒曜石の矢じり

 

 (3) 腹づつみを打ちながら

 

 (4) ヨイショの論理

 

 (5) 最期の時間割


(1) 空飛ぶ車に乗っ……

 

 夢見ることは、時にその人の心に巣食う不安の表出であるなどと言います。

 

 天井の隅から落ちてきたり、ゴジラに追われたりして、そんな夢は、その人の心の中に底知れぬ不安があって、それがそうした形の夢になって出てくるって言うのです。

 

 しかし、そんなんではない「夢」を、私は思い描いているんです。

 

 その「夢」は、遥か彼方にあるという、幻のようなものではありません。

 明日にでも、それが現実になる、そんな「夢」なんです。

 

 「空飛ぶ車」

 

 いつも、この言葉が気になるのです。

 そして、私はちょっと先にあるアカマツの木を遠望するのです。

 

 我が宅のガレージに、ピカピカの空飛ぶ車が置かれています。

 そのエンジン音は実に静かです。

 私のこれまで乗っていたワーゲンのゴロゴロというエンジン音も素晴らしいですが、四つのプロペラが小気味よく回転する音も実に軽快です。

 

 ガレージで軽く浮いて、そこで回転して、そして、宅の前の道に出ます。

 空を飛ぶって言っても、大空を自由に飛べるわけではありません。

 タイヤのある車もまだ走っている、そんな中に空飛ぶ車も混在して走っているのです。

 自由に、空を飛ぶには、電信柱が撤去されて、スカイロードが整備されなくてはなりません。

 

 それも、もうまもなくのことです。

 

 スカイロードを飛ぶには、特別な免許が必要です。

 と言ったって、これとて、さほどのことはありません。

 

 だって、すべては5Gによって可能になったぶっとい通信回線が実用化されているからです。

 そのぶっとい回線を通じて、AIが、圧倒的な情報量を瞬時に分析して、動かしてくれるのですから、人間は、万が一の場合の対処法を学ぶだけなのです。

 

 だから、新設された「空飛ぶ車警察」に行って、小一時間ばかり研修を受ければ、それで免許はもらえます。

 

 スカイロードに設置されている標識は、私たち人間の目には見えません。

 だから、私たちは、今まで以上に、いや、今までとはまったく異なった自然のありようを目にすることになるのです。

 

 空飛ぶ車は、それまでの車と異なり、上下で車線が区切られています。

 北に行く車は上の車線を、南に行く車は、下の車線をと言う風にです。

 東西南北、斜めに横切る車線もすべて、高低で車線が分かれているんです。

 

 ですから、事故など皆無なのです。

 

 すべてはAIが判断しますから、渋滞などもありません。

 燃費も良く、何より、目的地に到着する時間が圧倒的に早くなりました。

 

 乗車する人間は、空中からの光景を楽しむのも良し、読書をするも良し、映画を見るも良しと言う具合です。

 

 着陸も離陸も、すべてがAIが自動でやってくれますから、人間は、車内にある画面に必要事項を打ち込むだけなのです。

 冒険ずきの若者が、いっちょ、暴走してやろうとしても、それはAIが許しません。それでもしつこく操作すると、空飛ぶ車は自動的に空飛ぶ警察に連絡を入れて、その人物を警察まで連れて行ってしまうのです。

 

 その日、私はいつものように朝の仕事を終えて、鹿島の釣り公園に釣りにでも出かけようと、黄色に塗られた私の空飛ぶ車に乗っ……

 

 そこで、目が覚めたです。

 気分のいい夢でした。

 未来への展望のある夢でした。

 

 私の右手にはめられたApple Watchがブルブルと震えます。

 起きる時間だと知らせているんです。

 すかさず、私のiPhone XS Maxも、音楽を鳴らし出しました。

 気持ちよく起きて、さぁ、仕事だって、意欲を喚起してくれるんです。

 そして、 SONYのBRAVIAも、今日の私の活動が映し出します。

 

 つくばの片隅で、自然のいっぱいある中で、しかし、最先端の技術を堪能できるそんな環境に自分がすでに置かれていることを思えば、さっき、夢の中で見ていたことなど、わけなく実現できると、そう思っているんです。

 

 新しき物好きの私です。

 空飛ぶ車、いの一番で手に入れようと、私はそんな「夢」を描いているのです。

 

 いやはや、能天気な私の夢の話におつきあいをさせてしまって、本当に恐縮をしております。

 あしからず……

 


(2) 心を撼わす黒曜石の矢じり

 

 北海道で、長野産出の黒曜石の矢じりが発見されたという小さな記事を読んだのは、ついこのあいだのことでした。

 

 その透明感のある矢じりの美しいことと言ったら、それはそれは素晴らしいものでした。

 

 縄文人がガラス質の石を叩き割って、その破片から形の良いのを選んで、さらに、尖った形に成形をして、それを生きるために必要な狩の道具にしたのです。

 

 その一枚の写真を見て、こんなに美しく、しかも、実用性の高いもの、それが長野から北海道まで渡るにはいかなる「旅」がそこにあったのかって、ちょっと空想してみたくなったのです。

 

 そういえば、昔読んだ本で、題名はすっかりと忘れてしまいましたが、黒曜石を産出する長野で、大量の「ヒジキ」の化石が発見され、学者が、きっとこれは、海に暮らす民が、自分で採った「ヒジキ」を大量に持って、長野の山の中にやってきて、そこで作られているかの名高い黒曜石のナイフと交換したものではないかと空想をしていたのです。

 

 大いにありうることです。

 

 山にはあの「ヒジキ」はありません。乾燥させれば、長い期間、保存ができ、しかも、軽くなりますから、持ち運びは容易です。加えて、栄養価も高いときていますから、黒曜石で作られるナイフと交換するには十分な価値を有していたのです。

 

 当時の黒曜石からできた矢じりやナイフは、今で言う最先端の道具であったに違いありません。

 

 その最先端の情報を聞きつけ、何としても、それを手にして、生活をより良くしたい、そういう願いが、きっと、あの透明感のある矢じりを使っていた北海道に暮らす古代人にもあったに違いないのです。

 

 それまで、仕留めた熊から取った爪や、あこや貝などの鋭い殻で、鮭の腹を割いていたはずです。

 しかし、黒曜石の刃は、それらの道具とは段違いで、鮭の腹を割いてくれるのです。鮭ばかりではありません。動物の毛皮も、肉も、切り取ることが容易にできるのです。

 

 きっと、それを手にしたものは、それに見合う何かしらの対価を得たはずです。

 

 そんなことを想像していたら、二十一世紀に暮らす私たちだって、同じようなことをしているって思ったのです。

 

 初詣の帰りに、コンビニに寄りました。

 ちょっとしたものを買い、私はiPhoneをかざして、「カッキーン」と支払いを済ませたのです。

 うん⁈

 これって、物体としての「お金」がいらないってこと!って今更のように思ったのです。

 

 どういうことかと言いますと、お金そのものが必要でなくなる時代というのは、新たな物々交換の仕組みが広がることを意味するのではないかということなのです。

 

 つまり、私が、通貨を用いずに、デジタルの仕組みを使って、コンビニで必要な「もの」を手に入れたというのは、新しい物々交換のありようだということです。

 

 アメリカのどこかの大学が発表していたことですが、フェイスブックというのは、個人データを提供することで、サービスを受ける仕組みだというのです。

 自分の情報、どこで生まれ、どこの学校を出て、どこで働いている、そんな個人データをネット上で提供することで、同郷、同窓、あるいは利益を共有する人たちと接触が可能なのです。

 それも物々交換であるというのです。

 

 さらに、デジタルの世界では、金銭がその価値を喪失するっていうのです。

 

 私のiPhoneにも、無料のアプリがたくさん入っています。

 私も、自分の作品、一部を除いて、その多くを無料で配布しています。

 無料のアプリは、広告料だとか、「課金」で利益を出します。

 私の作品は、それを読んでくれた方に何らかのものを与えて、その気持ちを報酬として受けます。

 近い将来、「もの」は、高度に制御された3Dプリンターでいかようにも作り出すことができ、「もの」自体が、すべてが無料になるというのです。

 

 だとするなら、この世界から、通貨は無くなるはずだと、さらに、通貨によって概念化されていた「富」なるものもなくなることになる、いや、それ自体意味をなさなくなることになるのです。

 

 部屋も、車も、シェアリング。

 無料アプリも、それが優れたものであれば、きっと、莫大な「何か」を得るはずです。

 私の作品も、それが素晴らしいと思ってくれる人がたくさん出れば、そこにも大きな「何か」がきっとあるはずなのです。

 

 さて、その「何か」って何だろうということです。 

 

 それこそ、私、「信用」だと思っているのです。

 チャラチャラと薄っぺらい宝石や札束、コインというものではなく、より精密で、人間の心を撼わす「信用」だと思っているのです。

 

 素晴らしいネット上での言葉や写真、そこに見え隠れするのも、時には「悪意」であったり、「いじわる」であったり、「フェイク」であったりもしますが、確かに「信用」のおける、心を撼わす何かを持つものがあるのです。

 

 それを見極めていくのがどうやら新しい時代のムーブメントではないかと思っているのです。

 


(3) 腹づつみを打ちながら

 

 腹づつみを打つ。

 美味しいものをいただき、その分、腹もふくれ、よって、腹づつみを打っている、まぁ、それも多少はあるのですが、「鼓腹撃壌」というあの故事のことなんです。

 

 意味としては、中国のむかしむかしのお話ではあるのですが、ある老人が、そう、あれは堯の時代であったかと思います、立派な治政のおかげで、世の中が平和であるので、その老人が、満腹の腹を手のひらでうち、足で地面をたたいて拍子をとって踊っているという図なのです。

 

 人は、満腹の時をいちばん幸せだと感じるのは、古今東西変わりのない事実であります。

 

 贅沢の極みは、美味しい料理をいただくことです。

 だって、高価なダイヤモンドも、目の玉の出る衣服や家財道具も、それは孫子の代まで残りますが、ご馳走だけは、そうはいきません。

 たった数時間で、人はそれを平らげ、大いに満足するのですから、まさに「腹づつみを打つ」というのは至極の幸福である証なのです。

 

 腹が満たされれば、ダンスに興じるというのもまた、自然の摂理です。

 体を動かすことで、また、腹が減ります。そうすれば、あのモノを食べるという至福の席に戻ることができます。

 

 つまり、古今東西、人がモノを食べるということは、最上の幸福であることを示しているのです。

 

 さて、ご馳走をいただくことになんの違和感もなく過ごせたお正月も終わり、春の気配を感じる頃合いになりました。

 経済的にも、肉体的にも節約をしなくてはいけないと悔悟の念が押し寄せる、そんな頃合いなのですが、そんな念を追い払いたく、「鼓腹」ならぬ「幸福」を考えたいと思っているのです。

 

 元旦の、我が宅がとっている新聞には、ちょっとした未来の輝かしい瞬間が記載されていました。昨年も、一昨年も、確か、そうであったのではないかって思いながら、それでも、新聞を音を立ててめくっていったのです。

 

 おいらの肉体は、永遠に生きるかもしれない。

 死ぬことがなくなったら、そりゃ、えらいこっちゃ。

 生きるための経済力はどうすりゃいいのか。

 

 化石燃料も必要でなくなり、動力は電源、それも無線で充電できるから、面倒はいらない。

 しかも、当たり前のように空を飛ぶようになる。

 面倒なことは、すべてAIが考えてくれて、ロボットが何から何まで世話してくれる。

 おいらは、まるで、ローマ時代の貴族のように、ありあまる時間をゆったりとくらす。

 

 はてさて、これがおいらの未来かと思うと、何か違うなって一人憂うつになってしまったのです。

 

 あまりにモヤモヤしたので、近くの神社に行って、お参りをしようと出かけ、今度は、あまりの人出に嫌気がさして、神様がゆっくりと落ち着く頃にまた来ようと、近くのコンビニで買い物をして、iPhoneで「カッキーン」して、そんなことをしていたら、おいらもどうやら、未来の仕組みにカッチリと入ってしまったなって、「カッキーン」の音を聞いて、観念をしたのです。

 

 その「カッキーン」の先進国といえば、アメリカ……、いや日本でも、イギリスでも、フランスでもなくて、中国だというではないですか。

 

 無人のコンビニ「タオカフェ」があり、入店時客はQRコードをかざせば、そこの品物を手にして店を出るだけで買い物が成立するんですから、きっと、秦の始皇帝も驚いているに違いありません。

 誰だって、そんな国にいれば、自分の国はすごいって思うはずです。

 

 でもと、思うのです。

 

 それを可能にしているのは、何を隠そう町中に置かれたカメラなんです。

 日本にもそれが随分とあるようで、警察の初動は、まず、事件が発生した現場の防犯カメラの分析から始まると言いますし、それが事件の解決へとつながっていくというのを、最近、目の当たりにするのですから、うなづきもするのです。

 

 でも、中国ではそうでもないようなのです。

 そういえば、道路を違法に横断して、それを写真に撮られて、こいつはルールを守らない不届き者だと公の場で、写真入り、身元も明らかにされて張り出されるというのですから、度を越すありように呆れてしまいます。

 

 コアラの国で暮らす娘にも、ポリスから手紙が来て、あなたは停車ラインを超えて車を止めたと罰金命令とその際の証拠写真が添えられてきたと言いますが、それとは全く別物の行為であるので、このニュースを聞いたときは、中国はよほどルール違反の多い国だと思ったです。

 

 さらに、すべての個人データが政府に管理されると言います。

 国民の安全を、一部の不届き者から守り、テロを企て人命を奪う可能性のある人間を隔離し、人民の幸せのために働く政府を批判して国家を転覆せんとする活動家を捕らえるなんて言いますが、言い分に一理あっても、どうも好かんのです。

 そこまでいかなくても、ちょっとした違反やネットに書き込みをして悪ふざけをすると、マークされて、政府が用意した人民として当然のサービスも受けられなくなるというのですから、こりゃ、どう見てもおかしいと思うのです。

 

 そんなことを思うと、正月、のんびりとして、美味しいものをいただき、だらっとしていた私など、最上の幸福者だと思うのです。

 そんなこんなでちょっとふくれた腹をさすりながら、さぁ、今日も運動に勤しもうって、そんなことが幸福に思えるんです。

 


(4) ヨイショの論理

 

 ヨイショする!

 

 そんな言葉、今の時代使う人もいないと思います。

 でも、これ、結構、皆がやっていることではないかと思っているんです。

 

 相手をさりげなく褒めて、こちらに都合良いようにことを運ぶ、そんな魂胆が見え見えのことを「ヨイショ」なんて言います。

 私は、私立学校の募集担当を長らくやっていましたから、中学校に定期的にお邪魔して、三年生の主任の先生とか、進路担当の先生にお会いして、自分の学校の宣伝として、受験生を出して欲しいってお願いしてきました。

 もう、何十年も前の話ですが、単願って言って、私学一本だと、かなりの確率で合格が高まる制度があったんです。

 募集担当者の成果は、この単願を何名確保するかにかかってくるのです。

 併願、つまり、他の学校も受ける生徒たちが入学する確率はかなり低くなりますから、単願で人数確保をするんです。

 単願が少ないと、当然、ノルマで示された入学者数に到達できません。

 それでは、募集担当者として、仕事をしていないと判断されるんです。

 厳しい年もあって、俺は教員だぞ、なんで、生徒を集めきれなくて、苦しい思いをするんだって、車であちらこちらを走り回りながら一人で文句を言っていました。

 

 で、その時、私、結構、ヨイショする人だったんです。

 

 誰だって、自分の勤めている学校がきれいに掃除されているとか、出会う生徒が元気よく挨拶してくれるって言われると、それこそが教育成果ですから、それを認めてもらったと嬉しくなります。私だって、自分の勤める学校に、そんなことを言って訪問する誰かがいれば、気持ちよくなります。

 

 でも、学校がゴミだらけで、駐車場の端っこで数人が集まって何か悪さをしているのを目にしてまで、先生の学校は素晴らしいですねとまでは言うことはできませんでした。

 それは嘘になり、それを覆い隠して、ヨイショすると言うのは、まやかしだからです。

 

 だとしたら、ヨイショと言うのは、事実に即して、それを相手に、第三者として伝達することで、相手に気持ちよくなってもらい、そうした中で、こちらの宣伝を聞いてもらうと言うことになります。

 会社でも、学校でも、部下は上司に、かなりの確率でヨイショします。

 そうなんですか、すごいですねぇって言葉などは、上司が喜びますから、明らかにヨイショですし、あるいは、言葉ではなく、上司の顔を見つめ、その言葉にうなづくことも、それはヨイショになります。

 

 でも、それだって、その上司に対していいところを認めるからできるわけです。

 

 上司もまた部下に気を使いました。

 だって、私が学校にいた頃、学校は大変革の時期だったんです。

 何が大変革かといえば、コンピューターが導入されつつあったんです。

 生徒の点数評価はすべて表計算ソフトで、通知書の所見も文書ソフトで作成をしなくてはならないのです。

 それが、上司の世代にはいまいちその仕組みがよくわからない、しかし、若手の大学を出てばかりの連中はそれに熟知している。

 だから、職員室のあちらこちらで部下が上司に教えると言う姿が見られたのです。

 

 「お〜ぃ。君、ちょっと」なんて、若手が呼ばれて教えに行くと言う姿があちらこちらに見られました。

 もちろん、それを良しとしない主任クラスもいて、俺は俺でやると言って、結局できなくて、時代から取り残された人たちが結構、学校という社会にはいたのです。

 

 社会不適応の人材って、学校には結構いるんですよ。

 そんな人間模様を見ていると、ヨイショっていうのは、組織の潤滑油になっているって思うことしきりなのです。

 

 部下の結婚式に呼ばれて、挨拶をする時、職場にいるそのままでスピーチして、ひんしゅくを買った上司がいました。

 

 将来ある若者の、おめでたい門出の席で、もうちょっと頑張れよとか、ここが足りないからダメとか、挙句に、このままであれば教師失格だとのたまわってしまったのです。

 私たちには、日頃の彼の言動を見ていれば、それが彼一流の激励であるとはわかるのですが、親戚縁者に、それは通用しません。

 

 親戚の意気盛んな誰かさんがこの上司に食ってかかっていったのですからおおごとです。 

 

 結局、めでたく結婚式を挙げた彼は、一年後、よその学校に移っていってしまいました。きっと親戚縁者がそんな学校にいることはないって、他の学校を世話したのだと思います。

 そのヨイショできない上司も、その後は鳴かず飛ばずってな具合になってしまいました。

 

 こんな話を聞くと、ヨイショが潤滑油だってよくお分りいただけたかと思います。

 

 それにしても、国際社会において、ヨイショってのが、これも随分と不足していると痛感するのです。

 もっとも、一国を背負っているものが、相手に理由もなく譲るというのは、これまた問題です。国益を損じることになると、国民から指弾されますから。

 

 だったら、どうしたらいいのだと、考えるのですが、私、ヨイショというのには何もへり下りばかりではなく、相手への敬意と言うものがふんだんに盛り込まれているものだと思っているのです。

 へつらうのではなく、相手に敬意を払って、言動でそれを示すヨイショこそ、政治の世界では必要だと、いや、あちらこちらで揉め事を抱える組織でもそうです。

 敵対する相手をヨイショしてこそ、何事もうまく行くというものです。

 

 かといって、何万人もの従業員の首を切って、自分はといえば、何十億も訳のわからない金を使っている人間をヨイショしろとか、何十年前もの戦争の折のことを繰り返しては金をせびる国のことをヨイショしろとか、自分の都合で、すり寄ってきたり、目くじら立てて暴動を煽って破壊工作する国のことをヨイショしろと言っているのではないのです。

 

 私、今、『一ノ谷と真珠湾』と言う物語を書いていまして、それで、あの戦争のことを調べているんですが、あの時も、なんだかんだと言われて、爆弾を投げたり、ピストルを撃ったりして、日本を煽った連中がいるんです。

 

 彼らは、こちらを煽って、こちらが非難を受けるように仕向けるのを得意としているのです。

 

 それに乗ってはならないと言うことなのです。

 だから、ヨイショしてやれって、そう言っているんです。

 やすやすと彼らの言辞に乗らずに、ヨイショしてやるんです。

 向こうが、そう来るなら、こちらは逆手で返してやるんです。

 

 相手の言辞で腹を立てていれば、あの戦争前の状況をまったく同じになってしまいますから……。

 



読者登録

nkgwhiroさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について