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目次

<目次>

 

 (1) 革手袋とマフラー

 

 (2) 意地だけで生きてるんです

 

 (3) 歳が歳だけに

 

 (4) 快、感!


(1) 革手袋とマフラー

 

 ここ数日、早朝の路面が雨で濡れています。

 気温も幾分高めで、この年は、師走になったというのに、拍子抜けの日々でした。

 ところが、一挙に気温が下がり、昼間でもさほど気温が上昇しない、めっきり冬らしい天候に、一気に転じてしまうのですから、自然というのはまったくもって不可解なものではあります。

 

 私には、あるひとつの「冷たい雨」の体験があります。

 

 正月休みを使って、上海に行った時のことです。その日は、宿泊しているホテルから、バスで蘇州に向かう日でした。

 部屋の窓から、天気が芳しくないことはわかっていました。

 上空には重い雲が垂れ込めて、いつもは見える上海ご自慢の高層ビル群もその姿を隠していたからです。

 

 ロビーに出て、バスが来るまでの間、ちょっと外に出てきました。

 肌をピリピリと刺すような冷たさです。空を仰げば、白いものが舞って来ているではないですか。

 寒さにはめっきり弱い私です。

 旅先でこれではやりきません。

 

 ロビーに戻り、あたりを見回すと、片隅にあった売店の店員が、開店の準備をしています。

 私はその店に飛び込んで、内モンゴルで作られたという上級の革手袋と、新疆で織られたというカシミア100パーセントのマフラーを買い求めました。

 

 旅先で、しかも、異国で、風邪だけはひきたくはないって、そんな気持ちが働いたのでした。

 真新しく、心地よい肌触りのカシミアのマフラーを首に巻き、新品の割には、皮も柔らかく、ぴったりと私の手のひらにフイットする手袋をはめて、私は上機嫌になりました。

 

 あれは札幌に行った時でした。

 雪の降る夜でした。深夜にラーメンが食べたくなってしまったのです。夕食時に飲んだワインが美味しくて、少々、飲み過ぎたのいけなかったのでしょうか。食欲が治らないのです。

 ホテルのボーイさんに聞いて、近くにある有名なラーメン屋さんに入りました。一番大きく張り紙がされていたホタテラーメンを注文し、美味しくいただき、降る雪の中をホテルに戻ってきたのです。

 

 しかし、ホテルに戻って、程なくしてです。

 明らかに食中毒の症状が出てきたのです。

 嘔吐に下痢、その夜はとうとう一睡もできませんでした。

 翌日は小樽へ移動、昼食を美味しい寿司で締めくくり、夕方の飛行機で羽田に戻る予定でした。

 

 しかし、それどころではありません。

 顔面蒼白、力なく冷たい雪が降る雪道を歩き、札幌駅へ、そして、千歳空港へと。

 早い便があれば、それに乗り換えて、一刻も早く羽田に戻りたかったのですが、この時も正月の最中、空席などあるはずもありません。

 私は、空港のカード会社の医務室で、夕方の飛行機の時刻まで横になっていたのです。

 

 あの辛さがあったから、しかも、ここは日本ではありません。

 中国は上海です。だから、不安ばかりが先行したのです。

 

 蘇州に向かうバスの車内で、彼の地の田園地帯の光景を眺めます。

 幸いなことに、蘇州に近づくにつれて、天候は回復していきました。蘇州観光を楽しみながら、王維の詩句を刻んだ石碑を巡りながら、でも、私の心には、「秋の雨 胡弓の糸に 泣く夜かな」の暁台の一句がこだましてきたのでした。

 

 享保年間に生きた曉台が謳う「胡弓」は、きっと、私がこの時イメージした中国の「二胡」とは違うのだとは思うのです。でも、奏でるあの情緒豊かな、時にむせび泣くような、時に、人間の情念をこれでもかと高く伸ばす音色は同じだと思うのです。

 

 私の耳元に、今度は、阿炳の「二泉映月」のメロデイーが聞こえてきました。

 

 陸羽が、無錫を訪れ、恵山の麓にある泉を、茶を点てるに適した天下第二の泉と評し、その水面に映る月を愛でた曲です。

 私は、夜の上海の道路端の出店で、その胡弓の録音テープを安い値段で買っていたのです。

 

 曉台もまた、冷たい雨の中で、胡弓の音に感情を高揚させていたに違いありません。

 私は、曉台の句の上に、たまたま、上海から蘇州への途上にあったがために、阿炳の「二泉映月」を重ねたのでした。

 享保年間の俳人の句に、十九世紀の無錫の演奏家の曲が重なるのですから、おかしなことです。

 

 きっと、情感というのは、常とは異なる環境に身を置いたときに、高まるものなのでしょう。

 

 蘇州の街の、運河べりで洗濯をする女を船上から垣間見、子供をおぶって散歩する子守女の境遇を推測していた時も、あの「二泉映月」の曲調が私の耳の奥底にこだましていましたが、札幌では何も起こらなかったのです。

 

 当たり前です。肉体も精神も、食中毒でこてんぱんだったのですから。

 

 だから、情感は常に健全なる肉体があって、常とは異なる環境に身を置くことで高まると、私はいい直しをしなくてはならないのです。

 

 新そばを食いに行こうと、我が宅のチャイムを押したご近所の世話焼きと一緒に、近くのやかましい主人の店で、まだ、青臭さが残る新そばをご馳走になりました。

 

 世話焼きが一言言います。

 

 「秋雨や蕎麦を茹でたる湯の匂」

 

 この御仁も、風流を解します。

 漱石先生の一句です。鼻にちょっと気になる新そばの青臭い匂い、それが蕎麦湯の湯気を通して、鼻をつくのです。

 そんな風流なひと時を堪能し、私は口うるさい店主のいる蕎麦屋をでました。

  

 底冷えとはこんな天候をいうのだと思うくらい、北から吹き付ける冷気が身をさします。

 

 私は、内モンゴル製の革手袋と、新疆で織られたカシミア100パーセントのマフラーを身につけて、つくばの街の寂しい道を世話焼きと二人背中を丸めて歩んでいったのでした。

 


(2) 意地だけで生きてるんです

 

 国家が企業に対して激しく敵対する、そんな光景が、このところあちらこちらで見られます。

 

 先だっては、イギリス議会が、フェイスブックから個人情報が流失した件の調査で判明した一つの事実なるものを公にしました。 

 それは、FB活用者の個人情報へのアクセスを特定の企業に認めていた可能性があると言うものです。

 

 フェイスブックは、自分の名前、素性を正直に示すことを建前にしています。

 だから、同窓生に会えて、仲間に会えることができるのです。

 不特定多数との接触ではなく、かつての仲間、同好の士に会えることがその優位点であったのです。

 

 しかし、その真っ正直な情報が、無断で、特定の企業の利益に直結する活動に使用されているとしたら、それは詐欺行為になりかねません。

 

 私は、そのような姑息なあり方は好みません。

 

 もちろん、フェイスブック側は、部分的な事例を取り上げて開示するのは誤解を招くと反発をします。

 当然のことです。

 イギリス議会の報告を認めることはおのれの首を絞めるに等しいことなのですから。

 

 一企業のことであるなら、その企業が改善策を示し、それが認知されれば、批判や嫌悪は収まりを見せますが、それが国家の関与が疑われていれば、そうそう簡単なことでは済まされません。

 

 ファーウエイが槍玉に上がっています。

 

 アメリカがこの会社の部品を使っているいかなる製品も、今後はアメリカ政府と取引できないと公言してはばからないのです。

 ですから、オーストラリアも、ニュージーも、欧州の国々も、ファーウエイの締め出しにかかってきているのです。

 きっと、この傾向はいや増しになっていくことと思います。

 現に、日本の大手だって、ファーウエイから離れていきました。

 

 今、世界のスマホの通信形態は「4G」です。

 

 「3G」から移行した時に、すごいと、その速さや情報量の増大に目を見張ったものでしたが、時代は、圧倒的に巨大化した「5G」に、近々移行することになります。

 

 自動運転の車、空飛ぶ車、それに何から何までAIが組み込まれた機器を動かすにはどうしても必要な「5G」なのです。

 ファーウエイは、そこに何らかの仕掛けをして、それを使う世界中の機器から情報を奪い取るんだと、アメリカは言うのです。だから、ファーウエイを駆逐しないと、自分たちの情報は筒抜けになり、やがて、世界は中国に乗っ取られてしまうんだと、そら恐ろしいことを言うのです。

 

 当然、中国政府はそんなことあり得ないと主張します。

 

 先だって、日本の首相と会談を行った時も、国家が関与することはあり得ない、個別の件ではそれについては対処すると、国家主席が述べました。 

 

 実に微妙な言い片です。

 国家としてはやっていないが、個々にはその可能性があると言うことは、やっていると言うことになります。

 

 私が取っているある日本の大手の新聞に大きな記事が載っていました。

 ファーウエイの新しいスマホがいかに素晴らしいかを訴える記事です。

 カメラも最高、便利この上ないスマホであると、さらには、内容的にiPhoneをも上回りながら、価格は抑えられていると言うのですから、日本人にとっては願ってもない、そそられる記事ではありました。

 

 日本が世界が、ファーウエイに危機感を持っているのに、日本の新聞は悠長に、ファーウエイの宣伝を掲載しているのです。

 

 ファーウエイは漢字で書くと「華為」と書きます。

 「中華の為」と言う意味にもなります。

 

 どの企業も、自分の国の利益を第一に考えるのは当たり前です。

 NTTドコモが、中国に為に便宜を働けば、なんだと日本国内はいきり立ちます。

 それと同じですから、私たちがいきり立つことは少しもないのですが、アメリカがあれだけ大騒ぎして、あつれきを想定しつつも、ファーウエイの幹部の逮捕をカナダ政府に依頼したのは、きっと、重大な何かがあるはずなのです。

 

 でなければ、いかにトランプのアメリカでも、たがをはずすようなマネはしないはずです。

 そのくらいの常識を備えた有能人士がアメリカ政府にいないはずがありません。

 

 先だって、我が宅の情報機器の一つであるケーブルテレビの受診機器を、このケーブル会社が来年四月に開始すると言う4K8K対応にするためだというので、新しい機器に変えてくれました。

 私、うっかり、この新しい機器にファーウエイの部品が入っているのかどうかを聞くのを忘れてしまったのです。

 

 我が宅のつつましやかな情報が漏れては、一大事です。

 漏れれば、我が宅は、世界に恥を晒すことになるやもしてません。

 

 なにせ、意地だけで生きているのですから。

 


(3) 歳が歳だけに

 

 すっかりと冬めいてきた頃のことです。

 

 かかりつけの医院の、とりわけ若い医師が、歳が歳なんだから、気温の上がり下がりには十分に気をつけてと言うのです。

 歳が歳とは何事かと、腹のなかで怒りを募らせながらも、そうだ、もうちょっと自分の体を大切にしなくてはとも思ったのです。

 

 実際、私は、健康体に生まれてきて、親には感謝をしているのです。

 頭が痛いなんてこと、まったくないのです。

 お腹が痛くなることも、札幌での食中毒以来、ありません。

 

 先だって、疲れがたまり、それでも、無理を押して仕事をしたせいで、めまいがしたのですが、小一時間、ソファーで休んだら、すっかりと良くなっていました。

 きっと寝不足だったんです。

 

 かつてのつくばスポーツクラブの野球仲間で、今は卓球仲間になっている方がいます。

 ご近所に暮らしている方です。

 

 最近、卓球の練習に顔を出さないので、どうしたのかと思っていたのですが、先日、お互いワンちゃんを散歩させている時に、偶然、出会ったのです。

 

 ーおや、久しぶり、お元気ですか?

 ーついぞ、ご無沙汰して……

 ー卓球に来られないので、どこか、お体でも……?

 ーいやいや、実は今勤めに出ているんです。

 ーそうですか、それは、それは……!

 ーあなたと同じ、教師をしているんです。若かりし頃取った教員免許を生かそうと思って!

 

 そんな会話をしたのです。

 この方、名のある研究所の研究職についていた方です。頭もいいし、運動能力も抜群です。 

 野球でも、卓球でも、やらせれば巧みに動き、素晴らしい活躍をするんです。

 

 で、いつだったか、クラブに顔を出さなくなる直前あたりだったと思いますが、その方が体育館の隅に腰掛けて、息をゼーゼーさせていたのを、私、実は見ていたのです。だから、きっと体調が良くないに違いないと思っていたんですが、そうではなくて安心はしたのです。

 

 男二人、ワンちゃんを連れて、しばし立ち話です。

 そして、彼、言うんです。

 

 教師っていうのは大変ですねって。

 なんでも、非常勤講師で、やたら授業数が多いって、だから、卓球にも行かれなくなったと。

 その分、手当てもいいでしょうって、私、そういう事情を知っていますから言ったのです。

 

 だいたい、どの学校も一コマ二千円から、私学などは四千円近く出しますから、週に二十コマ持たされれば、結構な額になります。

 

 そしたら、彼、いや、心労代とすれば、それは極めて低額な賃金ですよって、あきれ顔になって言います。

 

 ですから、私、これは困った生徒、もしくは保護者に絡まれているなって察したのです。

 特に、非常勤講師であり、幾分歳がいっていると、小生意気な生徒はそうした教師を馬鹿にするんです。

 怖くないからです。

 

 そうした先生は、優しいんです。いや、厳しくできないのです。だから、そこを付け込まれるのです。そうすると、今度は厳しさを求める生徒や保護者からクレームが来るのです。

 

 それが悪循環となって、非常勤の先生を苦しめるんです。

 

 私、それがよくわかっているんです。

 そうした、先生を見てきていますから。

 

 研究所にいて、研究に没頭していたのと異なり、子供を相手にしての仕事です。

 きっと、苦労しているに違いないって、私、察したのです。

 

 今どきの学校であれば、生徒に行き過ぎた言葉での叱責も止められているはずです。

 高校生くらいの年齢がなっていればいいのですが、彼が勤務している学校は中学です。子供と大人の中間にある、一番、難しい年頃の子供たちです。

 ですから、きっと、教育に関して、それまで圏外にいた人には、相当にきつい状況に置かれているに違いないのです。

 

 彼が体育館の端で、息をゼーゼーしていたのは、体力的に無理がたたってのことではなく、精神的に追い詰められていたに違いないって、私、この時、察したのでした。

 

 要は、人間性なんですよ。

 

 ものごとが理解できない子供っていうのはどこにもいるものです。まだ、成長段階にあるんですから。だから、ちょっと早く成長して、ものがわかる生徒、その生徒を使って、クラス全体をコーディネートしていくんですよ。

 

 教師一人でなんでもかんでもやろうなんて思っちゃダメですよって、私、頼まれてもいないのに勝手に講釈をしてしまったのです。

 

 そしたら、彼、目が真剣になったんです。

 

 人というのは、どんなに人格者でも、心の中の思いが表情に出ます。それを、子供っていうのはすぐに察知するんです。怒っていると思えば、ますます、怒るように仕向けてくるんです。火に油をそそがれていきり立つ教師を、まるで、漫画を見るみたいに楽しむんです。

 

 でも、それを受け止めて、ちょっと、膝を落として、彼の目線に合わせて、気の利いた言葉をかけてやれば、その子には、理解できなくても、周りのちょっと早くに成長している子にはそれがわかるんです。すると、その子達が、理解のできない子たちになんらかの言葉をかけていくものなんです。

 

 それを私、クラスをコーディネートするって言ってるんです。

 

 そう言ったのです。

 キョトンとしていますから、今度は、柔道の話を持ち出しました。

 

 体の小さいものが大きく力のあるものを倒せるのは、彼の力だけでは無理ですが、大男の発する力を利用すれば、わけなく飛ばせるでしょう、あれですよと。

 

 真面目な人ほど、何とかしなくてはと焦ります。

 でも、相手は人間、それもまだ未熟な子供です。こちらのが面子を捨て、相手の視線を受け止め、皆の力を結集させればいいだけの話ですよ、気楽に、気楽にって、そう言ったんです。

 

 若い医師は、私に歳が歳だと言いましたが、その歳が歳だけに、私もいいアドバイスができたと勝手に自惚れたのでした。

 

 彼と別れた後、ちょっと振り返って、彼の後ろ姿を見たとき、幾分背筋が伸びていたと私は見たのです。

 もしかしたら、錯覚かもしれませんが……

 


(4) 快、感!

 

 仕事をしていると、必ずといっていいほど、耳の中がこそばゆくなるのです。

 

 だから、デスクの横に、黒い綿棒の入ったケースをおいておくのです。

 そして、こそばゆくなったら、すかさず、綿棒を取り出して、耳の中をかき回すのです。

 

 慎重に、まるで、綿棒の先にカメラがあって、それを見ているかのように、私は綿棒を耳の奥、外耳道の先にある鼓膜の手前まで、これ以上突いたら危ないというところまで探るのです。

 

 すると、「ガサゴソ」って、音が頭蓋骨を伝わって聞こえてくるのです。

 あの「ガサゴソ」っていう音、素晴らしい音だと妙に感じいるのです。

 

 快、感!って。

 

 ひと回しふた回し、綿棒がなにやら物体にあたる音があの「ガサゴソ」という音です。

 それを綿棒の先端に絡めて、それは耳垢に違いない、そう思って、感じて、全集中力を傾注して、引き出すのです。

 だから、黒い綿棒の先に、かすかに耳垢が付いていれば、私は大いに満足して、耳掻きを終えるのです。

 

 その「ガサゴソ」という音、ASMRって言うそうなんです。

 

 Autonomous Sensory Meridian Response の頭文字で、「聴覚視覚に刺激によって得る心地よい感覚」っていうのだそうです。

 それが今、睡眠障害やうつ病の治療に成果を出すのではないかって言われているのです。

 

 そんなことを言われると、確かに、あの快感は人を高揚させているって、私、気がつくのです。

 

 例えば、買ってきたばかりのウイスキーの瓶、栓を回して、氷を入れたコッブの中に注ぎ入れます。

 「トクッ トクッ トクッ」と心地よい音をして、注がれていきます。

 栓を抜いた最初の一杯しか、そのような音はしません。

 その音を聞きたいがために、ウイスキーを買ってきたこともあるくらいです。

 

 まぁ、昔の話ですけど。

 

 それに、私が快感を感じるのが、両手を、いや両手のそれぞれ五本の指を、巧みに動かして、キーボードを打つ音です。

 頭に続々と浮かんでくる言葉を、よどみなく、キーボードを叩いて、画面に日本語で文章が綴られる、あの時の「カタカタカタカタッ」といった音です。

 

 これは、ものを創り出している、私には音になっているのです。

 まだ、パソコンがない時代は、モンブランの万年筆で、マルゼンの原稿用紙に文字を書いている時の「カサカサッ」という音が、私にとって、ものを創り出している音でしたが、あれも快感でした。

 

 まさに、よどみなく、ものが作り出されている音だからです。

 

 そんなことを考えれば、これらの快感を伴う「音」が人間の心に作用し、心の障害に役立つのではないかと考えるあり方もわかるのです。

 

 では、反対に、私たちを不快にさせる音って、なんだろうと思うのです。

 

 我が宅の前の道を、前方にある信号が黄色になって、それ行け、赤になるぞってアクセルを踏んで疾走する車の音かしらって思うのですが、さほどの不快な気持ちにはなりません。

 先だっては、サカリのついた野良猫が、珍妙な声をあげて鳴いていましたが、それとて、不快で嫌になるというわけではありません。

 そうして、不快な音を探すのですが、さほどに私には思いうかばないのです。

 

 ところが、そんなことを思っていると、先日我が宅の上空に寒気が流れこんてきた折、ちょっと車で出かけて、戻ってきた時のことです。

 シャッターを開けて、車を入れたところ風が落葉を巻きちらこんでガレージの中にサッと入ってきたのです。それだけなら、なんということのないことですが、シャッターを閉めて、耳をすますと、謎の音が耳に入ってきたのです。

 

 それは夏の嵐の日にも耳にした音です。

 どこか人工の、エンジンの音のような「ウーン」と唸るような音なのです。

 苦しんでいるのだろうか?

 辛いんだろうか?

 悲しくて悲しくてやりきれないのだろうか?

 そんな「ウーン」っていう音なんです。

 ですから、私、ガレージの横のドアから再び外に出て、しばらく、空を仰いだのです。

 確かに、「ウーン」という音は、空から聞こえてきたからです。

 

 低気圧の空気が、上空で逆巻いて、唸り声をあげているのかしら! 

 電信柱に取り付けられた電線が、その吹き付ける風を真っ二つに切って、それがあの音を指しているに違いない、なんて思ったりしたのです。

 

 人の心に不快感、恐怖感を与える音です。

 

 この世に私が不快と感じる音があるとするから、これに違いないと、私、寒い風を全身に浴びながら、そう思ったのです。

 そんな音より、快感を感じる音がいいって。

 

 私の両方の手の親指二本を除く8本の指は、実に淀みなく、快活に動き、「カタカタカタカタッ」と心地よい音を立てて、私はものの二十分ほどでこれを書き終えたのです。

 

 これまた「快、感!」ではありました。

 



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