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目次

<目次>

 

 (1) かぎろひの立つ見えて

 

 (2) 冬の港

 

 (3) 縄文人の「鍋」

 

 (4) とあるゾーン

 

 


(1) かぎろひの立つ見えて

 

 早朝に行う仕事が、思いの外、はかどりました。

 

 コアラの国から、孫のGOKUが我が宅に滞在していた時から、この早朝の仕事は始まりましたから、もうかれこれ半年あまりも続いている、私の習慣であるのです。

 

 GOKUたちが起きてくる前に、仕事を終えれば、その後、たっぷりと遊べます。

 買い物にも、筑波のお山にも、霞ヶ浦にも遊びに行けます。

 そういえば、私がGOKUの暮らすロビーナの街に滞在している時もそうでした。

 仕事も滞りなく行い、孫たちとも楽しい時間を過ごすには、これが最上の策なのです。

 

 その朝、私は冷めたコーヒーカップを手に取り、そっと書斎の窓を振り返りました。

 そこからは道向こうのアカマツ林が見えるはずですが、まだ夜は明けていません。

 十一月も末になると、東の空が明らむのも遅くなります。

 

 私、そうだ、「かぎろひ」を見に行こうと、ふと思い立ったのでした。

 

 我が宅から「東の大通り」を越えて、筑波山に通じる低地帯の境目、そこから朝日の昇ってくる様がとてもよく見えるのです。

 昨年の冬は、結構な回数、それを見に、早朝に出かけていたものです。

 

 この晩秋、初の「かぎろひ」を見るには、ちょうど良い頃合いだと自分に言い聞かせ、私は毛糸の帽子を被り、ダウンジャケットを着込んで、ガレージの横の扉からそっと外に出たのです。

 

 暖かい日の続く日々ですが、やはり、朝方は冷えます。

 足元から冷気が頭のてっぺんまで伝わってくるようです。

 

 「東の大通り」には、大型のトラックがかなりのスピードを出して通り過ぎていきます。そして、遠くの信号のある十字路の先にあるコンビニの明るい光を見て、なぜかほっとする自分がいるのを不思議に思います。

 

 なぜ、お前さんはそんなにまで人恋しくなっているのかって。

 

 程なく、住宅街に入ります。

 物音ひとつしません。

 向こうに、目安になる、四本の、背の高い松の木がおぼろげに見えてきました。

 あそこを過ぎれば、東の空を一望できる丘の上につきます。

 

 <ひむがしの野に かぎろひの立つ見えて かへり見すれば月かたぶきぬ>

 

 ふと、私の心に『人丸』の歌がこだましました。

 柿本人麻呂を私は『人丸』などと呼んでいます。いや、私が勝手にそう呼んでいるのではなく、ある時代、彼はそう呼ばれていたのです。

 実に興味ある歌人で、梅原先生の『水底の歌』を読んだのはまだ私が十代の頃でした。

 その新進気鋭の学者であった梅原先生の説に、心をときめかせていたのを覚えています。

 

 しかし、そこに書かれていたのことなどもはやすっかり忘却の彼方にあります。

 ですから、私は単純にその語呂が誘う音から、その歌を心の中でこだまさせたのでした。

 

 かびろひには「炎」の字が当てられていました。

 炎のように、東の空が燃えるのです。

 朝の陽がそれとわかるように昇る前、陽は東のきわ一帯を真っ赤に染め上げるのです。

 今、真っ赤と書きましたが、正確にはそのような色ではありません。

 その色を的確に表現することは、どうも、私の語彙力では不可能なようです。

 

 ですから、<かぎろひ色>としておきます。

 その<かぎろひ色>の上には濃紺の空、さらには星の瞬きもない漆黒の空が広がるのです。

 そんな「ひんがし」の空なのです。

 

 丘に着く頃、空は変容を始めました。

 近くの農家の飼っている鳥がけたたましく鳴き声をあげます。まるで、静寂な空気を切り裂かんばかりの音です。

 私は、ビクッとして体を震わします。

 

 人は、夜が明ける時、「しらじらと」という言葉を使います。

 確かに、夏の夜明けのあれは「しらじらと」明けていくことでしょう。

 しかし、晩秋から冬にかけては、冷えた空気の密度も濃くなり、その濃い冷えた空気を通してみる陽の光は、決して、白々としたものではありません。

 

 ひんがしの空が、染まってきました。

 四本松のシルエットも一段と際立ってきました。遠く、筑波の山並みも同じです。

 「かぎろひ色」の空が、次第に東の方角を染め上げていきました。

 

 人丸は、宮廷歌人です。

 ですから、当代の帝のために、その繁栄を、そして、ここに至るまでの悲しみを歌った歌人です。この歌を詠んだときも、そうした思いを言葉に託していたと言います。

 

 単に、情景を謳うのではなく、帝の思いをそこに託しているのです。

 傾き落ちていく月、今まさに昇らんとしひんがしの空を染める陽を、亡き父君草壁とその息子軽皇子に当てているというのが通説です。

 

 子が親を思うこれは歌なのだと思うと、情景と相まって、切なささえも感じるのです。

 世の常とはいえ、人が心にもつそれは切なさです。

 

 そんな切なさを、人は飽きることなく、何千年も繰り返しているのです。

 いや、それが人の道であると、その単純とも言える繰り返しが人の道なのだと、そう思うのです。

 

 そんなことを思うと、身近にある悩みとか、困った出来事など、取るに足らないものだと思うから不思議です。そんなことも、あんなことも、それを繰り返して、人はたった五十年の人生を、今は八十年にもなった人生を生きていくのです。

 

 <かぎろひ色>と背にして、私は月傾く方角へと向かって足を早め、帰途についたのです。

 


(2) 冬の港

 先だって、久しぶりに港に出かけました。

 

 仕事に忙しくして、船に乗ることができなかったのです。いや、シーズンを終えた港があまりにせつなくて、いきそびれていたのかも知れません。

 陽光がきらめき、心地よい風が湖面をなでるように吹いていれば、多少のことがあっても、港に行くのはわけないのですが、薄鈍色の空の下、さざ波の立つ港に、川鵜が餌を漁りに潜っているのを見るのは、妙にせつなくて、私はいきそびれてしまうのです。

 

 初冬のヨットハーバーは、この日、いつものように、薄鈍色の空に覆われていました。

 

 ヨットのマストに絡めてあるロープが風で揺れて、かちゃかちゃと音を立て、その風の立てる波に、係留されている船がどれも一様に揺れていました。

 

 日頃、港にたむろしているヘラブナ釣り師たちも、こんな日は、とうに姿を消しています。

 元気のいい、バス釣りの青年がロッドを振っているだけです。

 

 船に上がり、キャビンにいても、寒さが押し寄せてきます。

 船底をチャプチャプと叩く水音が、妙に寂しく感じられもするのです。

 

 今日は何をしに来たんだっけと、思案をします。

 そうだ、エンジンまわりの汚れを落としに来たんだと思い出しはしますが、一向に腰を上げることはできません。

 寒さで何をする気も起きないのです。

 

 夏のヨットハーバーは、元気でした。

 明るい日差し、船を手入れをするヨットマンたち、それに、ボートマンたち。

 ヨットマンやボートマンというのは、年がら年中、船に乗って、沖に出ているわけではありません。むしろ、船そのものがそこにあるのを、桟橋から眺めていたり、デッキにモップをかけたり、注文した日除けを設置したり、そして、その下で、日がな一日、ぼんやりとすることの方が多いのです。

 気のあった者が声を掛け合って、招待したり、招待されたりして、コーヒーを飲むのも一興です。

 何より、自分の船を磨き上げることが、何よりの楽しみなのです。

 自分の船を磨き、綺麗にするんです。

 自宅ではしない、きめこまかい掃除を、男たちは船ではするのです。

 時には、道具を持ち込んで修理もしますし、ペンキも塗ります。

 

 だって、これは自分たちの大切な趣味の道具なのですから、なるべく、自分たちの力で居心地よくするのは当然のことなのです。

 

 この夏のある日のことでした。

 一人の若者が、私がデッキにモップをかけているときに、声をかけてきました。

 「この辺りで、船を売ってくれる人っていますか」って。

 

 船が欲しいの?

 

 昔、私がそうでした。目の玉が飛び出るような船も、オーナーから買えば、案外、安く手に入るのです。

 だから、私も人づてに、船を手放したい人を紹介されて、今の船を手に入れたのです。

 

 ヨットがいいの、ボートがいいの?

 ボートであれば、エンジンは、外付け、それとも……。

 

 モップを手にして、そんな言葉をやりとりしたのです。

 

 で、いくらくらいの予算なの?

 すると、五万くらいって、そう言うんです。

 五万!

 私、思わず、その示された数字に驚いてしまいました。

 いかに、中古とはいえ、それはないよって、そう思ったのです。

 

 でも、この青年、真顔で言います。

 その金額だと、この港では誰も船を譲ってくれないよって、私、言ったのです。

 青年も、それがけったいな金額だとわかっていたようです。

 そうですよね。

 無理な話ですよねって、そう言って、口元に笑みを浮かべるのです。

 

 だから、私、こっちへ来なよって、彼をデッキに招き入れたのです。

 良いんですかって言いながら、彼、両手をバウの金具にかけて、勢いよく飛び乗ってきます。

 

 話を聞くと、船舶免許はすでに取っていて、あとは船を何としても手に入れたい、そして、釣りをしたいから、私のような釣りのできる船が欲しいって言うんです。

 

 青年は、今、どこで何をしているのかなんてことも、語り出しました。

 まだまだ、これからの青年です。

 安定した勤めについて、まず、己を確固とすることが先決だって話をしたのです。

 だって、浮き草のように、勤務先を変えては、その日暮らしのような生活をしている若者だったからです。

 

 船は、素晴らしい乗り物だけど、それに乗るには、いや、それを所有するには、ある程度の資金がないと乗れないよって。

 彼の憧れは、イギリス人がやるようなボートで暮らすと言う生活のありようであったのです。

 彼は、そこに自由を見出していたのです。

 

 それにしても、青年らしい夢です。

 それを実現するために、五万円で船を手に入れようって言うのですから。

 

 でも、あの青年、きっと、自分の夢を実現するのではないかって、私思っているんです。

 あのくらいのずうずうしさがなくては、船など持てません。

 

 あれから三ヶ月あまりが経ち、港も、夏から秋、そして初冬を迎えました。

 私は、キャビンから出て、エンジン周りの汚れ落としにかかりました。

 あの青年、今日は来ているかしらって、港を見回しますが、それらしい気配はありません。

 港には、バス釣りの青年と、この寒さの中で水を含ませたスポンジで船の汚れを落とす私がいるだけです。

 

 私だって、あの青年と同じだったんだ。

 

 男という奴は、ささやかでも夢がなくてはいけない。 

 もしかしたら、今、この寒さの中を、五万で船を譲って欲しいって、あの青年が来たら、私、その熱情にほだされて、よし譲ろうって、言うかも知れないって、かじかんだ指で船の汚れを落としたのでした。

 


(3) 縄文人の「鍋」

 

 夕方のニュースを見ていたら、へぇーと思うようなことがありました。

 

 それは、民泊を経営する男性が、一室を共有の場として、宿泊者たちと鍋を囲むというニュースでした。

 もちろん、その施設に宿泊しているのは、外国から、とりわけ欧米から来た方々です。

 

 まず、各部屋に置かれているコタツに、彼らは「参る」そうです。

 コタツなど、我が宅に関していえば、ここ二十年ほどついぞ見ない代物です。

 日本には、マンガで描かれるコタツなどという極めて日本的な暖房道具は、もう一般の家ではないのだということを、訪日外国人たちは知っているのです。

 しかし、その民泊にやって来た外国人たちは、自分たちが宿泊するその部屋に、マンガで見た、あの憧れにも近いコタツがあることに喜びと驚きの声をあげるのです。

 

 その共有の部屋で、皆で鍋を突っつくことが、これまた、彼らにとっては、実に日本的な体験であるということで、この民泊は、口づてに人気を博しているというのです。

 

 実は、我が宅では、オーストラリア人が何度となく「民泊」、いや、ホームステイをしに、宿泊した経験があります。もちろん、私も、オーストラリアに行けば、彼らの家に泊まりながら、ホテル代をかけないで、旅行をしますので、お互い様です。

 

 その折、彼らのライフスタイルから、一つの鍋を囲んで、そこに箸を突っ込んで、同じ料理を食べることには抵抗があると思って、わが宅ではそれを出すことは滅多になかったのです。

 たまに、おでんなどを出すときは、鍋から取り出す箸とツユをとるしゃもじを入れて、彼らが持つ「抵抗」を極力避けていたのです。

 

 あるとき、気心の知れたオーストラリア人にそのことを率直にきいたことがあります。

 

 イタリアからの移民でアデレイドで教師をしていた彼女は、フランス語と日本語の教師で、柔道をする大柄な女性でした。

 靴は28センチ。

 私の靴と並んで玄関にそれが置かれてると、彼女、いつも、笑いながら、私は足が大きい、恥ずかしいと言っていました。

 

 その彼女に、鍋の話をしました。

 日本のあの食べ方を、どう思うかって尋ねたのです。

 

 彼女の返答は、きっと、多くのオーストラリア人は、好まないはずというものでした。

 だって、鍋をすれば、きっと誰かが、自分の口につけたものを、鍋に突っ込んで食べたいものをとるのですから、そのような食べ方は彼らの習慣にはないのですから、当然です。

 日本通と呼ばれる彼女でも、ためらうそれは日本の食べ物であったのです。

 

 かれこれ、二十年も前の話になります。

 

 それが、今、訪日する外国人たちは、一向に気にしないということになります。

 ですから、私、そのニュースを見て驚いたのです。

 日本にやってくる外国人たちが、日本のことをよく研究してきてくれていることに嬉しさも感じるのです。

 

 「鍋」という料理、これは日本特有のものです。

 

 そんなことを言うと、中国の人や韓国の人から、自分たちの国にもあるぞって、糾弾されそうですが、やはり、「鍋」は、私、日本固有の料理だと思っているのです。

 

 なぜなら、素焼きの土鍋に、水を入れて、野菜や魚、肉にきのことありったけの素材を入れて煮る料理は、日本では縄文の時代からあったに違いないと思っているからなのです。

 

 中国や韓国での「鍋」は、だいたいが金属の鍋です。

 土鍋でグツグツに煮立たさせて、それを食べるのは日本だけなのです。

 

 だから、「鍋」料理は、日本固有のものだと思うのです。

 

 あの縄文土器をご覧なさい。

 先が尖っていて、一体、どうやってそれを立たせるのかって考えてご覧なさい。

 焚き火の灰の中に突き刺し、その周りに火をたき、側を流れる川から子供たちが水を運び入れ、森で拾ってきた木の実やキノコを入れ、そこにイノシシの肉や鮭を入れるのです。

 

 一家あげて、「鍋」料理を作り上げるのです。

 

 きっと、いい匂いと、熱い熱いと言って、それを口に頬張る子どもたちの姿に、大人たちは、その日の一日の仕事の疲れを癒していったはずです。

 

 そうした、日本文化のありようを、昨今の外国人たちはものの本で理解して来てくれているのです。

 そう思うと、隔世の感を感じると同時に、その姿勢を嬉しく思うのです。

 

 しかし、縄文時代から始まると私が推測する「鍋」料理、一家団欒で「鍋」を突っつくその姿は、日本の家庭から消えつつあることも事実なのです。

 

 核家族化、独り住まい、高齢化……と、日本は今、縄文以来の日本の伝統的なものを維持し得ない状況に置かれているのです。

 

 せめて、三千万とも言われる海外からの賓客が、日本の文化を学び、来てくれるのですから、それを頼りに、少なくとも、最低限の日本文化は、私たちの手で維持していかなくてはと思っているのです。

 

 さぁ、今日は、寄せ鍋でもしますか。

 ありったけの食材を鍋に突っ込んで、グツグツと煮立たせて、ゆずを絞って、それに浸して、口の中に火傷の一つも作って、縄文人の家族のことを思いながら、そんなことを考えているのです。

 


(4) とあるゾーン

 

 空想科学的な物語が好きで、子供の頃から読んできました。

 

 ガリバーに、少年たちの漂流記。

 教師をしているときは、『桃花源記』の授業で、熱弁もふるいました。

 挙句に『風の島』などという本を出版したりもしたですから、その熱中ぶりがよくおわかりいただけるかと思います。

 

 拙著『風の島』では、シドニー発の旅客機が太平洋上のとある島の近くに不時着し、主人公が幸運にも生き残るという設定です。

 そして、その島に、あの零戦をベースにした「二式水上戦闘機」を発見するんです。

 

 風の島と名付けた主人公が、その島をあちらこちら巡って生きる算段を取りながら、今でも跳べるように整備されている「二式水戦」の秘密を探るのです。

 

 もちろん、ヒットするような作品にはなりませんでしたが、私としては大いに気に入っている作品なんです。

 

 見知らぬ場所に行って、見知らぬ人に会うなんて、空想科学の原点のような展開です。

 

 先日、CNNのサイトで、一枚の写真を見ました。

 ちょっと見た目には、河原か、海岸の砂浜あたりかのところで、一人の人間が右手を掲げている写真でした。

 その写真にコメントが付いていました。

 「津波被害の調査のため飛行しているヘリに向かって弓を向ける住民」って。

 

 一体全体、何事かと一挙に興味が高まっていくのを感じました。

 

 そこはインドの北センチネル島という場所です。

 そこに暮らすのはセンチネル族という民族で、地元政府は、彼らの生活を尊重して、外部からの接触を禁止しているといいます。

 彼らは、私たちの世界との接触を断固拒否し、不用意に近づくと攻撃をしてくるというのです。

 部族としては、四百ほどの人口という人もいれば、数十人だという人もいて、詳しくはわからないというのです。

 

 その北センチネル島に、アメリカ人青年が上陸して、殺害されたというのが、その記事の内容でした。

 

 今時、マゼランが南の島に降り立ち、現地人に攻撃されるような話があるんだと、すこぶる興味をかきたてられたしだいなのです。

 

 おとぎ話であれば、大団円に物語は展開するのでしょうが、このセンチネルの民の話は、どこか殺伐としています。

 この世界に、そうした外部との接触を断固拒否する種族は、百あまりあるといいますが、ジャングル奥深く、まだ確認されていないものを含めると、結構な数になるのではないかと思うのです。

 

 でも、空想科学的な範疇ではなく、非常に現実的で、しかも、恐怖を感じてしまう話です。

 事実は小説よりは奇なりとはいいますが、まことにその通りだと思うのです。

 

 先日、私は筑波山の麓に例のごとく愛車マドン号に乗って、秋陽の穏やかな陽射しを背に受けてツーリングを楽しみました。

 

 きつい坂は体力的に無理があるので、緩やかな坂道を進んでいきました。

 もちろん、初めて通る道です。

 道のところどころに敷地の広い家があります。どれも、個性あふれる家です。

 生活を楽しんでいるなぁって感じさせてくれる家々です。

 

 どんな人たちが暮らしているだろうと。

 そんな豊かな光景を楽しみながら、ギアーを軽くして、私はせっせとゆるい坂道を上がっていったのです。

 

 途中、iPhoneで位置を確認しますと、この道は山肌をぬって、右へ右へと曲がり、私のよく知る平沢官衙の遺跡にたどり着くそんな道であったのです。

 

 よし、もうひと頑張り、この細い道を上がって、平沢官衙まで一気に下ってやろうと、私はこぎ出したのです。

 道は車が通れるような道ではありません。

 狭いのです。

 せいぜい、農家の軽トラックがやっと通れるそんな道です。しかし、道の両サイドは丁寧に刈り込まれ、生い茂る樹木はなく、見晴らしもすこぶるいいのです。

 

 後ろを振り返れば、筑波のあのツインサミットが見えます。

 私はペダルを踏んで、どんどんと進んでいきました。

 

 すると、ちょっとした小川に出たのです。

 そこには我が家の暖炉で使うような薪かと思われる木の枝で作られた小さな橋が架けられていました。

 

 私はその流れる水の音、何よりも川の中の藻の絶妙に揺れ動く様に心を動かし、マドン号から降りて、橋の袂に佇んだのでした。

 

 これだけ綺麗な水の流れる小川が筑波山麓にもあるんだと、そして、手袋を外して、その流れに両の手で入れました。

 

 水は冷たく、サラサラとしていました。

 思わず、私は両手でそれをすくい、その川の水を口に含んだのです。さっと口中に清々しい感覚が走りました。

 

 すると、竹で編んだ籠が、川上から、流れてきたのが私の目に入りました。

 

 上流を見ると、そこには竹やぶがあり、あたりとは違って鬱蒼としています。

 私は、その籠をすくい取って、もしかしたら、あの竹やぶの向こうに人家があって、これを誤って流してしまった人がいるのではないかと思い、それなら届けてやろうと、川沿いに歩んでいったのです。

 

 竹やぶは見た目よりは歩きやすく、誰かが通っている道らしきものがありました。

 

 薄暗い竹やぶを抜けると、目の前が開けて、草原が現れました。

 筑波の山の中にしては、意表をつかされる草原です。

 

 その草原の中に川の流れはありました。

 

 私は奇妙な錯覚に襲われながらも、何かに引き寄せられるように川沿いの道らしき筋を伝っていったのです。

 やがて、一軒の藁葺きの家が見えました。

 きっと、あそこの家から、この籠が流れてきたに違いない、そう思って、私はこんにちはと声を出しながら進んでいったのです。

 

 すると、藁葺きの家の前で、一人の背の高い老人が、こちらを向いて、仁王立ちになりながら、右手を上げて、向こうへ行けと指図しているのです。

 

 明らかに、こっちへ来いではなく、向こうに行けというサインです。

 

 私は、手にした籠を高く上げ、ここに置いておくとサインを送り、引き返したのです。

 時折、振り返ると、その老人はこちらを仁王立ちになったまま睨んでいるのが見えました。私は、竹やぶを通り抜け、マドン号の置かれているあの橋のたもと戻ってきたのでした。

 

 数日後、私は秋の陽の穏やかにさす休日、あの道をマドン号で再び上っていきました。

 あの水の流れ、あの藁葺きの家、そして、仁王立ちで向こうに行けという老人のことが気にかかったのです。

 

 しかし、行けども行けども、あの小川と橋が見当たらないのです。

 

 私は、筑波のお山の麓に、あの「桃源郷」を見たのであろうか、それとも、時空を超えて「菟玖波」と書き示されていたあの時代、あの空間に、分け入ってしまったのであろうか。

 

 私は、iPhoneが示すように、平沢官衙に通じる坂道に出て、そこを一挙に下るしかなかったのです



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