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第2章 宗教書?聖書の正確さ

  私が高校生だったとき、歴史の先生が聖書の記述の確かさについて、興味深いことを説明していました。(ちなみにその先生はクリスチャンではありません)。その話によると、現在は「ヒッタイト」という国家があったことは歴史上の事実ですが、しかしかつては聖書にのみ記述のある、幻の国とか言い伝えだけの国、と思われていたというのです。

  

  聖書にはヒッタイト人のことを「ヘテ人」と記しています。この聖書の記述がしっかりとした歴史であると証明されたのは、発掘されたオリエントの文献の中にヒッタイトについての記述があったからでした。

  

  また聖書に記載されているエドム人の国の首都ペトラも、現在観光地となっている遺跡が発見されるまでは、聖書の中のおとぎ話と考えられていました。

  

  

 

  この章ではそのような、聖書の記述の正しさが証明された実際の事例を、いくつか挙げてみたいと思います。

  

  

  聖書が科学に先んじていた実例

  

  宇宙はかつて「始まりも終わりもなく、いまある状態がずっと保たれてきた」と考えられてきました。そして科学者たちには「真空」という概念がなく、宇宙はエーテル体という物質が満ちた空間である、と考えられていました。しかし現在はビックバン理論が主流で、宇宙空間は何もない空間であると分っています。

  

  ビックバン理論にも紆余曲折があり議論があるようですが、何もない無から全てが広がったとする考えや、地球が真空の宇宙空間に浮いているということは、聖書にも記述されていることです(ヨブ記26章7節 新改訳聖書):

  

  

神は北を虚空に張り、地を何もない上に掛けられる。

  

  

  旧約聖書の原文のヘブライ語では、「張る」という言葉に「ナーター」という単語がつかわれています。この単語には「張る」のほかに「かたむける」という意味もあります。つまり聖書は昔から地が真空に浮かんでいることと、地球の軸が傾いていることを伝えていたのです。(地軸が23.5度かたむいていることは周知のことです。)

  

  もちろんそれを読む人間がそのことを理解したのはずっとのちのことですが、聖書は科学よりも先んじて正確な事実を伝えていたのです。

  

  またドイツのウェーゲナーが1912年にはじめて大陸移動説を発表したとき、学会は彼を嘲笑しました。しかしいまでは大陸が移動したことは常識です。そして現在ではウェーゲナーが想定した、たったひとつの「パンゲア大陸」から、すべての大陸が分かれていったと学会でも考えられています。

  

  実は最初の大陸がひとつであったことも、聖書にはしっかりと記されています。

  

  創世記1章9節には神の天地創造の一場面として、つぎのような記述があります:

  

  

神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。そのようになった。

  

  

  この「地」は海に現れた大陸のことです。そしてその「地」は単数形で書かれています。聖書は創造の初めに、大陸がひとつであったことを伝えているのです。

  

  また人の知識がまだ、水の循環システムについて理解していないとき、聖書はすでにそれをつぎのように語っています:

  

  

伝道者の書1章7節

 

川はみな、海に流れ入る、しかし海は満ちることがない。川はその出てきた所にまた帰って行く。

 

 

ヨブ記36章27節から29節

 

:27 彼(神)は水のしたたりを引きあげ、/その霧をしたたらせて雨とされる。

:28 空はこれを降らせて、人の上に豊かに注ぐ。

:29 だれか雲の広がるわけと、/その幕屋のとどろくわけとを/悟ることができようか。

  

  

  科学者たちが水の循環について説明するずっとまえに、聖書はそのことをすでに述べていたのです。

  

  聖書が科学に先んじている例はさらにあります。

  

  「新・科学の説明が聖書に近づいた」の著者である久保有政(くぼありまさ)氏によると、日本人が発見した大型船舶の安定性と強度に関する黄金比率は、旧約聖書に登場するノアの箱舟の寸法の比率とまったく同じだったそうです(同書192頁-193頁)。

  その比率は長さ・幅・高さが30・5・3で、研究したチームの責任者の名前をとり、「真藤(しんとう)比」とか「黄金比」などと呼ばれています。しかし創世記6章15節に記されているノアの箱舟の比率は、日本人が研究するずっと前から30・5・3でした。

  ノアの箱舟はメートル法になおすと、長さ132メートル・幅22メートル・高さ13メートルの巨大な浮かぶ箱でした。(現在の船の形ではなく、文字通り箱形です。)

  

  

 

  ノアは神に言われたとおりに箱舟を作りましたが、そこには安全性と強度を保つための最高の知恵が初めから存在していたのです。聖書は昔からそれを伝えていました。

  

  

  聖書の記述をもとに科学を進歩させた人たち

  

  聖書の正しさを初めから確信して、科学を進歩させた人々もいます。カール・リンネとマシュー・モーリーはその代表でしょう。

  

  カール・リンネは18世紀スウェーデンの博物学者で、「分類学の父」とも呼ばれています。

  彼は創世記1章にある天地創造の話のなかで、神が「その種類にしたがって」動植物を生じさせたという記述に啓発されました。そして必ず動植物には系統だった種類があるはずだと信じ、分類をはじめました。

  進化論的な考え方がすすんでしまった現代では、この分類を進化論的に分類したものと思いがちですが、分類学は聖書に啓発されて発達したのでした。

  

  マシュー・モーリーは「海洋学の父」と呼ばれ、19世紀に活躍し海流を発見した人物です。

  彼はアメリカ海軍の士官でしたが、詩篇8篇8節に「海路」という言葉があることで海の道の存在を確信します。そして潮の流れや海上風のデータを集め、海流についてまとめました。

  モーリーは海に生きる者として、聖書の以下の聖句から特に励ましを受け取っていたと伝えられています:

  

  

詩篇107篇23節24節

 

舟で海にくだり、大海で商売をする者は、

主のみわざを見、また深い所でそのくすしきみわざを見た。

  

  

  マシュー・モーリーは軍人でしたが、神を信じ聖書の正しさを確信したことで海流を発見し、創造主のくすしきみわざを見ることができました。

  

  聖書の正しさを信じて科学を進歩させた人々がいるいっぽうで、教会が聖書の正しさに気付かずに、天動説のような誤った教理を確立した時代もありました。

  

  しかしこのような時代にあっても、コペルニクスやガリレオ、またケプラーといった熱心なクリスチャンによって地動説が唱えられました。

  宇佐神氏によるとガリレオは「自分は聖書に反したことは、何一つ言っていない。教会がまちがった科学と結託してその考えを教理にしてしまった」と主張したと伝えられています(「崩壊する進化論」212頁)。

  

  残念ながら進化論的な科学者の宣伝によって、聖書は地動説を唱える前近代的な書物というようなイメージが広まっているようです。しかしすでに述べたように、聖書は地球が何もない宇宙空間に浮かんでいることや、北と南をつらぬく地軸に傾きがあることなど、人の理解を超越したことを昔から述べていました。

  

  ガリレオの時代のように、人の理解がようやく追いついて聖書の正しさが後から分るようなことは、歴史上しばしば起こったことです。そしてそれはいまも起こっています。

  

  

  近代科学が聖書の正しさを追認?

  

  創造論学者のヘンリー・モリス氏によると、18世紀のプロテスタントによる大覚醒運動は地質学にもおよび、「洪水地質学」が主流になるほどの影響を与えたそうです。この学説は化石が含まれるすべての岩石層が、ノアの時代の洪水によって造られたとするものです。

  現在は、19世紀後半以降の進化論的斉一説(せいいつせつ)が主流となっています。モリス氏によればこれは科学の進歩ではなく、異教的な考え方に「逆戻り」する理論です(「科学は聖書を否定するか」114頁)。

  

  進化論的斉一説とは、「万物は悠久(ゆうきゅう)の昔から、進化によって徐々に現れてきた」とする説です。

  この考え方によるとすべての地層は、気の遠くなるほどの昔から、徐々に積み重ねられてきたことになります。そしてこの考え方に従って、悠久の昔から降り積もった地層を計算すれば、地球の堆積(たいせき)層はおよそ160kmの厚さにならなければおかしいのです。しかし実際はその百分の一の1.6kmしかありません。

  

  またこの考え方では死んでしまった動植物がまったく腐敗もせずに原型をとどめ、化石として現在に発掘されることの説明がつきませんでした。

  

  そしてダーウィンが頭を悩ませた、「カンブリア爆発」とよばれる現象の説明がありませんでした。「カンブリア爆発」とは、先(せん)カンブリア紀とよばれる地層にはほとんど化石がなく、その次のカンブリア紀の地層になると一気に化石が現れることにより名付けられた現象のことです。

  進化論学者たちは、カンブリア紀に入るとなにかの理由で突然進化が大爆発したと考え、それを「カンブリア爆発」と呼ぶのです。その「なにかの理由」についてはダーウィンの時代から謎でした。

  

  しかし最近、化石の生成メカニズムが解明されてきました。

  それによると化石とは、動植物が一瞬にして泥土に埋められ、空気から完全に遮断されることからつくられます。

  このことが解明されてくると、創造論の説明がさらに正確になります。

  

  その説明をまとめるとこうなります。

  

  堆積層はすべてノアの時代の全世界を完全に覆った洪水によってつくられました。そして、地層の下に植物や昆虫の化石があり、上にいくにしたがって爬虫類、ほ乳類などが発見される理由は、進化の過程をしめす順序ではなくて、洪水から逃げ続けた行動力の順です。つまり全世界を40日40夜の雨が降り、低い地域から水没していくとき、植物や昆虫がまず泥の中に埋まります2。そして逃げた順に高い所へ避難しますが、それでも最後は水におおわれて流されて行き、ついには泥に埋められてしまいます。こうして地層は一気に形成され、下の方には行動力の少ない生き物が、上の方には行動力の多い生き物が堆積し、化石となったのです。

  

  この説明にしたがえば堆積層がどうして世界中に1.6kmほどしかないのか、また堆積層の下のいわゆる「先カンブリア紀」の地層が、他の地層と違いなぜギザギザなのか、またそこからはなぜほとんど化石が出土しないのかも説明がつきます。

  

  

 

  先カンブリア紀の地層とはノアの時代の地層であり、そしてカンブリア爆発は進化の大爆発ではなく、全世界的な大洪水の発生の証明となる、植物や小さい生き物の生き埋めによる化石なのです。

  そしてノアが歩いた地層の上に泥水が堆積すれば、先カンブリア紀の地層がギザギザで、それ以外の地層が自然に堆積した沈殿物による、均衡な線であることの説明がつきます。

  

  近年シベリアの凍土からつぎつぎと発見されている冷凍マンモスの研究も、聖書の記述を無視すれば理解できないことで満ちています。

  

  ベレゾフカ河畔のマンモスとして有名な冷凍マンモスは、胃の中に消化もされずに腐敗もしていない、原型をとどめた食物が残っていたばかりか、口の中にはキンポウゲの食べかけを残したまま冷凍されていました。このことはマンモスが瞬時に冷凍状態におちいったことを物語っており、氷河期が徐々に訪れたとする従来の説では説明がつきません。

  加えることにマンモスが皮脂腺(ひしせん)のない動物であること、つまり温帯性の動物であることもわかってきました。

  

  温帯性の動物であったマンモスが、現在では極寒の地とされるシベリアで生活をし、しかも瞬時に凍らせられる何かが起こったのです。

  

  とても不思議なことですが、しかしこのことも聖書の記述を考慮すれば見えてくることがあります。

  

  聖書には神が天地を創造されたとき、大空が上の水と下の水の間にあるようにされたと書かれています3。そしてノアの洪水が起きる際には、「大いなる淵(ふち)の源(みなもと)は、ことごとく破れ、天の窓が開けて」雨が降り、洪水となったと記されています4。

  これらの記述から創造論に立つ科学者たちは、ノアの洪水の前には地上は宇宙空間の水(あるいは水蒸気層)に守られて、全地球的に温帯であったと考えています。

  

  

 

  その「上の水」の守りが突然亡くなったのがノアの洪水です。そして地上は短期間に水で覆われたばかりではなく、場所によってはシベリアのマンモスのように、洪水の水よりも先に、熱帯植物園の天蓋が一瞬に取り払われたように突然冷え、一挙に冷凍されるほどのシベリアの寒波に見舞われたと解釈しています。

  

  また洪水以前の世界が全地球的な温帯であるなら、北極や南極にサンゴの化石や石炭層が発見されていることも説明できます。

  

  創造論者のそのような解釈を裏づける証拠はほかにもあります。

  

  琥珀(こはく)は装身具としても人気ですが、実は太古の樹木のヤニが化石となった物です。それゆえに琥珀に閉じ込められた空気を分析すれば、太古の地球について知ることが可能となります。

  

  

 

  アメリカの地質学者のランディスは、琥珀にとじ込められた気泡を分析た結果、酸素濃度が約30%もあったことが分りました。現在の地球の空気の酸素濃度は約21%です。この結果から前出の久保有政氏は、創造論に立った見解としてつぎのように述べています:

  

 

(ノアの洪水が起こる前の)当時は全世界が暖かく、どこにおいても植物が繁茂(はんも)していたので、大気中の酸素濃度がこのように高かったのである。これらの事実は、上空の水蒸気層という考えによってよく説明されるのである。水蒸気層は、実によく「知的にデザイン」されたものだったのだ。(「天地創造の謎とサムシンググレート」179-180頁)

  

  

  温暖で酸素濃度も高く、いまよりも有害な宇宙線が少なければ、トンボなどの古生代の生物が巨大であったこともうなずけます。

  

  ちなみに古生代のトンボは全長1メートルにも及ぶものがあったと分っていますが、進化論的な科学では理解できない不思議な点があります。

  それは古生代の巨大なトンボは、現在の気圧下では空を飛べないと結論づけられてしまうことです。同じように空を飛ぶ恐竜とされるプテラノドンも、その体の構造からは現在の気圧では飛べないことになってしまいます。

  しかし気圧がいまの2倍もあるのなら話は別で、創造論者は洪水前の気圧は「上の水」の影響で、いまの2倍以上あったものと解釈しています。

  しかしながら進化論ではこのような不可解な点には説明がなく、まるで触れないようにしている感さえあります。

  

  

 

  脱線ついでに巨人についても触れてみます。

  

  あまり表立って報道されたりはしませんが、巨人の骨や足跡の化石は、実は世界各地で発見されています。(ネットで検索すれば確認できます。)ときどきメディアで取り扱われても宇宙人あつかいされ、面白おかしいキワモノ的な内容にされてしまっています。

  しかしこれらの巨人も洪水前の人類か、あるいは洪水後に環境が変わって行くしばらくの間の人類であると解釈できます。また同時に、ノアの洪水以前には堕落した天使と人間の間にできたネフィリムと呼ばれる巨人が存在しました5。

  

  聖書の登場人物たちの寿命も、洪水の前後で長さが激変しています。トンボが現在のサイズになったことと同じで、人類にも環境の激変による影響があったものと想像できます。すなわち守られていた環境がなくなったための寿命の短縮と、その環境に適応するための体の大きさの変化です。

  

  これは筆者である私の想像ですが、進化論者はひょっとしたらこれら不可解な点に目を向けないのではなく、わかっていてわざと触れないのかも知れません。

  あるいは進化論者の中には確信犯的な反聖書主義者がいるのかも知れません。つまり少しでも聖書や神の存在を認めるようなものは排除するという、ある種の狂信性から進化論を推し進めているのかも知れません。

  

  そのことを裏づけられるかも知れない出来事として、本章の最後に以下のことを取り上げますが、読者の皆さんはどのようにお感じになりますでしょうか。

  

  進化論的斉一説が地層を、悠久の時間をかけて徐々に堆積してできたものと説明していることは、すでにふれたことですが、その説をくつがえす出来事が1980年5月18日にアメリカで起こりました。それはセントヘレンズ山の噴火です。

  

  セントヘレンズ山の噴火の予兆はすでに、噴火の数か月まえから観測されていました。それゆえに行政は住民の避難をあらかじめ勧告し、学者らは噴火の記録をとる準備をしていました。

  衆人環視の中で噴火したセントヘレンズ山は、山頂から北斜面に向かって400メートルほどが崩壊し、周囲590平方キロメートルに噴石を積もらせました。その堆積物の高さは平均45メートル、最大180メートルにもなりました。

  土砂の流入により形が変わってしまったスピリット湖の湖底には、この災害で形成された泥炭が見つかりました。このことにより泥炭の蓄積と石炭の形成が、進化論的地質学者の意見に反し長時間もかからず、たった一度の大激変でじゅうぶんだったと分りました。

  

  

 

  またこの噴火によって形作られた渓谷は、現在は国立火山記念公園となっており、「小グランドキャニオン」とも呼ばれるほどの見事な渓谷で観光客を呼んでいるそうです。

  創造論に立つ宣教団体の「アンサーズ・イン・ジェネシス」の日本語サイトは、このセントヘレンズ山噴火を紹介してつぎのように解説しています(http://bit.ly/2wii2px):

  

  

セントヘレンズ山の噴火は、数ヶ月のうちに地域一帯の景観を大きく変貌させただけでなく、地層、峡谷、石炭の形成には「何千万年」もの年月が必要だという考えにも大きな風穴を開けました。セントヘレンズ山の噴火によって、それらの形成には長い時間を要しないことが証明されたからです。

  

  

  地層や石炭の形成がいままで信じられていたような悠久の時間を必要としなかったことも驚きですが、この災害から40年近くたったいまも、このとき観測されたデータがほとんどの人々に伝えられていないことも不思議です。

  

  読者の皆さんは意図的な情報隠蔽を感じませんか?6

  

  たとえ私が感じたように意図的に事実を伏せて進化論を熱狂的に推進するような人々がいなかったとしても、「神はいない」という視点からは見えてこない事実もあると思います。

  

  そういう意味から言えば、この世の中に「中立的な立場」などはあり得ません。つまり、この世はふたつの側に分かれます。すなわち神を信じない側か信じる側かの、ふたつです。

  

  第1章の冒頭で述べたように進化論は科学というよりも宗教です。そして、キリスト者として私はこう指摘されることは好みませんが、進化論者が言うようにキリスト教も宗教です7。もしそうなら、「神はいない」という宗教と、「神はいる」という宗教が混ざり合うことはあり得ません。

  

  そして読者の皆さんも、そのどちらかを選びつつあるのです。いやむしろ、知らない間に“選ばされている”といった方が良いかもしれません。

  

  つぎの章では、このふたつの選択肢の影響について、見ていきたいと思います。そして本書の最も大切なテーマである、救い主である神、イエス・キリストについてご説明いたします。

  

  

 


第3章 どっちを信じる?

第3章 どっちを信じる?

  

  明治維新以来、日本においては進化論が見事なまでに浸透してきました。そしてこれまでに本書で述べてきたように、その進化論の土台には「神はいない」という信仰があります。

  日本の神々は仏教ともいつしか融合してしまっています。そして日本人の信仰は、つまるところ先祖供養の信仰、あるいは先祖崇拝であると言えるでしょう。端的に言えば、日本の神々は、創造主である神ではなく人間です。だからこそ進化論を何も違和感なく受け入れることができたのでしょう。

  

  いまの日本ではほとんど、いわゆる大きな宗教的対立がありません。それは宗教に寛容であるからとも言われています。クリスマスを祝い、大晦日(おおみそか)にはお寺に出かけて除夜の鐘をたたき、その足で神社にお参りに行く。このようなことを何の違和感もなく、毎年恒例の楽しみにしている人々もいると聞きます。年末の一週間からお正月までは、日本人がいかに外来の宗教を寛容に受け入れてきたかの象徴である、などとも表現されます。

  

  しかし本当に宗教に寛容なために、色々な宗教を受け入れているのでしょうか。

  

  奇妙なことに聖書には、いずれ世界中の宗教が統一されることが預言されています。それは「世の終わり」と呼ばれる神の裁きの時代でのことです。その時代には聖書の神を信じる人々が、世界統一宗教の人々に迫害され殺されると預言されています8。つまり現在ある世界中の宗教は、ニューエイジ的な汎神論(はんしんろん)や宇宙論も含めて、聖書を完全に信じる人々をのぞいて、全て融合されていくということです。

  

  世界統一宗教と聞けば読者の皆さんは、なにか突拍子のない話に聞こえるかも知れません。しかしいま現在、もうすでに宗教統合の動きは始まっています。

  ここでは深くは掘り下げませんが、エキュメニカル運動というムーブメントがそれです。

  

  このムーブメントではカトリックを中心に、プロテスタントの一部、仏教、イスラム教、ヒンズー教やその他の宗教、そしてニューエイジ的な思想を信じる人々が参加しています。そして宗教の融和と世界平和を訴えて、世界各地で異宗教合同の礼拝集会を行っています。それに反対するのは、プロテスタントのごく一部の、“聖書をすべて神の言葉と信じる人々”のみです。

  

  ここで注目していただきたいのは、世界はいずれ“聖書をすべて神の言葉と信じる人々”と、聖書を部分的にだけでも信じる人をも含めた、“それ以外の人々”に分かれるということです。

  本書のテーマに沿った表現をすれば、“創造論を信じる”か、“進化論を信じる”かの、ふたつのグループです。(残念ながらカトリックはすでに進化論を受け入れ、プロテスタントの一部もその方向に向かいつつあります。)

  

  そしてその動きがすでに始まっているのなら、世界はもう“神の創造を信じる”か、“進化による偶然を信じるか”の二者択一を私たちに迫っていると言えるでしょう。このムーブメントは今後、いよいよ活発になってくるはずです。そして「宗教の融和」や「世界平和」の訴えには、本当の神を知らない多くの人々が同意することになるのでしょう。

  

  日本人が宗教に寛容なのは、「創造主である神」という概念を知らないからなのではないでしょうか。

  

  さらに言えば、日本人は一方的に進化論を受け入れてしまっているので、世界統一宗教を受け入れやすい精神的土台が、誰かによっていつの間にか、頭に植えつけられてしまったのではないでしょうか。

  

  どちらを選ぶかは自分で選ぶべきことで、ひとりひとりの自由意志によらなければなりません。しかしどんな選択肢があるのかを知らなければ、選ぶことさえできないでしょう。

  

  本章ではその二つの選択肢である進化論と創造論の違いを下記のように定義して解説していきたいと思います。

  すなわち「人が自分を偶然の産物であると信じること」と、「神によって造られた者であると信じること」のふたつです。

  

  

  優生学と唯物史観

  

  第1章の終わりでご紹介したドイツの生物学者、エルンスト・ヘッケルの「お腹の赤ちゃんは成長段階で進化の過程を繰り返す」という考え方は、人工中絶をする女性の罪悪感を軽減するのに大いに役立ったと伝えられています。それはつまり、「はやめに堕胎をすれば、人間を殺すことにはならない」という考え方です。(しかし胎児が進化の過程を反復するのではないことはすでに述べました。)

  

  ヘッケルの進化論的思想は、のちに登場するナチスの優生学(ゆうせいがく)に大きな影響を与えました。

  優生学とは20世紀初頭に支持された応用生物科学で、「自然淘汰(とうた)」や「適者生存」などの進化論的考え方によって、人類を積極的に改良しようとする思想です。

  

  現在では人種偏見の観点からタブー視されていますが、当時は善意で進められた経緯があります。たとえばナチスがおこなった精神障害者の安楽死や、ユダヤ人問題の最終的解決(処刑)は有名です。

  

  戦後間もなくの日本でも、優生学の影響を強く受けた法律がつくられたことがあります。「らい予防法」がその代表例です9。

  この法律によりハンセン氏病の患者に対する隔離や結婚の禁止など、非人道的な政策が、(無知ではあったとしても)善意により実行されました。

  現在この病気は遺伝病ではないこと、また大人には伝染せず、子どもも接触しただけではうつらないことが分かっています。国家が公式に患者らに謝罪をしたのは2001年のことです。

  

  無知であったにしても善意から行われていたことが、優生学の恐ろしいところです。

  またナチスの思想とか、人種の優越性とか聞けば極右的な狂信思想に思えますが、進化論的思想は左翼思想にも影響を及ぼしています。それが19世紀にカール・マルクスがとなえた唯物史観(ゆいぶつしかん)です。

  

  唯物史観も優生学とおなじく、進化論的な考え方が土台になった思想です。「唯(ただ)物だけ」という意味で「唯物」です。つまり「神はいない」という考え方が土台になっています。この思想をもとにマルクスは、共産主義理論を展開しました。

  

  恐怖政治を行ったスターリンも、文化大革命で自国民を大量に粛正した毛沢東も、カンボジアの大虐殺を行ったポルポトも、その思想のもとは唯物史観であり、共産主義思想でした。

  

  ナチズムには優生学が根本思想としてあったように、共産主義には唯物史観があり、結局どちらも専制独裁政治で弱者を淘汰するという、同じような結果を生み出しています。それは土台が同じだからです。彼らは確信的に、時として善意をもって社会を変えようとして、恐ろしい結果をもたらしたのです。

  

  キリスト者が魔女狩りや異端審問、さらには十字軍遠征のような、ひどいことをしたのも事実です。しかしそれは、そもそも聖書の内容から離反した行動です。人間の「罪」がそのような愚かな形で現れたゆえでした。「神はいない」と信じる者たちが確信的に恐ろしいことをしてしまうのと、根本的な動機が全く違います。

  

  思想的に右か左かが問題ではありません。また極端ではなく中道がよいのでもありません。問題の根源は、「神はいない」とする土台そのものなのです。

 

 

  もし?という仮定

  

  聖書は神の存在が大前提で書かれています。つまり聖書には「神の存在についての議論」がないのです。

  いっぽう進化論は逆に、「もし神がいたら?」という発想がまったくありません。つまり「神はいない」ということが大前提なのです。

  

  それゆえに創造論と進化論は、そもそも話しがまったくかみあわない考え方なのです。

  しかしながらここで、わざとお互いに大きく妥協をした極端な仮定で、どちらの思想が人の役に立つのかをシミュレーションしてみたいと思います。

  すなわち、創造論が正しかった場合の仮定と、その反対の進化論が正しかった場合の仮定です。

  

  ここでふたりの青年に登場してもらいましょう。創造論を信じる青年A君と、進化論を信じる青年B君です。このふたりがそれぞれ、お互いの考え方が正しかった場合を仮定して見てみましょう。

  

      進化論が正しかった場合

  

  まずは進化論が正しかった場合です。つまり、神は存在せずに、全世界は偶然からできていた場合です。

  

  青年A君はそれでも神を信じて生きます。彼の行動の規範は神です。きっとB君には馬鹿にされ、笑われるでしょうが、彼は生涯「神は存在する」という勘違いの中で過ごし、死にいたります。

  死後の世界はどうでしょうか。偶然から生じた人間に、死後の世界はありません。したがってA君は後悔することも、残念に思うこともありません。

  

  いっぽう進化論を信じるB君は、神を信じずに生きます。彼の行動の規範は自分です。自分が好きなことを自分中心に、もちろん他人に迷惑にならない程度に、なんでもします。

  あるいは彼は、自分が気に入った倫理道徳を受け入れ、その規範にしたがって生きるかも知れません。その場合の倫理道徳も、当然彼の思想、つまり「神はいない」という考えと同じものを選びます。いずれにせよ、取捨選択するのは自分自身です。失敗しても、自分の問題です。

  B君の死後も、A君の死後とまったく同じです。死んだあとに「ほらやっぱり神はいなかった」ということもなく、ただ自分も偶然の産物として消滅するのです。

  彼にとっては生きている間がすべてでした。死んだあとに彼の仲間が悲しんでも、彼には分りません。そしてその仲間もいつかは死に、世界は科学者たちの言うように、いつか「宇宙の死(熱死)」を迎えて誰もいなくなります。ただそれだけです。

  

      創造論が正しかった場合

  

  つぎに創造論が正しかった場合です。すなわち全能の神が存在する場合です。

  A君はこの場合もとうぜん自分の信仰を守ります。そして地上で祈りという形で、神と交わり続けます。

  「宇宙の死」という概念が世間を悩ませたとしても、彼には神にある希望があります。聖書に書いてあるごとくに、神が世界を新しくすると、彼は信じています10。

  良いこともあり、悪いこともあり、ときには失敗したりしながらも、とにかく彼は信仰を守り通して死にます。

  死後の世界はどうでしょうか。彼の人生には苦しいこともあったりしたでしょうが、神が彼に報いてくれます。なぜなら彼は聖書の神を信じ続けたからです。

  

  いっぽうB君はどうでしょうか。ここでも彼はおなじように生きます。ときとして良いこともするでしょう。しかしいずれにせよ、彼は神を信じず、偶然の産物として世界をとらえ、そのなかで死を迎えるのです。

  さて死後です。彼は死んで「無」になると信じていました。しかしそうではありませんでした。彼の目の前には、彼の信じていなかった世界が展開しています。そのとき彼は自分が間違っていたことに気付きます。

  そして彼は、自分が信じていなかった聖書の言葉のとおりに、神を信じていない人々が行く場所に連れて行かれてしまいます。そこで泣いて歯ぎしりをしても、もはや手遅れです。

  その場所は、彼が読まなかった聖書には「うじがつきず、火も消えることがない」場所と書いてあります(マルコ9章49節)。

  彼はその記述の正しさを文字通り、肌で感じることになるのです。しかも永遠に、死ぬこともできずに・・・。

  

  

  土台の問題

  

  前項のふたりの青年の仮定は、おもに彼らの死後についてフォーカスしたものでした。それでも「神はいない」という前提で生きることの危うさは、感じることができたと思います。

  

  死後についてだけではなく、進化論の考え方では色々とおかしなこともおこり得ます。

  

  創造論に立てば神が基準です。つまり聖書が基準となります。

  進化論では人の倫理観が基準となります。そしてこの基準では規制できないこともあります。だれにも迷惑をかけず、当事者たちに合意があるような場合です。自殺や安楽死、そして売春や不倫などの性的な乱れ、ドラッグや飲酒などによる堕落がこれに当たるでしょう。

  

  これらのことがらも、いまのところ規制されていることもあります。しかしだれにも迷惑をかけず、むしろ逆に経済効果さえあるのなら、これらのことがらも徐々にですが確実に、問題のないことになってしまうのでしょう。

  人の判断は時代によって変わるものです。米国でときどき問題にされる、安楽死を施す医者は、患者本人も同意をし、医者も善意からおこなっています。そのうちに人々には問題意識もなくなり、安楽死ビジネスが普通におこなわれるようになるのかも知れません。

  

  神なしの人間の倫理観などは、基準として不動なものではないのです。

  

  

 

  他にも「神はいない」という土台の弊害はまだまだあります。たとえば「適者生存」や「自然淘汰」という概念があります。

  これによれば、優秀なものが世界を支配するエリート層となり、弱いものは自己責任で滅んでいくことになります。弱者救済も、強いものが社会不適合の弱いものに、高い位置から情けをかける構図です。

  

  このような社会ではエリートが社会を指導する際に、無神論者であるにもかかわらず「神に選ばれし者」という優越的なエリート意識を持つ危険さえあります。事実、聖書の終末預言ではそのような危険な人物が、全世界の頂点に君臨するようになると記されています。

  

  本章のはじめにふれた世の終わりの時代には、反キリストと呼ばれる、世界的なリーダーが出現します。彼はキリストの再来とまで言われて世界中の人々に迎えられますが、そのうちに「自分は神だと宣言する」と預言されています(第2テサロニケ2章4節)11。

  

  この預言は世の終わりと呼ばれる特別な時期のことですが、土台が悪ければその上にたつ人々の行動に悪影響を及ぼすという意味で、象徴的な出来事であると言えるでしょう。

  

  付け加えることに、世の終わりで反キリストに逆らう人々が、反キリストを信じる人々に「首を切られる」と預言されていることも、人間中心主義の象徴的な記述であると言えるでしょう(黙示録20章4節)12。

  

  かつてギロチンという処刑の道具が存在していたことを知っている読者も多いと思います。でもこのフランス革命時に発明されたギロチン、日本語で断頭台が、フランス革命の標語でもある「自由・平等・友愛」の象徴として用いられていたと知る方は、そんなに多くはないかも知れません。

  

  フランス革命は王権神授説(おうけんしんじゅせつ)が常識だった時代に起きた、人間中心主義の革命です。神が王様に与えたという支配権を、人民に取り返すという意味で「自由・平等・友愛」です。(日本語では「友愛」を「博愛」と誤訳したことから、人と人のつながりのイメージが薄まって伝わりましたが、フランス革命は人間中心主義の革命でした。)

  ギロチンはどんな身分の高い人でも、あるいは身分も低く、さらにどんなに悪いことをした犯罪者であっても、おなじように一瞬にして命を絶つことができるという点で、「自由・平等・友愛」の象徴なのだそうです。

  

  

 

  現代の私たちにとってはブラックジョークのような話しですが、当時は本気でギロチンの発明を人々は賞賛しました。その証拠にこの発明品はヨーロッパ各国に受け入れられ、数十年前まで実際に処刑用に使われていました。

  

  フランス革命では共和国政府による恐怖政治で、処刑される人々がおおぜいでました。その恐怖政治も「自由・平等・友愛」の名のもとに、人間中心主義として確信的に行われました。言うなれば、人間中心主義の極みが恐怖政治を産み、ギロチンを産んだのです。

  

  世の終わりの時代に宗教が統一されることの背景にも人間中心主義があり、進化論的な考え方があります。

  そしてその時代に世界に君臨するリーダーが、自分こそ「選ばれし者」として神がかる背景にも、進化論的な土台があります。

  さらに、その時代に神を信じる人々を、反キリストを信じる人々が「首を切る」という形で殺すことにも、確信的な人間中心主義が土台としてあります。

  

  こうして見ると、進化論が単なるひとつの考え方ではなく、「神はいない」という土台のもとに人の行動さえも支配する、恐ろしい洗脳であることがわかるでしょう。

  

  「神はいない」という土台の上に立つのであれば、進化論も、人間中心主義も、神なしでのどのような善行も、その行き着く先は同じです。

  

  あなたがもし進化論的な立場で、あなた自身を偶然の産物として考えるのなら、あなたの人生も偶然の成り行きのもので、生きる価値のない無意味なものになってしまうでしょう。しかし創造論的な立場で、あなたの人生に神の存在を認めると、そこからあなたの存在の回復が始まります。

  

  次項では創造論にのっとったあなたの存在意義について説明します。もしまだあなたが神との和解を受け入れる祈り、イエス・キリストを信じ受け入れる祈りをしていないのでしたら、次の項を読んで、そのあとに付した祈りを、自分の祈りとして祈ってください。

  

  

  人は神の似姿:創造論の土台

  

  聖書には神についての議論がないことはすでに述べました。つまり聖書は、永遠の世界をつかさどる神の存在が大前提なのです。しかしその神が、物質世界を創造したいきさつとその理由については、しっかりと記されています。

  

  神が全宇宙を創り、地球を創り、動植物を創り、私たち人間を創った理由は、自分の愛を表現するためです。

  神の愛は完全なる愛です。その表現対象として、全世界を創りました。そしてその世界を神とともに管理するようにと、人間を神の似姿に創造しました。人の心に愛があるのは、神とつながって世界を神とともに、愛によって支配するためでした。

  これが人間が存在する理由です。そしてこの理由はあなたが存在する理由でもあります。

  

  ところが人は神から離れ、自分勝手に生きることを選んでしまいました。これを罪といいます。

  

  罪とは日本人の感覚では、犯罪とか法律に反することを想像しがちですが、神から離れたことを聖書は罪といいます。この罪のゆえに世界は汚(けが)され、呪いを受けたものとなってしまいました。13全世界が滅びに向かっているのは、人間の罪のゆえなのです。

  罪の影響は人間の体にも「死」という結果をもたらしました。また人の愛が歪み、神の完全なる愛とは似ても似つかない、自分中心の愛になりました。神を無視したどんな善行も、すべてが歪んだ結末になってしまうのは、人間の愛が不完全なものとなってしまったからです。

  自然災害も、人的災いも、すべてが人間の罪に由来します。全世界のすべての不幸は、人が神から離れたことに由来するのです。

  

  しかし神の愛は変わりません。たとえ人が神を忘れても、神は人を忘れません。このことはあなた個人についても当てはまります。あなたが神から離れ、神を知らないと思っていても、神はあなたから離れず、あなたのすべてを知っています。

  それゆえに神はあなたと和解する方法を提示されました。それがイエス・キリストによる罪の身代わりです。14

  

  イエスは神であるのに人間として来られ、まったく罪を犯さずに十字架につきました。それはイエスが天の父なる神の前で、罪のいけにえとなるためでした。それゆえに神はイエスを死からよみがえらせました。いまはイエスは天にあり、地上には信じる者に与えられる聖霊なる神が存在しています。15

  

  世の中はいま滅びに向かっています。人間社会の腐敗や環境の悪化など、滅びの兆候はすでに色々なところに現れているでしょう。本書のなかでも述べたように、全宇宙は必ずエネルギー的な死である熱死(宇宙の死)を迎えます。神を認めない人々でさえ、この物質世界の終わりを認めているのです。

  

  そして聖書の預言によれば、熱の死を迎えるまでもなく世の終わりの時代がやってきます。このとき、地上には「神はいない」という人々による世界統一宗教が生まれ、反キリストによる世界統一政府が横暴の限りをつくします。

  しかしイエス・キリストを信じ受け入れ、聖霊なる神を体に宿すキリスト者には、つぎの聖書の約束が実現します。これは携挙(けいきょ)と呼ばれる現象です(第一テサロニケの手紙4章16節から18節):

  

  

:16 すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、

:17 それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主(しゅ)と共にいるであろう。

:18 だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。

  

  

  この携挙が起こった衝撃は、全世界に大混乱をもたらし、そこから終わりの時代が始まります。

  その大混乱の様子を、聖書はつぎのように預言しています(第一テサロニケの手紙5章1節から3節):

  

  

:1 兄弟たちよ。その時期と場合とについては、書きおくる必要はない。

:2 あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。

:3 人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。

  

  

  キリストを信じ受け入れ、聖霊なる神との交わりを保つものには「突如として滅び」は襲いません。その約束は、続く9節にはつぎのように宣言されています:

  

  

神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救(すくい)を得るように定められたのである。

  

  

  神の怒りの時代が世の終わりの時代です。そのとき地上には、神との交わりを持たなかった者たちが残されることになります16。

  

  神の怒りの時代は突然訪れます。また人の死も予期せぬ時にやって来るものです。しかし神との交わりがあなたにしっかりとした土台を与えているのなら、あなたは揺るがされることはありません。

  

  イエス・キリストを信じ受け入れ、あなたも神の救いを受け取って下さい。心からお願いします。

  

  つぎの祈りのことばを自分の祈りとして祈るのであれば、あなたも神との和解を受け入れ救いを受け取ることができます。

  すでにキリスト者である方々は、下記の祈りを捧げる未信者の方のためにひとことお祈りくだされば、筆者として(同労者として)嬉しく思います。

  

  

      キリストを受け入れる祈り

                                            

                                    天の父なる神様、

                    あなたを受け入れずにいた罪をおゆるし下さい。

                                            

                  イエス・キリストが私の罪のために死んで下さったこと、

                              私が生きるためによみがえり、

                  聖霊なる神を送って下さったことを信じ受け入れます。

                                            

                                    聖霊なる神様、

                                どうぞ私にお入り下さい。

                                            

                この祈りを主イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン。

  

  

  この祈りを終えたあなたは、神との和解が成立した人、すなわちキリスト者です。続けて祈りを深めることをお勧めします。またキリスト者との交わりに参加することをお勧めします。ご参考までに「付録」の章を設けましたので、祈りについて、教会探しについてなどの一助としていただけたらと思います。

  

  

 


あとがき

あとがき

  

  最後まで読んでくださり、有り難う御座います。

  

  「まえがき」にも書いたように、日本は進化論が世界で一番普及している国です。そしてその背景には、日本に聖書的な思想が入り込まないように神経をとがらせた、明治政府の思惑がありました。

  教育システムは進化論を無批判に教え、創造論についてはその存在さえもほとんどの人が知らないほど、この洗脳は成功しています。

  かくいう私も、人はサルから進化したと、何の疑いもなく信じ、聖書の世界を他の神話と同じおとぎ話と思っていました。

  

  そしてこの洗脳のもっとも恐ろしいところは、誰もがその土台にある「神はいない」という信仰を、いつのまにか無条件に受け入れさせられている点にあります。

  日本人に対する福音宣教が困難を極めている理由のひとつには、きっとこの進化論の普及があるのだと思います。

  

  また教会から離れるクリスチャンが多いのも、ひょっとしたらこの進化論の普及に理由があるのかも知れません。

  たとえ教会で聖書的な価値観を学んでも、会社や学校、またテレビやマスコミなどを通じて、いつでもどこでも大量にこの「神はいない」というメッセージを聞き続けたら、救いは放棄せずともいつの間にか信仰が冷めてしまうのかも知れません。

  

  そのような日本の状況を憂う思いから、日本人の救いと信仰者の理論武装のために、本書を執筆いたしました。

  「おことわり」にも書いたとおり、本書はkindleトラクトとして3か月に一度の無料配布をする予定です。内容にご賛同いただけた方は、ツイッターやブログでアナウンスしますので、その際には配布にご協力して下さると嬉しいです。

  

  また他のkindle本でも、Amazonやブログでの書評や、評価などをして下さり、ほんとうに有り難うございます。読んでくださる方々の反応があるので、著者としてやりがいと励ましを受け取っております。

  本書も評価を付けてくださると嬉しいです。

  

  特に本書の内容は、社会派リベラル派と呼ばれるクリスチャンからも、批判を受けやすい内容です。また、話しが複雑になりすぎるといけないので本書ではふれませんでしたが、ニューエイジ的な影響があると思われる「有神進化論(ゆうしんしんかろん)」を信じる人々の批判があるかも知れません。

  読者の皆さんが「聖書はすべて神の言葉」と信じるキリスト者で、本書の内容にご同意くださったのなら、簡単なもので結構ですので是非ともAmazonの書評欄にひとこと推薦のことばを頂ければとても有り難いです。

  

  他書とおなじように評価して下さっても直接のお礼のコメントは致しませんが、この場を借りて感謝申し上げます。

  

  読んでくださった方々の上に、主イエスの平安がありますように。

                                                                            モトイ・トクメイ

                                                                                        

 


付録

付録

  

  下記にキリスト者となった方々への、クリスチャン生活の簡単なガイドラインをお示しいたします。項目別に書かれていますので、ある程度の指標として下記をご活用下さい。(「付録」は他のkindleトラクトに付したものと同一の内容です。)

  

  クリスチャン生活は神との歩みです。そこには時として例外的なことや、個人的なこと、特別なこともあると思います。そのときは祈りによって、そのつど答えを神から頂いて下さい。

  

  

  祈りについて

  

  祈りは神との会話です。生活のすべての瞬間において神の語りかけを期待し、自分からも神に語りかけるべきです。でも最初のうちはある程度、祈りの形式を利用したら良いでしょう。その祈りの形式は下記の聖書箇所の、キリストの言葉を根拠としています:

  

  

ヨハネによる福音書16章23節24節

 

その日には、あなたがたがわたしに問うことは、何もないであろう。よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。

今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。

  

  

  この御言葉から祈りの形式を一言で表わせば、「天の父に対して主イエスの御名で祈る」と言うことになります。

  

  イエス・キリストご自身は、天の父を「アバ」と呼んで祈られました。この「アバ」という言葉は日本語聖書では「父よ」と訳されることが多いですが、実際にはもっとくだけた語りかけです。それは例えば「お父さん」という訳さえもふさわしくなく、「お父ちゃん」とか「パパ」ほどの、ものすごく大きな親しみと信頼を込めた表現です。

  

  主イエスを信じ受け入れた者は神の子どもです。天の父なる神の前で大胆にすべての思いをさらけ出し、最後に「主イエス・キリストのお名前で祈ります」と祈れば良いでしょう。最初は形式が必要でも、しだいに自由に祈れるでしょう。とにかくいつでも神を意識して祈ることです。

  

  そのうちに神があなたに語りかけていることが分かり、そのことを証明する数々の事象があなたの周りで起るでしょう。その時あなたはつくづくと「クリスチャンになって良かった」と、幸せを感じるでしょう。この感覚こそ、あなたのうちに住まわれる聖霊なる神とあなたの交わりの時です。どうぞその瞬間を楽しんで下さい。

  

  またいつも神との交わりを保つ信仰とは、同時に携挙の信仰でもあります。携挙とは世の終わりの神の怒りが地上に下る時代の前に、キリスト者が奇跡的に地上から取り去られ天に迎え入れられる現象のことです。このとき、いつも主イエスの御名で祈りつつ、地上を神とともに歩んでいた人々が天に引き上げられます。新約聖書時代のキリスト者が、この携挙信仰を持っていたことを示す聖書箇所を、注釈にてお示しいたします17。

  下記に引用する新約聖書のテトス2章11節から13節は、このキリストと常につながる「(キリストの現れを)待ち望む」信仰そのものに「祝福」が約束されていると述べる聖書箇所です:

  

  

:11 すべての人を救う神の恵みが現れた。

:12 そして、わたしたちを導き、不信心とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活し、

:13 祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。

  

  

  すでにキリスト者となった読者の皆さんは「不信心」はすでに捨てています。

  でももし「この世の情欲を捨てて、慎み深く、正しく」生きるという個所を読んで、そんな生き方をすることに自信がなくても、ご安心下さい。神とつながり続けて、“いま”という瞬間にキリストの現れを求め続ける「待ち望む信仰」を続ける信仰によって、神によって人は変えられていくのです。

  つまり「信心深くこの世で生活」するということは、神に触れ続け変えられ続けることです。決して自分自身で、罪を犯さないように努力して生きる生活ではありません。

  

  そして上記の聖句にはこの“いま”キリストを「待ち望む」祈りの生活は、「祝福に満ちた望み」であると述べます。

  生きている間にキリストの現れを待ち続け祈り続けることは、祝福に満ちあふれるという約束のともなった信仰態度です。これを携挙信仰と呼びます。

  

  この携挙信仰はキリスト者の基本的な祈りの姿勢です。そして特にいまは携挙が刻一刻と近づいている時代であると、著者である私は特に強調しておきたいと思います。

  

  

  聖書の通読について

  

  祈りと同様にキリスト者として大切なのが聖書を読むことです。

  

  祈りが神との会話であるなら、聖書は携帯電話と表現できるかもしれません。

  携帯電話を手に入れても、使わなければ相手と話せません。同じように聖書を手に入れても、相手である神様と交わること無しには意味がありません。

  聖書を読むときはどの聖書箇所を読むにしても、神の声を聞くつもりになって読むと良いでしょう。

  このような聖書の読み方を続けると、聖書を読むことと祈ることが同じように感じてくるでしょう。そのような時間はキリスト者としての至福のひと時です。その時間を毎日、なるべく定まった時間帯に続けて下さい。

  

  幸いなことに日本国内では聖書を持っていても罰せられず、ちょっと大きな書店ならどこででも手に入ります。

  色々な翻訳がありますが、口語訳、新改訳、新共同訳の三つが無難でしょう。最低この三つの訳をご自分で確かめて、しっくりくるものを選べば良いでしょう18。

  

  また新約聖書のみの薄いものもあります。金銭的余裕があれば新約聖書のみの軽くて薄い物を先に買い、いつでもどこでも読む癖をつけるのも良いかもしれません。旧約聖書は新約聖書を数回繰り返し読んだあとで読むと、理解がかなり違うはずです。

  

  最近はスマートフォンのアプリにも日本語聖書があります。しかし私はこれを先に使うことは、あまりお勧めしません。なぜなら聖書は神との対話の道具であり、また同時に自分の信仰生活を記録するノートのような側面もあるからです。

  

  読んで感動したところに様々な色で線を引いたり、疑問に思ったことや発見したことを、聖書の余白に記入することはとても楽しい時です。

  そして繰り返し読むことによって、そのような記入から神様が自分の成長を見せてくれるときもあります。

  それゆえにまずは紙の聖書を手に入れ、自分なりの工夫によって読むことをお勧めします。携帯アプリを使って読むことも補助的には良いでしょうが、自分の手で線をひいたりメモを残すような聖書の読み方をお勧めします。スマートフォンアプリはあくまでも、聖書を持ち歩けないときやとっさに検索したくなったときなどの、補助的な意味で使えば良いでしょう。

  

  ご参考までに、私の聖書への書き込み方法をご紹介します。

  私は米国留学中に新共同訳の、日英対訳の新約聖書を読み始めました(英文は New International Version でした)。そしてクリスチャンになってから帰国し、新改訳聖書を購入しました。その理由は、新改訳聖書にはチェーン式という解説付の聖書があったからです。それ以来その大型聖書に線をひき、気付きや感想などの書き込みもしています。

  

  新改訳聖書にも色々あるようですが、チェーン式は解説もあり、余白も他の版よりも広いのでお勧めです。

  

  線をひく際には5色のボールペンを用いています。私個人のルールとして、赤は伝道用にもなる聖句、青は自分への戒め、緑は感動や恵みを受けたと感じたとき、黒は知識欲を刺激されたとき、そして紫色は世の終わりに関する聖句につけています。

  このように色で分けると、何かの理由で聖句を探すときにとても役に立ちます。このルールはもう15年以上変わっていません。

  

  線の引き方も聖句を読んだ時の印象の度合いによって変えています。一言でいえば重要だと思えば思うほど、大げさな線にしています。たとえば、聖句の右脇にひくもの、上をひくもの、聖句全体を箱で囲むものなどです。

  

  何度も通読しているうちに、何色もの線によって色々な印をつけられた聖句も出てくるようになりました。このような聖書通読は、とても楽しい神との対話のひと時です。

  

  はじめは鉛筆のみで線をひいていました。それゆえに鉛筆の書き込みが現在はとても懐かしさを感じる記述になっています。

  

  あるときなどはファミリーレストランで紅茶を聖書にこぼしてしまい、慌てて拭いたもののしっかりとシミが残ってしまいました。くやしかったので黒のボールペンで「〇月〇日何時何分、ファミレス〇〇にて紅茶をこぼす」と記入しました。その後何度か聖書を通読するうちに、神様がその紅茶のシミから色々語って下さるというような、神様との小さいけれども不思議な個人的対話も経験させてもらえました。

  

  シミや皺、また汚れの部分も含めて、いまではその聖書のすべてが私の宝となっています。紙の聖書を使いこなすということは、神の語りかけを受け取る信仰の良い訓練になると思います。

  

  

  教会について

  

  神に触れられてキリストを信じ受け入れたものの、教会につまずいてしまい信仰が冷めてしまったという話を時々聞きます。残念なことですが本当のことです19。それでも聖書には、神が教会を通して様々な知恵を与えて下さるという約束があります20。この場合「教会」とは宗教団体や教団教派ではなくて、キリスト者が主イエスの御名によって集まる、ふたり三人以上の集まりのことです21。それゆえなるべくキリスト者同士の交わりとは、どこかでつなることがキリスト者にとっては安全であると考えます22。

  

  また完璧なキリスト者など存在しないのと同じように、完璧な教会も探し得ないことをあらかじめ考えに入れておくべきだと思います。さもないと自分好みの教会を気ままに探して転々とするような、いわゆる教会ジプシーになってしまい、教会批判が癖になってしまいます。

  

  そればかりか「キリストは信じるが、キリスト者には失望した」と言うような思いから教会に愛想を尽かしてしまい、現代の隠れキリシタンと化することもあり得ます23。

  異端やカルトは避けなければいけないことは言わずもがなですが、プロテスタントの教会でも完全に納得できる場所はないと、あらかじめ心得ておきましょう24。(異端やカルトについては、後に示すガイドラインを用いれば自然と避けられるでしょう。)

  

  またネット上でメッセージを聞くことだけに留まることや、ツイッターやフェイスブックなどのSNSの中だけで、キリスト者の交わりを保つことはとても危険であると思います。その理由は、ネットでのつながりの多くが匿名の無責任なものであるからです。

  そのためにネット上でたとえキリスト者とつながりを保っていると思っていても、それは自分の好きなことを言う人々と、好きなことを言い合っているという、キリスト者の霊的成長とは無縁の時間を過ごしてしまう可能性のほうが多いからです。これは暇つぶしには良いかもしれませんが、時間の無駄であって惑わしであるとさえ言えるのではないでしょうか。

  

  それゆえにスカイプなどの実際にはあわない交わりも含めて、ネット上でのキリスト者との「つながり」に、過度に期待することは避けた方が良いでしょう。

  キリスト者はやはり、主イエスの御名によって「集まる」ことを求めるべきです。

  

  

  以上のことを踏まえて、下記の教会探しのガイドラインを参考に用いて下さい。

  

  

聖書は神の言葉

  

  教会のなかには「聖書は人の言葉と神の言葉が混じり合ったもの」と教える人々がいます。彼らのことを「自由主義派」とか「リベラル派」、または「社会派」と呼ぶこともあります。

  反対に「聖書はすべて神の言葉」と信じる人々は「福音主義派」と呼び、その中のさらに聖霊なる神の奇跡を主張する人々を「ペンテコステ派」と呼びます25。

  

  読者の皆さんにここで教団教派の混乱ぶりを示して失望させないために、ここでは一言「聖書はすべて神の言葉であると認めている教会を選びましょう」とまとめておきます。

  「三位一体の教え」や、「キリストが神であるのに人として来られた」という教義についても大切ですが、それらの大切な教えを一つ一つ調べて確認することは大変なことです。それらの細かい点も「聖書はすべて神の言葉」と信じていることがクリアしている教会ならば、いちいち調べる必要はないと思います。

  

  

  偶像がある教会を避ける

  

  この場合の偶像の意味は、人の手で作ったさまざまな像の総称です。これらの像のある教会を避けることは、キリスト者もあまり強調しない意外なことですが、異端やカルトを避けることに大きな見極めの働きをします。

  崇拝するしないの問題ではなく、像がある教会は避けたほうが無難です。また十字架のない教会も警戒するべきです26。

  (事実、とあるカルト化した教会には十字架はないのに、像はオブジェとして飾ってありました。断言できませんが、おそらく像を飾ったり十字架を置くことをやめたりすることの背景には、霊的な惑わしの影響があるものと考えられます。これは私の実感からのアドバイスです。)

  

  

  牧師夫妻と子供との関係

  

  これも私の実感からのアドバイスですが、牧師夫婦の間に会話がなかったり、仮面夫婦であったり、子供との関係がうまく行っていない牧師の教会に通うことはお勧めできません。その理由は、教会にあらわされる神の恵みを最初に滞らせてしまう可能性のある人物が、牧師本人だからです。

  

  牧師は霊的な攻撃にさらされやすい立場にあります。例えば肉的な弱さが惑わしの攻撃にあい、その影響が金銭や女性問題、他教会への執拗な見下した発言などの無意味な優越意識に形を変えることがあります。

  そしてこれらの問題は教会全体へと根を張ります。何かがおかしい教会の、おかしい何かをたどっていくと、往々にして牧師に行きつくことがあります。それゆえに、牧師の人間関係、特に肉親との関係で判断することはとても有効です。

  

  もちろん牧師の家庭といえども、絵にかいたような幸せな家庭は多くないかもしれません。しかしながら他の点、例えば信徒に仲の良い友達が出来たからという理由によって、牧師の品性や人間関係のまずさを見過ごして、その教会に通い続ける事はお勧めしません。

  あとあと後悔しないためにも最初から意識して、牧師とその周りの人々の関係に注目して教会選びをしましょう。

  

  また洗礼を受けることは、霊的な守りを受けることになると私は考えます。そのためにもなるべく早く教会に連なり、洗礼を受けるようにお勧めします。

  

  

  

  以上、たくさんのことを述べてきましたが、最も重要なことはつぎのことです。すなわち、キリストを信じ受け入れた読者の皆さんが、もはや罪を罰せられる者としてではなく、神の救いを受け取った者としていつでも堂々と神の前に立つことができる、と言う事実です。この事実はキリスト者の特権です。

  

  キリストを信じた瞬間に、キリストのゆえにその人は、神の前にすでに聖なる者とされています。そして神とつながり続けることは、その人を内面から変え続けます。心の癒やしや祈りが答えられることも、神との交わりが深くなるにつれ、これからたくさん経験することになるでしょう。

  

  

  ひょっとしたら地上でもお会いすることになるかもしれませんが、皆さんと天にてお会いすることを楽しみにしております。

  

                                                                            モトイ・トクメイ

 


お勧めネットメディア

お勧めのネットメディア 

 

 良いメッセージを聞き、神に感動することはキリスト者の成長にとってとても重要です。以下に信頼してお勧めできるネット上の情報源を、ごく一部ですがご紹介します:

 

 

聖書と福音

http://www.biblegospel.org/

毎週日曜日に関西ラジオで放送している15分番組。10分のメッセージと4分ほどの賛美音楽。上記サイトでは10年分以上の音声ファイルにアクセスできる。メインメッセンジャーの高原剛一朗師のメッセージは特にお勧め。とても元気になれるメッセージ。一押しのネットメディア。

 

 

ハーベスト・タイム・ミニストリー

http://www.harvesttime.tv/

かつて同名のテレビ番組を放送していた中川健一牧師のサイト。無料の動画メッセージはジャンル分けしてあるので、学びとしてもとてもお勧め。どのメッセージも聖書からの恵みを受け取れますので、聖書が分らない人から成熟したクリスチャンまで、どこから聞いてもお勧め。

 

 

日本CGNTV

http://japan.cgntv.net/

韓国発の福音宣教テレビ局の日本局。子ども向けや大人向けまで、色々な番組アーカイブがそろっている。すべての番組が面白いわけではないが、多くの牧師のメッセージに触れることができる。大小様々な教会を取材する番組もあって、教会の雰囲気も知ることができる。

 

 

BBN聖書放送

http://www.bbnradio.org/WCM4/Default.aspx?alias=www.bbnradio.org/wcm4/japanese

世界14カ国に9カ国語で24時間放送しているラジオ局のインターネット版。上記の高原剛一朗師も、ときどき登場する。全体的にのんびりしすぎた雰囲気があるので、聞く人によって好き嫌いが分かれるようだ。

 

 

 



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