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第3章 どっちを信じる?

第3章 どっちを信じる?

第3章 どっちを信じる?

  

  明治維新以来、日本においては進化論が見事なまでに浸透してきました。そしてこれまでに本書で述べてきたように、その進化論の土台には「神はいない」という信仰があります。

  日本の神々は仏教ともいつしか融合してしまっています。そして日本人の信仰は、つまるところ先祖供養の信仰、あるいは先祖崇拝であると言えるでしょう。端的に言えば、日本の神々は、創造主である神ではなく人間です。だからこそ進化論を何も違和感なく受け入れることができたのでしょう。

  

  いまの日本ではほとんど、いわゆる大きな宗教的対立がありません。それは宗教に寛容であるからとも言われています。クリスマスを祝い、大晦日(おおみそか)にはお寺に出かけて除夜の鐘をたたき、その足で神社にお参りに行く。このようなことを何の違和感もなく、毎年恒例の楽しみにしている人々もいると聞きます。年末の一週間からお正月までは、日本人がいかに外来の宗教を寛容に受け入れてきたかの象徴である、などとも表現されます。

  

  しかし本当に宗教に寛容なために、色々な宗教を受け入れているのでしょうか。

  

  奇妙なことに聖書には、いずれ世界中の宗教が統一されることが預言されています。それは「世の終わり」と呼ばれる神の裁きの時代でのことです。その時代には聖書の神を信じる人々が、世界統一宗教の人々に迫害され殺されると預言されています8。つまり現在ある世界中の宗教は、ニューエイジ的な汎神論(はんしんろん)や宇宙論も含めて、聖書を完全に信じる人々をのぞいて、全て融合されていくということです。

  

  世界統一宗教と聞けば読者の皆さんは、なにか突拍子のない話に聞こえるかも知れません。しかしいま現在、もうすでに宗教統合の動きは始まっています。

  ここでは深くは掘り下げませんが、エキュメニカル運動というムーブメントがそれです。

  

  このムーブメントではカトリックを中心に、プロテスタントの一部、仏教、イスラム教、ヒンズー教やその他の宗教、そしてニューエイジ的な思想を信じる人々が参加しています。そして宗教の融和と世界平和を訴えて、世界各地で異宗教合同の礼拝集会を行っています。それに反対するのは、プロテスタントのごく一部の、“聖書をすべて神の言葉と信じる人々”のみです。

  

  ここで注目していただきたいのは、世界はいずれ“聖書をすべて神の言葉と信じる人々”と、聖書を部分的にだけでも信じる人をも含めた、“それ以外の人々”に分かれるということです。

  本書のテーマに沿った表現をすれば、“創造論を信じる”か、“進化論を信じる”かの、ふたつのグループです。(残念ながらカトリックはすでに進化論を受け入れ、プロテスタントの一部もその方向に向かいつつあります。)

  

  そしてその動きがすでに始まっているのなら、世界はもう“神の創造を信じる”か、“進化による偶然を信じるか”の二者択一を私たちに迫っていると言えるでしょう。このムーブメントは今後、いよいよ活発になってくるはずです。そして「宗教の融和」や「世界平和」の訴えには、本当の神を知らない多くの人々が同意することになるのでしょう。

  

  日本人が宗教に寛容なのは、「創造主である神」という概念を知らないからなのではないでしょうか。

  

  さらに言えば、日本人は一方的に進化論を受け入れてしまっているので、世界統一宗教を受け入れやすい精神的土台が、誰かによっていつの間にか、頭に植えつけられてしまったのではないでしょうか。

  

  どちらを選ぶかは自分で選ぶべきことで、ひとりひとりの自由意志によらなければなりません。しかしどんな選択肢があるのかを知らなければ、選ぶことさえできないでしょう。

  

  本章ではその二つの選択肢である進化論と創造論の違いを下記のように定義して解説していきたいと思います。

  すなわち「人が自分を偶然の産物であると信じること」と、「神によって造られた者であると信じること」のふたつです。

  

  

  優生学と唯物史観

  

  第1章の終わりでご紹介したドイツの生物学者、エルンスト・ヘッケルの「お腹の赤ちゃんは成長段階で進化の過程を繰り返す」という考え方は、人工中絶をする女性の罪悪感を軽減するのに大いに役立ったと伝えられています。それはつまり、「はやめに堕胎をすれば、人間を殺すことにはならない」という考え方です。(しかし胎児が進化の過程を反復するのではないことはすでに述べました。)

  

  ヘッケルの進化論的思想は、のちに登場するナチスの優生学(ゆうせいがく)に大きな影響を与えました。

  優生学とは20世紀初頭に支持された応用生物科学で、「自然淘汰(とうた)」や「適者生存」などの進化論的考え方によって、人類を積極的に改良しようとする思想です。

  

  現在では人種偏見の観点からタブー視されていますが、当時は善意で進められた経緯があります。たとえばナチスがおこなった精神障害者の安楽死や、ユダヤ人問題の最終的解決(処刑)は有名です。

  

  戦後間もなくの日本でも、優生学の影響を強く受けた法律がつくられたことがあります。「らい予防法」がその代表例です9。

  この法律によりハンセン氏病の患者に対する隔離や結婚の禁止など、非人道的な政策が、(無知ではあったとしても)善意により実行されました。

  現在この病気は遺伝病ではないこと、また大人には伝染せず、子どもも接触しただけではうつらないことが分かっています。国家が公式に患者らに謝罪をしたのは2001年のことです。

  

  無知であったにしても善意から行われていたことが、優生学の恐ろしいところです。

  またナチスの思想とか、人種の優越性とか聞けば極右的な狂信思想に思えますが、進化論的思想は左翼思想にも影響を及ぼしています。それが19世紀にカール・マルクスがとなえた唯物史観(ゆいぶつしかん)です。

  

  唯物史観も優生学とおなじく、進化論的な考え方が土台になった思想です。「唯(ただ)物だけ」という意味で「唯物」です。つまり「神はいない」という考え方が土台になっています。この思想をもとにマルクスは、共産主義理論を展開しました。

  

  恐怖政治を行ったスターリンも、文化大革命で自国民を大量に粛正した毛沢東も、カンボジアの大虐殺を行ったポルポトも、その思想のもとは唯物史観であり、共産主義思想でした。

  

  ナチズムには優生学が根本思想としてあったように、共産主義には唯物史観があり、結局どちらも専制独裁政治で弱者を淘汰するという、同じような結果を生み出しています。それは土台が同じだからです。彼らは確信的に、時として善意をもって社会を変えようとして、恐ろしい結果をもたらしたのです。

  

  キリスト者が魔女狩りや異端審問、さらには十字軍遠征のような、ひどいことをしたのも事実です。しかしそれは、そもそも聖書の内容から離反した行動です。人間の「罪」がそのような愚かな形で現れたゆえでした。「神はいない」と信じる者たちが確信的に恐ろしいことをしてしまうのと、根本的な動機が全く違います。

  

  思想的に右か左かが問題ではありません。また極端ではなく中道がよいのでもありません。問題の根源は、「神はいない」とする土台そのものなのです。

 

 

  もし?という仮定

  

  聖書は神の存在が大前提で書かれています。つまり聖書には「神の存在についての議論」がないのです。

  いっぽう進化論は逆に、「もし神がいたら?」という発想がまったくありません。つまり「神はいない」ということが大前提なのです。

  

  それゆえに創造論と進化論は、そもそも話しがまったくかみあわない考え方なのです。

  しかしながらここで、わざとお互いに大きく妥協をした極端な仮定で、どちらの思想が人の役に立つのかをシミュレーションしてみたいと思います。

  すなわち、創造論が正しかった場合の仮定と、その反対の進化論が正しかった場合の仮定です。

  

  ここでふたりの青年に登場してもらいましょう。創造論を信じる青年A君と、進化論を信じる青年B君です。このふたりがそれぞれ、お互いの考え方が正しかった場合を仮定して見てみましょう。

  

      進化論が正しかった場合

  

  まずは進化論が正しかった場合です。つまり、神は存在せずに、全世界は偶然からできていた場合です。

  

  青年A君はそれでも神を信じて生きます。彼の行動の規範は神です。きっとB君には馬鹿にされ、笑われるでしょうが、彼は生涯「神は存在する」という勘違いの中で過ごし、死にいたります。

  死後の世界はどうでしょうか。偶然から生じた人間に、死後の世界はありません。したがってA君は後悔することも、残念に思うこともありません。

  

  いっぽう進化論を信じるB君は、神を信じずに生きます。彼の行動の規範は自分です。自分が好きなことを自分中心に、もちろん他人に迷惑にならない程度に、なんでもします。

  あるいは彼は、自分が気に入った倫理道徳を受け入れ、その規範にしたがって生きるかも知れません。その場合の倫理道徳も、当然彼の思想、つまり「神はいない」という考えと同じものを選びます。いずれにせよ、取捨選択するのは自分自身です。失敗しても、自分の問題です。

  B君の死後も、A君の死後とまったく同じです。死んだあとに「ほらやっぱり神はいなかった」ということもなく、ただ自分も偶然の産物として消滅するのです。

  彼にとっては生きている間がすべてでした。死んだあとに彼の仲間が悲しんでも、彼には分りません。そしてその仲間もいつかは死に、世界は科学者たちの言うように、いつか「宇宙の死(熱死)」を迎えて誰もいなくなります。ただそれだけです。

  

      創造論が正しかった場合

  

  つぎに創造論が正しかった場合です。すなわち全能の神が存在する場合です。

  A君はこの場合もとうぜん自分の信仰を守ります。そして地上で祈りという形で、神と交わり続けます。

  「宇宙の死」という概念が世間を悩ませたとしても、彼には神にある希望があります。聖書に書いてあるごとくに、神が世界を新しくすると、彼は信じています10。

  良いこともあり、悪いこともあり、ときには失敗したりしながらも、とにかく彼は信仰を守り通して死にます。

  死後の世界はどうでしょうか。彼の人生には苦しいこともあったりしたでしょうが、神が彼に報いてくれます。なぜなら彼は聖書の神を信じ続けたからです。

  

  いっぽうB君はどうでしょうか。ここでも彼はおなじように生きます。ときとして良いこともするでしょう。しかしいずれにせよ、彼は神を信じず、偶然の産物として世界をとらえ、そのなかで死を迎えるのです。

  さて死後です。彼は死んで「無」になると信じていました。しかしそうではありませんでした。彼の目の前には、彼の信じていなかった世界が展開しています。そのとき彼は自分が間違っていたことに気付きます。

  そして彼は、自分が信じていなかった聖書の言葉のとおりに、神を信じていない人々が行く場所に連れて行かれてしまいます。そこで泣いて歯ぎしりをしても、もはや手遅れです。

  その場所は、彼が読まなかった聖書には「うじがつきず、火も消えることがない」場所と書いてあります(マルコ9章49節)。

  彼はその記述の正しさを文字通り、肌で感じることになるのです。しかも永遠に、死ぬこともできずに・・・。

  

  

  土台の問題

  

  前項のふたりの青年の仮定は、おもに彼らの死後についてフォーカスしたものでした。それでも「神はいない」という前提で生きることの危うさは、感じることができたと思います。

  

  死後についてだけではなく、進化論の考え方では色々とおかしなこともおこり得ます。

  

  創造論に立てば神が基準です。つまり聖書が基準となります。

  進化論では人の倫理観が基準となります。そしてこの基準では規制できないこともあります。だれにも迷惑をかけず、当事者たちに合意があるような場合です。自殺や安楽死、そして売春や不倫などの性的な乱れ、ドラッグや飲酒などによる堕落がこれに当たるでしょう。

  

  これらのことがらも、いまのところ規制されていることもあります。しかしだれにも迷惑をかけず、むしろ逆に経済効果さえあるのなら、これらのことがらも徐々にですが確実に、問題のないことになってしまうのでしょう。

  人の判断は時代によって変わるものです。米国でときどき問題にされる、安楽死を施す医者は、患者本人も同意をし、医者も善意からおこなっています。そのうちに人々には問題意識もなくなり、安楽死ビジネスが普通におこなわれるようになるのかも知れません。

  

  神なしの人間の倫理観などは、基準として不動なものではないのです。

  

  

 

  他にも「神はいない」という土台の弊害はまだまだあります。たとえば「適者生存」や「自然淘汰」という概念があります。

  これによれば、優秀なものが世界を支配するエリート層となり、弱いものは自己責任で滅んでいくことになります。弱者救済も、強いものが社会不適合の弱いものに、高い位置から情けをかける構図です。

  

  このような社会ではエリートが社会を指導する際に、無神論者であるにもかかわらず「神に選ばれし者」という優越的なエリート意識を持つ危険さえあります。事実、聖書の終末預言ではそのような危険な人物が、全世界の頂点に君臨するようになると記されています。

  

  本章のはじめにふれた世の終わりの時代には、反キリストと呼ばれる、世界的なリーダーが出現します。彼はキリストの再来とまで言われて世界中の人々に迎えられますが、そのうちに「自分は神だと宣言する」と預言されています(第2テサロニケ2章4節)11。

  

  この預言は世の終わりと呼ばれる特別な時期のことですが、土台が悪ければその上にたつ人々の行動に悪影響を及ぼすという意味で、象徴的な出来事であると言えるでしょう。

  

  付け加えることに、世の終わりで反キリストに逆らう人々が、反キリストを信じる人々に「首を切られる」と預言されていることも、人間中心主義の象徴的な記述であると言えるでしょう(黙示録20章4節)12。

  

  かつてギロチンという処刑の道具が存在していたことを知っている読者も多いと思います。でもこのフランス革命時に発明されたギロチン、日本語で断頭台が、フランス革命の標語でもある「自由・平等・友愛」の象徴として用いられていたと知る方は、そんなに多くはないかも知れません。

  

  フランス革命は王権神授説(おうけんしんじゅせつ)が常識だった時代に起きた、人間中心主義の革命です。神が王様に与えたという支配権を、人民に取り返すという意味で「自由・平等・友愛」です。(日本語では「友愛」を「博愛」と誤訳したことから、人と人のつながりのイメージが薄まって伝わりましたが、フランス革命は人間中心主義の革命でした。)

  ギロチンはどんな身分の高い人でも、あるいは身分も低く、さらにどんなに悪いことをした犯罪者であっても、おなじように一瞬にして命を絶つことができるという点で、「自由・平等・友愛」の象徴なのだそうです。

  

  

 

  現代の私たちにとってはブラックジョークのような話しですが、当時は本気でギロチンの発明を人々は賞賛しました。その証拠にこの発明品はヨーロッパ各国に受け入れられ、数十年前まで実際に処刑用に使われていました。

  

  フランス革命では共和国政府による恐怖政治で、処刑される人々がおおぜいでました。その恐怖政治も「自由・平等・友愛」の名のもとに、人間中心主義として確信的に行われました。言うなれば、人間中心主義の極みが恐怖政治を産み、ギロチンを産んだのです。

  

  世の終わりの時代に宗教が統一されることの背景にも人間中心主義があり、進化論的な考え方があります。

  そしてその時代に世界に君臨するリーダーが、自分こそ「選ばれし者」として神がかる背景にも、進化論的な土台があります。

  さらに、その時代に神を信じる人々を、反キリストを信じる人々が「首を切る」という形で殺すことにも、確信的な人間中心主義が土台としてあります。

  

  こうして見ると、進化論が単なるひとつの考え方ではなく、「神はいない」という土台のもとに人の行動さえも支配する、恐ろしい洗脳であることがわかるでしょう。

  

  「神はいない」という土台の上に立つのであれば、進化論も、人間中心主義も、神なしでのどのような善行も、その行き着く先は同じです。

  

  あなたがもし進化論的な立場で、あなた自身を偶然の産物として考えるのなら、あなたの人生も偶然の成り行きのもので、生きる価値のない無意味なものになってしまうでしょう。しかし創造論的な立場で、あなたの人生に神の存在を認めると、そこからあなたの存在の回復が始まります。

  

  次項では創造論にのっとったあなたの存在意義について説明します。もしまだあなたが神との和解を受け入れる祈り、イエス・キリストを信じ受け入れる祈りをしていないのでしたら、次の項を読んで、そのあとに付した祈りを、自分の祈りとして祈ってください。

  

  

  人は神の似姿:創造論の土台

  

  聖書には神についての議論がないことはすでに述べました。つまり聖書は、永遠の世界をつかさどる神の存在が大前提なのです。しかしその神が、物質世界を創造したいきさつとその理由については、しっかりと記されています。

  

  神が全宇宙を創り、地球を創り、動植物を創り、私たち人間を創った理由は、自分の愛を表現するためです。

  神の愛は完全なる愛です。その表現対象として、全世界を創りました。そしてその世界を神とともに管理するようにと、人間を神の似姿に創造しました。人の心に愛があるのは、神とつながって世界を神とともに、愛によって支配するためでした。

  これが人間が存在する理由です。そしてこの理由はあなたが存在する理由でもあります。

  

  ところが人は神から離れ、自分勝手に生きることを選んでしまいました。これを罪といいます。

  

  罪とは日本人の感覚では、犯罪とか法律に反することを想像しがちですが、神から離れたことを聖書は罪といいます。この罪のゆえに世界は汚(けが)され、呪いを受けたものとなってしまいました。13全世界が滅びに向かっているのは、人間の罪のゆえなのです。

  罪の影響は人間の体にも「死」という結果をもたらしました。また人の愛が歪み、神の完全なる愛とは似ても似つかない、自分中心の愛になりました。神を無視したどんな善行も、すべてが歪んだ結末になってしまうのは、人間の愛が不完全なものとなってしまったからです。

  自然災害も、人的災いも、すべてが人間の罪に由来します。全世界のすべての不幸は、人が神から離れたことに由来するのです。

  

  しかし神の愛は変わりません。たとえ人が神を忘れても、神は人を忘れません。このことはあなた個人についても当てはまります。あなたが神から離れ、神を知らないと思っていても、神はあなたから離れず、あなたのすべてを知っています。

  それゆえに神はあなたと和解する方法を提示されました。それがイエス・キリストによる罪の身代わりです。14

  

  イエスは神であるのに人間として来られ、まったく罪を犯さずに十字架につきました。それはイエスが天の父なる神の前で、罪のいけにえとなるためでした。それゆえに神はイエスを死からよみがえらせました。いまはイエスは天にあり、地上には信じる者に与えられる聖霊なる神が存在しています。15

  

  世の中はいま滅びに向かっています。人間社会の腐敗や環境の悪化など、滅びの兆候はすでに色々なところに現れているでしょう。本書のなかでも述べたように、全宇宙は必ずエネルギー的な死である熱死(宇宙の死)を迎えます。神を認めない人々でさえ、この物質世界の終わりを認めているのです。

  

  そして聖書の預言によれば、熱の死を迎えるまでもなく世の終わりの時代がやってきます。このとき、地上には「神はいない」という人々による世界統一宗教が生まれ、反キリストによる世界統一政府が横暴の限りをつくします。

  しかしイエス・キリストを信じ受け入れ、聖霊なる神を体に宿すキリスト者には、つぎの聖書の約束が実現します。これは携挙(けいきょ)と呼ばれる現象です(第一テサロニケの手紙4章16節から18節):

  

  

:16 すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、

:17 それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主(しゅ)と共にいるであろう。

:18 だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。

  

  

  この携挙が起こった衝撃は、全世界に大混乱をもたらし、そこから終わりの時代が始まります。

  その大混乱の様子を、聖書はつぎのように預言しています(第一テサロニケの手紙5章1節から3節):

  

  

:1 兄弟たちよ。その時期と場合とについては、書きおくる必要はない。

:2 あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。

:3 人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。

  

  

  キリストを信じ受け入れ、聖霊なる神との交わりを保つものには「突如として滅び」は襲いません。その約束は、続く9節にはつぎのように宣言されています:

  

  

神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救(すくい)を得るように定められたのである。

  

  

  神の怒りの時代が世の終わりの時代です。そのとき地上には、神との交わりを持たなかった者たちが残されることになります16。

  

  神の怒りの時代は突然訪れます。また人の死も予期せぬ時にやって来るものです。しかし神との交わりがあなたにしっかりとした土台を与えているのなら、あなたは揺るがされることはありません。

  

  イエス・キリストを信じ受け入れ、あなたも神の救いを受け取って下さい。心からお願いします。

  

  つぎの祈りのことばを自分の祈りとして祈るのであれば、あなたも神との和解を受け入れ救いを受け取ることができます。

  すでにキリスト者である方々は、下記の祈りを捧げる未信者の方のためにひとことお祈りくだされば、筆者として(同労者として)嬉しく思います。

  

  

      キリストを受け入れる祈り

                                            

                                    天の父なる神様、

                    あなたを受け入れずにいた罪をおゆるし下さい。

                                            

                  イエス・キリストが私の罪のために死んで下さったこと、

                              私が生きるためによみがえり、

                  聖霊なる神を送って下さったことを信じ受け入れます。

                                            

                                    聖霊なる神様、

                                どうぞ私にお入り下さい。

                                            

                この祈りを主イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン。

  

  

  この祈りを終えたあなたは、神との和解が成立した人、すなわちキリスト者です。続けて祈りを深めることをお勧めします。またキリスト者との交わりに参加することをお勧めします。ご参考までに「付録」の章を設けましたので、祈りについて、教会探しについてなどの一助としていただけたらと思います。