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第1章 進化論は宗教

第1章 進化論は宗教

  進化論には「神はいない」という大前提があります。「神」について度外視しているのではなく、「神はいない」と信じて論じられているのです。その点で進化論は宗教的です。

  

  進化論に関する良書とされている書籍に、フランシス・ヒッチング著の「キリンの首」があります。著者は「公平中立に進化論を検証した」と同書の前文で述べています。

  

  たとえば最初の生命を誕生させたとされる化学反応が、全くの偶然から起る確率が、「いかなる確率的根拠に照らしても」不可能のひとことで片付けられ得ると述べているあたりは、ヒッチング氏の言うように「公平中立」であるようにも見えます。データと理論の矛盾を公平中立に指摘しているからです。

  

  ところが彼はこのことの結論として「だがとにかく、その不可能に近いことが起きたことは確かなのである」と述べ、無生物から生物が誕生したのだと断言しています(「キリンの首」79-80頁)。

  

  つまり「確率はどうであっても進化論は起こったのである」という結論です。公平中立な科学的態度というよりもむしろ、盲信的信仰の態度です。進化論にはこのような論理の飛躍が、随所に見受けられます。

  

  

 

 

 

  本章ではそのような論理の飛躍、すなわち進化論の宗教的な側面をいくつかご紹介していきます。

  

  進化論がもし本当に「宗教」的ならば、「神はいる」と信じる人々を「宗教だ、盲信だ」と批難することはおかしな話です。しかし世の中ではそれが起こっています。

  

  そして進化論が本当に「宗教」ならば、聖書を信じている人々、すなわち進化論者が批難するところの「宗教」を信じている人々と意見が合わないのは当然のことです。

  

  聖書についてあまり知らないほとんどの日本人は、進化論の以下のような論理の飛躍にも目をつむり、進化論を「盲信」させられています。

  

  まずはごく基本的なことである「突然変異」についてみていきます。

  

  

  突然変異

  

  無生物である原子や化学物質が、自己複製(子どもを産むこと)ができる生物に変わる確率は、ほとんど全くないことは「キリンの首」の著者の言葉のとおりです。

  このことは1861年にフランスの細菌学者であるパスツールが、生物の自然発生を実験によって否定して以来、生物学者の間では常識的なことがらです。

  いままでどのような実験においても、無生物が生物になることは実証されていないのです。

  

  ところが進化論者は「とにかく進化はあった」として、さらなる論理の飛躍に挑戦しています。それが、ひとつの生命体ができてからさらに進化する際に、突然変異によってそれがなされたという説です。

  しかしこれもまた生物学的な事実を無視した非科学的態度です。

  

  生物学者の安藤和子博士は「突然変異には有益なものは一切ない」と述べています(「進化か創造か」ハーベストセミナーDVD)。

  博士によると突然変異はすべて遺伝子の誤伝達で、次の世代には伝わることはありません。また突然変異した個体は次世代を残せないか、あるいは時としてその遺伝子の異常は、つぎの世代には修復されて伝わることさえあるそうです。

  

  いずれにせよ、突然変異によって生物が進化してきた事実は、生物学的には完全に否定されています。

  

  

  熱力学(第一・第二)の法則

  

  進化論は物理学の常識にも目をつむりながら、進化があったと主張しています。

  

  熱力学第一の法則はエネルギー保存の法則とも呼ばれます。

  エネルギーは形を変えることはあっても、消滅したり新たに産み出されることはない、というのがその大まかな意味です。

  物質が燃焼すれば熱や光をだし、燃えかすも残ります。しかしそれら全てをあわせれば、閉じられた系(けい)(エネルギーが逃げない空間)では、すべてのエネルギーの総和は変化しない、という法則です。

  

  熱エネルギー第二の法則はエントロピー増大の法則とも呼ばれます。

  エントロピーとは、乱雑さとか、複雑さを意味します。秩序あるものが無秩序になっていくさまを「エントロピーが増大する」と表現します。

  この法則は「すべての物質的な系は無秩序へ向かう傾向がある」と説明されています。日本のことわざで「覆水盆(ふくすいぼん)に返らず」とありますが、エントロピー増大の法則の説明としてぴったりです。

  エネルギーの総和は保存されますが、地面にこぼれた水のようにもはや元に戻らず、形を変えてしまったエネルギーが増大し続ける、という意味です。

  第一の法則の例で説明すると、「エネルギーの変化(燃焼)によって熱や光などを生じさせた燃えかすは、燃焼前の状態には戻すことができない」という意味になります。

  全宇宙を閉じられた系と考えるとき、物理学的なすべての物の行き着く先は、平均化された温度と再利用できない燃えかすばかりの世界、ということになります。この状態を「宇宙の熱(ねっ)死(し)」と言います。

  このことを数式で証明してしまったある著名な数学者は、証明を完成させてから間もなくして、自死を選択してしまったのだそうです。宇宙には死があると証明してしまい、絶望したからであると言われています。

  (しかし全てを造られた方、神は、全世界を新しくすると聖書のあちこちでそれを宣言しています1。そのことだけを考えてみても、私たち人間の知識はこの限定された世界の、さらにごく一部分でしかないことが分ります。)

  

  熱力学第一と第二の法則は、いまある物質世界が新たな物質を生み出すことがないこと、そしてすでに存在する物質は形を崩し、混沌と無秩序へ向かっていることを述べています。

  

  進化論の論理展開では無生物が生物になり、さらに複雑な生命体へと進化するとされています。つまりアミノ酸が単細胞生物になり子孫を増やし、しだいに多細胞生物になり、さらに複雑な進化を遂げて、遺伝子情報を複雑化して、高度で複雑なことを伝達し続ける、ということです。

  

  この章の冒頭で述べたように、最初の生命が無生物から生じる確率はほとんど皆無です。しかし“ほとんど皆無”の状態の確率から生命が生まれたことを説明するために、進化論者は気の遠くなるような時間を想定して少しでも確率が大きくなったように論を展開します。

  

  「科学的」な態度に忠実に判断するのなら、熱力学第一と第二の法則により、「無から有は生み出せない」ことと、「すべての物は無秩序に向かいつつある」ことははっきりと分るはずです。

  

  物理学の常識から結論的に言えば進化は起こり得ないし、無生物も生物を生み出すようなことはないのです。それでもこの物質世界に生命が溢れているのは、神が創造主であって奇跡によって被造物を出現させたからです。

  

  

  中間種の欠如

  

  進化の途中の生物が、化石においても生きている状態においても、まったく発見されていないことは、進化論者を当惑させています。しかしそれでも「いずれ発見されるであろう」と信じて論じられているあたり、なんども繰り返しますが、進化論はまさに「宗教」的です。

  

  進化論者のあいだでも重大問題とされていることがらに、一つの種が突然出現し、長く進化せずに存在し続け、あるとき突然に消滅してしまうという事象があります。前出の「キリンの首」では、少しずつ変化している証拠がまったく見つかっていないことを、チャールズ・ダーウィン本人の言葉を引用して「もっとも明確で重大な意義」であると指摘しています(11頁)。つまりダーウィン自身も中間種(ちゅうかんしゅ)の欠如は認めていたのです。

  

  かつては「始祖鳥(しそちょう)」が鳥の進化途中の生物であるとされていました。しかしその後の研究により、始祖鳥の化石がでてきた地層よりもさらに古い年代とされる地層から、より完全な鳥の化石が発見されました。いまでは始祖鳥は進化途中の中間種ではなく、絶滅した鳥の一種であるとされています。

  

  

 

 

  「シーラカンス」もいまでは中間種ではないとわかっています。

  シーラカンスは肺魚の一種で、魚が陸上にあがるための進化途中の種であると言われていました。4千万年前に絶滅した中間種とされていたシーラカンスですが、現在もマダガスカル島沖で生息していることが発見され、研究の結果中間種ではないとされました。

  

  

 

  昆虫の中間種に関しては、進化論者をさらに悩ませている事柄があります。それは化石の出土から判断して、飛べる昆虫と飛べない昆虫がほとんど同時に発生していることです。昆虫の化石で見る限り、昆虫には飛べるように進化した形跡が全くありません。

  

  話が昆虫にまで及んだので、ここで昆虫と植物の進化に関する、創造論に立った鋭い指摘をご紹介します。

  

  ラジオ番組の「聖書と福音」の高原(たかはら)剛一(ごういち)朗(ろう)氏は次のように述べています。「進化論者は種子植物の出現を三億五千万年前とします。いっぽう飛ぶことのできる昆虫の出現は二億五千万年前です。すると一億年のあいだ種子植物は一体どうやって子孫を残してきたのでしょうか。」

  

  高原氏はさらに「命は少しずつ変化を積み重ねて今日の姿になったという進化論の説明は、よくよく考えると、つじつまが合わないことだらけなのです」と指摘しています(2012年6月17日放送「花蜂蘭(はなばちらん)から見えてくる神の愛」)。

  

  それでも「進化はあった」と主張するのは、「神はいない」という大前提があるからです。神の創造がないのなら、「進化した」という結論にならざるを得ないのです。

  

  話題を中間種にもどしましょう。これまでのことを復習してまとめるとつぎの一文になります。

  

  進化を示す証拠となる中間種は、一切発見されていません。

  

  では博物館などで見られる、進化の過程を表現した図やはく製は何なのでしょうか。人や動物が少しずつ進化したように見せている、どこにでもある図やはく製です。

  

 

  

 

 

  アメリカの博物館にはよく、馬の進化の過程を表現した模型があります。この進化模型にはとても説得力がありますが、並べられているのは馬の中間種ではありません。ビジュアル的に説明するために、大きさの順で絶滅種を並べただけの模型です。それぞれは現在の馬となんのつながりもない種か、あるいは小さい馬なのです。

  

  高原氏の言葉にもありましたが、進化論の説明にはこのようなつじつまの合わない点や、意図的とも思えるごまかしがたくさん紛れ込んでいます。

  

  しかも歴史の教科書の初めにはいまだに人類の進化が図入りで説明されています。

  

  しかしかつてヒトの中間種とされたネアンデルタール人は、くる病にかかって前かがみになった、現代人とおなじ「ヒト」であると解明されました。

  またジャワ原人(ピテカントロプス・エレクトゥスまたは、ホモ・エレクトゥス)は、人の大腿骨とテナガザルの頭蓋骨で、意図的に組み立てて作られた偽物であったことがわかっています。

  

  偽物と言えば進化論者で、反復説を証明しようとして個体発生図の偽物を作ってしまった、ドイツの生物学者エルンスト・ヘッケル(1834-1919)が有名です。

  

  反復説とは「個体発生は系統発生を繰り返す」と定義されます。もっとわかりやすく一般に流布した俗説で説明すると、「赤ちゃんはお母さんのおなかの中で、人類進化の過程をとおってくる」というものです。

  これはヘッケルがねつ造した図によって一躍世界に広まりましたが、すぐに嘘だとばれました。残念ながら日本ではこの俗説がまだ生きています。しかしながら、まえがきで述べた明治政府の進化論教育のことを考えれば、すぐにばれた嘘が俗説として日本に浸透してしまっている理由も納得できます。

  

  

 

  「崩壊する進化論」の著者の宇佐神(うさがみ)正海(まさみ)氏によると、ジャワ原人を発見した(と発表した)オランダ人医師のドゥ・ボアは、ヘッケルの弟子だったそうです(同書32頁)。

  師匠も弟子も、ねつ造までして進化論を信じさせたかった理由は何だったのでしょうか。立身出世や有名になることが目的だったのでしょうか。どうも私にはそうではないように感じます。

  

  本書では進化論を「神はいない」という前提に立った「宗教」であると、繰り返し述べてきました。それを信じる人々は「科学を信じている」と自称しながら、そのじつ科学的なデータを無視して飛躍した論理展開をしていることも説明してきました。

  

  それらのことを踏まえて考えれば、ヘッケルやドゥ・ボアが嘘まで用いて人々を信じさせたかったのは、究極的には「神はいない」という物の見方であると言えるのではないでしょうか。逆に言えば、「神はいる」という考え方の否定です。

  

  もしそうであるなら、進化論者がそこまでして否定したい創造論のよりどころである「聖書」にはどんなことが書かれているのでしょうか。

  本当に彼らが主張するように「聖書」は「宗教」の書で、前近代的な迷信の書なのでしょうか。

  

  つぎの第2章では、その「聖書」の驚くべき正確さについて、特に「聖書」が「科学」をリードしてきた実際の例を見ていきたいと思います。