閉じる


はじめに

 本書を第2巻とするシリーズは、2008年12月19日から2010年3月11日までの間に書いたブログの記事を再録したものです。初めて開設したブログのタイトルは「ネガティブに生きる」で、ハンドルネームは「パリス・テキサス」でした。ヴィム・ヴェンダースが監督した映画、"Paris, Texas"(文字通りには、米国の「テキサス州、パリス市」という意味ですね)から取りました。大好きな映画です。邦題は、なぜか「パリ、テキサス」ですね。

 

 どうして「ネガティブに生きる」なのかと申しますと、うつとの闘いと共存をテーマ、あるいは目的にしていたからです。つまり。「ネガティブに生きる=頑張らない」ほどの感覚で、名付けました。

 

 私のブログは、当初の日記的な色彩が薄れ、徐々にエッセイや論考に近いものになっていきます。ブログにしては長めの記事をほぼ毎日書いていたので、データとしての全体の量はかなり大きいです。したがって、いくつかに分冊する形で電子書籍化していく予定です。

 

 ブログで長文の記事を投稿していた時期には、パソコンや携帯電話で読まれる文章であることを意識し、読者がモニターや液晶の画面で読みやすくするための工夫をしていました。具体的には、各段落を短くし、段落間の改行を頻繁に行うようにしました。また、1センテンスでの読点をなるべく多くし、中には読点を打つ個所で改行するといった少々乱暴な書き方もしています。

 

 そんなわけで、今回の電子書籍化に当たっては、もとの文章がブログ記事であったことを、できる限り忠実に再現し、上述のような独特のレイアウトをそのまま反映させるように努めました。

 

     *

 

 以下は、過去に開設したブログの記録です。

 

*「ネガティブに生きる」2008-12-19~2009-02-27
*「うつせみのあなたに」2009-03-01~2009-03-09 
*「でまかせしゅぎじっこうちゅう」2009-03-10~2009-03-15
*「うつせみのあなたに」2009-03-26~2009-04-08
*「でまかせしゅぎじっこうちゅう」2009-04-06~2009-04-08
*「うつせみのあなたに」2009-04-17~2009-07-17
*「でまかせしゅぎじっこうちゅう」2009-08-01~2009-08-08
*「うつせみのあなたに・・・」2009-08-11~2009-09-01
*「小品集」2009-09-04~2009-11-14(ハンドルネームとして「恵」を使ったブログ)
*「うつせみのあなたに」2009-09-04~2009-11-19
*「うつせみのあなたに」2009-11-27~2009-11-29
*「うつせみのあなたに」2009-12-01~2009-12-11
*「でまかせしゅぎじっこうちゅう」2009-12-02~2009-12-10
*「ヒト観察記」2009-12-06~2009-12-10
*「うつせみついたうつせみのおと」2009-12-08~2009-12-10
*「うつせみのな」2009-12-12~2009-12-15
*「うつせみのくら」(それまでに削除したブログ記事のバックアップを再ブログ化したもの)
*「うつせみのあなたに」2009-12-16~2010-02-28
*「うつせみのうわごと」2010-03-04~2010-03-11

 

 ブログを作り、壊し、またもや、作り、壊し、の繰り返しです。お恥ずかしい限りです。とはいえ、以上の記事のバックアップは、ちゃっかりとすべて保存されています。実は、言霊が怖いのです。文章を捨てられない、消せない、つまり削除できないのです。冗談ではなく――。

 

 このシリーズのタイトル、また現在もあるブログのタイトル「うつせみのあなたに」は、いろいろな意味に取れます。その意味の多重性については、本書で何回か触れています。そのため、意味の複数の解釈は保留にしておきますので、どうか想像してみてください。大きめの辞書で「うつせみ」と「あなた」を引いてみると、何通りかの意味に取れることが、お分かりになると思います。

 

 本書は、『うつせみのあなたに』の第2巻です。このシリーズ全体に共通するのは、「代理の仕組み」、つまり「「何か」の代わりに「何かではないもの」を用いる」という仕組みです。これをテーマに、さまざまな例を挙げたり、多種多様な素材を使いながら、話を展開していきます。

 

 本書の読み方として、まず記事を読み解説は後回しにする方法以外に、第1部の最終記事「09.02.02 こんなことを書きました(その2)」、そして第2部の最終記事「09.02.16 こんなことを書きました(その3)」に収録されている各記事の解説に目をお通しになった後に、それぞれの記事をお読みになるのも、よろしいかと思います。






もくじ

はじめに

もくじ

 

第1部 09.01.20~09.01.25 「ブログタイトル:ネガティブに生きる」
09.01.20 それは違うよ
09.01.21 ま~は、魔法の、ま~
09.01.22 なぜ、ケータイが
09.01.23 お口を空けて、あーん  
09.01.24 冬のすずめ 
09.01.25 架空書評 : 彼らのいる風景 
09.01.26 交信欲=口唇欲
09.01.27 ケータイ依存症と唇 
09.01.28 オバマさんとノッチさん 
09.01.29 もしかして、出来レース?
09.01.30 カジノ人間主義 
09.01.31 コラブログとモノブログ  
09.02.01 架空書評 : ビッグ・ブラザー 
09.02.02 こんなことを書きました(その2) 

 

第2部 09.02..03~09.02.16 「ブログタイトル:ネガティブに生きる」

09-02-03 1カ月早い、ひな祭り

09.02.04 神様になる方法

09.02.05 かつらはずれる

09.02.06 究極の武器はヒューヒューともしもしなのだ 

09.02.07 ひとかたならぬお世話になっております

09.02.08 架空書評 : PDSジェネレーションズ

09.02.09 1人に2台のテレビ  

09.02.10 人面管から人面壁へ  

09.02.11 マトリックス  

09.02.12 こんなマヨじゃ、いやだ!
09.02.13 そっくり
09.02.14 「東京」× 無限大 
09.02.15 架空書評 : 九つの命
09.02.16 こんなことを書きました(その3)

 

あとがき

『うつせみのあなたに 第1巻~第11巻』の記事タイトル

 

 







09.01.20 それは違うよ

◆それは違うよ
2009-01-20 10:20:25 | Weblog

 

 目でもいいです。耳でもいいです。鼻でもいいです。五感と呼ばれるものから、いわゆる第六感も含めて、考えてみませんか?

 

 きょうは、そのことが気になるのです。五感、または知覚、または感覚です。厳密に言えば、その3つは「違う」らしいのですが、細かいことは気にしないようしましょう。いずれにせよ、知覚って、

 

何のために、あるのでしょう? 

 

 不思議です。謎です。神秘です。不可解です。よく考えてみれば、奇跡のような、嘘のような話です。だから、ヒトは宗教や哲学や科学を作ったのでしょう。

 

 大昔は、宗教も哲学も科学も学問一般もが一つだった時代が、長く続いていたらしいです。森羅万象を扱う人たちがいた。つまり「何でもあり」あるいは「何でも屋さん」の先生がいたわけです。

 

 その人は、病気も治せるし、雨も降らせるし、大雨をやませることもできる。何をしてはいけないか、何をしなければならないかも、知っている。これから何が起こるかも、自分たちの先祖が何をしてきたのかまでも、知っている。他の土地から来た人たちと交渉もするし、場合によっては、撃退するための指揮をとる。

 

 もちろん、その人ができないことも、時々あります。みんなが見守る前で、大見得を切ってみたものの、

 

 降ると言った雨が、降らない!


 治ると言った病人が、治らず、死んでしまった!


 大丈夫と言ったのに、よそ者たちに食べ物をとられてしまった!


 絶対にこうなると言ったのに、予想が外れた!

 

 これでは、立つ瀬がありません。で、その人は、考えました。みんなから頼りにされるだけあって、他の人に比べるとずるいのです。

 

 わしは代理だ。

 

と、叫ぶ。その人は、「何でも屋さん」ではなく、「何でも代行屋さん」だと言うのです。もっとも、これは都合の悪い時だけです。普段は、「何でも屋さん」みたいな振りをしています。演技力が抜群なのです。実に、ずるい。こういうのを、頭がいいとも、言います。

 

 では、何の代理なのか?

 

「何でも代行屋さん」は、たいてい天を指差します。代行屋さんによっては、目をつむる人もいます。どうやら、その人の閉じた目の裏あたりに、何かが見えたり、澄ました耳に何かが聞こえるらしい。そこのところは、普通の人には分かりません。

 

 以上が、人の「知」の誕生を「紙芝居的(=神芝居的)」に説明したものです。なにせ、紙芝居ですから、あまり深く考えないでください。神、あるいは超越者(= superman = ヒトを超えた存在 = 超人)の誕生とか、シャマン(=シャーマン)の出現とか、宗教の発生とかを、連想なさるのは自由ですが。

 

     *

 

 で、五感に(※もし、そんなものがあるとすれば第六感にも)話を戻します。

 

 ヒトの知覚は、なぜ、あるのでしょう? 

 

 生物学者でも古生物学者でも哲学者でもないので、あくまでも素人の考えですが、

 

「違いが分かる」

 

ようになるために、知覚が備わっているのではないでしょうか? 「なぜ、知覚があるか?」ではなく、「知覚が備わっている目的は、何か?」とか、「知覚が備わっていれば、どんないいことがあるか?」とか、「どういうふうに、知覚という機能を使っているか?」に注目したほうが、話があまりややこしくならない。とりわけ無精者の自分には、もってこいのメソッド(=やり方)です。

 

 だいいち、素人が寝転がって考えるのには、「なぜ」や「どうして」は荷が重過ぎる。そうお思いになりませんか? そんな大それた問題は、素人が口出しをしてはならない。赤恥をかくだけ。要らぬエネルギーを使うだけ。このご時勢ですから、省エネ、エコで、気張らずにいきましょうよ。

 

 知覚があれば、「違いが分かる」。

 

 インスタント・コーヒーの、かつての宣伝文句じゃありませんが、「違いが分かる 」ということは、日常生活に思いをはせてみれば、何となく分かるような気がしませんか?

 

「この卵、腐っているわ」「あれ、うんちに血が混じっている。大変だ 」(※冗談ではなく、気をつけましょう)「台所から、何かが焦げているような匂いがする」「このティシュペーパーは駄目。はなをかんでたら、鼻が赤くなってきた」「あの顔を見たか? きょうの部長は、機嫌が悪いぞ」「あっ、○○ちゃんからのメールが来てる」「あいつ、着メロ変えたな?」「けさから腰と背中あたりがかゆくて仕方ない」「先生、このところ、自分から見て胃の左側に、時々刺すような痛みを感じるんです」……

 

 やっぱり、知覚機能があれば、自分の体の具合も分かるし、身の回りの状況を判断できるし、悪くなりそうなことも予想できるみたいだし、これは便利だ。どんどん使おう。そんな感じがします。

 

 これは、ヒトに限りません。あらゆる生き物が日々実行しています。ブドウ球菌も(※たぶん)、オカメインコも、朝顔も、コビトカバも、シーモンキーも、獲物(=滋養)を得るために、逆に自分が他の生物の獲物(=滋養)にならないために、必死かどうかは知りませんが、とにかく「知覚」している。知覚しまくっている。要するに、

 

違いが分からなければ、生き延びられない、サバイブできない、

 

というわけです。大変ですね。で、「違う」を難しく言うと「差異」と言います。「差」のつく言葉を、思い出してみましょう。

 

 差別、無差別、差別化、落差、誤差、時差、差額、大差、小差、交差……。

 

 次に「差異」の「異」はどうでしょう? 

 

 異物、異物感、異性、奇異、異様、変異、異色、異教、異教徒、特異、異化(※好きな言葉です、この言葉をダシにして小説を書いた女性の芥川賞作家がいます、多和田ヨーコ、とかいう方です、あとで正確な名を調べてみます)、異常、異状、驚異、異例……。

 

 こう並べてみると、うーんと唸ってしまいます。存在感のある言葉たちばかりです。こう、お腹の辺りにぐっと来るものを感じます。

 

     *

 

 ところで、「間違う」「間違い」という意味で、

 

「それは違うよ」、

 

と、言いませんか? different ではなく、wrong の意味です。ちょっと視点を変えて英語で言うと、その「違い」が分かったような気がします。つまり、「違う」には、大きく分けて2通りの意味があるということです。翻訳家や通訳者は大変だなあ、などと心配しそうになりますが、前後関係というものがあるから、たいていは、「大変な」ことにはなりません。ただ、「違う」に2通りの意味があるのは、「変な」だけです。何か、変。何か、不思議。

 

 このブログでは、こういう時に、ある計算をよくやります。きょうも、やってみます。引き算です。

 

 「間違い」-「違い」=「間」

 

 ん? 何じゃいな、これは? このブログをやっているやつは、変じゃない? ちょっと違うんじゃない? 間違っているんじゃない? ヤバいんじゃない、ここが(※と言いながら、体の一部を指さす、そして回す)? 危ういんじゃない? アブネーよ、きっと、マジアブ。

 

 ちょっと、間って(=待って)ください。

 

 本気なんです。正気とは言いませんが、本気なのです。

 

と、このブログではよく書きます。で、さっきの計算式を説明させてください。

 

 「間違い」-「違い」=「間」

 

「間(=ま)」というのは、「あいだ」とも読みますね。「あいだ」というのは、「隔たり」「距離」「離れていること」ですよね。「空間」、つまり「からのま」「からっぽ」「何もない空間」「空白」「無」「中身なし」「うつせみ」(※大好きな言葉です、よかったら、辞書を引いてください、2つの語があります)ということです。

 

「ま」、または「まあ」、または「まー」

 

って、口に出して、言ってみてください。口が開いて、空間ができますよね。それです。それなんです。「間」というのは。

 

 やっぱし、変だ、コイツ。

 

 そうお思いになるのも、無理はありません。自分もそう思います。「間違い」と「違い」の違いは、変なんです。不思議なんです。だから、それを考えると、変になるのです。

 

 えっ、変? 

 

 エヘンで、思い出しましたが、違いが分かる人というのは、「エヘン」と威張っているのです。さっきの話に出てきた、


「何でも屋さん」の振りをした「何でも代行屋さん」

 

が、そうです。あのお話は、大昔を舞台にした「紙芝居的(=神芝居)」でしたが、実は、今、この西暦2009年にも、いるのです。あのお芝居は、大昔から現在までずーっと続いているのです。

 

     *

 

 で、「何でも屋さん」の振りをした「何でも代行屋さん」ですが、うようよ、います。あなたの周りにもいるはずです。ひょっとして、あなたも、そうだったりして。実を申しますと、この記事を書いているアホも、時々その振りをすることがあります。「こけおどし」「虎の威を借りる」「空威張り」「虚勢を張る」「張子の虎」なんて言い方もあります(※ただし、ちょっと横にそれると「張子の虎」「魂の抜け殻」「間抜け」にもなります)。ヒトであるかぎり、逃れない習性のようです。

 

 そもそも、「威張る」とは「威=力(※パワハラのパワです)」を、「張る=貼る=示す=『これが見えぬか? と脅す』」ことです。トラとか怪獣の「かぶりもの=ぬいぐるみ」を被って、ウォーっとか言って脅すことです。小さいころ、「おかあさんといっしょ」で、見たことがありませんか? あれです。

 

 これが、SやMやLぐらいならいいのですが、LLやXL以上になると、事は重大になります。

 

憲法=法律=主権者=国民 → 国会議員

 

や、

 

その他諸々の議員・法律 → 公務員

 

や、

 

貨幣 → 企業家・財界人・金融業者・国庫管理人

 

という具合です。その

 

「→(※矢印)= 権限委譲 = 代理 = 代行」

 

のところで、とてつもない「勘違い」=「ねじれ」=「ゆがみ」が生じて、「誤作動」=「不具合」=「犯罪的行為」が起(お)こっている。これは、怒(お)こらなければなりません。法治(ほうち)国家として、放置(ほうち)しておくわけにはまいりません。

 

 どうしてなのか? 説明させてください。

 

 「→」は、預けただけ、貸してあげただけ、任せてあげただけ、「悪いけど、忙しいから、やってちょうだい」と渡しただけ、なのです。それを、自分のものになった、自分が大将だ、自分が持ち主だ、要するに、自分は偉い、と間違えてしまったのです。

 

 さらに悪いのは、預け、貸して、任せて、渡した側までが、間違えてしまったということです。

 

 上で挙げた、国会議員、公務員、企業家・財界人・金融業者・国庫管理人という、でかい面(つら)をした代理人たち(※「→」の右側にいる人たちです)の「勘違い」は、実にはなはだしい。「つら」「つら」思うに、あい「つら」のために、国民は「つら」い目を我慢する必要は、本来は全然ないのです。それなのに、いつまで経っても、平行線。勘違い平行棒状態です。改まる気配は、まったくなし。そう「づら」?=そうではありませんか?

 

 話があちこち行って、ごめんなさい。実は、自分も焦っているのです。このgooブログには10,000文字までという制限があるので、あまり、改行したり、長話をしたりすると、リミットを越えてしまうのです。

 

 ですので、そろそろ、きょうのまとめをします。大雑把なまとめになりますが、お許し願います。

 

(1)「五感 = 知覚= 感覚」とは「違いが分かる」ためにある。


(2)「違いが分かる人 or 分かった振りをするのがうまい人」は「偉い」と、他の人たちから言われる(※これは、言う人たちにも責任があります)。


(3)「偉い人」は、実は「何でも屋さん」ではなく、「何でも代行屋さん」である。


(4)「何でも代行屋さん」が「何または誰」の代理人かは、謎である。


(5)「何または誰」という謎を解くカギが、「違い」と「間違い」の「違い」にあるらしい。


(補足)「間違い」と「違い」の「違い」は「間」である、と読んだ、あるいは聞いたさいには、「まあ」とか、「まー」と、あきれて口を「開ける=空ける」のでしたよね。(※開いた口を閉じるのを忘れないでください、念のため)。

 

     *

 

 では、飛躍します。大学などで働いていらっしゃる「偉い」先生方から非難される、あるいは罵倒される、あるいは嘲笑される、あるいは無視されるのを覚悟で言います。

 

 アウフヘーベンしよう!

 

 で、「アウフヘーベン=止揚(※「しよう」と読みますね)」ですが、「しようがない」の「しよう」と似ていますが、ご面倒でも「止揚(しよう)」を辞書で引いてみてください。さっそく、そう「しよう」と言っていただければ幸いです、面倒な方は、辞書を引かなくても大丈夫です。大したことではありません。「アウフヘーベン=止揚」とは、要するに「飛躍 = こじつけ = だじゃれ = オヤジギャグ」なのです。さて、シリアスにいきます(※ほんまかいな)。

 

*「間(=ま)」とは「隔たり」、つまり「差異」である。(※さいですか?(= そうですか?)当ブログでは、何度か使ったオヤジギャグです。リユース、リ「サイ」クル、なんちゃって、失礼)。

 

*「差異=différence 」とは、たとえばジャック・デリダというフランスの、オヤジギャグの達人(※ 哲学者とも言われています)が、シリアスに考え続けた「もの=こと」です。そして考え続けた結果、別の名を持つ、「差異」の「双子の片割れ(※ちょっと顔立ちが違うだけの「さえん=différance 」奴なのです)」をでっち上げたのです。ただし、ややこしい話なのですが、いつか、この「もの=こと」については別の機会に、書きたいなと、身の程もわきまえずに思っております。

 

     *

 

 とりあえず、きょうは自分なりに、今後の見通しを兼ねて、オヤジギャグをわめきます。そのダジャレの責任は、いずれ、とりますので――

 

「誰も責任とれなんて、あんたに頼んじゃいねーよ。ひっこめ」(※これ、幻聴を書き取りしたものです)

 

――このところ、時々こうした幻聴が聞こえます。難聴に加えて幻聴となると、自分としては、とても困るんですが、わめきます。よろしいでしょうか? では、いきます。

 

(わめきの1): マラルメの「さい」ころが、「賭ける」ことによって「書ける」ことの実践としての「詩作 = 思索 =試作」の道具とされたように、「差異」は、このブログという場(=間=空間)で「さい」ころを振って出た「目=芽」である。

 

(わめきの2): 偶然性の産物である「差異」という言葉に寄り添い、その身ぶりと表情を模倣し、奥には至らず、言の葉の表層をすりすり滑走しながら、psych(o)- (※「サイクとかサイコと読みます)=霊魂=心理=精神=脳=動揺=ショック=驚異=興奮=「なんちゃって(※リーダーズ英和辞典など大きな英和辞典では、ちゃんと、この意味も載っています)」と戯れてみる。

 

(わめきの3): 間違っても、真理や概念や観念には至らない。いや、至らざるを得ない身ぶりを演じなければならないことは百も承知だが、そこ「ん」ところを、「うん」、と「ふん」ばる。それが否定語の意味の素(もと)たる 「 n 」の使命(※しめい)。それを言っちゃあ、お「しめえ」(=エポケー)よ、と罵倒されるのを覚悟のうえでの確信犯。えっ、ボケ(※うっかり、差別語を使いましたことをお詫び申し上げます)だって?

 

(わめきの4): 「いたらぬ」者の「いたらぬ」ところは、許してくだ「さい」。「ころ」あいをみて、いつかまた「さい」を振りますので。

 

 以上、痴態=遅滞=遅怠=延滞=艶態=差延=支離滅裂=アドリブギャグを、演じましたことを、お詫び申し上げます。「差異」については、「消えてしまいたい指数」が低ければ(=抑うつ状態がひどくなければ)、あすにでも書きたいと思っております。

 

     *

 

 あすの予定を具体的に言えば、

 

「違う」ということが、ヒトがヒトとして生きるさいに、具体的に、どのような状況をもたらし、いかなる災厄を招くか? その利点(※たとえば、人間らしく生きるということ)と、その残酷さ(※たとえば、人間である限り避けることのできない差別)の両面について、自分の頭と体を使って考えてみたい。哲学してみたい。そう思っております。本気です。

 

 やっぱり、きょうも長くなってしまいました。モニター上の細かい文字の文章を、ここまで読んでくださった方に、心よりお礼申し上げます。


 


09.01.21 ま~は、魔法の、ま~

◆ま~は、魔法の、ま~
2009-01-21 10:36:37 | Weblog

 

 自分の頭の整理を兼ねて、きのう書いたことをまとめてみます。

 

*「間違い」-「違い」=「間(※ま)」


*「間」は、「あいだ」「隔たり」「距離」「離れていること」「空間」「からのま」「何もない空間」「空白」「無」「中身なし」「うつせみ」である。


*「間」は、「差異(※さい)」とも言う。

 

ということでした。

 

さて、

 

ここで童心に帰りましょう。「ドレミのうた」を歌いませんか? ただし、さびの部分だけを、拝借します。例の「○は△△の○~」というやつです。では、こちらからリードさせていただきます。最初は、シリアスにいきます。

 

「間(※ま~)」は、真面目の、ま~。「間(※ま~)」は、まことの、ま~。「間(※ま~)」は、まともの、ま~。「間(※ま~)」は、マネーの、ま~。「間(※ま~)」は、マックの、ま~。「間(※ま~)」は、真央ちゃんの、ま~。 

 

 何だか、面白くないですね。ちょっと、ネガティブにいきます。

 

「間(※ま~)」は、麻薬の、ま~。「間(※ま~)」は、間抜けの、ま~。「間(※ま~)」は、負け犬の、ま~。「間(※ま~)」は、負け組の、ま~。 

 

 自分のことのようで、悲しくなりかけました。気分を変えて、哲学的・文学的にいきましょうか。

 

「間(※ま~)」は、間違いの、ま~。「間(※ま~)」は、曼荼羅(まんだら)の、ま~。「間(※ま~)」は、マンガの、ま~。「間(※ま~)」は、マイナスの、ま~。「間(※ま~)」は、マラルメの、ま~。「間(※ま~)」は、マルクスの、ま~。「間(※ま~)」は、万葉集の、ま~。 

 

 こんなん出ましたけど、どうどすか(※イズミさん、あなたは今、どうしていらっしゃるのでしょうか?)

 

 要するに、

 

ま~は、魔法の、ま~。

 

と、お感じになりませんか? 少なくとも、自分にとっては、「間=差異」は魔法のように不思議です。以上の駄洒落がぜんぶ、「当たっている =言えてる」ような気がするのは、やはり間抜けだからでしょうか? ふ抜けなのは、知っていましたけど、間まで抜けているとは? 魔が差したのに、違いない。とうとう、悪魔に目をつけられたらしい。

 

 やはり、罰(ばち)があったのか? そうかもしれない。それにしても(※いや、「だからこそ」か?)、摩(ま)訶不思議です。自分の誕生日が命日になる人がいるくらい、不可思議です。ねえ、小津安二郎(おづやすじろう)さん(※あなたは今、どうしていらっしゃるのでしょうか、千の風ですか)? なぜ、ここで Ozu が出る? やっぱし、魔が差しているのではないか? きっと、魔法だ。やっぱし、オズの魔法使い?

 

     *

 

 ここで弁明をさせてください。いや、弁明などと格好をつける柄ではないので、言い訳をさせてください。

 

 どうして、このブログでは、ダジャレとオヤジギャグに走るのか?

 

 格好をつけた弁明と、へなへなへろへろした言い訳の2つがあります。

 

(1)弁明 : 戦略です。徹底的に言の葉の表層にこだわり、言語活動の必然性である抽象化に、あえて絶望的な抵抗を試みることを、具体的な言葉の身ぶり、および運動として実践するのを目的とする。言い換えれば、マラルメの詩作=思索=試作のツールであるサイコロのように、言葉に「賭ける」ことにより、「書ける」という当たり前のようで決して当たり前ではない、偶然と必然の共存を実践するため。

 

(2)言い訳 : お勉強は嫌い。本を読むのも苦手。無気力。アカデミックな権威とは無縁。友達なし。コネも引きもなし。事実上の無一文(=いい年をして親のすねかじり)。こうしたネガティブな状況にあるけれど、哲学がしたいんです。そのためには、自分の頭と体を使って考えるほか、ないじゃないですか。いや、それこそが哲学することだと思います。アカデミックな場でするものだけが、哲学ではない。言葉と面白おかしく本気で戯れること(※これって鉄学の哲則です)なら、野垂れ死にする最期の最後の瞬間まで、できるんじゃないか。

 

※おまけの弁解 : ひとりギャグを飛ばしながら、うつを紛らわすという、トホホな理由もあります。

 というわけです。ご理解いただければ、うれしいです。本当に。

 

     *

 

 へこんできたので、ちょっと、格好をつけていいですか? では、いきます。

 

「差異」=「間」とは、言語化するのが困難です。不可能といってもいいほど、難しい。

 

【ここで、1つお願いがあります。このブログ日記を読んだあとにでも、フランスにいたジャック・デリダという人が勝手に作った、différance(※ différence ではなく )という語について、グーグルでぜひ検索をしていただければ、幸いです。いろいろな訳語がありますが、「差延(さえん)」(※さえんなあ、などと冴えないギャグを飛ばせば、ダジャレが大好きだったデリダさんは、お墓の下できゃっきゃいって喜びますよ。もし、お墓にいればの話ですが)をキーワードに、ウィキペディアで検索されると、かなり良質な解説にたどりつけます。これが、てっとり早いでしょう。ただ、その解説に目を通して、「ん? こんなの読む気はしない」と、少しでもお思いになれば、即、おやめください。頑張るのは、よしましょう。】

 

 繰り返します。

 

「差異」=「間」とは、言語化するのが困難です。不可能といってもいいほど、難しい。

 

 難しいのも当然です。「差異」=「間」=「空間」=「からっぽ」=「無」なんですから。<何にもない状況 or 事態>を、「何にもない」と言葉にしたところで、何にもないことに「変わり(=代わり)」はないですよね。

 

 でも、それをやっているのが、ヒト(=狂ったサル)なんです。この難しい、または不可能なことを、やすやすとできると錯覚する。この鈍感さなしに、ヒトは生きられない。この鈍感さなしに、ヒトとして存在できない。と、いうことなんです。

 

 きのう、

 

「知覚することは違いがわかること」

 

だって、書きましたよね。たぶん、ブドウ球菌も、シーモンキーもやっている。つまり、生き物全部がやっているらしい。

 

 ただし、ヒトの場合、それをやりすぎてしまっているんです。だって、月に仲間を送りこんだんですよ。今、こうやって、ネットであなたとつながっているんですよ。原子爆弾を、こしらえちゃったんですよ。世界で一番のベストセラーは、バイブルなんですよ。天然痘を、みんなで力を合わせて根絶したんですよ。ガレージで何かをつくり始めて、(中略)えげつない抱き合わせ商法で、世界中に何かをばら撒いて、お金=貨幣を気の遠くなるほど儲けて、大邸宅をいくつも持ち、少しだけ他のヒトたちに与えて、ギゼン家じゃない、ジゼン家として、ソンケーされるヒトまでいるんですよー。ビールを飲みすぎてゲーッツ。

 

 これって、やっぱし、やりすぎです。いいこと、悪いこと、含めて、やりすぎです。

 

     *

 

 もっと、身近な例を挙げて、「知覚すること」について、考えてみましょう。

 

 知覚するのはいいけれど、他の人の、肌や目や髪の色や、顔立ちや、身なりや、体つきや、発音・発声や、訛りや、目には見えないところまで、知覚(=差別)するなんて――。

 

 また、知覚をする器官のうちで、欠けたり、具合が悪かったり、無いところがある人を知覚(=差別)するなんて――。

 

 それでいて、愛はこの惑星を救う、などという、甘い言葉=美辞麗句に、涙流しながら、ポテチを食べ食べ、テレビを見ているなんて――。

 

 自分を含めて、やりすぎです。でも、致し方ありません。

 

 知覚っていいますけど、映画やテレビやパソコンのモニターを見ているのと、大差ないんじゃないか、と思います。見ているのは、影だったり、電気信号の線や画素の集まりだったりするわけで、「本物=物自体=現象自体」じゃないんですよ。バーチャル・リアリティ(※最近、この言葉を見聞きしなくなったような気がします。死語=死後?)らしいのです。

 

 脳細胞や脳神経なんて、理科も科学も苦手だった自分にはよく分かりませんが、とにかく、知覚(=ちかく)は、離れたものや分かりっこないものを「近く=ちかく」で見ている、または感じているように、錯覚させる、仕掛け(=大嘘=フィクション=代理)なんですよ。

 

 トンボは複眼で世界を見ている。さかなは魚眼で世界を知覚している。犬の嗅覚は、ヒトも利用するほど高感度。ウサギは聴覚がいいらしい……。すると、ヒトの見ている世界像や知覚している「世界」や「宇宙」なんて、「スタンダード=標準=基準=規範=模範」なんかじゃない。

 

 特権的でも、絶対的でも、まして「極めて優れて」なんかいないのではないか? 「誰も、そんなこと、言ってねーよ」と言われれば、「さいですか? ほな、さいなら」とすごすご引き下がるしかありませんが。

 

 でも、言いたいです。

 

 現実なんて、見たり感じたヒトなんて、本当はいないんですよ。見たり、聞いたり、感じたという言葉があるだけなんです。そういう言葉をほかのヒトに伝える、あるいは残すだけ。「どんだけ~?」と、尋ねられれば、「そんだけ~」なんですよ。はっきり、言えば。

 

 まして、前世や未来や霊やオーラなんて、見たり感じたヒトなんて、いない。見た、感じたという、言葉があるだけ。それが、証拠に本を出すたびに、大儲け。テレビに出てしゃべるだけで、大儲け。「見ました」「聞きました」「感じました」という

 

「言葉」を切り売りするだけ

 

で、お金がどんどん入ってくる。

 

 ああ、しんど――。もう少しまったり、いきましょう。

 

     *

 

 たとえて言えば、影絵です。小さいころ、片手を使ったり、両手を合わせて何かの形を作り、光と影の織りなす像を映し出し、いろんなものが「見える」ことに、幼い心をときめかしたこと、ありませんか? 不思議でしたよね。感動しましたよね。そこに、ぜんぜんないものが、あるように思える。それはそれで、すばらしいことです。

 

 影絵は、違ったもの、異なるもの、相反するとされているもの――そうしたものを、いとも簡単に影という形でつなげます。言葉は、影絵にとてもよく似ています。種を明かせば、一種の「錯覚」です。ここで言う

 

「錯覚」とは、Aの代りにAでないものをAと取り違えること

 

です。

 

 だから、言葉があり、ダジャレがあり、言い間違いや聞き間違いがあり、比喩があり、こじつけがあり、言葉にいろいろな意味がくっつき、言葉が豊かになり、言葉がノイズでまみれ、誤解があり、理解がある。そして、「コミュニケーション」や「全然話が通じない」や「聞いても聞こえなかったことにする」ということが成立する。そんなふうにも、言えるように思います。

 

 そうだとすれば、すばらしいことです。ま~は、魔法の、ま~。

 

 やっぱり、魔法です。

 

 要するに、影なんです。知覚とか、言葉とか、表象とか、情報とかいうものは――。「何かそのもの」ではない。「何かそのもの」には、ヒトは決してたどりつけない。だから、その影(=代理)を「見る」「知覚する」という、仕組みを作り上げたというより、わけも分からず手に入れてしまったのです。「授かった」と言う人もいますが、自分は、ちょっと「違う」ような気がします。本当のところは、誰にも分からない。分かるなんていう人がいたら、それは人ではない。超人です。そんな人、いますか?

 

 別に、喧嘩を売っているわけではありません。誤解しないでくださいね。念のために申し添えます。

 

     *

 

 今、申し上げたことは、「嘘だ、大嘘だ、デタラメだ、妄言だ、妄想だ……」とおっしゃる方がいるに違いない。それは十分承知しております。自分は、自分の思っていることを書くだけ。言葉として書くだけ。自信も確信も確証も、全然ありません。ただ、「そう思う」と書くだけです。

 

 誤解しないでくださいね。自分は平和と平穏を愛しています。喧嘩は弱いから、しません。議論は、頭が悪いからしません。喧嘩にも議論にも、勝ったことなど、生まれて以来、一度もありません。それだけが自慢です。弱い者いじめは、やめましょう。喧嘩や議論するなら、強くて頭のいい人と、してください。どうやら、被害妄想の傾向が強くなってきたようです。

 

 さて、「差異 = 間」に話を戻します(※あちこち振りまわして、ごめんなさい、首尾一貫とか筋道を立てることが苦手なのです)。

 

 繰り返します。

 

「差異 = 間」は、言語化できない。

 

だから、

 

迂回(うかい)、つまり、「差異 = 間」のまわりを、おろおろ、うろうろするしかない。

 

あるいは、サイコロを振るように、どんな目が出るか分からないけれど、

 

賭けるしかない。

 

ヒトは、まさに絶望的な慢性的ギャンブル依存症に陥っているわけです。でも、大丈夫。ヒトはたくましい。鈍感さとすれすれの、たくましさを持っているからです。「見る」に代表される「知覚する」ことによって、森羅万象をつなぐという、魔法を手に入れて以来、その威力を信じている。

 

森羅万象をつなぐ「頑丈な鎖=魔法」

 

とは、当ブログで何度も書いてきた、

 

「表象の働き」、言い換えると「Aの代理として「Aではないもの」を用いること 」

 

にほかなりません。これはすごい「からくり」です。半端じゃない。すごい武器です。おそらく、この惑星で最強でしょう。だから、月にも行けた。だから、あなたも頑張って、というわけです。

 

 せいぜい(※こんな言い方は、他の生き物たちに対して、まことに不遜ですが )オオハクチョウか、チョウザメか、アカゲザルくらいの、「知覚する」能力を持っていれば、ヒトは、これほどややこしい事態・状況を日々生きることはないわけです。でも、ほかの生き物の持つもの以上のもの(※これも、不遜な言い方です)を、いったん手に入れたからには、しかたがありません。ヒトをやめるわけにはいかない。「どうにもとまらない」状態です。

 

 正しい、間違っている、良い、悪い、違う、同じ、偶然、必然、原因、結果、意味、概念、観念……何だか、やけくそに、いっしょくたに、してしまいましたが、今、列挙したような、目で見たり、手で触れたりできない「もの」や「こと」や「さま」も、はたまた、鉛筆、ダイヤモンド、自分の住まいにいるペット、自分の大切な手や足、目の前の愛用のパソコンやケータイ……といった、見たり手で触れたりできる「もの」も、本当は、

 

ヒトからは遠く離れた、決して見たり触れたりできないもの

 

なのではないでしょうか? 寂しいけど、悔しいけど、そうではないでしょうか? でも、いいのです。みんながそうなのですから。

 

     *

 

 何だか、しんみり、しちゃいました。シンコペーションしましょう。シンコペーション? 言葉に詰まったので、言葉のサイコロを振ってみたら、何だか「場違い」な言葉が出てきました。「間違い」ではなく、「場違い」。「場」……。これを考えると、大変なことになりそうなので、いつか、別の機会に書きます。「 あんたに、頼んじゃ、いねーよ 」。ああ、また幻聴だ!

 

「差異」という言葉は、難しく響くので、「間」を使って考えてみましょう。間が悪い、間を取る、間が抜ける――というときの「間」というのは、説明しにくくありませんか? 何となく、「イメージ」は分かるような気がするけど、言葉にしにくい。こういう場合には、やっぱり、魔法が必要なのです。魔法を使うと、いちおう言葉になり、これまた分かったような気がする。でも、あえて「イメージ」にこだわり、そこにとどまるのもいいですよ。すごく、こころよいです。

 

 今、「イメージ」と言ったものですが、音楽、歌、絵、空に浮かぶ雲のかたち、バレー(※バレーボールじゃなくて、ballet のほうです)、スポーツ、目的のない散歩、場合によってはゲーム――だったりします。「イメージ」のイメージが分かって、いただけたでしょうか? 

 

 言葉を、あまり意識しないものばかりです。

 

 言葉は影絵に似て、「差異」をあっさりと「見えるもの」にしてしまう面を持っている、

 

と言えそうです。

 

「差異 = 間」を知覚することは、影絵を見ることに「似ている」。影絵のように、「きれいだ」。

 

 そんな「見方=考え方」もできそうです。影絵は光と影の織り成す「まぼろし」です。漢字で書くと「幻」。「幻影」「幻灯」なんていう言葉もありますね。「幻灯」は「映画」のおとうさんか、おかあさん、みたいなものです。光と影の踊るさまを見ていると、何だか、ふわっというか、ぼーっとした気分になります。

 

 幼かったころに、影絵を見て胸をおどらせた体験を思い出しながら、そっと目を閉じてみませんか? 頭の中に残っている、きれいな映像と、当時の素直な感動にしばらく浸ってみませんか? 思い切って、今夜にでも童心に帰って、手を結んだり開いたりして、影絵遊びをしてみませんか? 

 

 きょうは、これ以上、言葉は要らないと思います。

 

 この行まで辛抱してお付き合いくださった方に、お礼申し上げます。


 


09.01.22 なぜ、ケータイが

◆なぜ、ケータイが
2009-01-22 11:43:42 | Weblog

 

 何だか、きょうは、嫌な気分です。あることが、気にかかっているからなんです。実にイヤーな気分です。自分が嫌いなものは、たくさんあるのですが、その中でも嫌いなことが、この2、3日間の新聞に載っているのです。「消えてしまいたい指数」にまで影響しています。きょうは、調子が悪いです。真剣に考えすぎてしまう悪い癖が出てきたようです。

 

 これは、対峙(=退治=たいじ)しなければ、なりません。さもないと、あとを引きそうです。ポテチや、カッパエビセンや、納豆の糸のように、あとを引きそうな予感がします。思い切って、はっきり、言います。

 

「禁止」って、嫌いです。

 

 書いただけで、悪寒がするみたいに、ぞーっとします。「禁忌(きんき) = タブー」という、これまた、イヤーな言葉がありますが、「禁忌」が、じめじめ、じとーっ、だとすれば、「禁止」は、バン! とか、バシッ! とか、ブーン! とか、いう感じです。つまり、痛いのです。銃で撃たれたり、ギロチンで首をはねられたり、電気を体に流されたり――そんなふうに、痛いのです。

 

「禁止」という言葉を見たり聞いたりすると、ナチスドイツ、ゲシュタポ、治安維持法、特高、大粛清、強制収容所、ゲーペーウー、公安、情報部、内務省、シュタージ、密告、拷問、盗聴、拉致、軟禁、監禁、投獄、監視……などという、恐ろしい言葉を次々と連想してしまうのです。

 

 考えすぎ、なのでしょう、たぶん。被害妄想、なのでしょう、おそらく。杞憂(きゆう)、なのでしょう、きっと。でも、こういう強迫観念は、なかなか去ってくれない。

 

 やっぱり、対峙(=退治)しなければ、ならないようです。悪魔祓い(= exorcise = エクソサイズ )する必要がある。頭と体の中から、追いはらわなければならない。

 

 はらう、払う、祓う、掃う

 

 たった今、書いた言葉が、おまじないのように、感じられます。「まじない」って、「呪い」って書くんですよね。「呪い(=のろい)」と同じじゃないですかー。「マジ」に、怖いです。マジコワ。「まじゅつ」や「マジック」のように、気味が悪いです。

 

 きのう、魔法という言葉で遊んじゃったのが、いけなかったのでようか? 言霊――自分が最も苦手であり、怖いと心から思っている言葉です、本当は使いたくないのですけど、使わないわけにはいかない、それほど、せっぱ詰まっているのです――のせいでしょうか? たたり、ばち、でしょうか?

 

     *

 

 こんな時には、やっぱり、サイコロを振ります。マラルメのサイコロを。泉アツノ(※アツノさんをご存知ない方は、ウィキペディアなどでお調べください)さん、力をお借りしてよろしいでしょうか? 自分ひとりじゃ心細いのです。マジでお願いしますよー。よかった――。アツノさんのOKが出ました。

 

 では、サイコロを振ります。えいっや! 

 

 Silly。

 

「こんなん出ましたけど~」と、アツノさんの玉のようなお声。

 

 Silly? そんな馬鹿な! フランス人だったステファヌ・マラルメが中学の英語の先生をしていたのは知っていますが、きょうは英語が出ました。しかも、「ばかたれ!」などと、ののしられるとは――。ショックです。マラルメさん、あなたに見放されたら、自分は生きてはいけません。もう1度、いきます。

 

 Ass。

 

「 こんなん出ましたけど~ 」

 

 Ass ですか? 再度、英語で罵倒されるとは! もう、行く手も、なす術(すべ)も、なしだとおっしゃるのですか、マラルメさん? 

 

 いや、そんなはずはない。マラルメさんに限って、そんな「ばかな」ことは言わないはずだ。落ち着いて考えよう。

 「 Silly 」「 Ass 」。silly ass。シリーアス。

 

 読めた!

 

 シリアス。まじめにやれ。マジで取り組め。

 

 いつもこのブログでやっている引き算の

 

「 Silly 」-「 Ass 」= !?

 

ではなく、足し算の

 

「 Silly 」+「 Ass 」= シリアス

 

だったのか? ここんとこ、引き算ばかりしていたけど、足し算だったのか? マラルメさん、恐れ入りました。「 Silly 」+「 Ass 」= 尻アス。尻尻。でんでん。臀部(でんぶ)の「でん」。語源は違うみたいですけど、ass  には「お尻」という意味もありましたね。だから、シリアス。そうでしたか。すっかり忘れておりました、マラルメ先生。

 

 ついでに、ちょっと、調子に乗ってもいいでしょうか、先生? きょうのサイコロの目は、ひょっとして足し算だけでなく、掛け算でも解けるのではないでしょうか? 

 

「 ばか 」×「 ばか 」=「 まじめ 」。

 

マイナス同士を掛け合わせると、プラスになる。つまり、Don't be silly. = Be serious. =「まじめにやりなさい」という意味ではないでしょうか?

 

 わっかりました、先生(せんせい)。

 

 宣誓(せんせい)、きょうは、真面目に、正々堂々と取り組みます。

 

 さすが、マラルメ先生。宣誓をしたら、すっきりしました。気が楽になりました。どうやら、おはらいができたようです。言葉のサイコロの目の通りに、きょうはシリアスにマジにやります。「禁止」と真面目に対峙し、退治してみます。いや、あまりにも手強い相手なので、退治はできないまでも、対処してみます。

 

     *

 

 で、「禁止」です。みなさん、ここまで来るのに時間がかかって申し訳ありませんでした。なにしろ、手強い相手なのです。半端じゃないんですよ。

 

 前置きが長かったですが、話は実に簡単なことなのです。この数日間の新聞、テレビ・ニュース、ウェブ・ニュースなどで、ご存知のように、

 

 携帯電話の、校内への持ち込みや、校内での使用を「禁止する」という、「お上」(※嫌な言葉ですが、都合上使います)、この場合はその代理(※代理でも「お上づら」をしています、何しろ、「虎の威を借りる」は伝染るんです)である、文部科学省からの「お達し」(※これまた、嫌な言葉)が、出そうになっているとか。

 

 ケータイの問題点や利点については、あちこちに書かれていたり、話題にされていることなので、ここでは触れません。みんなが(※もちろん、関係ない人もたくさんいます)、日常的に経験していることでしょうし、第一自分はケータイの是非とかいう、きな臭くて物騒な議論は苦手なのです。ディスカッション、ディベート、討論(=闘論=投論=倒論)の類は、ノー・サンキューなのです。そういうことは、そういうことが好きな人同士で、やってください。

 

 ですので、ケータイの使用(※特に小・中学生や高校生の)の是非は問わない代わりに、「禁止する」というヒト特有の行動について思うところを、持ち合せの乏しいデータと、自分の頭と体を使って、書いてみたいと思います。無精で横着な方法ですが、それしか、能(=脳)がありませんので。

 

     *

 

 まず、素朴な疑問から書きます。

 

 なぜ、ケータイが、

 

です。いや、正確には、これは素朴な疑問とは言えないかもしれません。いや、正直言って、全然素朴な疑問などではない。こうなることは、ある程度予測がついていたからです。ということは、

 

 やっぱり、ケータイが、

 

と言うべきです。訂正します。こうなる気がしていた。こうなって当然だ。だんだん、そう思えてきました。歴史が証明しています。ところで、

 

 手紙禁止令って、ご存知ですか? 

 

「手紙禁止令 」というのは、この国の場合だと、かなり長く続いていました。昔々から、江戸時代まで続いていました。でも、明治時代になって、「手紙禁止令」が解けたわけではありません。文明開化、つまり、他国、特に欧米に追いつけ追い越せという、国家の命運をかけた大事業が始まりました。

 

 文字というものが、一部のエリートや特権階級のものでなくなり、「学校教育」という行政上の言葉の下に、せっせと「識字率」を高めることが、国家の目標になったのです。この辺りのことは、学校でお勉強しましたよね。全国規模での、寺子屋の公営化です。

 

「識字率」というのは、国家にとっては、「諸刃(もろは)の剣(つるぎ)」です。言い換えると、いい面もあるが、下手をすると、自分の身がヤバくなる、ということです。いい面を説明すると、文字の読み書きのできる国民の割合が、高くなることによって、他の国、特に欧米に対して、自慢できるようになります。つまり、文明国の仲間入りを果たしたことになる。これは、めでたい。

 

 その一方で、そういう人たちが増えすぎると困る。なぜなら、「お上」=「支配階級」が独占している、「知のスキル」が広まりすぎると、「知のスキル」の「有難み」が薄れるだけでなく、うかうかしているうちに「知のスキル」が、みんなのものになってしまう。

 

「知のスキル」は、その名の通り技能ですから、それを使うと知識や情報が扱えるようになる。つまり、「お上」だけがやっていたことを、みんながやり始める。ヤバい。最悪の場合には、乗っ取られてしまう。これは、一種の革命です。下克上です。危険です。だから、取り締まる必要が出てきたわけです。

 

 やっぱり、「知のスキル」は、一部のもの(=エリート=選ばれた者たち)だけが握っているべきだ。以前ほど厳しいものではなくていいから、とにかく、あまり「知のスキル」が広まらないようにしよう。というわけで、緩めの「手紙禁止令」を継続することにしたのです。具体的に言うと、次のような感じです。

 

「変なこと(=お上にとって都合の悪いことや、危険なこと)は、文字にしてはならぬ」

 

「まして、変なことを、手紙に書いて、仲間に送ることは許さん」

 

「怪しいやつ(=お上にとって都合の悪いことや、危険なことをしそうな人)の書いた手紙は、わしら(=お上や、その代理人たち)が勝手に開封して、何が書いてあるか、読むからな」

 

「変なこと(=お上にとって都合の悪いことや、危険なこと)が、書いてあるのを発見したら、ただちに罰(ばつ)を与えるぞー」

 

「場合によっては、自分の命はないと思え」

 

というものです。

 

 ここでいう、「手紙」とは、広い意味でとってください。他の人たちに、伝えたい、訴えたいことを文字にしたものです。すると、新聞、雑誌、本、宣伝文、パンフレット、標語などが、頭に浮かびます。日記の類も、含めてもいいでしょう。日記が他の人の手に渡れば、書いた人の思いが伝わりますから。

 

 以上のことは、おとぎ話か、紙芝居の筋みたいなものです。ごく大雑把で、不正確な話です。でも、

 

「禁止」ということの、恐ろしさの一端

 

は、つかんでいただけたのではないでしょうか? 「禁止」を甘く見ちゃ、駄目ですよ。半端じゃなく、怖いんですから。へたをすると、拷問されますよ。あげくには、殺されますよ。

 

     *

 

 さて、ヒトには、他のヒトと言葉をかわしたいという欲望があります。生きるうえでの「基本的な」欲望です。基本的人権の、「基本的」です。誰もが、誰かと話したい、そして、つながりたいと思う。あるいは、誰かに文字で思いを伝えたいと願う。これって、自然な欲求です。「通信欲」と呼んでいる人たちもいます。このブログでは、「交信欲=口唇欲」と呼びたいです。何かエロい響きがあって気恥ずかしいのですが、気に入っているので、そう呼ぶことにします。

 

 また、記事が長くなりそうなので、ピッチを上げてもいいですか? じゃあ、いきますよ。

 

 ラスコーやアルタミラの絵、文字の発生、象形文字、楔形文字、紙の発明、印刷術の発明、

 

 さらに、スピードを上げて、

 

 グーテンベルグ、聖書の翻訳、新聞、本=書籍、御伽草子、かわら版、お触書(※これらが登場した順序は、忘れました、年号とか、時代区分とかを覚えるが大の苦手なのです)

 

 そして、いきなり、

 

 有線電話、無線電話、電報、郵便制度、無声映画、有声映画、ラジオ放送(※このへんの順序も、忘れました、したがって、ごちゃごちゃです、ごめんなさい)

 

 いっきに飛んで、

 

 テレックス、テレビ放送、長距離通信、ファクス、インターネット、電子メール、ポケベル、自動車電話、PHS、携帯電話(※面倒なので、ここも「順不同」としておきます、ごめんなさい、調べる余裕のある方、どうか整理をお願いします)

 

 で、ようやくケータイにたどり着きました。ふーっ! ああ、疲れた! 

 

「誰も、あんたに、疲れてくれなんて、言ってねーよ 」。ああ、また、幻聴! へこみそうになるけど、マラルメ先生への宣誓をした以上、やめられない。

 

     *

 

 で、話は、まだ、あるんです。上で挙げたものたちの敵どもを挙げなければ、手落ちになります。きょうの話で肝心なのは、次に並べる敵どもなのです。では、いきますよ。これも、思いつくままの順不同で、スピードを挙げます。なお、一部は、冒頭近くに列挙した悪夢と重なります。

 

 禁書、焚書、言論弾圧、宗教弾圧、魔女狩り、赤狩り、島流し、検閲、監視、国外追放、軟禁、監禁、幽閉、接見禁止、面会謝絶(?)、エシュロン、密告、拷問、盗聴、密告、拉致、身柄拘束、投獄、死刑

 

 死刑。来るところまで、来ちゃいました。やっはり、怖いでしょ?

 

 こういう重大な歴史的事実、そして現在も世界のいたるところで起きている事実は、お上品にアカデミックに、あるいは格好よくジャーナリスティックにやるよりも、素人なりに、順不同で、やけくそに、ガバーッとまくしたてたほうが、迫力があって、リアルなのです――ああ、なんという自己正当化! 単なる怠け者のくせして。自己嫌悪。

 

 反省します。

 

 何か新しい「もの」や「仕組み」や「風潮」が出現すると、国家や社会は、どのような行動をとるでしょうか?

 

 まず、ビビるんです! マジビビ。ちびりそうになるくらい、ビビるんです。次に、うろたえる。怖い、不安だと感じる余裕が出てくる。つまり、態勢を整える心の準備ができる。

 

 その次は、考える。国家もお上も社会も、馬鹿じゃないですから、当然です。では、いったい、何を考えるのか? 現在では、以下のように、考えるのではないかと推測します。たぶん、ですけど。

 

 コピー機、ファクス、電信、その他、情報技術の急速な進展が、ソ連の崩壊を加速化させた。体制維持のためには、ITにより高度化し洗練された「知のツール」を飼い慣らしておかないと、大変なことになる。こっちの身が危ない。しかし、そうは口に出せない。大義名分としては、「国家安全保障のため」、「風紀紊乱(ふうきびんらん)を防止するため」、「青少年の健全な育成のため」、「子どもたちの心と身を守るため」がいいだろう。誰も、反論できないはずだ。うん。

 

 ごく一部の人たちの脳裏には、次のような名前が浮かぶかも、しれません。ただし、その可能性は非常に低いです。

 

 スーチー、マンデラ、ダライ・ラマ、マハトマ・ガンディー、キング牧師、小林多喜二(※カニコーの作者ですね)……

 

 たとえ、そうした名前が浮かんだとしても、頭の中から追い払い、こう言います。

 

 「禁止する」「絶対に駄目だ」「許さん」。

 

 知らない間に、きな臭い話になってしまいました。マラルメのサイコロは怖い、というか、すごい。言葉のサイコロを振って、この記事を書いているうちに、思いもしないことまで出てしまう。やはり、魔法ですよ。

 

 ところで、あまり使われることのない、言い方かもしれませんが、悪事やたくらみや秘密を暴露することを、「尻を割る」と言います。ひょっとすると、さっき、おはらいの時に、「 Silly 」「 Ass 」とお尻が2つも出たのは、「権力(=ばかども)」の「尻を割れ」という、マラルメ先生の「だじゃれ = お託宣」だったかもしれません。

 

 引き算でもなく、足し算でもなく、掛け算でもなく、「割り」算です。ひょっとすると、ですけど。いずれにせよ、めっちゃくちゃな、こじつけですよね。反省。

 

 要するに、きょう、言いたかったのは、次の通りです。

 

 過去も、現在も、未来も、変わらないことは、3つ。

 

(1)新しいものは、お上の目のカタキにされ、弾圧される。


(2)お上は、下克上を、死ぬほど恐れている。


(3)オトナたちはコドモたちが怖い。

 

 以上です。

 

 だから、ケータイが禁止されるのです。知っておいて、いただきたいのは、これって大昔から続いている、こわーいこわーい実話の一端だということです。

 

 ゲームばっかりしている子どもたちが多いことにしろ、学校に行かない子どもたちが急増していることにしろ、オトナたちは、自分たちなりに、これまた、こわーい(※さっきと意味は相当違いますが)と思っているのです。つまり、オトナたちが怖がっているという意味です。でも、オトナたちは高をくくっています。

 

 どうせ、あいつらも、じきにオトナになるんだ。

 

 これほど、心強いことはないでしょう。

 

 細かい字の長い文をここまで読んでいただいた方に、心より感謝いたします。

 



読者登録

星野廉さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について