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09.01.29 もしかして、出来レース?

◆もしかして、出来レース?
2009-01-29 10:39:37 | Weblog

 

「わかる」って不思議だと思いませんか? 自分には不思議で不思議でたまりません。「わからない」も、不思議です。きょうは、「わかる」ってことは、いったい、どんな「仕組み=からくり」なのかを、考えてみたいです。哲学してみたいです。たまにはオヤジギャグなど、バンバン飛ばしながら、うつを紛らわしたいです。

 

 ところで当ブログ日記では、やたら、くだらないギャグを飛ばしています。くだらないことは、十分承知しております。と、念のため言い添えておきます。で、自分なりに、ギャグが決まった時には、自己満足ですけど、とてもとても嬉しいです。「マンモスうれP= I'm very very happy. 」です。きのうも書きましたが、このところ、

 

死語復活キャンペーン

 

を、ひとりで「展開=転回=空回り」しております。いつ終わるやら、この回転扉は(※独り言です)。きょうは、「いただきマンモス」なんかでおなじみだった、のりピー、こと、酒井法子さんを思い出しましょう。ご不明の「ヤング(※これも死語ですか?)」がいらっしゃいましたら、「酒井法子」をウィキペディアなどで検索してください。面倒くさい方は、今書いたことは、お忘れください。

 

 さて、「わかる」と「わからない」ということの「仕組み = からくり」ですが、自分にとっては、昔から気になってしかたがない問題の1つです。こういうややこしいことは、科学者や、哲学者や哲学学者などに任せておけばいい、という考え方もあるでしょう。そうした意見のあることを重々承知したうえで、素人として素人らしく、あえて取り組んでみようと存じます。

 

 で、ついでに説明しておきますが、哲学者と哲学学者とは違います。いわゆる哲学者は、「主に」自分の頭と体で考えたことを、書くなり、他の人に話したりします(※ここでは、後述のように「オリジナリティの有無」を問題にしていません、文字通りに取ってください)。一方、哲学学者は、「主に」他の人の考えたことを、書くなり、他の人に話したりします。ここで、大切なのは「主に」です。「主に」は、「ほとんどの場合に」と同じくらいだと理解してください。

 

 なぜかと申しますと、

 

ヒトに「独創性=オリジナリティ」などは、備わっていない

 

からです。ヒトにとって、

 

知識や情報は、すべて既に誰かが言ったり書いたりした言葉だ、

 

という意味です。あらゆる知識や情報は、誰かの言葉の引用か、寄せ集め=コラージュ=パッチワーク=ごった煮なのです。

 

 せいぜいできることと言えば、これまで集積された言葉と想念を、ああでもない、こうでもないと「組みかえる」手仕事=ブリコラージュです。最近、発想法とか、創造的思考とかいう類の本が売れていますよね。イメージ的には、ブレーンストーミングのパーソナル版という感じです。要するに、めちゃくちゃ、こじつけでもいいから、いろいろな言葉や想念を組み合わせる。言葉は下品ですが、頭の中を乱交=オージー状態にしてしまうことです。

 

 節操とか、正しい正しくないとか、真面目不真面目なんて、気にしてはいけません。とにかく、一か八かで「賭ける」のです。そのうちに「こんなんでましたけど~」と妙案が浮かぶという、ギャンブル=ゲームを実践すること。それが思考すること、思想すること、あるいは哲学することだと思います。

 

 その意味では、マラルメのやろうとしたことと、ちょっとダブります。マラルメにとって、詩作=思索=試作だったのです。話が、それました。ヒトには「独創性=オリジナリティ」などは備わっていない、という話でしたね。

 

 いや、そんなことはない。オリジナリティは存在する。特許権や著作権があるじゃないか。

 

と言う人たちもけっこういます、未だに。でも、その人たちは大変です。「オリジナリティは『存在しない』」ということを否定しちゃうと、その人たちは、

 

「 オギャー! ウギャー!」

 

と産声をあげて以来、自分自身がたったひとりで生きてきたことを、証明しなければならなくなります。とりわけ、母語を真似る=学ぶことなく、ひとりだけで習得したことを証明しなければならなくなります。また、たとえば、太陽が地球の周りを回っているのではなく、地球のほうが太陽の周りを回っていることを、自力で知ったということを証明しなければならなくなります。

 

 頭のいい人なら、口がうまいですから、証明しちゃいそうな気もします。言葉を用いれば、何とでも言える。何でもあり。言い換えるなら、黒を白と言いくるめることができる。というのが、言葉の特徴ですから、上記のことを言葉を用いて証明しても、ぜんぜん不思議はありません。だからこそ、人間様は、ここまできたのですもの。なお、特許権と著作権に関しては、究極的にはお金とハンコの問題だ、とだけ言っておきます。この点については、いつか詳しく書きたいです。気になる方は、当ブログのバックナンバー「あなたなら、どうしますか?」2009-01-16と、「やっぱり、ハンコは偉い」2009-01-17をご一読願います。

 

 で、さっきの哲学者と哲学学者の話に戻ります。「死語復活キャンペーン」のついでに、このブログでは記事を書き始めた初回から、一種の、

 

「哲学を庶民の手に」キャンペーン

 

みたいなことを、独りでやっています。「自分の頭と体で考える」とか、「哲学がしたーい」が標語なのですが、「自分の頭と体で考える」というのは、比喩でして、きのうの記事の最後のほうで書いた、

 

>(1)ヒトは、言葉を使って考えることができる(※「言葉で考える」のではありません、「言葉の助けを借りて考える」という意味です、思考と言語との関係には、まだコンセンサスはないもようです)。これが「言=事分け」です。


>(2)ヒトは、体(※当然のことですが、頭も、お腹も、膀胱も、胃も、五感も、手足も、皮膚も体内にある何もかもを含みます)を使って考えることもできる。これが「身分け」です。

 

のうちの、(2)くらいの意味です。オリジナリティというものが存在する、という意味では、ぜんぜんありません。念のために申し添えておきます。現に、これまで、このブログで書いてきたことは、すべてが誰かの言葉の引用か、その言葉の断片の「寄せ集め=コラージュ=パッチワーク=ごった煮」でした。そうした作業を「手仕事=ブリコラージュ」として、やっていたのです。「乱交=オージー」していたんです。ヒトの書くもの、話すことで、そうでないものやことはありません。

 

 で、さきほど書きました「哲学を庶民の手に」キャンペーンですけど、視点を変えてみましょう。現在の、政治家と呼ばれる人たちを思い浮かべてください。ついでに、現在活躍している作家と呼ばれる人たちを思い浮かべてください。できれば、その人たちの、経歴まで知っていると、いいんですけど、ふつうは知りませんよね、気にしませんよね、そんなこと。で、先週書いた「お口を空けて、あーん」2009-01-23という文章で、やや詳しく触れたことを、ここでかいつまんで説明します。

 

 政治をやってお金を稼ぐことも、小説を書いて生計を立てることも、今では、いわゆる「偏差値」(※イヤーな言葉です)の非常に高い、一部の大学出身者だけの特権ではなくなっている。つまり、エリートだけが独占する職業ではなくなってきている。と、いうことを強調したいのです。昔は違いました。政治家や作家は、たいてい、いわゆる「いい大学」や「いい学校」を出た人たちがなる職業でした。もちろん、例外的な人物はいましたけど、少数でした。

 

 国語の教科書を思い出してください。教科書に載っている文章を、読まされますよね。各文章の後ろのほうで、写真入りの作者の経歴って見かけませんでしたか? 自分は、国語が苦手で、授業も退屈だったので、よくそういう写真の顔にヒゲをつけたり、マユを鉛筆で濃くして、

 

ギャハハー!

 

なんて、ひとりで受けて喜んでいました。そういう写真の下とか横に、その文章を書いた小説家や詩人や評論家という肩書の人たちの略歴が載っていませんでしたか? やたら、東大とか、京大とか、早稲田大とか、慶応大とか、書いてありませんでしたか? あれです。そのことを、言いたかったのです。お分かりいただけたでしょうか? ちなみに、今挙げた大学名が、関東に集中しているのは、日本が中央集権国家を目指したからです。なお、私立の早稲田や慶応義塾は、国立の帝国大学への抵抗勢力でしたが、昔、そうした私立大学に通えたのは、裕福な家の子弟であったり、またはエリートだったと考えられます。

 

 今は、違いますよね。試しに、現在の国会議員の一覧表なんかを検索して、学歴の部分だけでも見てみると、よく分かると思います。へーえ、と思う発見があるはずです。

 

 もちろん、上で挙げた大学出身者は、現在も中枢を占めています。ただ、全体的に偏差値がかなり低くなっていることは、確かでしょう。ここで、偏差値などという、差別的な尺度を使って、話を進めなければならないのは、とても残念で悲しいことです。でも、こうした残念な事態を論じ、ひいては現状を打破するためには、現実を直視しないわけにはまいりません。ご理解いただければ幸いです。もっとも、政治家の場合には、二世や三世問題や、お金や、コネなどが絡みますので、事は以上述べたほど単純ではありませんが。

 

 一方、文学の業界については、本屋さんに出向いて、ずらりと並んでいる文庫コーナーで、作者の略歴を片っ端から見ると、へーえと思うことがあるに違いありません。この業界では、かつての意味での「エリート」は、マイノリティになりつつあります。

 

 で、哲学ですけど、哲学者とか哲学学者は、まだまだ、一部のエリートの特権という感じです。キャリアと呼ばれ、天下りや渡りで有名な上級の公務員といい勝負です。今、思い出しましたが、

 

 日本人は思想したか?

 

というフレーズを読んで、反発を覚えませんか? これって高飛車で、挑発的な響きを持つ文句ではありませんか? 「あんた、すべての日本人に会って確認してから、そんな質問しているの?」とか、「そんな偉そうなこと、他人に尋ねる度胸がよくあるね」とか、言い返してやりたくなりません? ならないですか? そうですよね。ふつう、こんなこと言われても、無視しますよね? それが、今という時代でしょう。

 

「日本人は思想したか?」って、実は本のタイトルなんです。自分は読んでないので、何が書いてあるのか、誰が書いたのかも知りません。ただ、昔、新聞の下のほうにある本の広告で、その文字を見かけて、今、思い出しただけです。ところで、みなさん、思想してますよね? 思考していますよね? 哲学もしていますよね?

「思想」も「思考」も「哲学」も、別に難しいことではありません。それをしないで、ご飯が食べられないことは確かです。子どもを育てられないことも、確かです。誰もが、毎日やっていることなんです。「思想」も「思考」も「哲学」も、とどのつまりは、「よく考えること」。それも、頭だけではなく体を使って考えることだ、と個人的には解釈しています。

 

 読んでもいない本のタイトルに、いちゃもんをつけるなんて、サイテーです。反省しています。でも、あと、ちょっとだけ言わせてください。「日本人は思想したか?」の答えが、その本の中で  YES  か  NO  か、または YES  AND  NO かは知りませんが、日本人を総称すると取られかねないセンテンスをタイトルにした以上、「思想したか?」と、過去形ではありますが、その「日本人」の中に、このブログを書いているアホや、あなたや、自分たちの身近な人たち、あるいは自分たちの先祖が含まれていることを願っています。というか、「日本人」を総称するなら、それくらいの他者への配慮と謙虚さをもって発言するべきではないでしょうか。お高くとまるのではなく。

 なんて、難癖をつけているのは、今朝の散歩で犬の糞を踏みつけたから八つ当たりしているわけではなく、「自分・自分たち=思想界(そんなものがあるとしての話ですけど)=思想会」的なエリート的発想のにおいがしたからです。というか、自分の頭の中にまで土足で踏みこまれて、ジュッパヒトカラゲにされるのは、ごめんだ――。そう言いたかっただけです。  

 

 さて、「思想」や「思考」や「哲学」は、人それぞれにとって違う意味を持っています。これも確かなことです。というわけで、自分はこのブログで、自分なりに「哲学」しています。かなり、気まぐれで無精で省エネで、「頑張らない」をモットーにしてネガティブにぼちぼちとやっています。ただし、本気です。正気だとは言う自信はありませんが、本気です。

 

 何だか、遠回りしちゃいました。きょうは、

 

>「わかる」ってことは、いったい、どんな「仕組み=からくり」なのかを、考えてみたいです。

 

って、冒頭に書いたのでしたね。じゃあ、ぼちぼちいきます。で、結論というか、いちばん大切だと思っていることを、先に書きます。

 

 すべては、「わかる」ように出来ている、

 

のではないでしょうか? 「はあ?」と感じられる方が、たくさんいらっしゃると思いますので、説明します。ヒトは、生まれて以来、いろいろなことを学びながら、育ちますよね。「学ぶ」=「真似る」だという話を聞いたことがありませんか? 発音からして似ています、もんね。「まなぶ=まねる=まねぶ」。ダジャレっぽいですが、何となく、分かるような気がしませんか? 大昔から比較的最近まで、いろんな国々に生きていた哲学者(※哲学学者も含めて)たちだけでなく、数学者たちや物理学者たちにいたる人たちまでが、

 

ヒトは、忘れていることを思い出すだけだ、


分かっているのに、うっかりして、分かっていることに気づかないだけだ、


思い出したことを、悟りだとか、発見だとか、名づけて大騒ぎしているだけだ、

 

とか、

 

「自分は分かんない」ってことを知るのが、大切なことだ、


分かんないことは、分かんないんだから、言葉にできない、


ヒトには「わかる」ことの限界があるし、「わからないこと」にも限界がある、

 

という意味のことを、書いたり、言ったりしてきた。そして、それを他の誰かが読んだり、聞いたりして、書いたり、言ったりしてきた、らしいのです。

 

 自分は怠け者なうえに、忘れっぽいので、詳しいことは知りません。ですので、ただ「そうらしいのです」とだけ書いておきます。もっとも、上のような意見を述べた人は、少数派だという気はします。自分自身を、無知だとか忘れっぽいなどと認める、哲学者や哲学学者は、あまりいない、と考えられるからです。何しろ、お鼻が高い方々が圧倒的に多いみたいです。

 

 でも、もし上に書きつらねたような、哲学者や哲学学者や数学者や物理学者たちが言ったり書いたことが、「言えている=本当らしい」としたら、笑えませんか? 少なくとも、自分は笑っちゃいます。場合によっては、爆笑するかもしれません。だって、「やらせ」みたいなもんじゃないですか? 本当は「わかっている」のに、または「忘れた」だけなのに、「わからない」とか「難問・難解だ」とか言って、額にしわを寄せ深刻そうに、のたまうなんて。これって、

 

もしかして、出来レース?

 

 うっかり者たちの出来レース?(※「うっかり者たち」を「健忘症の人たち」と書こうとしたのですが、記憶障害は病態や症候のようなので、使用を差し控えました)

 

「やらせ」「出来レース」「八百長」までは言わなくても、ほんの少し忘れっぽいからだ、と言えば笑えませんけど、さもなきゃ笑っちゃいますよ、やっぱり。

 

 要するに、「わかるということ」について、以前から不思議だと思っていたことは、

 

「わからない」って本当?

っていう、疑問なんです。ちょっと、ここでお断りしておきますが、今問題にしているのは「わからない」であり、「知らない」ではありません。両者はかなり似ていますが、違います。「知らない」については、いつか書きます。で、「わからない」ということですが、これは、「!?」ということですから、当然のことながら、この文章を書いている自分にも、わからない。つまり、疑問。要するに、忘れちゃっている! 「えっーと、えっーと、何だっけ」状態なわけです。なお、笑っちゃいますよね。

 

 ただし、この疑問については、頭と体の中を整理する必要があるので、後日、できれば、あすにでも詳しく書きたいです。マラルメさんとアツノさんに、ご登場願わなければなりません。きょうは、お二人とも、お忙しいそうです。ですので、いちおう、

 

 ここまで書いたことのポイントを、箇条書きにしてまとめます。

 

(0)ヒトは、わからないことを、わかると信じているらしい(※これが、原点です)


(1)ヒトは、わかることしか、わからないらしい(※これじゃ、身も蓋もないですね、ちょっと細工をしましょう)


(2)ヒトは、わかっていることしか、わからないらしい(※少し、元気が出ませんか?)


(3)ヒトは、わかっているのに、とぼけているらしい(※何だか、悪者にされた気分になりますね、じゃあ、こんなのは、どうですか?)


(4)ヒトは、わかっていたことを、忘れているらしい(※いくらか責任が軽くなった気がしませんか?)


(5)ヒトは、わかっていたことを、忘れそうになっているらしい(※いくぶん救われた気持ちになっていただければ幸いです)

 

 以上です。

 

 念のために、再度書きますが、本気です。正気とは言いませんが、本気です。

 

 またもや、だらだらとした長い文章になりました。きょうは、特に後半が読みにくかったことを、お詫び申し上げます。今のところ、自分には、あのようにしか書けません。できれば、あす、あの続きを書きたいです。

 

 この行まで、辛抱してついてきてくださった方に、深く感謝いたします。

 

 また、来てくだされば、マンモスうれPです(※失礼)。

 


09.01.30 カジノ人間主義

◆カジノ人間主義
2009-01-30 11:18:05 | Weblog

 

 ヒトは、分かっていることを、すっとぼけて分かっていないと言い張っているらしい。あるいは、分かっていることを、うっかりして分かっていないと勘違いしているらしい。

 

 ということは、「うん、分かる、分かる」「そうか、分かった!」「なるほど」「おお、すっきりした」というのは、結果として一種の「やらせ」、または「出来レース」なのではないか。

 

 これが、きのう書いたことの要約です。

 

     *

 

 で、きょうは、きのうみたいに、ややしい文章にしたくないので、結論からズバッと書きます。

 

 やっぱり、「分かる・分かっている」とは、「出来レース」、または「八百長」らしい。

 

です。「なるほど、おお、すっきりした」と、言っていただけますでしょうか? 

 

 駄目ですよね。

 

 やらせで、いいから、せめて、「分からないわけでもないけど……」くらいは、どなたかに言ってほしかったんですけど、やっぱり駄目ですね。

 

「畏(おそ)れ多くも、人間様の「分かる」という、いとなみを、「やらせ」だの「出来レース」だの、「八百長」だのなんて言うやつなど、無礼極まりない不届き者だ。打ち首にいたす」

 

あるいは、

 

「それを言っちゃ、おしめえだよ、このばかたれめが。ひっこめ」

 

といった幻聴が、難聴の耳に聞こえるんですけど。よく考えれば、確かに「出来レース」なんて言ったら、

 

「夢もチボーもないよ」

 

という状況に陥ります。ちなみに、チボーは、「キボー=希望」が訛ったものらしいです。ロジェ・マルタン・デュ・ガール作の『チボー家の人々』という、たくさんの人たちが出てくる、とてつもなく長い小説とは関係ございません。で、これって、きょうの、

 

死語復活キャンペーン

 

なんですけど、古いですよー。自分も、うろ覚えです。気になる方だけ、「東京ぼん太」をウィキペディアで検索してください。もう、お亡くなりになった方です。うっすらとお顔とお姿を覚えております。何だが、涙が出そうです。「夢もチボーもない」って、今の経済状況そのものじゃありませんか。歴史は繰り返す。でも、東京ぼん太さんは、どういう状態を指して、「夢もチボーもないね」と、おっしゃっていたのでしょう? 確か、高度成長時代真っ只中に活躍されていたのに。不思議だなあ。いつか「夢もチボーも」ある時に、調べてみようと思います。

 

     *

 

 きょうは、それどころじゃないのです。いずれにせよ、夢も希望もないような、どっちらけ(=極度に興ざめである=非常にしらけたさま)、のお話をしているんですよね。さっき聞こえた幻聴のように、それを言ったらおしまいだ、みたいなお話をしているのです。で、きょうもマラルメ師ならびに泉アツノさんがご多忙だということなので、マラルメ師の噂話を、ここでこっそりしてみたいと思います。で(※相変わらず「で」が多くですみません、この癖、なかなか直らない=治らないようです、「で」ないと先に進めないんです)、

 

 マラルメは(※いらっしゃらないと、いきなり呼び捨てです)、フランスの詩人でした。当然のことながら、詩を残しています。そのマラルメの、とある詩について、とある発見があったということを、今思い出しました。記憶は定かではありません。ほぼ、次のような話だったと思います。

 

 マラルメを扱った卒論か修士論文かで、ある学生がマラルメの詩を分析した。で、その詩のなかに、ステファヌ・マラルメの姓だか名だか忘れましたが、とにかく名が織り込まれていたというお話です。

 

ソウ・ホワット?(英) エ・アロール?(仏) ナ・ウント?(独) で、それがどうした?(日)

 

という、感じですよね。普通の反応は――。でも、いちおう、これって大発見だったわけですよ。遠く離れた東洋の端っこ(※ファー・イースト=極東=何という、侮蔑的な表現!)に位置する島に住む一学生が、「難解=わけ分かんない= これ『なんかい』のう?」で、本国フランスの人たちでさえ読みもしない、マラルメの詩を「解読」した? アンクルワヤーブル=アンビリバボ=信じられない! と、おフランスでも、一部の方々がお騒ぎになったとか、ならなかったとか、いうお話ざんす。

 

 要するに、マラルメさんも、自作の詩に署名を忍ばせるなんて、おちゃめで粋なことをやっていたのね。というだけの、お話ざんす。

 

     *

 

 ちょっと話をずらします。定型詩って、お聞きになったこと、ありませんか? 難しいことじゃありません。ほら、「5・7・5プラス季語」の俳句という、定型詩。「5・7・5・7・7の三十一文字(=みそひともじ=アラサー)」の短歌という、定型詩。この国にも、昔からありますよね。苦労して音節の数を合わせて、「できたー!」なんて言って喜ぶ。あれ、です。

 

 ただ、フランスや、他のヨーロッパの国々の定型詩の場合には、「韻を踏む」とか、「音節の数を合わせる」とか、ちょっとややこしいんです。自分も大学時代に、英語やフランス語の詩を、授業で読まされたり、暗唱させられたりしました。慣れると、母語でないにもかかわらず、それなりに「口に出して読んでみると、心地よいなあ」という気分の一端に触れることができます。「韻を踏む」は、漢詩にもあるんですけど、覚えていらっしゃいませんか? 個人的には、ちんぷんかんぷんでした。このダジャレって、漢語=中国語と関係あるらしいのですが、漢文で苦労した自分には、そのダジャレの「わけ分かんない」イメージが分かるような気がします。

 

 ここまで話したのですから、思い切って「韻を踏む」と「音節の数を合わせる」っていう、ヨーロッパの定型詩の「一端=ちょっとだけよー」(※あっ、加藤茶のギャグだ!)――。突然ですが、

 

死語復活キャンペーン

 

に入らせていただきます。

 

「ちょっとだけよ~。アンタもすきねえ」

 

を覚えている方、いらっしゃいませんか? お若い方だと、ご存じないかもしれません。

 

     *

 

 さて、さきほどの続きです。

 

>ヨーロッパの定型詩の一端

 

に、触れてみませんか? えっ? 「触れるなんて、あんたも好きね」ですか? この幻聴は聞かなかったことにします。で、「韻を踏む」と「音節の数を合わせる」ですが、自分は専門家ではないので、自分なりにリフォームして説明いたします。ただイメージだけ(※ちょっとだけ)、感じ取っていただければ、それでけっこうです。例を挙げて、やってみますね。では、いきます。

 (例1)
  セブン         (3)
  イレブン        (4)
  イイキブン        (5)

 (例2)
  スカット            (3 or 4)
  サワヤカ( ka )        (4)
  コカ( ka )            (2)
  コオラ( ra )          (2 or 3)

 上の2つの例を見て、なんとなく、分かるような気がしませんか? どれも、

 

語呂がいい。覚えやすい。

 

この記憶しやすいということが、ポイントです。そもそも、暗唱しやすいように、「韻を踏む」と「音節の数を合わせる」という定型が作られたという話です。詩はもとは口承文学(※口づてに語り継がれ歌い継がれてきた神話や昔話や詩歌)だったようですから、その名残でしょうか? で、(例1)の「ブン」「ブン」「ブン」っていうのは、完璧に「韻を踏んで」います。(3)(4)(5)は、音節の数です。(例2)の場合には、( ka  ) ( ka  ) (  ra  )と、( a  )が共通していますね。こういうのも、ありです。「韻を踏んで」います。

 

 ちゃんとした定型詩の場合には、たとえば、「ブン」「ブン」「パラ」「パラ」「ブン」「ブン」とか、「ブン」「パラ」「ブン」「パラ」「ブン」「パラ」みたいに、きれいに並びます。すごいですね。ダジャレと同じくらい、作るのが大変そうですね。ダジャレと「韻を踏む」は、基本的に同じ作業だと勝手に理解しおります。

 

 ただし、(例1)(例2)ともに、音節の数は不ぞろいです。ちゃんとした定型詩では、音節の数をそろえなければ、ならないんですよー。上の例のような短い詩がヨーロッパにはあるわけないみたいですから、音節の数は、10とか20くらいはざらにあったと記憶しておりますが、正確なことは、すっかり忘れました。いずれにしても、オヤジギャグと同じく、それなりの苦労がありそうです。ご苦労さまって感じです。

 

     *

 

 以上、すごく大ざっぱに「韻」と「音節の数」をそろえるということを、説明しました。専門家からは、「この、でたらめやろうが!」と罵倒されそうです。ここでは、イメージだけさえ、何となくつかめばいいのですから、悪態をつかれても知らん顔しておきます。

 

 でも、不思議に思いませんか? どうして、上で書いたみたいに、「韻」と「音節の数」をそろえるのに、血道をあげたり、中には命をかける人もいるんでしょう? 理由は2つくらい、ありそうです。

 

 1つは、さきほど述べたように、口調をよくして記憶しやすくする、ためです。起源が、口承文学ってやつだからです。確かに、「セブン、イレブン、イイキブン」なんて、語呂がよくて「いい気分」になり、しかも覚えやすいですね。それは、納得できるような気がします。2つめの理由は、そういうダジャレ、いや、「芸=技=テクニック」が上手だと、尊敬されるそうなんです。「わざ」とらしさが、「芸」や「術」になる。ふーん、そんなもんですかね。

 

 マラルメの話に戻ります。以上見てきたように、ヨーロッパの定型詩には、面倒くさい約束事があります。俳句や和歌(わか)を考えても、「わか」るように、偶然性=  accident  =アクシデントに左右されます。運にも左右されます。難しく言うと、偶然と必然の間を彷徨(ほうこう) (=うろうろさまよう)するわけです。

 

 偶然と必然

 

 哲学っぽいですね。「存在と無」みたいに。で、マラルメって人は、偶然性と必然性とに、非常に意識的だった詩人なんです。あれほど、偶然と必然にこだわって詩作=思索=試作した人はいなかったんじゃないか、なんて思ったりもします。ウィキペディアで「マラルメ」を検索して、ざあっと目を通せば、だいだいの感じがつかめます。それだけで十分です。考えて読んじゃ、駄目です。絶対に深入りしてはなりません。深入りすると、あそこが危うくなりますよ。内緒の話ですけど。

 

 偶然と必然っていうと難しそうに聞こえますが、簡単に言えば、ダジャレやオヤジギャグも、偶然と必然の間で、おろおろ、うろうろしながら、作ります。賭け事=ギャンブルも、同じです。ギャンブルの達人には、偶然の中に必然を読む特殊な才能がありますね。うらやましいなあ、格好いいなあ、なんて自分は思います。イ・ビョンホン主演の、ギャンブラーの生きざまをテーマにした韓国ドラマを見ての感想ですけど、この気持ち分かっていただけましたでしょうか?

 

 ものすごく単純化して説明します。サイコロを振ったとします。2の目が続けて2回出て、その次に3の目が3回出たと仮定しましょう。2233ですね。あるいは、最初に2の目が出て、次に3の目が出て、その次に2が出て、さらに3が出たとします。2323ですね。すると、「にーにーさんさん」「にーさんにーさん」という2つの「おにいさん」というタイトルの短い詩ができたことになります。

 

 馬鹿みたいな説明ですが、そんな感じです。

 

     *

 

 で、サイコロだと、そうした目が出る確率はかなり低いでしょう。でも、サイコロの目が語の数くらいたくさんあったと考えてください。韻を踏んだり、音節の数を合わせることのできる確率は、相当高いのではないでしょうか。そう考えると、ヨーロッパでおびただしい数の定型詩が作られてきたのは、当然だという気がします。何しろ、サイコロを振った場合には、6つの目のいずれかしかでないのに比べ、

 

言葉=語という「サイコロ」(※言うまでもなく比喩です)を振る

 

ならば、韻を踏み音節を合わせた語の連なりなど、本物のサイコロに比べれば、比較的簡単に定型詩を作ることができるはすです。

 

定型詩を作る行為とサイコロを振る行為の共通項=偶然と必然とのからみ合い=マラルメがこだわったこと

 

とは、そんな感じです。以上は、ど素人の与太話でした。

 

     *

 

 で、言葉が「書ける」という不思議ないとなみが(※よく考えると不思議じゃありませんか? えっつ、ぜんぜん不思議じゃない? 失礼しました)、「賭ける」(=ギャンブルをする)に限りなく近いということに関しても、マラルメほど意識的な詩人はいなかった。何しろ、「エイヤッ」とサイコロを振る名人ですから。いきなりですが、

 

カジノ資本主義

 

って、言葉をお聞きになったこと、ありませんか? このブログでは、「投資って何だろう? お金って何だろう?」2009-01-12という文章で、ちょっとだけ触れました。自分は、経済や経済学には、めちゃくちゃ弱いのですが、

 

カジノ資本主義というのは、資本主義がいくところまでいっちゃって、ギャンブルみたいにゲーム化しちゃった。

 

そんなイメージで勝手に理解しています。また、

ケインズの経済学の研究と、ケインズの株式狂いとの関係は、投資と投機(=ばくち)との関係によく似ている。

つまり、両ペアは酷似=激似=ほぼ同じ、と勝手に理解しています。ですので、そうした素人の出まかせとして、この続きを読んでいただきたいのですが、よろしいでしょうか?

 

     *

で、思うんですけど、やっぱり資本主義って、やりすぎではないでしょうか? 金融工学か証券化か投資か市場か相場か、何だか知りませんけど、ギャンブルしてません? どさくさにまぎれて小細工していません? 素人を馬鹿にした玄人が、人の褌(ふんどし)で相撲をとっていません? 一部の人だけが甘い汁を吸っていません? 国同士のレベルでも国民間のレベルでも、貧富の格差が大幅に拡大してきていません? でも、いったん始めちゃったし、世界中に広まってしまったし、中国までやってるし、イスラム圏もやっているし――もう、降りられない状態になっちゃっているのでは、ないでしょうか? ヒトは、本質的に、

 

ギャンブル依存症

 

では、ないのでしょうか?

     *

 

 都合により、ここで、変調します。これから先、多少、ノイズが入りますが、気にしないで読み進んでください。

 

*やっぱり、出来レース、やらせ、八百長らしい。気づいているくせに、あるいは、気がついていないふりをして、または、すっかり忘れて、やらせを本当だと思いこんでいる、もしくは、思いこもうと自分をだましている。

 

*ある種のスポーツ(※あえて、名指ししません)や、ある種のテレビ番組(※あえて、名指ししません)と同じです。嘘、作りもの、フィクション、編集済み、情報操作されたもの、筋書きなしに見せかけて本当は筋書きがあるもの――そういうものを見て、ヒトは何とも思わなくなっている。心の底では、嘘だと分かっていても、嘘だと思うと楽しめないから、「ただ見ている」。実質的傍観者状態。重度の思考停止状態。

 

*悪いと分かっている、間違っていると分かっている、正しくないと分かっている、正直じゃないと分かっている。とどのつまりは泥棒や搾取だと分かっている。でも、都合が悪いから、そういうことは忘れる、あるいは、忘れたふりをする、または、すっかり忘れてしまっている。

 

*思い出そうと努力すれば、思い出すことができる、学び直すこともできる、再発見することもできる、「分かった!」と叫ぶこともできる。そうなのに、忘れている。思い出そうとしていない。そうした気迫も努力もみられない。都合が悪いから、必要がないから、という言い訳が心の奥底にある。

 

*へたなことを口にしたり、実行に移すと、他のヒトたちから、寄ってたかっていじめられたり、場合によっては、消されるから、思い出さないし、分かろうともしないし、実際に忘れてしまっているし、分からなくなっている。

 

*「分かる」は「分ける」ことだから、見えたり手にしているものは断片だけ。細切れ状態。要するに、現実も事実も真実も、まだらにしか分からない。「分かる」「分からない」ということは、ふるいにかけて、選(よ)り分けること。そのふるいに、かからないものは、分からない。そういう仕組みになっている。

 

*ヒトは、まだら模様の世界を見ている。おそらく、そのまだら模様はヒトに共通している。だから、ある程度、話が通じる。ただし、通じ合えないこともかなり多い。ひょっとすると、相手に通じているという認識は、個人レベルの錯覚かもしれない。

 

*ヒトは、知覚され記号化され信号化されデジタル化された情報を、シナプスとかいう導線と回路を通して、まだらに脳で処理している。その導線も回路も、無限ではなく有限の質と量のものしか通さない。ノイズは、抑制されている。そうやって、脳の過熱による機能不全を防ぐ仕組みが存在する。それでも、ノイズは駆逐できない。除去できない。

 

*カジノ資本主義というものは、上に書きつづったヒトの行動とすごく似ている。激似。酷似。かなりの部分がダブっている、かぶっている、そっくりと言ってもいい。

 

*答えが最初から出ている、出来レース。筋書きが最初からある、やらせ。何か黒い目的があって仕組まれている、八百長。

 

*すべてがぴったり当てはまり、すべてが正しいとされ、すべてが分かるような仕組みができている。「分かる」は言葉、ヒトが勝手に自分を基準にして決めたもの。だから、「分かる」と「分からない」とは反意語ではなく、表裏一体。観測者の位置によって見え方が変わる、玉虫色。

 

*真理や実体なんて、哲学や科学の出来レース。それを支えているものが、表象という名の代理人。何でも代行屋さん。まいどありー。おおきに。儲けさせてもらっております。

 

*Aだと思っているものは、括弧にくくられたA、つまり「A」。それを、(括弧なしの)Aだと思いこんでいる。さもなきゃ、人間=ヒトなんて、やってられないよー。確かにね。その通りだ。それこそが真理だ。トゥルースだ。ヴェリテだ。誰も否定できない真実だ。

 

*だから、大丈夫。このままで、大丈夫。「仕組み」とか「からくり」なんて、ちゃちゃを入れる、ふざけたやつは、くたばってしまえ。二葉亭四迷。浮雲。そんなやつは、人間様じゃない。ひとでなしだ。

 

     *

 

 とにかくヒトには出来レースが多すぎやしませんか? その原因は、Aの代わりに「Aではないもの」を代用するという、「表象の働き」にほかならない。代用品を使っているから、ぶれるし、ずれる。これ、当たり前のこと。カツラと同じ。

 だから、「表象という仕組み」をかかえて生きるしかない、偶然と必然の間で「うろうろおろおろ」するしかない、こうしたヒトのギャンブラーぶりを、このブログでは、

 

カジノ人間主義

 

と呼ぶことにします。 Casino-Homo-sapiensism 。カジノ・ホモ・サピエンシズム。そんなことを言っている自分もヒトの子ですから、さっきから、あちこち、ぶれています。ぶれまくっております。標的は狙っているつもりなのですが、ぶれて、ずれて仕方ない。このへんで、ブレを修正し、「分かる」「分からない」に的を絞ります。

 

     *

 

 では、軌道修正します。

 

★ 知覚 : とりあえず、必要のあるものしか知覚しない。都合の悪いものは知覚しない。たとえば、「見る」「聞く」という行動が、いかに選別と排除に満ちたものであるかは、誰もが日々体験している。テレビを例にとれば、すぐに分かる。画像と音声が伝える全情報を、視覚と聴覚が残らず知覚していたら、そのヒト、頭=脳が爆発してしまうでしょう。

 

★ 知る : ゲーデルさんの何とか定理や、ヴィトゲンシュタインさんのつぶやき集を持ち出すまでもなく、ヒトの知にはリミットがある、枠がある、囲いがある。つまり、知ることが可能なことしか、知ることはできない。ひっくり返して言うなら、知ることができることだけ通す、便利な「回路=ふるい」が存在する。それ以外のものは、通しません。でも、どういうわけか、ノイズというものが入り込む。どうやら、ヒトの「分かる」は欠陥品らしい。とはいうものの、リコールや回収してくれる存在が見当たらないため、「ま、いっか」でやるしかない。

 

★ 学ぶ : これは、手垢の付いたダジャレ=語源に習えば、「まねる」ことである。赤ん坊のころから、ヒトは真似が実にうまい。真似られないことは真似ない習性が、しみこんでいる。三つ子の魂百まで。人類は、みな、きょうだい。だから、水中でエラなどつかって、「生きる=息る」真似など、できっこないのは、先刻承知。仙石イエス。やっぱり、都合のいいこと、必要なことしか、ヒトは学びません。

 

 何しろ、ヒトは、賢くて抜け目がないのです。

 

 以上、3ケの★が、きょうのまとめです。ただ、こういうことを書いていると、罰(ばち)が当たります。どういうことかというと、「不毛」な状況に到達します。不毛は文字通り、毛が生えない、けなし、なさけない。実が実らない状態。みなし(※ ご、とは差別語になるから、付け加えません)。かわいそうな、ハッチ。

 

 ここまで、お読みくださり、どうもありがとうございました。感謝しています。よかったら、また、来てください。待ってます。

 


09.01.31 コラブログとモノブログ

◆コラブログとモノブログ
2009-01-31 10:25:51 | Weblog

 

 このブログを始めて、1カ月以上がたちました。初めての経験なので、自分なりのやり方で書いてきました。この記事の最後に載せてありますが、「人気ブログランキング」と「にほんブログ村」のランキングに、参加させてもらってもいます。このごろになって、ようやく、同じジャンルに参加していらっしゃる他の方々のブログを訪問する心の余裕ができました。

 

 で、気づいたことは、多種多様だということです。当たり前と言えば、それまでなのですが、驚きました。みなさん、それぞれの工夫があって、読んでいて、あるいは、見ていて、とてもおもしろいです。きれいな写真が載っているブログなど、特に感心して見ています。中には、書かれている文章が、プロのエッセイストやコラムニストの文章よりも、ずっとうまいブログがあって感動したりしています。

 

 自分には、新聞や雑誌や写真を虫眼鏡で拡大してみるという、趣味があります。興味をそそられる写真(※変な意味で、とらないでくださいね)をブログで見つけた場合には、思わず、愛用の虫眼鏡を取り出します。これが、またきれいで、時がたつのを忘れます。

 

 レイアウトの点で、かなり、凝ったブログもありますね。めまいがするような、奇抜なものも見受けられます。自分は、どのようにして、そういうレイアウトをするのかが、ぜんぜん分からないので、今お読みになっているような、ごく地味な画面でずっと通しています。

 

 それから、他の方々のブログと自分のものを比べていて、気づいたことは、自分の記事が比較的長く、また文字が細かいことです。小説なら、長いものはありそうですが、エッセイでは、あまり長いものは見かけません。この点については、現在お読みくださっている方にも、お詫びを申し上げます。読みにくくて、ごめんなさい。

 

 で、文章が長く字が細かいということは、携帯電話でこのブログを読むということは、不可能に近いということなのでしょうか? でも、ケータイ小説というものがあることからすると、ケータイで読んでいる方もいらっしゃるらしい。みなさん、どうやって工夫しているのでしょう? ちなみに、自分の持っているケータイは、非常事態の緊急連絡用のものです。980円で買ったもので、登録してある番号は、自宅と110番と119番くらいなものです。誰からもかかってきません。かける特定の相手もいません。電話帳、空欄だらけです。たまに、電池が切れていて、慌てて充電します。電気が切れると、「お腹が空いたー」といって、鳴くそうなのですが、聞いたことはありません。難聴なので聞こえないのか、旧式のものだからなのかも不明です。

 

 メールは、契約している会社か、その下請けらしきところから、料金のお知らせらしきものが届くだけで、自分から出したことはありません。今、「らしきもの」と書いたのは、メールの開封の仕方がわからないからです。また、友達がいなく、質問できる人もいないので、どうやって、メールを送るのか、そして、どうやってケータイでネットに入り、ブログを読むことができるのか、分かりません。値段が値段ですし、型が古いので、たぶん、インターネットのサイトやブログは映らないのではないかと思います。

 

 自分は中途難聴者なので、本当は、メールができるといいらしいのですが、今のところは、交信する相手がいないので、メールの使用について知るために、説明書を読む必要はありません。いずれにせよ、マニュアル類を読むのは、大の苦手です。洗濯機のマニュアルでさえ、自分には難解です。そんなわけなので、パソコンの使用法や、ネットとの接続などは、近所の電気屋さんに全面的に頼っています。

 

 話をブログに戻します。いろいろなブログを覗いてみて、思ったのですが、ブログには2種類あるのではないでしょうか? で、名づけてみました。

 

 コラブログとモノブログ、です。

 

 こういうふうに、自分で言葉をつくったつもりの場合には、心配なので、グーグルで検索してみます。すると、やっぱり、ありました。でも、自分の考えているものとは、ちょっと違うみたいだし、ⓒ もついていないようなので、このブログで、使うことにしました。意味は、次の通りです。

 

(1)コラブログ( collablog ) : collaboration + blog 。他のブログやウェブサイトと、「つながりたーい」という強い欲求を持っているブログ。自己ブログ内記事のURLは言うまでもなく、自己ブログ外の多数のURLと相互または一方的にリンクを貼っている。ぼんやり、この種のサイトに入り、マウスを動かしていると、うっかり「地雷」をクリックしてしまい、他のサイトに飛んでしまう恐れが、多々あり。友達が多い。

 

(2)モノブログ( monoblog ) : monologue + blog 。他のブログやウェブサイトとは、「つながりたーい」という欲求を、特に持たないブログ。スポンサーサイトが貼ったURLか、自己ブログ内記事としか、リンクされていない特徴がある。友達がいない。

 

 と、なりますが、圧倒的に(1)が多いという気がします。それとも(2)は数多くあるが、目立たないだけかも。ご覧の通り、当ブログは、(2)です。何だか、トホホですね。モノブログ、別名トホホブログ、または、ハミッコブログ、あるいは、コドクブログでしょうか? 名は体をあらわす、と言いますが、ほんとですね。自分と、そっくり。

 

 このブログでは、今週の前半に、「交信欲=口唇欲」、つまり、

 

>「他の人と、つながりたーい」「他の人と、言葉をかわしたーい」「他の人と、文字をかわしたーい」「他の人と、映像をかわしたーい」「他の人と、心をかわしたーい」……

 

ということについて、ああでもないこうでもない、と考えつつ、うろうろおろおろしながら、思ったり感じたりしていることを、主に書きました。そこから、出発して、「分かる」「分からない」についても、いろいろ考えました。ご興味のある方は、この日記のバックナンバーを覗いてみてください。ただ、タイトルと内容が、かけ離れています。申し訳ありませんが、「名は体をあらわす」という感じには、なっていません。タイトルの体をあらわす状態とは、ほど遠く、内容(ないよう)は無(な)いよう、みたいな状態になっています。

 

 で、当然のことですが、自分もヒトですから、いっちょ前に「分かってほしーい」という欲求を持っています。だから、今、この文章を書いているわけです。きょうも、また長くなるかな? って、予感もしますが、とにかく、今書いています。足元で眠っているネコ(※うちの猫の名前です)をびっくりさせないように、気遣いながら書いています。

 

 どうして、自分のブログは長くなってしまいがちなのか? いくつか、理由が考えられます。1つには、一種の日記だからです。ふつう、日記には、その日や前日の出来事を中心に書きますよね。自分の場合、友達はいません。外にも、必要以外めったに出ません。きのうも、早朝に朝刊を取りに、玄関から2、3歩離れた、壁に取り付けられている、郵便受けまで足を運んだだけです。外出するとすれば、スーパーへの買い出しか、親と自分のために病院や医院へ出向くくらいです。

 

 また、事情(わけ)があって、自分は現在無職です。うつ、でもあります。趣味は、虫眼鏡で、写真や雑誌や新聞を拡大してみることと、眠ることくらいです。万が一、虫眼鏡を使った趣味=気晴らしに、興味のある方は、当ブログのバックナンバー、「目は差別する」2009-01-11を、ご覧になってください。こんな感じで、自己ブログ内記事には盛んにリンクを貼っているのですが、まるで自家中毒症(※不快な思いをされた関係者の方、ごめんなさい)みたいですね。

 

 ですので、自分は、結局、かなり暇ということになります。さらに言うと、いい年をしているのに、年金をもらっている親のすねを、かじっている身でもあります。親には頭が上がりませんから、家族内でのドラマや葛藤も、まずありません。ネガティブですよね。

 

 でも、哲学するのが大好きなので、毎日いろんなことを考えて、紙切れにメモし、うつを紛らわせています。メモはどんどん溜まりますので、それを見ながら、自分なりにテーマを決めて、その日のブログを書いています。だから、自分の場合には、考えたことを書き溜めたメモと、パソコンに向かっている時に頭に浮かんだことのコラボレーションが、その日の記事という形になるわけです。これと言って波乱のない日々を送っているので、記事と言っても、似非(えせ)エッセイか、コラムもどきになります。

 

 読むことは苦手ですが、書くことは大好きなので、ついつい、文章が長くなってしまう。また、成り行きにまかせて、書いているので、話があちこちに飛ぶ。で、結局、その分、長くなる、という感じです。ただ、他の方々のブログと比較すると、万人受けする内容の記事ではありませんので、読んでくださる人は、限られているという気がします。ですから、ブログランキングのサイトを覗いたとき、クリックをしてくださった方々がいると知るだけで、すごく嬉しくなります。励みになります。大げさな表現になりますが、うつのどん底を経験したころを思い出し、あの時、消えてしまわなくてよかったなあ、と思います。

 

 で、話は変わりますが、今週の後半は、「分かる」と「分からない」ということについて書きました。なぜ、なんでしょう? どういう展開でつながっていったのか、よく覚えていません。記事を読めば、分かるのでしょうが、自分の書いたものを読むのが、恥ずかしいのです。まわりに誰もいないのに、読み返しながら、ひとりで赤面しています。

 

 親はもちろんのこと、たとえ、友達がいたとしても、このブログを見せるのは、「それだけは、勘弁してー」、という感じです。何も後ろめたいことなどは書いていませんから、恥ずかしがる理由がないはずなのですが、恥ずかしい。ダジャレやオヤジギャグが、恥ずかしいのではありません。そのことは、それほど恥ずかしくはない。

 

 ただ、本気で書いていますから、その「本気」で書いている自分という存在を、身近な人に知られるのが、恥ずかしい。たぶん、これです。真面目な顔、本気でいる時の自分の顔を、他の人に見られるのが、恥ずかしい。この気持ち、お分かりいただけるでしょうか?

 

 変な比喩を使うと、自分では本気だし、ある程度ハードボイルドな気持ちで(※「どんな気持ちなんだ?」これ、幻聴です。)、ブログを書いています。ダジャレを用いながら、シリアスでハードボイルドに(※「ん? 何だってー?」同上)、哲学する。どうやら、幻聴さんが「ハードボイルド」に疑問をお持ちになっているらしいので、説明いたします。ここでの「ハードボイルド」とは、ミステリー的なニュアンスだけではなく、純文学的な意味でも取ってください(※「純文学? ぜんぜん、説明になっていない」)。いずれにせよ、「ハードボイルド」は死語ですか? イメージ、ぜんぜん、伝わりませんか? やっぱり、ハードボイルドって何? という感じですか? 「ハードボイルドだど」。あっ!(※何とわざとらしい感嘆詞 = 感動詞であろう!)、これって、もしかして、きょうの、

 

死語復活キャンペーン

 

ではないか?

 

「おら、ハードボイルドだど」= I'm serious and a bit sarcastic.

 

 内藤陳(ないとうちん)さんです。このブログは、モノブログなので、リンクは貼りません。もし、ご興味のある方は、グーグルなり、ウィキペディアで、「内藤陳」を検索願います。

 

 また、話がそれてしまいました。ごめんなさい。

 

 今週の後半は、「分かる」と「分からない」について書いた、という話をしていたのでした。で、テーマがややこしいだけに、ややこしい文章になってしまいました。お読みいただいた方には、お礼とともに、お詫びをしたいです。

 

 で、恥ずかしいという、さきほど書いた、自分の気持ちですが、「分かる」と「分からない」について書いている時に、最高潮に達しました。クライマックス。暗いMAX。きのうの記事なんか、行くとこまで行っちゃって、サイコーに暗い感じになりましたよね。夢も「チボー= 希望」もないところまで、すっ飛んでしまいましたよね。哲学も、あそこまで行くと、けっこうしんどくなります。でも、ちゃんと抜け道はあるんですよ。だから、あれでおしまい、ということにはなりません。

 

 実は、きのうの記事を書いていて、gooブログにある「記事の文字数制限」に引っかかっちゃたんです。トラックだと、過積載です。ボクシングなら、減量失敗。オーバーロード。要するに、書きすぎてしまったんです。もっと書きたかったのにー。という、気持ちが残りました。でもですね、その書きたかったことが、どっちらけ(=しらけの最高潮)の上塗りというか、おまけというか、とどめというか、そんな感じのことを書いて、最後を終わらせたかったのです。どうして止めを刺したかったのかと申しますと、心の安定のために、なんです。お祓(はら)い、みたいなものです。

 

 ですので、ここで、けりをつけたいと思っています。きのうの記事のおしまいのほうで、

 

こんなことを書いていると、罰(ばち)が当たるとか、不毛に行き着くとか、

 

わめいていませんでしたか? あれなんですよ。不毛というのは、何も実らないということです。「二毛作」の「毛」をイメージしていただければ、分かるような気がしますけど、どうですか? 不毛とは、作物が年に二回も収穫できるの正反対のイメージです。ニヒリズムに陥る、とも言えます。ニヒリズムやニヒルなんていうのも、死語でしょうね。

 

 きのうのシラケのけりを、きょうになって、また、つけようとするなんて、「不毛の二毛作」みたいな、不条理極まりないものですけど、思い切って、書きます。では、

 

 唐突ですが、モーリス・ブランショという人が、フランスにいました。マラルメやカフカを、かなり意識していた人でした。小説も書いた人でしたが、自分には、その人の小説よりも批評のほうが、だんぜん、おもしろかったという記憶があります。

 

「行くところまで、行っちゃった」=「ふつう、そこまでは行かないよ」

 

という感じのことを、書いていた人です。「不毛」という言葉を書いたときに、ふと、その人のことを思い出しました。で、ここで、ちょっと変調します。変調しないと、「お祓い」ができないのです。「行くところまで、行っちゃった」ために、罰(ばち)が当たっちゃったんで、お祓いをする必要があるのです。

 

 悪魔か小悪魔か妖精か鬼かダニか、分からないんですけど。出て行ってもらわないと、困るんです。これから、ちょっと取り乱しますが、気にせずに読み続けていただければ、嬉しいです。

 

 少し、シリアスに申しますと、以下に、書かれる★と★の間に連なる、言葉たちだけでなく、文章表現で用いられる記号たちの身ぶり=運動=表情を、よく見つめてほしいのです。これから書くのは、モーリス・ブランショを、自分なりに真似たダジャレです。パロディになりそこなった、ギャグです。そんなおふざけをしないと、お祓いができないのです。はい。

 

 沈黙へといたる言葉の身ぶりですなどと、野暮な解説はしたくありませんが、不本意ながら、書き添えておきます。それが、このブログを読んでいただいている方に対する最低限の礼儀だと、思うからです。では、いきます。

 

     ★

 

 実体や現実や真実という亡霊を「  」でくくる勇気を持つこと、

 

 つまり、

 

 「分からない」ということを、無知や愚鈍というネガティブなスタンスとみなすのではなく、

 

 むしろ、

 

 「分かる」ということを「  」でくくり保留する勇気と、謙虚さと、聡明さを身をもって示すこと、

 

 これは、誇示ではなく、他の人たちへの目配せにも似た、合図であると言えるだろう、

 

 「何の合図なのか?」

 

 「その目配せの意味を言葉にするのは、止そうではないか」

 

 「なぜ?」

 

 「ほら、分かるだろう?」

 

 「…………」

 

 「それだよ」

 

 「?」

 

 「そうそう、それだよ、それ以上、何が言える?」

 

 「…………」

 

 「…………」

 

 「――――」

 

 「――――」

 

     ★

 

 どうでしたか? 不毛でしょ? 自分なりにブランショし、ベケットしてみたんですけど。きっと、お笑いになったでしょう。首を傾げてくださったとすれば、まだ、嬉しいですけど。「(笑)」あるいは「!?」が、ごくふつうの反応であり、そうした反応こそが、このブログの開設者にとって、身分相応の報いであると思います。でも、

 

 もし、よろしければ、以上の、★と★の間の言葉たちと記号たちを、再度、読み=見てほしいです。できれば、★と★の間に並んでいるものたちが、言葉であることを忘れてほしいです。変なことを言って、ごめんなさい。でも、本気です。おふざけのようで、実はおふざけでは、ありません。そのほうが、重篤だったりして――。

 

 以上、恥じの上塗りに、付き合っていただいた方に、心からお礼を申し上げます。

 


09.02.01 架空書評 : ビッグ・ブラザー

◆架空書評 : ビッグ・ブラザー
2009-02-01 11:12:20 | Weblog

 

( ※以下は、架空ブックレビューです。評者名を除き、書名、著者名、出版社名、定価は、すべて架空のものです。間違っても、アマゾンなどで検索なさらないよう、ご注意願います。)

 

書名:『ビッグ・ブラザー すべての個人情報は収集されている』 嵯峨専太郎著、第二ヴィレッジ社刊、1,680円(税込)

 

 トンデモ本と呼ばれても、仕方ない本である。ただし、ノンフィクションだと思わずに、フィクションとして読むとすれば、話は別だ。私は本書に書かれていたことが、真実ではないと言い切る自信はない。実録ではなく、フィクションの形を借りた警告の書として読むのなら、「そうしたことも、無きにしも非ず」な作り話として、私は評価したい。そんな本なのである。

 

 詳細を述べる前に、ある思い出からお話ししたい。一昔前のことだ。私は、東池袋にある行き付けの飲み屋にいた。10人以上の客は入れないと思われるほどの狭い店で、おかみさん1人だけが切り盛りしている。おでんが、特においしい。店では通常テレビが付けっぱなしになっていて、その夜も私はぼんやりと画面の映像をながめていた。ある死刑囚に刑が執行され、その死刑囚の弁護人を務めていた弁護士が、死刑囚の遺品を手にしながら亡き男を回想する。そうした内容の番組だった。その弁護士は、通常の弁護士としての活動の他に、特に公安事件の被告人の弁護を無償で引き受けることで知られていた。

 

 遺品は多くなかった。拘置所で生活するのに最低限必要なものばかりで、ベッド、机、椅子といったものは、国家の所有物であるために、余計数が少なく見えた。ビジネスホテルの客の持ち物だといっても、おかしくない印象だった。その遺品の中に、電気工事従事者向けの雑誌が数冊あった。画面には映らない、テレビ局の者らしき男の声がした。

 

「意外な雑誌がありますね?」とか、言っていた記憶がある。すると弁護士が、次のように語った。きっと、いつか減刑されて、社会に出られると思っていたんでしょうね。電気工事関係の資格でも取ろうと考えて勉強していたのでは――。

 

 そのとき、「とぼけていやがる」と、店内で誰かがつぶやくように言った。狭い店だから、小さな声でも、ちょっとした間(ま)があくとよく響く。声の主は、私のいたカウンター席から1つ離れたスツールに腰掛けていた男だった。その男とは、何回か口を利いたことがあった。どこに住み、何を生業(なりわい)にしているのか、年はいくつなのか。こうした個人的な話題がめったに出ないところが、その飲み屋の特徴であり魅力でもあった。

 

 客は多くてせいぜい2人連れ、あとは1人でふらりと来て、ふらりと帰る。かといって、お通夜のように暗い感じがしないのは、絶品のおでんと、おかみさんの不思議な存在感が大きく影響しているからだろう。おそらく、私の名前、住所、職業を、おかみさんはもちろん、他の常連も知らないと思う。何しろ、変わった雰囲気の店なのである。

 

「とぼけていやがる」と言った男に、「どういう意味なんですか?」と、尋ねるような客はいない。私はテレビの画面に映った雑誌の名前を記憶し、翌日に書店で調べてみた。それで、納得した。雑誌の名前とは関係がないわけではない。しかし、それ以外のさまざまな情報が盛り込まれている。ハッキング、警察官の装備および警察組織、Nシステム、盗撮、盗聴、ネット社会の裏情報、アダルト向けのサイト紹介、そして各種違法行為の実例についての記事が掲載されている。とにかく、不穏な空気を漂わせているのである。

 

 嫌な感じだった。ああいう雑誌が存在することも、ああいう雑誌が対象とする国家の機関や社会の闇が存在することも許せない。そんな憤りに似た不快感を覚えた。

 

 本書を読みながら、嫌な雰囲気を感じた。上述の憤りと同種の不快感を覚えた。本書で中心となるのは、簡単に言えば、国民の個人情報の膨大なデータベースが作成されつつある、という話だ。だが、その話を裏付けるデータがほとんど、いや、まったく提示されていない。あとがきによると、本書を執筆するにあたって、著者の嵯峨専太郎氏が、直接あるいは間接的に取材した人物は、100人以上になるという。情報源を明かしたり、取材が行われた場所・日時、接触した人たちの職業や経歴などを詳細に記すと、著者だけでなく、そうした協力者たちにまでに危害がおよぶ恐れがある、と言うのだ。

 

 うさんくさいではないか。トンデモ本と呼ばれても仕方ないと冒頭で述べたのは、そのようないかがわしさが漂うからだ。おそらく、嵯峨専太郎も仮名であろう。奥付の著者紹介には、生年と生まれた県に加えて、「ジャーナリスト」としか書いてない。怪しいではないか。著者による、あとがきも、素っ気ない。ただ、本文の不気味な雰囲気だけが、この本を支えている。

 

 内容を要約すると、次のようになる。

 

「或る公安関係者」、または「或る元公安関係者」という言葉が各ページに最低1回は出てくるのであるが、「或る元公安関係者(元キャリア官僚)」が、或るダミー会社を運営している。表向きは広告代理店の看板を掲げ、「都内某所」にある7階建てのビル全体を所有し、その中で巨大なデータベース作りが進行している。

 

 1階と2階には、比較的容易に入ることができる。確かにそのフロアーでは、新聞に折り込まれるチラシなどの広告が制作されている。印刷は他の会社に委託し、その「広告代理店」は企画を行い、版下と呼ばれる広告の元になる原板を作成しているだけだ。もちろん、いくつかの部署に分かれ、20名前後の社員がいる。

 

 問題は、3階から7階で何をやっているかである。著者によれば、エレベーターも階段も、3階を含めた上階には通じていないとのことである。2階の或る部屋が、上階に通じる「ゲート」になっている。その「或る部屋」には、IDカードがないと入れない。

 

 3階から7階に自由に出入りできる、数名の「或る元公安関係者」たちから得た断片的な情報を組み合わせると、そこにはスーパーコンピューターが設置されており、この国に複数存在する縦割りの公安組織が収集してきた情報を、横断的に集め、比較対照しながら、一種の「名寄せ」作業が行われている。

 

 具体的には、次のような作業が行われているという。複数の公安組織から枝分かれした全国のおびただしい末端が、さまざまな個人情報を毎日地道に集めている。そうしたありとあらゆる種類の個人情報が、そのビルの上階にデジタル化されたデータとして送られてくる。それだけではない。破棄されたはずの情報までも、丹念に集められていると著者は主張する。もちろん、ネット上の情報も収集されている。著者の指摘によると、デジタル化されたネット上のデータが、一番集めやすいという。それはそうだろう。これには、思わず納得してしまった。

 

 司法・立法・行政・地方自治体はもちろん、民間企業、教育機関、医療機関、NPOおよびNGOの保持している情報までが、送られてくる。特に、教育機関からの情報が重要だという。全国の全児童・生徒・学生たちの、成績・素行・健康状態は、これから作成されるデータベースの、土台となるものだからだと本書は説く。

 

 データベース作成にあたっては、真偽は問わないことが鉄則らしい。とにかく数多く集めること、同時に「名寄せ」作業により、分類と蓄積が行われる。日々更新されているデータはバックアップされ、3日おきに「近県の某所にある倉庫」に送られている。この作業を行うコンピューター用ソフトは某国が開発したもので、そのソフトの使用とメンテナンスは、この国の秘密予算から計上された巨額の資金でまかなわれているという。

 

 大まかな要約であるが、100人以上の人物の口から出た断片を総合した結果、以上のようなことが、起こりつつあると本書は主張する。その人物たちは4グループに分類できる。

 

(1)事実上、ばらばらに活動している複数の公安組織によって、「飼い慣らされている協力者たち」

 

(2)ある事案ごとに、知らない間に情報を提供する立場に置かれた「一過性の協力者たち」

 

(3)窃盗・すり・恐喝・コンピューター情報への不正アクセスなどの違法行為を、日常的に行っていながら、自分が公安組織の監視対象になっていることを自覚していない「泳がされている犯罪者たち」


(4)以上の(1)(2)(3)を利用する側の者たち。

 

 著者は、その(4)に該当する人物が30名前後はいると言う。もっとも、そのうちで、事の核心を把握しているのは、10人もいないのではないかとも書いている。嵯峨専太郎氏の妄想(被害妄想、誇大妄想、強迫観念)、何の根拠も無い作り話、陰謀マニアの戯言、都市伝説の類などとして、一笑に付すこともできるだろう。さらに言えば、私自身も、この本をわざわざ取り上げて紹介することに、ためらいを覚えたのも確かだ。ただ、3つのことに恐怖を感じたので、最後に述べておきたい。

 

 1つは、この国の縦割り的な官僚機構によって収集されている情報が、横断的に再収集され「名寄せ」が行われていること。2つ目は、そうした膨大な情報を処理するコンピューター・ソフトが存在すること。3つ目は、発芽したばかりの苗の成長を見守るように、次の世代を担う子供たちが標的にされていること。

 

 もし、本書がトンデモ本ではなく、文字通りノンフィクションであるなら、私は今挙げた3つの点が気掛かりである。大げさな言い方をすると、戦慄すら覚える。

 

 本書のタイトルにある「ビッグ・ブラザー」は、言うまでもなく、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』に出てくる、全体主義国家の頂点に立つ独裁者の名から取られている。 BIG BROTHER IS WATCHING YOU.  というわけだ。『1984年』は、徹底した国民監視と管理社会という悪夢を描いた、実に恐ろしく、かつリアルな作品である。

 

 さて、本書である。上述のような作業が、どうして秘密の国家予算を投じて行われる必要があるのか? これについて、著者はこう語っている。

 

 経費節減が目的だと、あっさりと述べている。この国が治安維持のために費やす予算は、膨大である。個人情報保護を法制化して以来、個人情報を入手するためのコストは肥大化しつつある。また、作業自体も急速に困難になってきている。その上に、人手が足りなくて、地道な情報収集活動がますますやりにくくなっている。

 

 事件や危機が起こった場合には、無駄の多い捜査に忙殺され、複雑極まる対応に追われて頭を抱え、手を焼いている各司法・行政組織に、「そっと耳打ちをする存在」(※本書からの引用)が必要である。最もコストがかかる現場での問題を、まず速やかに解決する。それが最優先されるべきである。あとの手続きは、そのつど臨機応変に辻褄を合わせればいい。そのために、法律のエキスパートである役人や官僚がいる。このように本書は説く。

 

 もし、そうした合理的思考の下に、「或る壮大なたくらみ(グランドデザイン)」が現実化しつつあるとすれば、悪夢のような超管理社会がいつか実現することになる。さきほど述べたように、この「グランドデザイン」を把握しているのは、著者によれば10人足らずの、元および現高級官僚なのである。

 

 法治国家の皮をかぶった全体主義国家ではないか。そう考えているうちに、冒頭近くで述べた雑誌に目を通したさいに感じた、やりきれない不快な気持ちを思い出した。そんな国家および社会は、絶対に実現させてはならない。決して、そのグランドデザインの存在を許してはならない。ノンフィクションであれ、フィクションであれ、そうした忌まわしい国家や社会に対する警鐘を鳴らす書であるなら、たとえそれが妄想であったとしても、私は積極的に評価したいと思った。

 

 本書の帯にある「渾身のノンフィクション!」というキャッチコピーの「ノン」という部分を、私はフェルトペンで黒く塗りつぶしてやった。あの嫌な感じを、頭の中から追い出すために。

 

                           <評者 : 孟宗竹真(もうそうだけまこと) ・ 詩人>

 

     *

 

 孟宗竹真氏からは、「不定期に」というお約束で、書評をお送りいただいております。いつしか「不定期に」が「定期的」になり、恐縮しております。

 

 書評のバックナンバーは、第1回 「架空書評 : 狂った砂時計」 2009-01-13、第2回「架空書評 : 何もかもが輝いて見える日」2009-01-18、第3回「架空書評 : 彼らのいる風景」2009-01-25です。今回の記事と、あわせてお読みいただければ幸いです。

 

 なお、当ブログのバックナンバーに、短い解説とキーワードをつけたダイジェスト版、「こんなことを書きました(その1)」2009-01-19にも、お目を通していただければ嬉しいです。このところ、記事が長くなってきたので、あすは自分のあたまの整理を兼ねて、過去2週間分の「こんなことを書きました(その2)」を書きたいと思っています。

 

 孟宗竹さん、今週も原稿をお送りくださり、どうもありがとうございました。次週も寄稿を期待して、よろしいでしょうか? (パ)

 


09.02.02 こんなことを書きました(その2)

◆こんなことを書きました(その2)
2009-02-02 09:09:56 | Weblog

 

 ブログを始めて、1カ月半が経ちました。ここまで続けることができて嬉しいです。ただ、「皆勤賞状態」なのが気になります。あまり頑張りすぎて、うつが悪化しないよう、肩の力を抜いてぼちぼちやっていこうと思っています。

 

 このところ、記事がどんどん長くなってきました。また、自分の書く文章は、話があちこち飛ぶので、何を書いたのか分からなくなってきました。そこで、きょうは、「こんなことを書きました(その1)」 2009-01-19 の続編を書きます。

 

 2009-01-20 から 2009-02-02までに、当ブログに掲載した14本の各記事についての短い解説とキーワードが記してあります。

 

*「それは違うよ」 2009-01-20 : 「知覚」をキーワードに、ヒトの「知」と「表象作用」の誕生を紙芝居的に描いています。また、知の独占者であるリーダーの誕生と、リーダーが超越者の「代理人」である仕組みについても触れています。続いて、「違う」と「間違う」の「差」を、言葉遊びによって確認し、大和言葉系の「間(=ま)」という語にこだわりながら、漢語系の「差異(=さい)」という言葉について考えています。記事が非常に長くなったことを、詫びています。キーワードは、「宗教」「哲学」「科学」「ダジャレ」「オヤジギャグ」「アウフヘーベン」「ジャック・デリダ」「ステファヌ・マラルメ」「さいころ」「詩作=思索=試作」「賭け」です。直接書かなかったキーワードは、「差延」です。

 

*「ま~は、魔法の、ま~」 2009-01-21 : 「間(※ま)」=「あいだ」=「隔たり」=「距離」=「空間」=「空白」=「無」=「差異」と、言葉遊びを展開し、「魔」のように不思議なものである、という結論に達します。過激なまでにダジャレとオヤジギャグに走る理由について、言い訳と自己弁護をしています。また、「差異」を「知覚」することが、「差別」につながるメカニズムを指摘しています。「遠く」にあるものを「近く」にあると錯覚させる装置である「知覚」の仕組みを暴き、告発しています。人間批判とニヒリズムに陥りそうな自分を救うために、「影絵遊び」を例にとって、知覚のポジティブな面にも光を当てようとしています。キーワードは、「魔法」「小津安二郎」「マラルメ」「ジャック・デリダ」「差延」「表象作用」「偶然」「必然」「イメージ」です。直接書かなかったキーワードは、「ビル・ゲイツ」「学魔」「高山宏」です。

 

*「なぜ、ケータイが」 2009-01-22 : 文部科学省が、小・中学校での携帯電話の校内への持ち込みを禁止する方針を固めたことを、批判しています。歴史的事実を挙げて、国家による「禁止」という行為の恐ろしさを訴え、警鐘を鳴らしています。「マラルメ師」と「泉アツノ」さんをゲストに迎え、さいころを振るパフォーマンスを通じた、おふざけをしつつ、シリアスな問題を分かりやすく説明しようとしています。それが効果を上げたかは不明です。日本を例に取り、「手紙禁止令」の歴史的経緯を考察しています。また、「交信欲=口唇欲」という造語が、ここで初めて登場しています。話がどんどん大きくなりすぎたため、慌てて総括をして記事を終えています。細かい字の長い文章を書いたことを、詫びています。キーワードは、「言論弾圧」「国家権力による検閲」「識字率」「明治維新」「文明開化」「知のスキルとしての読み書き」「下克上」「オトナとコドモ」です。

 

*「お口を空けて、あーん」 2009-01-23 : 前日に造語した「交信欲=口唇欲」を用いて、「手紙禁止令」のメカニズムを解説しています。6人の作家を挙げて、明治以降の文学史のおさらいをしつつ、「文壇」が「エリート」によって独占されてきた事実を指摘しています。漱石の「当て字」を高く評価しています。漱石を見習って、タイトルを「お口を開けて」ではなく「お口を空けて」と感字しています。「偏差値」という差別的な尺度を用いて、逆に「差別」を告発しようと試みています。話は、日本語で用いられている文字の多様さに移り、「あいうえお表」の不思議に触れます。キーワードは、「帝国大学」「東京大学」「漢字=感字」「難聴」「幻聴」「政界」「内閣総理大臣」「流行作家」「ワープロソフト」「阿吽(あうん)」です。

 

*「冬のすずめ」 2009-01-24 : 週末なので、軽いタッチのエッセイを書こうとしています。小学校時代の、ちょっと変わった子のエピソードが2話出てきます。ネコが「お土産」として、部屋に持ち込んだ、すずめの死骸を庭に葬る様子が語られます。その実話に漱石の小品がダブります。話は、生き物の生態を映したテレビ番組、そしてアイルランドの歌手エンヤへと飛びます。難聴者の立場から、ちょっと変わったテレビの楽しみ方を提案しています。キーワードは、「道徳の授業」「テープレコーダー」「オリンピック」「ディズニーのアニメーション映画」「教師」「テレビ」「番組」「音声」です。

 

*「架空書評 : 彼らのいる風景」 2009-01-25 : 詩人の孟宗竹真(もうそうだけまこと)氏によるブックレビューの第3回目。純文学系雑誌に連載された作品を集めた、短編集。全7編のうち、孟宗竹氏が特に気に入った3編の紹介。男装して成人向けビデオショップに入り、DVDを買い求めたあと、妙な男と出会った少女を描いた「反・少女」、元心理カウンセラーの「私」が、新幹線で知り合いの男性と乗り合わせ、男性の半生に耳を傾ける「セレブリティ」、容疑者を追って上京した、埼玉県警の刑事の一日を回想をまじえて描いた「再訪」。評者の孟宗竹氏による、本書のタイトルにある「彼ら」とは誰なのか、についての考察が興味深い。

 

*「交信欲=口唇欲」 2009-01-26 : 当ブログで造語された「交信欲=口唇欲」について、詳細な検討を行っている。ジャック・デリダだけでなく、ジャック・ラカンとフロイトの影響が濃く表れている論考。やんわりとユングの考え方を退けている。ヒトの赤ちゃんが未熟児として早産されるという生物学上の説を紹介しながら、ヒトの抱く「唇がさみしい」「人肌が恋しい」という心理に迫る。話が「分かる=わかる」というトピックに飛んだところで、時間切れとなっている。キーワードは、「欲望」「欲求」「本能」「唇」「乳房」「ゴマフアザラシのゴマちゃん」「松鶴家千とせ」「シュール」「吉田戦車」「いがらしみきお」「ベケット」「マザーグース」「コアイメージ」です。

 

*「ケータイ依存症と唇」 2009-01-27 : 「他の人と、○○をかわしたーい」という欲求の、○○に入るものを列挙することから出発。経済学や文化人類学で重要視されている「交換」を考察しながら、「貨幣=お金=通貨」という仕組みの誕生に触れる。話が堅くならないように、ダジャレとオヤジギャグを多用している。経済学に弱いため、話が「価値」に及ぶと、及び腰になっている。ヒトの交換欲を説明しつつ、マラルメ師と泉アツノ氏の助けを借りて、「交信浴=口唇浴」という更なる造語に至る。ここで、ケータイ依存症に警鐘を鳴らしている。キーワードは、「外国為替取引」「赤塚不二夫」「イヤミ」「シェー」「フランス語」「お乳」「おしっこ」「うんち」「笑み」「コミュニケーション」「ラポール」「愛」「bath」「ケータイ」「依存症」です。出しそこなったキーワードは、「分かる=わかる」です。

 

*「オバマさんとノッチさん」 2009-01-28 : ようやく、「分かる=わかる」について考察する機会を得て、喜んでいる。「分かる(=わかる)」=「別る」=「解る」=「判る」の連鎖を土台にし、「分別(=ふんべつ・ぶんべつ)」に注目。その英語バージョンである sense の「コアイメージ=中心的イメージ」を図式化している。確認の意味で、「分」「別」「解」「判」のコアイメージも検討してみたところ、「sense」と「わかる」が似ているようで似ていないことを発見。両者の差異をイメージ化するのに悪戦苦闘した挙句、「オバマさんとノッチさん」くらい似ていて似ていないという結論に達する。なお、この週から、無意識に始めていた「死語復活」の動きに気づき、慌てて「死語復活キャンペーン開始」を宣言する。キーワードは、「高見映」「できるかな」「チョムスキー」「ナンセンス」「ジャック・ラカン」「フェルディナン・ド・ソシュール」「ジャック・デリダ 」「丸山圭三郎」「身分け」「言=事分け」です。

 

*「もしかして、出来レース?」 2009-01-29 : 「わかる」「わからない」の「仕組み=からくり」を考察する――。こうした難解な問題を、素人が考える意義を、訴えています。話のついでに、ヒトには「独創性=オリジナリティ」がないとを主張し、半ば喧嘩腰になっています。当ブログが、一貫して「哲学を庶民の手に」キャンペーンを実践していることを自覚し始めています。ヒトが「わかる」「わからない」ということは、仕組まれた「出来レース」ではないか、という指摘をしたうえで、そのテーマを翌日に持ち越すことになってしまいました。なお、この日の「死語復活キャンペーン」は、「酒井法子」の「マンモスうれP」でした。キーワードは、「哲学者」「哲学学者」「上級公務員」「引用」「コラージュ」「パッチワーク」「ブリコラージュ」「ブレーンストーミング」「発想法」「創造的思考」「ギャンブル」「ステファヌ・マラルメ」「特許権」「著作権」「エリート」「思想」「哲学」「八百長」「やらせ」「忘れる」です。直接書かなかったキーワードは、「宮川淳」『引用の織物』「レヴィ=ストロース(レビ・ストロース)」です。

 

*「カジノ人間主義」 2009-01-30 : マラルメが詩の中で自分の名前を織り込んでいたことを、ある日本人の学生が発見したエピソードから出発し、ヨーロッパの言語における定型詩の説明をしています。詩作での約束事が、偶然性と必然性に深くかかわっていて、それがダジャレや言葉遊びとつながるだけでなく、ギャンブルとも共通項があることを指摘しています。次に、カジノ資本主義という考え方を持ち出し、資本主義が、「ギャンブル化=ゲーム化」しているのではないかと問題を提起しています。そこから、断章形式で、「分かる」「分からない」「知る」「学ぶ」「知覚する」についての考察を列挙しています。それらの断章は、ブログ開設以来、文章を書くという行為を通じて考えてきたことの「集大成」となっています。<「表象という仕組み」をかかえて生きるしかない、必然と偶然の間で「うろうろおろおろ」するしかない、ヒトのギャンブラーぶりを、このブログでは、「カジノ人間主義」と呼ぶことにします。>という断章が、全体をまとめる役割を果たしています。ヒトという種に対して、かなり悲観的な見解を述べています。そうした考え方が、「不毛」にいたることを指摘し、記事を終えています。この日の「死語復活キャンペーン」が、「加藤茶」の「ちょっとだけよ~。アンタもすきねえ」に加えて、「東京ぼん太」の「夢もチボーもないよ」を取り上げているのが象徴的です。キーワードは、「マラルメ」「経済学」「金融工学」「証券化」「市場」「相場 」「フィクション」「筋書き」「わかる=わける」「脳」「記号化された情報」「表象作用」「真理」「実体」「ゲーデル」「ヴィトゲンシュタイン」です。直接書かなかったキーワードは、「弓彰」「豊崎光一」です。

 

*「コラブログとモノブログ」 2009-01-31 : 最初はエッセイタッチで、他の人たちのブログを読んだ感想を述べています。そこから、友達の多い外向的なコラブログと、友達のいない内向的なモノブログという分類をし、当ブログが後者であると書いています。自分にとって、ブログがどんなものであるかに触れたあと、その日の核心に入ります。「死語復活キャンペーン」で、「内藤陳」の「おら、ハードボイルドだど」を紹介し、前日の「不毛」を「ニヒリズム」という別の語で置き換え、「行くところまで、行っちゃった」=「ふつう、そこまでは行かないよ」の例として、モーリス・ブランショに触れています。ブランショおよびサミュエル・ベケットをイメージした、つぶやき的断片を書き連ねて、「不毛」を言葉の身ぶりとして演じようと努力しています。★と★の間の文章は、たぶんに、ひとりよがりなことを書き、ひとり相撲をとっていますので、深読みすることなく、読み飛ばしてください。

 

*「架空書評 : ビッグ・ブラザー」2009-02-01 :  詩人の孟宗竹真(もうそうだけまこと)氏によるブックレビューの第4回目。今回俎上(そじょう)に載せられるのは、ノンフィクション。孟宗竹氏は、この著作をトンデモ本とみなされても仕方ないと断じる。取材源のデータが全く明記されていないからである。内容は、全国民のありとあらゆる個人情報が、ある秘密の組織によって収集されているというもの。組織のトップに立って運営しているのは、少数の元および現公安関係の高級官僚。膨大なデータの収集のために、某国が開発したデータベース作成用ソフトが使用されていると著者は主張する。データ収集の目的は、国家の治安維持に費やされる経費節減だという、極めてあっけないもの。あっけないだけに、リアルでもある。事件や危機が起こり、その解決や対処が難航している場合に、現場に「そっと耳打ちをする」。あとの書類上の辻褄合わせは、法律の専門家である役人と官僚が行う。そうした悪夢のような、「国家の壮大なたくらみ(=グランドデザイン)」が描かれている。

 

*「こんなことを書きました(その2)」 2009-02-02  : 本記事です。2009-01-20 から 2009-02-02の文章14本のダイジェストです。

 

以上です。

 



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