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09.01.22 なぜ、ケータイが

◆なぜ、ケータイが
2009-01-22 11:43:42 | Weblog

 

 何だか、きょうは、嫌な気分です。あることが、気にかかっているからなんです。実にイヤーな気分です。自分が嫌いなものは、たくさんあるのですが、その中でも嫌いなことが、この2、3日間の新聞に載っているのです。「消えてしまいたい指数」にまで影響しています。きょうは、調子が悪いです。真剣に考えすぎてしまう悪い癖が出てきたようです。

 

 これは、対峙(=退治=たいじ)しなければ、なりません。さもないと、あとを引きそうです。ポテチや、カッパエビセンや、納豆の糸のように、あとを引きそうな予感がします。思い切って、はっきり、言います。

 

「禁止」って、嫌いです。

 

 書いただけで、悪寒がするみたいに、ぞーっとします。「禁忌(きんき) = タブー」という、これまた、イヤーな言葉がありますが、「禁忌」が、じめじめ、じとーっ、だとすれば、「禁止」は、バン! とか、バシッ! とか、ブーン! とか、いう感じです。つまり、痛いのです。銃で撃たれたり、ギロチンで首をはねられたり、電気を体に流されたり――そんなふうに、痛いのです。

 

「禁止」という言葉を見たり聞いたりすると、ナチスドイツ、ゲシュタポ、治安維持法、特高、大粛清、強制収容所、ゲーペーウー、公安、情報部、内務省、シュタージ、密告、拷問、盗聴、拉致、軟禁、監禁、投獄、監視……などという、恐ろしい言葉を次々と連想してしまうのです。

 

 考えすぎ、なのでしょう、たぶん。被害妄想、なのでしょう、おそらく。杞憂(きゆう)、なのでしょう、きっと。でも、こういう強迫観念は、なかなか去ってくれない。

 

 やっぱり、対峙(=退治)しなければ、ならないようです。悪魔祓い(= exorcise = エクソサイズ )する必要がある。頭と体の中から、追いはらわなければならない。

 

 はらう、払う、祓う、掃う

 

 たった今、書いた言葉が、おまじないのように、感じられます。「まじない」って、「呪い」って書くんですよね。「呪い(=のろい)」と同じじゃないですかー。「マジ」に、怖いです。マジコワ。「まじゅつ」や「マジック」のように、気味が悪いです。

 

 きのう、魔法という言葉で遊んじゃったのが、いけなかったのでようか? 言霊――自分が最も苦手であり、怖いと心から思っている言葉です、本当は使いたくないのですけど、使わないわけにはいかない、それほど、せっぱ詰まっているのです――のせいでしょうか? たたり、ばち、でしょうか?

 

     *

 

 こんな時には、やっぱり、サイコロを振ります。マラルメのサイコロを。泉アツノ(※アツノさんをご存知ない方は、ウィキペディアなどでお調べください)さん、力をお借りしてよろしいでしょうか? 自分ひとりじゃ心細いのです。マジでお願いしますよー。よかった――。アツノさんのOKが出ました。

 

 では、サイコロを振ります。えいっや! 

 

 Silly。

 

「こんなん出ましたけど~」と、アツノさんの玉のようなお声。

 

 Silly? そんな馬鹿な! フランス人だったステファヌ・マラルメが中学の英語の先生をしていたのは知っていますが、きょうは英語が出ました。しかも、「ばかたれ!」などと、ののしられるとは――。ショックです。マラルメさん、あなたに見放されたら、自分は生きてはいけません。もう1度、いきます。

 

 Ass。

 

「 こんなん出ましたけど~ 」

 

 Ass ですか? 再度、英語で罵倒されるとは! もう、行く手も、なす術(すべ)も、なしだとおっしゃるのですか、マラルメさん? 

 

 いや、そんなはずはない。マラルメさんに限って、そんな「ばかな」ことは言わないはずだ。落ち着いて考えよう。

 「 Silly 」「 Ass 」。silly ass。シリーアス。

 

 読めた!

 

 シリアス。まじめにやれ。マジで取り組め。

 

 いつもこのブログでやっている引き算の

 

「 Silly 」-「 Ass 」= !?

 

ではなく、足し算の

 

「 Silly 」+「 Ass 」= シリアス

 

だったのか? ここんとこ、引き算ばかりしていたけど、足し算だったのか? マラルメさん、恐れ入りました。「 Silly 」+「 Ass 」= 尻アス。尻尻。でんでん。臀部(でんぶ)の「でん」。語源は違うみたいですけど、ass  には「お尻」という意味もありましたね。だから、シリアス。そうでしたか。すっかり忘れておりました、マラルメ先生。

 

 ついでに、ちょっと、調子に乗ってもいいでしょうか、先生? きょうのサイコロの目は、ひょっとして足し算だけでなく、掛け算でも解けるのではないでしょうか? 

 

「 ばか 」×「 ばか 」=「 まじめ 」。

 

マイナス同士を掛け合わせると、プラスになる。つまり、Don't be silly. = Be serious. =「まじめにやりなさい」という意味ではないでしょうか?

 

 わっかりました、先生(せんせい)。

 

 宣誓(せんせい)、きょうは、真面目に、正々堂々と取り組みます。

 

 さすが、マラルメ先生。宣誓をしたら、すっきりしました。気が楽になりました。どうやら、おはらいができたようです。言葉のサイコロの目の通りに、きょうはシリアスにマジにやります。「禁止」と真面目に対峙し、退治してみます。いや、あまりにも手強い相手なので、退治はできないまでも、対処してみます。

 

     *

 

 で、「禁止」です。みなさん、ここまで来るのに時間がかかって申し訳ありませんでした。なにしろ、手強い相手なのです。半端じゃないんですよ。

 

 前置きが長かったですが、話は実に簡単なことなのです。この数日間の新聞、テレビ・ニュース、ウェブ・ニュースなどで、ご存知のように、

 

 携帯電話の、校内への持ち込みや、校内での使用を「禁止する」という、「お上」(※嫌な言葉ですが、都合上使います)、この場合はその代理(※代理でも「お上づら」をしています、何しろ、「虎の威を借りる」は伝染るんです)である、文部科学省からの「お達し」(※これまた、嫌な言葉)が、出そうになっているとか。

 

 ケータイの問題点や利点については、あちこちに書かれていたり、話題にされていることなので、ここでは触れません。みんなが(※もちろん、関係ない人もたくさんいます)、日常的に経験していることでしょうし、第一自分はケータイの是非とかいう、きな臭くて物騒な議論は苦手なのです。ディスカッション、ディベート、討論(=闘論=投論=倒論)の類は、ノー・サンキューなのです。そういうことは、そういうことが好きな人同士で、やってください。

 

 ですので、ケータイの使用(※特に小・中学生や高校生の)の是非は問わない代わりに、「禁止する」というヒト特有の行動について思うところを、持ち合せの乏しいデータと、自分の頭と体を使って、書いてみたいと思います。無精で横着な方法ですが、それしか、能(=脳)がありませんので。

 

     *

 

 まず、素朴な疑問から書きます。

 

 なぜ、ケータイが、

 

です。いや、正確には、これは素朴な疑問とは言えないかもしれません。いや、正直言って、全然素朴な疑問などではない。こうなることは、ある程度予測がついていたからです。ということは、

 

 やっぱり、ケータイが、

 

と言うべきです。訂正します。こうなる気がしていた。こうなって当然だ。だんだん、そう思えてきました。歴史が証明しています。ところで、

 

 手紙禁止令って、ご存知ですか? 

 

「手紙禁止令 」というのは、この国の場合だと、かなり長く続いていました。昔々から、江戸時代まで続いていました。でも、明治時代になって、「手紙禁止令」が解けたわけではありません。文明開化、つまり、他国、特に欧米に追いつけ追い越せという、国家の命運をかけた大事業が始まりました。

 

 文字というものが、一部のエリートや特権階級のものでなくなり、「学校教育」という行政上の言葉の下に、せっせと「識字率」を高めることが、国家の目標になったのです。この辺りのことは、学校でお勉強しましたよね。全国規模での、寺子屋の公営化です。

 

「識字率」というのは、国家にとっては、「諸刃(もろは)の剣(つるぎ)」です。言い換えると、いい面もあるが、下手をすると、自分の身がヤバくなる、ということです。いい面を説明すると、文字の読み書きのできる国民の割合が、高くなることによって、他の国、特に欧米に対して、自慢できるようになります。つまり、文明国の仲間入りを果たしたことになる。これは、めでたい。

 

 その一方で、そういう人たちが増えすぎると困る。なぜなら、「お上」=「支配階級」が独占している、「知のスキル」が広まりすぎると、「知のスキル」の「有難み」が薄れるだけでなく、うかうかしているうちに「知のスキル」が、みんなのものになってしまう。

 

「知のスキル」は、その名の通り技能ですから、それを使うと知識や情報が扱えるようになる。つまり、「お上」だけがやっていたことを、みんながやり始める。ヤバい。最悪の場合には、乗っ取られてしまう。これは、一種の革命です。下克上です。危険です。だから、取り締まる必要が出てきたわけです。

 

 やっぱり、「知のスキル」は、一部のもの(=エリート=選ばれた者たち)だけが握っているべきだ。以前ほど厳しいものではなくていいから、とにかく、あまり「知のスキル」が広まらないようにしよう。というわけで、緩めの「手紙禁止令」を継続することにしたのです。具体的に言うと、次のような感じです。

 

「変なこと(=お上にとって都合の悪いことや、危険なこと)は、文字にしてはならぬ」

 

「まして、変なことを、手紙に書いて、仲間に送ることは許さん」

 

「怪しいやつ(=お上にとって都合の悪いことや、危険なことをしそうな人)の書いた手紙は、わしら(=お上や、その代理人たち)が勝手に開封して、何が書いてあるか、読むからな」

 

「変なこと(=お上にとって都合の悪いことや、危険なこと)が、書いてあるのを発見したら、ただちに罰(ばつ)を与えるぞー」

 

「場合によっては、自分の命はないと思え」

 

というものです。

 

 ここでいう、「手紙」とは、広い意味でとってください。他の人たちに、伝えたい、訴えたいことを文字にしたものです。すると、新聞、雑誌、本、宣伝文、パンフレット、標語などが、頭に浮かびます。日記の類も、含めてもいいでしょう。日記が他の人の手に渡れば、書いた人の思いが伝わりますから。

 

 以上のことは、おとぎ話か、紙芝居の筋みたいなものです。ごく大雑把で、不正確な話です。でも、

 

「禁止」ということの、恐ろしさの一端

 

は、つかんでいただけたのではないでしょうか? 「禁止」を甘く見ちゃ、駄目ですよ。半端じゃなく、怖いんですから。へたをすると、拷問されますよ。あげくには、殺されますよ。

 

     *

 

 さて、ヒトには、他のヒトと言葉をかわしたいという欲望があります。生きるうえでの「基本的な」欲望です。基本的人権の、「基本的」です。誰もが、誰かと話したい、そして、つながりたいと思う。あるいは、誰かに文字で思いを伝えたいと願う。これって、自然な欲求です。「通信欲」と呼んでいる人たちもいます。このブログでは、「交信欲=口唇欲」と呼びたいです。何かエロい響きがあって気恥ずかしいのですが、気に入っているので、そう呼ぶことにします。

 

 また、記事が長くなりそうなので、ピッチを上げてもいいですか? じゃあ、いきますよ。

 

 ラスコーやアルタミラの絵、文字の発生、象形文字、楔形文字、紙の発明、印刷術の発明、

 

 さらに、スピードを上げて、

 

 グーテンベルグ、聖書の翻訳、新聞、本=書籍、御伽草子、かわら版、お触書(※これらが登場した順序は、忘れました、年号とか、時代区分とかを覚えるが大の苦手なのです)

 

 そして、いきなり、

 

 有線電話、無線電話、電報、郵便制度、無声映画、有声映画、ラジオ放送(※このへんの順序も、忘れました、したがって、ごちゃごちゃです、ごめんなさい)

 

 いっきに飛んで、

 

 テレックス、テレビ放送、長距離通信、ファクス、インターネット、電子メール、ポケベル、自動車電話、PHS、携帯電話(※面倒なので、ここも「順不同」としておきます、ごめんなさい、調べる余裕のある方、どうか整理をお願いします)

 

 で、ようやくケータイにたどり着きました。ふーっ! ああ、疲れた! 

 

「誰も、あんたに、疲れてくれなんて、言ってねーよ 」。ああ、また、幻聴! へこみそうになるけど、マラルメ先生への宣誓をした以上、やめられない。

 

     *

 

 で、話は、まだ、あるんです。上で挙げたものたちの敵どもを挙げなければ、手落ちになります。きょうの話で肝心なのは、次に並べる敵どもなのです。では、いきますよ。これも、思いつくままの順不同で、スピードを挙げます。なお、一部は、冒頭近くに列挙した悪夢と重なります。

 

 禁書、焚書、言論弾圧、宗教弾圧、魔女狩り、赤狩り、島流し、検閲、監視、国外追放、軟禁、監禁、幽閉、接見禁止、面会謝絶(?)、エシュロン、密告、拷問、盗聴、密告、拉致、身柄拘束、投獄、死刑

 

 死刑。来るところまで、来ちゃいました。やっはり、怖いでしょ?

 

 こういう重大な歴史的事実、そして現在も世界のいたるところで起きている事実は、お上品にアカデミックに、あるいは格好よくジャーナリスティックにやるよりも、素人なりに、順不同で、やけくそに、ガバーッとまくしたてたほうが、迫力があって、リアルなのです――ああ、なんという自己正当化! 単なる怠け者のくせして。自己嫌悪。

 

 反省します。

 

 何か新しい「もの」や「仕組み」や「風潮」が出現すると、国家や社会は、どのような行動をとるでしょうか?

 

 まず、ビビるんです! マジビビ。ちびりそうになるくらい、ビビるんです。次に、うろたえる。怖い、不安だと感じる余裕が出てくる。つまり、態勢を整える心の準備ができる。

 

 その次は、考える。国家もお上も社会も、馬鹿じゃないですから、当然です。では、いったい、何を考えるのか? 現在では、以下のように、考えるのではないかと推測します。たぶん、ですけど。

 

 コピー機、ファクス、電信、その他、情報技術の急速な進展が、ソ連の崩壊を加速化させた。体制維持のためには、ITにより高度化し洗練された「知のツール」を飼い慣らしておかないと、大変なことになる。こっちの身が危ない。しかし、そうは口に出せない。大義名分としては、「国家安全保障のため」、「風紀紊乱(ふうきびんらん)を防止するため」、「青少年の健全な育成のため」、「子どもたちの心と身を守るため」がいいだろう。誰も、反論できないはずだ。うん。

 

 ごく一部の人たちの脳裏には、次のような名前が浮かぶかも、しれません。ただし、その可能性は非常に低いです。

 

 スーチー、マンデラ、ダライ・ラマ、マハトマ・ガンディー、キング牧師、小林多喜二(※カニコーの作者ですね)……

 

 たとえ、そうした名前が浮かんだとしても、頭の中から追い払い、こう言います。

 

 「禁止する」「絶対に駄目だ」「許さん」。

 

 知らない間に、きな臭い話になってしまいました。マラルメのサイコロは怖い、というか、すごい。言葉のサイコロを振って、この記事を書いているうちに、思いもしないことまで出てしまう。やはり、魔法ですよ。

 

 ところで、あまり使われることのない、言い方かもしれませんが、悪事やたくらみや秘密を暴露することを、「尻を割る」と言います。ひょっとすると、さっき、おはらいの時に、「 Silly 」「 Ass 」とお尻が2つも出たのは、「権力(=ばかども)」の「尻を割れ」という、マラルメ先生の「だじゃれ = お託宣」だったかもしれません。

 

 引き算でもなく、足し算でもなく、掛け算でもなく、「割り」算です。ひょっとすると、ですけど。いずれにせよ、めっちゃくちゃな、こじつけですよね。反省。

 

 要するに、きょう、言いたかったのは、次の通りです。

 

 過去も、現在も、未来も、変わらないことは、3つ。

 

(1)新しいものは、お上の目のカタキにされ、弾圧される。


(2)お上は、下克上を、死ぬほど恐れている。


(3)オトナたちはコドモたちが怖い。

 

 以上です。

 

 だから、ケータイが禁止されるのです。知っておいて、いただきたいのは、これって大昔から続いている、こわーいこわーい実話の一端だということです。

 

 ゲームばっかりしている子どもたちが多いことにしろ、学校に行かない子どもたちが急増していることにしろ、オトナたちは、自分たちなりに、これまた、こわーい(※さっきと意味は相当違いますが)と思っているのです。つまり、オトナたちが怖がっているという意味です。でも、オトナたちは高をくくっています。

 

 どうせ、あいつらも、じきにオトナになるんだ。

 

 これほど、心強いことはないでしょう。

 

 細かい字の長い文をここまで読んでいただいた方に、心より感謝いたします。

 


09.01.23 お口を空けて、あーん

◆お口を空けて、あーん
2009-01-23 11:31:54 | Weblog

 

 頭の整理を兼ねて、きのう書いたことを振り返ってみます。簡単に言えば、次のような話になります。

 

 ヒトには、他のヒトと言葉をかわしたいという「交信欲=口唇欲」がある。だから、舌や唇を使ってケータイで話もしたいし、手紙も書きたいし、メールのやりとりもしたい。これは、ヒトとしてのごく自然な欲求だ。ちなみに「手紙」の英語バージョンである「 letter 」には、「文字」「活字」「文学」など、言葉と関係のあるたくさんの意味がある。だから、みんなが言葉や文字を通して、仲よくなりすぎる事態も予想される。

 

 ヒトは仲よくなると、力を合わせることができる。しかし、そうなってほしくないヒトたちがいる。誰だろう、そんなヒトたちは? 現在たまたま世の中を支配する側にいるヒトたち(=権力=お上)だ。そこで出てきたのが、「手紙禁止令」(※ここでの「手紙」は広い意味のもの)である。「あんまり、仲よくしちゃ駄目」そう命令する。命令だから、怖い。さからうと、場合によっては牢屋に入れられたり殺されてしまう。

 

 コドモ(※ドコモではなくて)がケータイを使うのをオトナが制限したり禁止するのも、「あんまり、仲よくしちゃ駄目」という命令であり、一種の「手紙禁止令」である。

 

 以上です。

 

 とても大切なことなので、おふざけやダジャレなしに(※1回やっていました、ごめんなさい )、きのうの記事の要約をしました。

 

     *

 

 さて、クイズを出します。これからするお話の中で、6人の作家が出てきます。そのうちの4人(※数え方では5人)に共通する点は何でしょう? ヒントは、きのうの日記に出てきた、「知のツール」(=読み書きの技能)と「手紙禁止令」の2つに関係があります。大したクイズではありません。ちょっと考えれば、答えが出てくるだろうと思います。

 

 で、きょうは、まず夏目漱石の話からしたいと思います。嫌ですか? 学校で、さんざん読書感想文を書かされた時のことを、思い出してしまいますか? 確かに、今、あの人の作品たちを読むと、退屈ですね。特に若い人には、楽しめないかもしれません。何しろ明治時代に生まれて大正時代に亡くなった人、ですもんね。50歳で亡くなったんですよ。ちょっと意外に思えませんか? もっと「おじいさん」って、イメージありませんか? 

 

 いずれにせよ、あの人はすごい、と自分は思います。内容は別にして、今読んでも、あまり違和感のない文章をたくさん残しています。それが、すごい。あの人とほぼ同じ時期に活躍した、森鴎外という作家がいますね。森鴎外の場合には、残っているほとんどの文章が、内容は別にして、読みにくいです。少なくとも、自分はかなりの違和感を覚えます。

 

 芥川賞と直木賞って、ありますよね? あの賞を事実上作った人が、誰だかお聞きになったことがありますか? 芥川龍之介でも、直木三十五(なおきさんじゅうご)という人でもなくて、菊池寛(きくちひろし)(※寛(かん)とも読みます)という人です。明治生まれで、第二次世界大戦が終わって3年目に亡くなりました。この人の小説は、漱石よりも、今に近い人なんですが、文章が古めかしいという印象を自分はいだきます。だから、漱石はすごいと、またもや思うのです。

 

 ノーベル賞にも文学賞がありますね。日本人では、比較的最近、大江健三郎という人が受賞しました。昭和 10年 (1935年) 生まれで、今も現役の作家として活躍されています。昭和の人なのですが、この人の書く文章に、自分はすごく違和感を覚えます。嫌いという意味ではありません。好きなほうです。実は、その違和感が好きなのですけど。詳しいことは、いつか書きます。

 

     *

 漱石に話を戻しますが、一部の作品を除き、実に読みやすい。と言っても、内容を理解したという意味ではありませんけど。それだけでは、ありません。教科書や一部の文庫などでは、書き改めてありますが、漢字を書く時に当て字が非常に多い(※造語も多いらしいとのことです )。

 

 で、その当て字が、すごいのです。半端じゃない。すばらしい、と言ってもいい。

 

「当て字」というと、「でたらめ」とか、「間違い」というイメージがありますよね。「漢字」を「感字」と、書くようなものです。でも、「感字」って、言えてませんか? つまり、「漢字」という文字のある側面を、ピタリと言い当てている「感じ」がしませんか? 昔のある時期の中国が「漢」という名前だったので、「漢字」と書くのでしょうか? 国語が苦手だったし、専門家ではないので、詳しいことは知りません。

 

 とはいえ、自分にとっては「感字」のほうが、ずっとしっくりきます。ぴんと来ます。フィーリングで書くって、「感じ=感字」。その時の自分の気分に合わせて、好きな文字を使って、自由に書くって「感じ=感字」です。

 

 けっこう、メールなんかでは、「感字」している人が、おおぜいいませんか? 自分は「感字」が好きだし、実際、このブログでも、よくやっています。現に、きょうの記事のタイトルで、もうやっています。お気づきになりましたか? 口を「開ける」が標準的な書き方で、口を「空ける」とは、「確信犯」の感字か、うっかり間違えたかのどちらかでしょう。どちらでも構わないと、個人的には思います。うっかり間違えた漢字に、言えてるなあ、と思うものがよくありますもの。

 

 いつか、時間がありましたら、家の本棚とか、本屋さんとか、図書館で、漱石の「当て字」バージョンを拾い読みしてみてください。もし、よければの話です。自分は、強制とかお説教とか、するもの、されるのも嫌いです。「よく言うよ。さっきから、お説教しているくせに」ですか? そんな感字、いや、感じがしたら、ごめんなさい。

 

     *

 

 突然ですが、幻聴って聞いたことありますか? たった今、「よく言うよ。さっきから、お説教しているくせに」って書きましたが、これ、どうやら幻聴らしいのです。難聴って聞いたことは、ありませんか? 自分は20代の頃から、だんだん聴力が低下してきて、今は補聴器なしでは生活できません。生まれつきではないので、中途難聴とも言います。ただでさえ、難聴という障害をかかえているのに、幻聴まで背負ってしまい、このところ困っています。あるお医者さんが言うには、

 

「あなたは一人でいることが多いから、ひとり言がちょっとエスカレートしているんですよ。ゲンチョーなんて言葉で決めつけちゃ、本当にゲンチョーになってしまいますよ。本当のゲンチョーはそんなもんじゃ、ありません。心配しないで、気楽にやってください」

 

とのことでした。それで、ちょっと気が楽になりましたけど、全く気にならないかと言えば、嘘になります。まあ、ぼちぼち、のんびり、やります。

 

 そうそう、難聴のことなんですけど、このブログのバックナンバーである「聞こえるけど聞けない言葉」2009-01-10 という文章で書いたことを、繰り返します。

 

 健聴者の方に、申し上げたいことがあります。ヘッドホンの類を利用する時には、なるべく音を小さくしてください。大きな音は、耳に悪いですよ。お医者さんが言うには、聴力が低下すると回復はかなり難しいそうです。どうか、耳を大切にしてください。

 

 これって、お説教に聞こえましたか? だったら、ごめんなさい。「そんなことない。分かったよ」。よかった。幻聴も、こっちの話を聞いてくれることが、あるらしい。よかった。本当に嬉しい。これって、自己満足ですか? やっぱり。

 

「当て字」で思い出しましたが、ある文学者が、だいぶ前に、漱石について、双籍、送籍、僧籍という言葉を使って、批評したことがありました。漱石が養子に出されたことや、幼少期の戸籍上のトラブルや(※この辺りが「双籍」でしょうか)、兵役を逃れるために北海道に籍を移した事実にかけて(※ここは明らかに「送籍」ですね)、言葉遊びに似た方法で、批評してあった記憶があります。なぜ「僧籍」なのかは、忘れました。

 

 こういう遊び心のある批評も、自分は好きです。漱石は、飽きましたか? では、さっきのクイズに戻ります。ここまでのところで、漱石、鴎外、芥川、直木、菊地、大江という6人の作家が出てきました。この6人のうち、4人、数え方によっては5人に共通する点は何でしょう? 

 

     *

 

 答えを言います。

 

 漱石、鴎外、芥川、大江の4人は、帝国大学(=東京帝国大学)、またはその後身の東京大学出身者。菊地は紆余曲折を経て、最終的には京都帝国大学を卒業。直木は、早稲田大学中退。という話です。

 

 どういうことか、と申しますと、帝国大学というのは、きのうお話しした明治維新に伴う「手紙禁止令」の部分的解除によって実施された、全国規模での寺子屋公営化の頂点だったのです。つまり、この国の各地から、超エリートたちを選りすぐって養成するトップの学校が、帝国大学だったのです。最初は1校でしたが、やがて各地に数校設置されました。で、そこで何をやったかというと、

 

「知のツール 」(= 読み書きの技能 )の熟達のレベルにとどまらず、この国の「知の分野」(=学問)を築き上げ、ひいてはさらに高度で洗練されたものにする。そして、何よりも大切なこととして、「支配体制」(=政治・経済)の整備と維持を目的とした、国家的大事業を成し遂げる。そうした使命があったわけです。もちろん、欧米に追いつき追い越すためです。

 

 ここまでお話ししたところで、これから、ある別のお話をします。思いきり、差別的なことを書きますので、まず、その点をお断りしておきます。差別が目的ではありません。差別を意識していただきたい。それが、願いです。そのためには、毒を制するには毒を、魔を制するには魔を、の心構えが必要です。ご理解いただければ、幸いです。ですので、お気を悪くなさる方が、きっといらっしゃると思いますので、前もって、ここで謝罪しておきます。ごめんなさい。

 

 で、その話というのは、作家の業界(※文壇とも言います)と、政治家の業界(※政界とも言います)における、これまでの

 

学歴と偏差値について

 

です。

 

ね、

 

差別的

 

でしょ? さきほどのクイズの答えを読んで、だいたいの傾向はつかめたと思いますが、天下りや渡りでお馴染みのキャリア組、いわゆる上級の国家公務員の業界は言うまでもなく、作家や政治家の業界も、帝国大学やその後身の大学出身者が、圧倒的に多い時代が続いていました。

 

 もちろん、例外も多々ありますが、ここでは触れません。大切なことは、「知のツール」とその応用を一部の少数者が握るという、国家レベルでの暗黙の了解みたいなものが、うまくいっていたという歴史的経緯です。

 

 そのサクセスフルな状態は、明治以来、第二次世界大戦後まで、継続していました。しかし、世は変わりました。下克上が当たり前の米国に負けた以上、この国が米国の影響をもろに受けないわけにもまいりません。一時期はこの国が米国を中心とする連合国に占領されていたのですよ。進駐軍が日本を治めていたのです。ということは、進駐軍なんて言葉は誤魔化しであり、ぶっちゃけた話、占領軍だったのです。

 

 で、話を飛ばします。占領が終わり、いろいろな事情があって(※その事情に数々についてお知りになりたい方は、年表をご覧ください)、運よく高度成長時代を迎え、これまで教育にまでお金をかけることができなかった家庭にも、子どもを塾や偏差値の高い学校に通わせる余裕が出てきました。そうしたさまざまな条件が重なって、作家や政治家の出身大学に変化が表れてきました。

 

 旧帝国大学系の作家だけでなく、その対抗勢力であった民間の大学の中でもトップレベルにあった関東のW大やK大などや、関西のK大やR大やD大などの出身者たちによる、めざましい進出がみられるようになりました。そして、今挙げた大学よりも、偏差値という尺度ではかれば下位にある大学の卒業生たちにも、門戸が開かれるようになりました。言い換えると、さまざまな分野において、機会均等が浸透していったのです。

 

 偏差値は、どんどん下がります。

 

 で、話は飛びます(※たびたび飛んで、申し訳ありません)。象徴的な偶然の一致の時期が、最近、ありました。比較的短命な政権を担ったA内閣総理大臣(※現在のT.A.さんではありません、S.A.さんです。念のため)と、当時そして現在の超売れっ子の某男性作家I.I.氏と某女性作家N.K.氏、以上3人の出身大学(※S大です)が奇(く)しくも一致したのです。明治、大正、戦前の昭和では、考えられないことです。

 

 政治家二世の是非といった、きな臭い話は、やめましょう。ただ、上述の「一致した」という現実だけに目を向けましょう。喜ばしいことでは、ありませんか。さまざまな分野で活躍している人たちの出身大学の、

 

偏差値がどんどん下がりつつあります = 機会均等が浸透しつつあります。

 

 大学を卒業していない人たちにも、機会が与えられるようになってきています。ただし、例外があります。ある分野だけが、未だに偏差値が高い大学の出身者でないと、活躍どころか、門の中に入れてもらうことさえできないもようです。

 

 それはキャリア組、いわゆる上級の国家公務員の業界です。砦(とりで)は、そうとう堅固です。この国を牛耳っているのは、政治家はありません。官僚です。残念な話です。いい方向に、向かうことを願わずにはいられません。きな臭いだけでなく、生臭い話になり、ひどく疲れました。

 

     *

 

 別の話をします。

 

 さっきは漱石がらみで漢字について書きましたが、この国には、漢字のほかに、ひらがな、カタカナ、アルファベット、数字、そして、今、メールなどでは、顔文字までがあります。日本語ってすごいですね。

 

 天は言語の上に言語を造らず、言語の下に言語を造らず、

 

ですので、誇りに思うなどとは言いませんが、大したものだと思います。そうした複雑な表記の取扱いに成功した、ワープロ専用機を祖先にもつ、パソコン用のワープロソフトって、やっぱり、すごいとしか言いようがない。文字の変換だけをとってみても、感心するばかりです。

 

 自分は文字とか活字が大好きです。普段は誰もあまり、気にしませんが、新聞や雑誌や本によって、活字が違うことは当然のことですね。その違いが、自分にはとてもおもしろい。印刷された文字を虫眼鏡で拡大して比べてみるのが、一種の趣味なのです。安上がりな趣味です。諸般の事情があってお金がないので、この趣味があることで、大変助かっています。お金のかかる趣味を持っていたら、とっくに破産しています。

 

 漢字って、たくさんありますよね。気が遠くなるほど、たくさんあります。鬱(うつ)という字などは、文字通り、鬱陶(うっとう)しいですね。自分なんか、鬱は他人事じゃないので、なおさらです。乙とか一なんて1画ですが、拡大してみると、うっとり見とれてしまいます。A新聞の活字とY新聞の活字では、微妙どころか、かなり違っています。同じ字を比べてみると、その違いを目の当たりにして、あ然とすることがあります。

 

 ひらがな、カタカナも、虫眼鏡で見ていると、なかなか味わいがあって、つい時が過ぎるのを忘れます。「あいうえお表」っていうんですか。小さいころ、親の手製の表が、机の上の壁に貼ってあったのを覚えています。そのとき、不思議だったのが、「や行」と「わ行」です。親が作ってくれたものでは、確か、

 

  ( 前略 )
  ま み む め も
  や   ゆ   よ
  ら り る れ ろ
  わ   を   ん

 

となっていて、表を見るたびに不思議に思っていました。

 

「なんで、あそこが、ぬけてんだろう?」

 

 今でも、不思議です。国語のお勉強をしっかりしなかったからでしょう。あそこが抜けているのは、たぶん「傷跡」なのだと思います。かわいそうに……。作家でいえば、丸谷才一氏が、現在も実践している歴史的仮名遣いあたりと関係があるのではないか? そんな気がしますが、よく分かりません。

 

 これも、グーグルなんかで調べれば謎が解けるのでしょうが、自分は、これだけは謎のままにしておきたいんです。

 

傷跡はそのまま、そっとしておいて、触れたくない

 

気分です。いつか、傷跡の意味が解けることもあるでしょうが、今のところは、このままでいいです。怠け者だから調べないと言えないこともないんですけど、これだけは、不思議なままでいい。そう思います。一句浮かびました。

 

 傷跡を 舐める小猫に われ重ね

 

 ここまで書いて、思い出したことがあります。親の書いてくれたものではなく、学校にあったものです。

 

  ( 前略 )
  ま み む め も
  や い ゆ え よ
  ら り る れ ろ
  わ い う え を
  ん

 

 すっかり、忘れていました。こういうのも、見ました。懐かしい。で、今、こうやって、上の表と下表とを見比べてみると、頭の中が混乱してきました。めまいに似ています。

 

 いったい、どうなっているんだ!

 

と叫びたいくらい、今、うろたえています。これもまた、専門の本なり、グーグルでしっかり検索しないと、解決しそうもない予感がします。ただ、きょうは、実は「消えてしまいたい指数」が高いんです。80くらいでしょう。自分でも、きょうの文章は元気がないなあ、トーンダウンしているなあ、と感じます。だから、調べる気力はありません。やっぱり、

 

謎は謎のまま

 

にしておきましょう。

 

 それにしても、下の表の「ん」って、なにか寂しそうじゃないですか? これまでの記事で、何回か書きましたが、自分には、とても気になる文字でもあり、音でもあるんです。「ん = n 」。今、パソコンのモニター上の「ん」を、愛用の虫眼鏡で拡大して見ているんですが、いい形をしています。好きです。涙が出そうになるくらい、いい姿をしています。

 

「あ」で始まって、「ん」で終わる表。

 

ローマ字で書けば母音だけの5文字が最初に並び、それに子音がくっついた文字がたくさん並び、最後は子音だけの文字が上のほうに、ぽつんと一つだけくっ付いている。「ん」がぽつんと孤独にしているのは、ローマ字では子音だからだと、中学の国語の先生が教えてくれたことを思い出します。その説明を聞いて、なるほどと思いましたが、同時に「不思議=謎」が一つ減って、ちょっと寂しくなった記憶があります。

 

 とはいえ、「あ」で始まって「ん」で終わる表――そんなものがあることが、不思議です。「あいうえお かきく……」と声に出してみたいけど、何だか、きょうは、かったるいです。省略して、「あーん」と中略でいきます。

 

 お口を空けて、あーん。

 

 足元にいるネコ(※うちの猫の名前です)が、ただならなぬ気配を察したのか、こっちの顔を見ています。ちょっと、からかってやりましょう。

 

 お口を空けて、あーん。

 

 ネコに向かって、そう口にしてみたら、そっぽを向かれました。ネコは敏感だ。からかっている、こっちの気持ちが通じたらしい。

 

 そう言えば、

 

あうんの呼吸

 

って、よく言いますよね。今、広辞苑を引いて読んでみたのですが、

 

阿吽の呼吸

 

って書くんですね。うーん。「阿吽の呼吸」の意味を読んで、10秒間くらい絶句していました。それで、「あうん【阿吽・阿呍】」自体の意味の説明を読んでいたら、すごく感動してしまいました。

 

 きょうは、ちょっとつらいので、書くのはここまでにして、気晴らしに、これから広辞苑の「あうん【阿吽・阿呍】」のところを、読んだり、虫眼鏡で覗いてみたりしようかと思います。

 

 漱石の話から始めたのに、何だかうろうろして、結局尻切れトンボで終わってしまって、ごめんなさい。このところ長めのブログを書いていて、ちょっと頑張りすぎちゃったのかもしれません。

 

 この行まで読んでくださった方、どうもありがとうございました。感謝しています。

 


09.01.24 冬のすずめ

◆冬のすずめ
2009-01-24 10:58:39 | Weblog

 

 テープレコーダーが作動していました。

 

 そのことは、はっきりと覚えています。小学6年生の時の記憶です。場所は教室。6年4組。自分を含めた児童たちが緊張していたのは、室内のほぼ中央の机の上に置かれた、テープレコーダーの存在のせいだけではありません。教室の後ろに、見知らぬ大人の男女たちが詰めかけているのです。

 

 ぶーんという、テープレコーダーの作動する音が聞こえていたような気がするのは、今思えば、錯覚でしょう。それくらい、テープレコーダーの存在は不気味で、教室全体に緊張感を漂わせていました。道徳の授業でした。

 

 まず、教科書に載っているある話を、担任の女性教師に当てられた数人の児童が、分担して朗読しました。内容は、オリンピックで金メダルを取った、ある球技のチームをたたえるものでした。そのチームは、某会社の社員が大半を占め、監督もその会社のチームの監督が務めていました。

 

 監督とチームのメンバーたちが、どんなに一生懸命に努力して、金メダル受賞という栄光を勝ち取ったか。その並々ならぬ努力を児童たちに感動させる。そして、自分たちも頑張らなければならない、という気持ちにさせる。

 

 教科書を作った会社も、そしてその教科書を検定し、「合格」とお墨付きを与えた旧文部省も、そうした筋書きを想定していたことは、容易に想像できます。比喩的に言えば、出来レースです。

 

「はい、ありがとう、〇〇君。さて、みなさんは、このお話を読んで、どう思いましたか? 感想を聞かせてください」

 その直後です。先生は教壇から降り、机の間を縫うようにして、教室の空席に歩み寄り、机の上に据えられたテープレコーダーのスイッチを、カチッと押したのでした。

 

 手を挙げる児童はいません。やはり、テープレコーダーと、自分たちの背後に立ち並ぶ大人たちの存在が、教室内がいつもの打ち解けた気分になるのを妨げています。でも、ためらいがちに、ぽつぽつと手が挙がり、意見の発表が行われました。めでたし、めでたし。これで、先生の顔も立った。そんな感じで時間が過ぎていきました。

 

 そのとき、ある児童が手を挙げました。普段は割と無口な生徒です。いたずらも、よくします。通知表の「落ち着きがない」という項目には、1年生の時から、決まって印がついていた子でした。

 

「△△さんたちは、ずるいと思います。同じ会社の人たちが一生懸命に働いている間に、監督さんと練習ばかりして、お給料をもらっているのはおかしいと思います。オリンピックは、アマチュアの祭典だって、教科書にも書いてあります。練習は、他の人たちと一緒にお仕事をやった後からしたほうがいいと思います。プロ野球の選手たちとは違います。だから、この話は変だと思いました」

 

 もちろん、その子の話したことを、忠実に再現したわけではありません。ただ、その発言の趣旨からは、ずれていないと思います。発言に出てきた「△△さん」というのは、チームのキャプテンの苗字です。監督の名前とともに、国民的英雄として、その頃は全国的に知られていた人でした。昔の話です。今のように、オリンピックにプロが登場するなんて、考えられなかった時代の話です。

 

 教室内が、ざわめき始めました。話し声が聞こえてきます。話しているのは、児童たちではなく、教室の後ろに立っている20人以上の大人たちでした。その日の授業は、他校の教師たちが授業参観をする――何と呼ぶのでしょうか――研修会の一部だったのかもしれません。

 

 後ろから、こそこそ小さな声で話し声がするけど、何だろう? 後ろに近い席にいた、さきほどの発言をし終えたばかりの子は、思いました。顔を窓のほうに向ける振りをして、大人たちの様子をうかがいました。その子は、驚きました。大人たちが、しきりにうなずいているのです。笑みを浮かべている人もいます。険悪な雰囲気でないことは、直感的に分かりました。

 

 でも、その子は、少し心配でした。放課後に、担任の先生から叱られるのを、ある程度覚悟しました。小学6年生だと、それくらいの見当はつきます。やっぱり、ちょっとまずいことを言ったのかな? 

 

 幸いなことに、先生は、その子を叱りませんでした。当時は、そういう発言を許す教師たちが、多かったのかもしれません。現在の風潮を思うと、ちょっと考えられないような話だという気がします。そういう、時代だったのでしょうか。それとも、教職員の組合が強い時期だったのでしょうか。

 

 そういえば、こんなこともありました。

 

 確か、自分が小学3、4年生の時です。学校で、学年別に映画鑑賞に出掛けた日のことです。ディズニー製作のアニメーション映画でした。午前中に映画を見終えて、児童たちは学校に戻りました。給食の時間が過ぎ、午後からの授業は、映画の感想をクラス内で話し合う時間になりました。

 

 いい映画だった。いろいろな動物たちが出てきて楽しかった。自分は出てきたうちではウサギがいちばん好きだ。絵がきれいだった。動きが自然で感心した。意地悪な人間が出てきたのが嫌だった。中には悪い動物もいたけど、やさしい動物がたくさんいて感動した。あんな世界で暮らしてみたい。

 

 クラスの児童たちからは、だいたい、以上のような感想が出ました。ある子が、挙手もせず着席したまま、こんなことを話し始めました。

 

「動物なんか、一匹も出なかった。全部、人間みたいだった。だって――」

 

 教師は、その子の発言をさえぎりました。幸い、その日は、ありませんでしたが、その子は担任のその男性教師から、頬や腕をつねられたり、閉じた教科書の背で頭を叩かれたことが、数えきれないほどありました。

 

 担任からは、嫌われていましたが、その子は他の子たちからいじめを受けることはありませんでした。普段はあまりしゃべらないけど、いたずらはよくする。時々突拍子もないことをポツリとつぶやき、みんなを笑わせる。そんな子でした。

 

 教師から発言をさえぎられた子と、さきほどテープレコーダーの作動する部屋で発言をした子は、同じ子です。発言をさえぎった教師は男性、話し終えるまで発言をさせた教師は女性で、別人です。

 

 現在では、もういい年になったその子は、5年生になって出会い、2年間担任だったその女の先生に、今も年賀状を出しています。先生からは、返事という形で1月5日前後に年賀状が来ます。でも、今年は来ませんでした。そのことが、気にかかってなりません。

 

     *

 

 話はがらりと変わって、きのうの夕方のことです。

 

 ネコ(※うちの猫の名前です)に顔をひっかかれて、目を覚ましました。きのうは、調子が悪くて、処方されたお薬を午後3時頃に飲んで、居眠りをしていたのです。ネコが部屋に来てくれたことが嬉しかったのですが、ぎょっとさせられました。

 

 枕がわりに使っているクッションの脇に、すずめの死骸があったのです。これに似た経験は、何度もしたことがあります。昆虫だったり、爬虫類だったり、小鳥だったりします。でも、冬のすずめは、初めてです。

 

 こういう猫の習性は、一種の「お土産」や「贈り物」だと言う人がいます。「お土産」や「贈り物」だという説を、自分は「戦利品」の類、あるいは、ヒトへの好意で持って来るもの、という意味で解釈しています。

 

 本当のところは、分かりません。猫の気持ちなど、ヒトに分かるわけがないと思っています。ヒトは猫の行動に、ヒトの行動や感情を当てはめる。あるいは、ヒト以外の動物に、その動物特有の「習性」という「物語=神話」をでっちあげて、こじつけるだけだ。そう、考えています。

 

 で、きのうの夕方の話ですが、ネコは、すずめの死骸には、もう一向に興味を示さない。つまり、ほったらかしで処理をしてくれません。

 

 しかたなく、薄暗い中を、狭い庭に出て、冷たい土をシャベルで掘り起こし、少し深めの穴の底に、すずめの亡がらを置き、土をかぶせました。ネコが、あるいは他の猫が、掘り起こすといけないので、自分の拳の3倍くらいの大きさの石を見つけきて、それを埋めた穴の上に据えておきました。

 

 夕餉(ゆうげ)待ち すずめ葬る 冬の庭

 

 夏目漱石の作品に「猫の墓」という小品(=掌編)があります。記憶に間違いがなければ、漱石の娘が、死んだ老猫の墓を作り、それを供養して、確か供えたお椀か何かの水を飲むという、ストーリーだったと思います。すずめを埋めた土の上に石を置いた拍子に、その小品のことが頭に浮かびました。

 

 無意識のうちに、手を合わせていました。漱石の小品の中でも、漱石の娘が手を合わせるシーンがあったはずです。合掌しながら、なぜか『吾輩は猫である』のラストシーンを思い出しました。依然として名のない猫が、酔っ払って水がめに落ちる場面です。前にもこのブログ日記で書きましたが、うちのネコは水をあまり怖がりません。だから、ネコが出掛けるたびに心配しています。

 

 さきほども書きましたが、ヒトは他の生物の行動や姿に、ヒトの行動や表情を読みとる習性があります。日曜の朝に、NHKテレビで、自然とそこに住む生き物たちの映像を集めた番組が放映されることがあります。音楽や音だけで、ナレーションがほとんどないものもあれば、少し解説が少し入るものもあります。

 

 自分は難聴者なので、あの種の番組を、たいていミュートにして見ます。どっちみち、音や声がよく聞こえないので、同じことなのです。水中で生息する生き物などは、あまり鳴かないというか、テレビでもその音声を流さないようですが、陸上に生きる鳥や動物などは、割と高めの声で鳴くことが多いようです。残念なことに、自分の場合には、特に高い音域が聞こえにくいのです。

 

     *

 

 エンヤという歌手に、興味があります。すごくきれいな高音で歌うと聞き、ぜひ、その歌声を聞いてみたいと思っていました。

 

 少し前のことですが、新聞のテレビ欄でエンヤが出演するという番組を見つけ、楽しみにしていました。それで、その番組を見ていて彼女が歌い始めた時に、思い切り、テレビの音声のボリュームを上げたのですが、駄目でした。バック音ばかりが、ボンボンと低くリズミカルに響くだけで、歌声はほとんど聞こえませんでした。でも、映像がきれいだったのが印象に残り、それだけで満足しています。

 

 難聴は、なかなか健聴者の方にはわかってもらえないことが多いです。以前、このブログで難聴について書いた「聞こえるけど聞けない言葉 」2009-01-10という記事を、お読みいただければ嬉しいです。

 

 で、生き物たちの生態を映した番組に、話を戻しますが、ミュートにして見ていると、いろいろな発見があります。音が聞こえない分だけ、映像に集中できます。いつも思うことなのですが、どの生き物もビクビクしながら生きていますね。このブログ日記で、最近テーマにしていた「知覚する」という行為です。

 

 あたりの様子を、すごく気にしながら、生きています。当然ですよね。弱肉強食の世界に生きているんですから。のんびりなんか、していられません。とにかく、常にビクビクしている。それに、動きが速い。小動物、たとえば、うさぎ、ねずみ、りすなどの仲間たちは、ものすごく機敏な動作をします。

 

 10年以上も前のことですが、ジャンガリアンハムスターを飼っていました。当時は、今いる実家ではなく、賃貸マンションに住んでいました。ハムスターを、よくケージから出し、床に放して遊ばせましたが、その走るさまを見ていて感心しました。体の大きさ(=小ささ)と、走る距離を比べてみると、F1並みのスピードで走るんです。参りました。思わず、尊敬してしまいました。

 

 小動物は短命なので、悲しい思い出があるのですが、今、はーのすけちゃん(※飼っていたジャンガリアンハムスターの名前です)の走る姿を思い浮かべたら、何だか元気が出てきました。何しろ素早くて、走る様子が格好いいのです。

 

 BBCという英国のテレビ局が制作した生き物の番組は、よく出来ていて、感動します。BSで、放映されていますね。ただ、解説があまりにも出来すぎている感じがしませんか? ちょっと、ヒトの思い入れが強すぎるように思えます。勉強になることは多いのですが、そこだけが気になります。

 

 あの番組も、ミュートで見ると印象が、がらりと変わります。言葉による解説から得られる情報とは、違った発見があるのではないかとも、思います。

 

 生き物の番組に限らず、どんな番組でもかまいません。音を消して、ご覧になると、思いがけない発見がありますよ。バラエティー番組などをミュートで見ていると、登場する人たちの間の目配せや、ちょっとした表情なんかが、クローズアップされて見えます。

 

 スタジオ内の人の位置、雰囲気、隠れた空気(※「その場の空気が読めない」の「空気」です)を始め、音を聞いていては、おそらく音に気をとられて、見えない物や出来事が、きっと見えます、または「読めます」。目と耳の関係って、意外と奥が深いような感じがします。

 

 バラエティー番組は、特にうるさいですね。画面の下に字幕もよく出ます。自分は、カレンダーの裏の白い面を折って作った、紙切れを持っています。それで字幕を隠し、音を消して番組を見ることがあります。もちろん、健聴者である親がテレビを見ていない時ですけど。

 

 いつもとは、視点や、やり方を変えてみる。それで、世界が変わって見えたり、感じられる。おもしろいですよ。虫眼鏡を使って、写真、新聞、雑誌、パソコンのモニターなどを拡大してみるのも、けっこういい気晴らしになります(※この点については、「目は差別する」2009-01-11に書きました)。だまされたと思って、ちょっと試してみませんか?

 


09.01.25 架空書評 : 彼らのいる風景

◆架空書評 : 彼らのいる風景
2009-01-25 11:57:52 | Weblog

 

( ※以下は、架空ブックレビューです。評者名を除き、書名、著者名、出版社名、定価は、すべて架空のものです。間違っても、アマゾンなどで検索なさらないよう、ご注意願います。)

 

書名: 『 彼らのいる風景 ―― where they are ――』 緑野 京二著、山の手書房新社刊、1,238円+税

 

 本日、ご紹介するのは、純文学系の文芸雑誌に連載された短編を集めた、緑野京二氏の2冊目の本。最近では、純文学とエンターテインメント小説との境が、曖昧になってきているのは、ご承知の通りである。この作品は、すんなり読めた。ただし、読後感は複雑だ。タイトルにある「彼ら」とは誰なのか? 複雑な思いは、それと関係あるらしいと、後で気づいた。

 

 全部で7編が収められているが、次の、3種類に分けることができると思う。(1)三人称で一視点のもの、(2)三人称で一視点のストーリーに、ラスト近く、あるいは途中で話者である「私」が登場するもの、(3)「私」の語るストーリー。

 

 以上の中で、私が特に気に入った3編を、以下に取り上げてみたい。

 

★「 反・少女 」

 

 ある地方都市に住む女子高校生が、ビデオショップから出てくる場面から始まる。店を出て、帰ろうとしたところを、男に呼び止められる。2人は短い会話をする。季節は冬で、女子高校生は、ダッフルコートを身に着けている。髪も短い。ヘアスタイルは、男子の間で流行っているものを、自分で真似たらしい。「やっぱり、女の子か?」と、男は苦笑いをする。

 

 女子高校生の名は、真琴(まこと)という。真琴は、どうして自分が女だと分かったのかと、男に尋ねる。声で分かったという。真琴が男装しているつもりだということが、この辺りで分かる。ダッフルコートを着ているのも、体型と胸を隠す意図があったらしい。ショルダーバッグは、兄のもの。普段なら、外出時には履かないスニーカーも、男の子に似せるためなのだと、心理描写される。

 

 そそくさと男が去ろうとするのを、真琴は追いかける。もっと話がしたいのだ。「大きな声、出すわよ」と脅すと、男は「しょうがねえなあ」と言い、真琴をビデオショップの斜向かいにある、雑居ビルの一室に連れて行く。そこは、オフィスらしい。応接セットのソファに座るように言われた真琴は、男の行動を見守る。男は、ソファから離れたデスクに置かれたノート型パソコンのモニターを眺めている。2人の間の会話がかみ合わず、おかしい。真琴は、男性間の性愛に興味を持っている。男は、そのことには興味がないらしい。真琴は、その男が男性に性的な関心を抱いているのだと思い込んでいる。しかし、男の関心は、そこにはないようだ。

 

 男は、真琴にモニターを見せたがらない。真琴は、またもや「大きな声、出すわよ」で男を脅し、モニターの映像を見るのに成功する。真琴のショルダーバッグ内には、DVDが3枚入っている。さきほどのショップで買ったものだ。その店内の様子が、モニターに映し出されている。インターネットに接続するものだと真琴が思い込んでいた、パソコン脇の小さな器械。それには、アンテナがついていて、どうやら、あの店に設置された防犯カメラとパソコンを無線でつないでいるらしい。

 

 モニターを見ていて、真琴は気づく。その店は、成人向けのビデオやDVDばかりを売っているが、画面には奥の一角だけが映し出されている。男性や男性同士が被写体になっている商品専用のコーナーだ。防犯カメラの位置は、店内に入って、チェックしておいた。あのコーナーだけを写しているカメラなどなかったはずだ。隠しカメラに違いない。

 

 真琴は、男からいろいろ聞きだそうとする。男は半分居直った口調で、真琴の質問をのらりくらりとはぐらす。その会話をここで全部再現できないのが、残念だ。滑稽でもあり、悲しくもあり、怖い。尿意を催した真琴は、「わたし、帰る」と告げる。オフィスのトイレを借りれば、中に監禁されるような気がして、怖くなったのだ。男は、しばらく考えるような表情を見せ、「おまえ、高校生だろ。学生証はないか」と低い声で言う。真琴は、歯科医院の診察券を見せる。男は、医院の名と真琴の氏名をメモする。

 

 外に出た真琴は、急ぎ足でトイレのあるデパートの方角へと足を向ける。そのとき、背後から男の声がする。「失礼ですが、お話を聞かせてください」。男が2人立っている。背の高いほうの男が、上着の内ポケットから黒い手帳を差し出す。もう一方の男はしきりに、真琴の胸のあたりを見つめている。

 

 ここからが、おもしろい。改行の後、場面がいきなり変わる。「それで、わたし、駐車場に連れて行かれて、その刑事さんたちが停めていた車の中で、あのビルにいた男のことをいろいろ聞かれたわけ」と、真琴が「私」に向かって話している。場所は、バーに変わっている。さきほどまでのストーリーは、真琴が数年前の体験を、語っていたもので、「私」がそれに耳を傾けていたという設定になる。

 

 この種の語りの方法は、珍しいものではないが、うまく処理しないと、読者が興ざめする。その点、作者の手腕は確かだ。抵抗なく読めた。

 

 そうして場面は、バーで飲んでいる男女、つまり真琴と、語り手である「私」とのやりとりへと転換する。既に成人した真琴は、男装とまではいかないが、中性的な格好をしている。「恐喝していたのよ、あいつ。店の経営者と組んで」。真琴はそう言って、バーテンダーに声を掛け、ジントニックをお代わりする。

 

★「 セレブリティ 」

 この短編集全体の話者である「私」が、のっけから登場する。ちなみに、「私」の名前は、どの短編にも出てこない。ただ「私」と記されるだけだ。いろいろな人物と会話をするが、名前で呼ばれる場面もないため、正体がつかみにくい。これは、作者の意図だと思われる。断片をパズルのように組み立てると、次のような人物らしい。

 

 年は45歳くらい。何らかの病にかかっていて、日に何度か複数の薬を飲んでいる。その病気が何なのかは意味深である。読んでいるうちに、勘のいい読者であればぴんと来るはずだ。ここでは私見は書かないでおこう。かつては、心理カウンセラーとして大学病院の精神科に勤務していたが、現在は、臨床心理家の資格を目指す人たちを養成する塾で教えている。「今は体と心がもたない」と言って、カウンセリングは行っていない。

 

 その「私」が名古屋に行く用事ができて、東京駅の新幹線のホームを歩いていると、始発の列車の中から窓越しに大きく手を振る者がいる。知り合いの男だった。「私」は、自分の予約した指定席があるのとは違う、その車両に乗り込み、男に挨拶をする。おしゃべりなその男は、次々と共通の知人の話や世間話をする。「私」は、車内に入った以上、あとは席を移動するだけなので、安心してその男の話の聞き役になる。

 

 2人掛けの窓側の席が、男の指定席だった。通路側の席に着こうとした若い男に千円札を握らせて、「私」から指定券を奪い、若い男のものと交換する。状況判断が素早く、気が利き、頭の回転が速そうな男だ。その男が早口で話しまくる。この短編の約3分の1まで来たところで、ようやく列車が動き始める。ぎりぎりで車内に乗り込んだ客たちが、通路を行き来する。突然、「あっ」と、男が叫ぶ。ある女性の芸能人と、そのマネージャーか付き人らしき男女が、通り過ぎる。

 

 男は、女性用のブランド物のハンドバッグから、手帳を取り出し、何やら書き付けている。「私」が遠慮して、前方に目を向けていると、「ねえ、見て」と男は、皮で装丁してある大きめの手帳を「私」に見せる。よく見ると、手帳の前半のページにはたくさんの紙が貼れている。古い紙だ。その手帳の2分の1ほどの大きさの古い手帳を解体し、新しい大きな手帳に糊で貼り付け合体せて1冊にまとめてある。そのため、手帳全体が、異様に膨らんで見える。

 

「これねえ、あたしの宝物なの 」。男は、18年前の15歳の時に上京したという。生まれも育ちも、三重県の北部。高校に進学したが、ゴールデンウィークを利用して、上京したのをきっかけに家出状態になり、それ以降東京で暮らしてきた。寝る場所や食べることには、全然困らなかった。「あたしって、かわいいでしょ。お金の心配はしたことなかったの。ある時まではね」

 

 若くてかわいかった少年時代のその男は、驚くべき数の男性遍歴を経てきた。男は、「私」を相手に回想を語る。さまざまな男性との出会いや付き合い、そして別れ。その間に挿入されるのが、東京で見かけた有名人の話だ。手帳にはそうした有名人たちの名前と、見た場所、日付、時間帯、その人物がどんな格好で何をしていたかが、メモされている。

 

 タレント、歌手、俳優、政治家、スポーツ選手、キャスター、アナウンサー、コメンテーター、評論家、モデルといった人物を見かけた時の様子が、男の話を通して簡潔に描写される。「ねえ、原宿駅に専用の駅があるって、知ってた?」という具合に、皇室の人たちまで出てくる。途中から、男は、急にしんみりとした声になり、今、新幹線に乗っているわけを話し始める。1年前に、ある親しい友人が亡くなったこと。最近、体調がよくないこと。そしてカードローンの返済が、かなり切迫した問題になっていること。

 

 2人は、名古屋駅で下車する。「私」は、ある学校に行く予定がある。男は、私鉄に乗り換えて、三重県にある実家へと向かう。別れ際になって、「あっ」と、男が声を出す。ある女性歌手とすれ違ったのだ。十代でアイドルとして一世を風靡したのち、結婚を機に芸能界を引退。10年ほどの空白を経て、最近歌手としてデビューした女性だと、「私」は思い出す。さっそく、手帳を取り出してメモし終わった男が、顔を上げる。真剣な表情をしている。「あの人、あたしが最初に東京で会った有名人なの」。男は、「私」に手帳の1ページ目を見せる。黄色くなりかけた紙に、稚拙な字が躍っている。「あたし、やっぱり、東京にもどる。引越しセンターに電話しなくちゃ」。立ち尽くす「私」を残して、男は精算所の窓口へと急ぐ。

 

★「 再訪 」

 46歳の埼玉県警の刑事が主人公である。だが、ミステリーではない。全体が三人称一視点で書かれている。「私」は登場しない。その刑事が容疑者を追って、都内の警察署を訪れるシーンから始まる。どこの警察署かは、明記されていない。刑事は、容疑者が訪れる可能性が濃厚な場所として、ある地域を予想し、そこで聞き込みと捜査を行うつもりでいる。よその警察の縄張りに足を踏み入れるわけだから、当然挨拶が行われる。連れの30代の刑事を伴い、所轄署の所長に挨拶をしたのち、交通課にいる1人の警察官を訪ねる。

 

 その53歳の警察官は、以前は少年課の刑事だったが、家庭内の不和と離婚により、現在は交通課に回された形になっている。少年課では、自らの所帯をきちんと維持できない人材は要らないのだという。そんなもので、あろうか。刑事は連れに指示を与えて、ある場所へ先に行かせ、その警察官と2人で外に出る。東西に走る大通りを歩きながら、2人は過去の話をする。

 

 刑事の息子が高校2年生のとき、夏休みに上京し、この警察署の管轄である地域で数週間生活していたことが分かる。学校が休みとはいえ、家出には違いない。刑事は、家を出た息子の部屋に入り、「がさ入れ」をし、息子の秘密を知る。休暇願いを受理された刑事は、息子を捜すために、この地域に来る。もちろん、職場には別の理由を伝えてあった。その時に知り合ったのが、今一緒に駅の方角に向かって歩いている、当時は少年課にいた警察官だった。

 

 刑事が追っている容疑者の立ち寄りそうな個所を、2人は一通り見回る。何回か、警察官の携帯電話に連絡が入る。警察官は生返事をするだけで、署に戻ろうとはしない。気を使う刑事に対し、「形だけの業務連絡さ。おれのする仕事なんか、あそこにはない」と警察官は言う。刑事は連れと携帯電話で連絡を取り、合流する。埼玉県警の2人の刑事が並んで、署に戻る警察官を見送る。

 

 その日は金曜日。2人は南北に走る仲通りにいる。男、男、男――。女の姿は、ほとんど見られない。夜のとばりが下りるにつれて、男たちの数が増える。ところで、さきほどこの短編には「私」は登場しないと書いたが、正確ではない。路上に立ったり、行き来したり、歩道でしゃがみ込む男たちや少年たちを描写した部分で、一度「私たち」という語が出てくる。作者の誤記であろうか。それとも意図しての記述であろうか。ところどころに書き手の「たくらみ」めいたものが目につく短編集なので、後者かもしれない。ストーリーに戻ろう。

 

 年下の刑事は、仲通りの南半分とその路地を受け持ち、年上の刑事は北側を見張る。年上の刑事の心理が、ジェイムズ・ジョイス張りの「意識の流れ」の手法で描かれる。この辺が、いかにも純文学っぽい。読みにくいとも言える。3年前の息子の家出と、その後の息子とのぎこちない関係。息子が東京の大学に進学が決まった際に抱いた複雑な心境。26年前に1度だけ、この界隈を訪れた時の記憶。1度きりの苦い経験。

 

 張り込みにあたる刑事は、対象を監視したり捜したりするだけでなく、いろいろなもやもやしたことを頭に浮かべながら、数時間、時には十数時間も過ごすのだろう。数ページにわたる、刑事の心理と回想を読みながら、そんな感想を持った。いささか退屈な「意識の流れ」が中断し、読む者ははっとさせられる。仲通りのほぼ中間に位置するビデオショップ兼本屋のような店の近くの歩道に立ち、ビラを配っている若者が登場する。よく見ていると、右足が少し不自由なのが分かる。

 

 刑事は、その20歳前後の若者に見入る。近づくことはできない。若者からビラを受け取る男たちは少ない。若者は、何やら声を掛けながら、ひたすらビラを配り続ける。1人の中年の男が立ち止まり、ビラを受け取ったあと、若者に話し掛ける。2分ほどして、男は若者の腕を引っ張る。刑事の両手が拳を作り、今にも走り出しそうになる。しつこい男は大笑いをして、ようやく若者から離れる。

 

 私なんかは、こういうくだりを読むと、父子の再会などという、展開を予想してしまうのだが、そうはならない。これも、純文学だからか。揶揄(やゆ)したくなる。刑事の携帯電話が鳴る。県警本部から、容疑者が県内で見つかったという知らせだった。駆け寄る連れの刑事と共に、刑事は仲通りを南に急ぐ。数時間前に別れた所轄署の警察官に、携帯電話で事情を話し、礼を言う。大通りを右に折れ、西にある駅へと向かう。

 

 以上の3編以外に、印象に残った作品は、次の通り。女装バーで働く息子から、テレビに出るという電話をもらい、番組が放映される日に酒を飲みながら、番組開始を待つ母親を描いた「 リハーサル 」。とある「拠点病院」を囲むようにして、点々と住んでいる人たちの交流や争いを淡々とした筆致で描いた「コロニー」。この2作がよかった。

 

 全体を通しての感想として、純文学の書き手特有の、技巧に走る面が目についたことを指摘したい。中には、「あざとい」と評価されかねない個所も、いくつかあったが、作者の意欲的な創作態度として、私は歓迎する。

 

 さて、冒頭でも書いたが、「彼ら」とは誰であろうか? 以上のあらましをお読みになれば、いくつかの語が返ってくるのは確実である。英語から入った語もあれば、日本語もあれば、蔑称もあろう。本書を読み終え、書評を書こうとして、はっと気づいたことがある。おそらく、この短編集の読者が「彼ら」という語の意味として挙げるであろう、いくつかの語が1つも、いや、1度たりとも、使われていないのである。まさか、と思って、全ページをざっとめくってみたが、私の見た限りでは、全く見当たらない。

 

「彼」という語は、本来は男女両方を指す代名詞であった。古文を読む場合には、納得済みだから、違和感はない。だが、ある時、少々戸惑いを覚えたことがあった。高校時代であろうか、国語の教科書に載っていた、森鴎外の『舞姫』の一部を読んでいて、ぎくりとした。この作品は、鴎外のドイツ留学時代の思い出が色濃く出ているフィクションである。その中に登場する、貧しい踊り子エリスという少女を、「彼」と書く場合があり、その度に違和感を抱いたことを、今思い出した。

 

 それはさて置き、本書のタイトルにある「彼ら」である。この「彼ら」を、指す例の語たちが1つも見当たらない。それらは、場合によっては差別語にもなる言葉である。それが書かれていない。これは緑野氏の「たくらみ」であろうと、私は推測する。もし、そうなら、この本には、あるメッセージ、ないし決意が込められていると言えるのではないか。

 

 この本に出てくる「ある種の語で呼ばれる人たち」は、名付けられることを拒否している。既成のレッテルを貼られて、先入観で自分を判断されることを拒否している。読みすぎであろうか? 私は、作者の「たくらみ」を勝手に推測し、その意図に敬意を示す意味で、この書評の中でも、その類の語を一切使用しなかった。いずれにせよ、職人の手で丹念に細工された工芸作品に似た趣(おもむき)のある短編集である。

 

                           < 評者 : 孟宗竹真(もうそうだけまこと)・ 詩人 >

 

 当ブログで 「不定期」 に書評を掲載するというお約束をしている、孟宗竹真氏ですが、毎週原稿をお送りいただき、その律儀さと人情の厚さに、深く感謝しております。

 

 書評のバックナンバーは、第1回目「 架空書評 : 狂った砂時計 」 2009-01-13、第2回「 架空書評 : 何もかもが輝いて見える日 」2009-01-18です。今回の記事と、あわせてお読みいただければ幸いです。

 

 なお、当ブログのバックナンバーに、短い解説とキーワードをつけた、「こんなことを書きました(その1)」2009-01-19」にも、お目を通していただければ、嬉しいです。

 

 孟宗竹さん、今回は長い書評をいただき、どうもありがとうございました。今後も、よろしくお願いいたします。 (パ)

 

【注: 最後の行末に(パ)とあるのは、このブログ記事を書いていた時期の、私のハンドルネームが「パリス・テキサス」だったからです。】

 

 


09.01.26 交信欲=口唇欲

◆交信欲=口唇欲
2009-01-26 10:37:38 | Weblog 

 

 突然ですが、「交信欲(こうしんよく)=口唇欲(こうしんよく)」について、書きたいと思います。哲学したいと思います。先週の記事で、紹介した言葉です。いえ、別に、難しいことではありません。簡単に言えば、

 

「他の人と、つながりたーい」「他の人と、言葉をかわしたーい」「他の人と、文字をかわしたーい」「他の人と、映像をかわしたーい」「他の人と、心をかわしたーい」……

 

という、ヒトのごく自然な欲求です。つまり、「おしっこがしたーい」「うんちがしたーい」「ご飯が食べたーい」「あの人をぶんなぐってみたーい」「眠りたーい」と、同じくらい「自然な」欲求です。ふざけてなんか、いませーん。念のため。現に、以上のどれが欠けても、ヒトは生きていくことができない、重要な欲求だからです。そのような大切なことについて、冗談なんか言えません(※少しだけ、「書く」かもしれませんが)。

 

 分解して説明すると、

 

(1)「他の人と、〇〇をかわし、その行為をきっかけに、つながり」=交信=口唇=つながる=かわす=~しあう=相互=まじわる=くちびる(※唇は必ず「何か」と接する部分です。接する行為以外に目的はない、とも言えます)

 

(2)「たーい」=欲=欲求=欲望=願い=煩悩=本能=祈り=~やりてー=~したいわ=したい

 

ということになります。

 

 既に、お気づきの方もいらっしゃると思いますが、きょうは、ちょっと気分を変えて「フロイト」しています。あるいは、「ジャック・ラカン」しています。フロイト、ラカンについては、グーグルなり、または、いきなりウィキペディアで、お調べになってください。

 

 ただし、お調べにならなくても大丈夫なように、書いていくつもりです。ご安心ください。なお、「ジャック・ラカン」を検索すると、頭がぼーっとなったり痛くなる恐れがありますので、そんな気配がしたら、こりゃアカンということで、即、ご愛用のポータルサイトにでも、逃げ込むことをお勧めします。

 

 蛇足ですが、「ユング」は、当ブログでは、出てこない予定です。これから先、ぜんぜん、出てこないとは、言いきれませんけど――。ユングファンの方、すみません。「あんたに、ユングを出してほしいなんて、誰も頼んじゃいねーよ 」。ああ、またもや、幻聴! ジャック・デリダ氏とマラルメ師を、きょうお招きしなかった、罰(ばち)が当ったのでしょうか?

 

 フロイトとラカンは、エロくないと理解できません。エラくなる(=偉くなる)必要はありませんが、エロくならないと絶対に理解できません。一方、ユングは、エラくないと(=偉くないと)理解できません(※このあたりのオヤジギャグは、デリダ氏にちょっと助けていただきました)。

 

「ユング」するためには、宗教、神話、哲学などといった古今東西のいろんな知識も必要です。何しろ、集団的無意識=普遍的無意識=集合的無意識と呼ばれる、壮大な大風呂敷、いや、失礼、壮大な理論を繰り広げますから、自分のような怠け者にはついていけません。

 

 また、占い、霊、スピリチュアルなどとも親和性がある、つまり、仲がお良ろしいので、お金がかかってしかたありません。自分の場合、いろいろ訳ありの身なので、先立つものがございません。ですので、お布施も、お月謝も、鑑定料も払うことができないのです。要するに、「偉く」なければユングに近づくな、という意味だと勝手に理解しております。

 

 以上、別に喧嘩を売っているわけではありませんので、誤解なきよう、お願い申し上げます。

 

     *

 

 さて、さきほどの「交信欲=口唇欲」に関する分解説明の、(1)と(2)ですが、これも、おふざけだとは、思わないでくださいね。少し、エロいというか、エッチな感じがすると思われた方、正解です。ピンポンです。もう、「死語」ですか、ピンポンなんて? じゃあ、「死後」、復活させましょうよ。好きなんです。個人的には、あのピンポンという、間の抜けた響きが――。

 

 こうして、いつものように、時折ひとりダジャレを飛ばしながら、ジャック・デリダ氏とマラルメ師の顔を立て、お話を進めたほうがよさそうです。

 

 なお、デリダ氏とマラルメ師のダジャレについて、ご不明の方は、当ブログのバックナンバーである「やっぱり、ハンコは偉い」2009-01-17、「それは違うよ」2009-01-20、「ま~は、魔法の、ま~」2009-01-21、「なぜ、ケータイが」2009-01-22のうちの、どれか1つをお読みいただければ、幸いです。おススメは、このブログがダジャレとオヤジギャグに走る言い訳をしている、「ま~は、魔法の、ま~」2009-01-21です。

 

 で、さきほどの(1)と(2)の〇= 〇 = 〇……」ですが、キーワード、言い換えると、いちばん大切な言葉は、

 

口唇(=こうしん・くちびる)

 

です。小さいころを思い出してください。やたらと、その辺にあるものを口に入れませんでしたか? 赤ちゃんのころを思い出すと、一番いいのですが、そこまで、記憶のいい人は、まずいません。身近にいる赤ちゃんを思い浮かべてみましょう。

 

 お口に入れて、舌でなめなめ、唾だらけにする。これ、なんです。

 

「他者との触れ合い」とも、言います。生まれたての赤ちゃんにとって、最初の「他者」、つまり、自分でないものは、お母さん、あるいは、お母さんの代理になる人の「お乳=乳首=乳房(=哺乳瓶)」なのです。哺乳瓶を使う場合には、男性でもオーケーですね。

 

 でも、「他者」なんて難しい言葉や概念が、赤ちゃんにわかるわけがないですから、直感的、または本能的に、「自分とは違うみたいだけど、何だか、気持ちいい、離したくない」という気持ちを抱きます。「違うみたい」という部分が、重要です。要するに、「よく分かんない」んです。言い換えると、「不明」=「!?」。まだ、言葉なんて、しゃべれないのだから当然です。

 

     *

 

 ヒトは「未熟児」として生まれるって(※お気を悪くされた関係者の方、ごめんなさい)、聞いたことがありませんか? どんなに元気な子でも、「未熟児」として生まれてくるそうです。体だけじゃなく、頭も、そうなんですって。

 

 ええっ? 人間様が?  

 

という驚きを覚えませんか? でも、他の生物の赤ちゃんを見れば、納得できると思います。犬も、猫も、ゴマフアザラシのゴマちゃんも、生まれたての時から、ヒトの赤ちゃんより、ずっとしっかりしていますよ。そりゃあ、お乳は飲みますよ。目も開いていませんよ。母乳なしでは、ほんの数時間も生きられませんよ。それなのに、生まれた直後に、お母さんに全身を舌でなめなめしてもらって(※「舌でなめなめ」は、かなり重要な点です)、お乳をもらい、少し経てば、目を開けて、その辺を動きまります。やがて歩き回ります。

 

 その点、馬や牛なんて、立派じゃないですか? テレビで見たことありませんか? 生まれて間もないのに、もう、オトナづらしてあたりを歩き、ちょっと目を離した間に、走り出す赤ちゃんまでいるんですから。大したものです。

 

 それに引きかえ、人間様の赤ちゃんですけど、ちょっと、いや、相当頼りないですね。歩くまでに、どれだけかかると思います? 子どもを持ったことがないので、よくは知りませんが、かなり遅いですよね。他の生き物と比べて、ですよ。

 

 でも、ご心配は要りません。未熟児で生まれたと言っても、早産しただけであり(※お気を悪くされた関係者の方、ごめんなさい)、遅れながらもすくすくと育ち、いちおう他の動物たちにたちまち「追いつき追い抜く」ということになっています。めでたし、めでたし、人間様、万歳。

 

 で、口唇(=こうしん・くちびる)ですが、この「唇」という、上下1対の赤いチューリップ(※ tulips = two lips )が「他の人と、つながりたーい」「欲求の素(もと)」、「味の素」の素(もと)なんです。唇が上と下で計2ケあることは、非常に重要です。これと舌(※なめなめの舌です)が、あって声帯や肺や鼻の力を借りながら、ヒトは言語を獲得したのです。ヒヒーン、モーモー、キャッキャッと、たとえば「あいうえお、かきくけこ、さしす……」との、「分かれ」目です。お「分かり」いただけましたでしょうか? このことについては、後ほど。

 

     *

 

 ちなみに、

 

唇がさみしい、 

 

って、言う人が時々いますよね。自分自身は言わなくても、その気持ちって分かる気がしませんか? 手元のいくつかの辞書に、「唇がさみしい」が慣用句として載っていなかったので、ちょっと意外でした。俗語表現っていう、失礼な言い方がありますけど、それですかね? 自分は、「唇がさみしい」という気持ちが分かりすぎるほど、よく分かります。煙草は吸いませんし、吐き出しもしませんけど、よく分かります。愛煙家だけの特権じゃないと、思います、あの気持ち。

 

 人肌が恋しい、 

 

って、いうのにも、ちょっとだけ、似てませんか? こちらのほうが、ちょっと、オトナっぽいニュアンスがありますが。とにかく、「さみしい」「こいしい」という気持ちは、体感的に分かるような気がしませんか? 

 

 自分は、この「体感的に分かる」ということが、非常に大切なことだと思っています。頭ではなく、体で分かる。これこそが、現在のヒトが忘れかかっている、ヒトとしての大切な「たしなみ」ではないかとさえ思うのです。

 

 簡単に言うと、このところ、ヒトは「頭でっかち」になっていないだろうか? 「からだ」と「こころ」のつぶやきや叫びに、耳を傾けていないのではないか? だから、「病む」=「止む」(→「ヤムヤム」=「yum-yum」)という、「気持ちよくない」=「癒やされない」状態に陥っているヒトたちが多いのです。自分の場合、他人事ではないので、切実にそう思います。

 

 ところで、「分かる」って、字をよく見てください。「分」という漢字(=感字)が使われています。なお、「感字」については、漱石先生の「当て字」と関係がありますので、不明の方は、タイトルからして当て字を用いている「お口を空けて、あーん」2009-01-23を一読いただければ嬉しいです。もちろん、このまま読み進めていただいて、かまいません。

 

「分かる(=わかる)」=「別る」=「解る」=「判る」

 

 昔、松鶴家千とせ(※「しょかくやちとせ」と読みます。一時期、ビートたけし=北野武の先生だった人らしいです)という、お笑いの人が、

 

「わかるかなー、わかんねーだろうな、イエーイ」 

 

という、シュールなギャグを流行(はや)らせたことがありました。「松鶴家千とせ」で、ウィキペディアなどで検索していただくと、どんな人なのかが「解ります」。で、自分はけっこう気に入って、昔よく真似をしていました。

 

 あれは、なかなか「ベケットしていた」なあ、あるいは「吉田戦車していた」なあ、「ぼのぼのしていた」(※いがらしみきおさん、今、あなたはどこに?)、「マザーグースしていた」なあ、と、今になってようやく「判りました」。お「分かり」になりましたでしょうか? ここで「お別れ」なんて、嫌ですよ。もっと、交信しましょうよ、このさいですから(※何だか、乱れてきて申し訳ありません)。

 

 たった今、言葉の「身ぶり=運動」として、真面目かつ本気で「実践=実演=プレゼン」しましたように、「分かる(=わかる)」=「別る」=「解る」=「判る」という言葉は、「多層的=多重的」な「意味構造=コアイメージ」を持っています。

 

 こうした現象は、もとを正せば、上で述べた「交信欲=口唇欲」の結果なのです。言い換えるなら、「ヒト=狂ったサル」特有の習性であり、これなくして、「人類によるこの惑星の征服、および破壊」(=文明)は、あり得なかったのです。今の世界的大不況も、です。トホホな話ですけど、本当なんです。ガセやヨタじゃありません。

 

 自分は、本気です。正気とは言いませんが、本気です。

 

 またもや、ブログが長くなりました。この調子ですと、もっと長くなりそうです。「わかる」について、さらに書きたいのですが、「どうにも止まらない」状態になりそうな恐れがありますので、できれば、あすにでも、この続きを文字にしたいと思っております。

 

 ここまで辛抱して、お付き合いくださった方に、心からお礼を申し上げます。

 

 また、間違って、ケータイで、このブログに入ってしまわれた方、深くお詫び申し上げます。なにぶんにも長い記事なので(※きょうは、いつもよりも、かなり短いのですが)、ぜひ、パソコンで入り直していただければ嬉しいです。

 



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