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神憑りの女 

 大本から帰郷して外童子山で修行する清四郎は、六月には川から見事な自然石の岩笛を見つけた。大本では鎮魂帰神に使用された岩笛は、清四郎によって祝詞奏上の前に吹き鳴らす祭具と位置づけられた。神はこの岩笛は、岩木山の大神の授け給うものと告げ、この岩笛を吹き鳴らし、石に花咲く日まで待てと清四郎の神業の完成の道の遠き事を告げるのである。清四郎は、この岩笛の奏でる妙なる音色を耳にしながら、この長い立替への道のりの完成を祈った。

 この年の秋、外童子山で修行していた清四郎の許に、かつて病気直しをしてやった時に知り合った千田きよのがお礼参りにきた。体調が完全にまだ回復していないと、答えるきよのに清四郎は、一晩ゆっくりしていく事を勧め、きよのも同意した。

 夕拝の時、きよのは急に首を振り、合掌する手をブルブル震わせるなどおかしい様子を示した。しばらくして、正気に返ったきよのは清四郎に催眠術をかけたろうと、問いつめた。清四郎がそれを否定すると、後日立会人を連れて来るから、もう一度やれと、きよのは承知しなかった。

 数日後、立会人を引き連れてきたきよのに、清四郎が祝詞を奏上すると、首を振り出し神憑かり状態に陥った。

 初めて神憑りを目撃した時、清四郎は気が触れたものと思っていた。きよのはしばらく発動し体を上下に振っていたが、髪を解いてくれという仕草をするきよのの髪を解くと、きよのは口を開いた。

「我こそは、天之宇賣(あめのうずめ)命なるぞよ。八百万の神の代表として、本日ここに降り、汝との対面であるぞよ。今後は、如何なる時も八百万の神が汝の後ろだてとなり、この女の神憑かりを以て汝を教えに導くぞよ」

  天之宇賣命は、清四郎にこの地に引き寄せたのも、皆神の仕業ともつけ加えた。考えてみると、この天之宇賣命は鎮魂帰神では重要な導きの神とされ、かなりの高級神である。それが、一介の巷の修行もしていない女に降りたのは、普通の鎮魂帰神学では考えられない。

  審神としての知識もない清四郎に、果たしてきよのに神憑かった神が天之宇賣命と断言するのは、早計なことでないかと疑問視する人もいよう。なるほど、鎮魂帰神学では審神の重要な位置を占めており、この審神学の正否が神霊の判定のために必要である。多くの知識が必要な審神学を、小学校しか出ていない清四郎に果たしてそれが可能かという事で納得できないと、考えるのも無理もない。

  しかし、ここで審神という手順を経なくとも、きよのに憑かった神が高級神であるのを裏付けられるのは、大正九年にはきよのが三年後の旧七月二十一日から二十三日の間に世に大立替があり、多くの人が死ぬと予言。場所はいくら伺っても明記しなかったが、事実三年後の大正十二年旧七月二十一日に当たる九月一日、関東大震災が発生し、的中させており、その予言が正確であることが分かる。

  一般に狸、狐、天狗などの憑依でも失せ物、伺いでもかなり的中させる事はできるが、これらの憑依霊は自ら高級神の名を語り、予言めいた事を述べ、現実には当たる事もない。やはり、大本の鎮魂帰神でもなかなか高級神が降りず、多くは低級霊が多かったという例をみても、鎮魂帰神の修法の難しさがわかる。

  まして、日付入れでこの様な大規模の事件を予言し的中させる事はかなりの高級神でないと難しく、王仁三郎は日露戦争を的中、きよのも関東大震災を的中させているから、高級神が降りていると判断してもよいだろう。

  さて、きよのはこの神憑かり以後、清四郎に仕える事になり、翌十年三月八日の昇天までの六ヶ月間に多くの神器を神からの指示で降下するようになる。

 


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神憑かりによる神具の作成

 

 清四郎は、僅か六ヶ月間のきよのとの出会いで得るものは多々あった。まず、大正八年の旧四月十二日に山の神を祭った御堂につけていた鰐口の鈴を九回振る事によって、霊界を浄める遍照の鈴と定めた。次に、鶏頭の冠を作成させ、神界では大山祇大神の戴く冠である。その形は鶏の飛ぶ姿を模したことから「鶏頭の冠」と呼ばれ立替の時、大立替の時を告げる鶏を意味し、別名「北争戦化済みの烏帽子」とも言う。その冠を清四郎に被るように指示した。清四郎も立替に対して何か大事な使命を帯びているというのがこの烏帽子一つをみても知る事ができる。

 また、神界には百八十一段の神位がある事など、多くの神界の模様がもたらされた。この点は、本田親徳の鎮魂帰神も同様な見解を述べており、王仁三郎も同様な見解を示す。読者の中には、清四郎は単に大本の教説を借用しているのではないかと、考える人もいよう。

 だが、大和山の教義の方がむしろ詳しく、正確には大神としての座にあるのは百七十五段までであり、このうち百七十五段から百八十段までの五段が人間でも神としての座に入れる段である。そして、残りの百八十一段階は稲荷が神になれる。

 大本と類似しながら、大和山はそれを独自な見解で展開させ、大本とはまた別な形を取っている。なぜこの様に仕組みが似てくるのかという事については別の項で詳しく触れるが、それ程大本と大和山には深い因縁劇があり、そのために真似たように感じると云った方が正解であろう。

 しかし、大本も大和山も共通する点が多々ある。例えば、天津金木という神器も伝授され、その運用も指示された。この天津金木という神器は、大本でも当時使用しており、木の棒に五色の色を塗り、その運用によって神界の指示を仰ぐというものである。たが、この天津金木の運用は多種多用を極め、実際に運用するのにはなかなか大変なものであった。これは、王仁三郎が大石凝真素美という人から伝授されたといわれる。

 清四郎の天津金木は別名気運剣とも呼ばれ、その天津金木の写りとして五枚の硬貨に紙をはり、その表裏に字を書き、その組み合わせで神意を伺うようにかなり簡略化されている。そして、これを神界で使用できるのは大国常立大神ただ一神のみであり、この神器の特殊性が分かる。

 


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神紋をめぐる謎

  また、この時期から大本と同様の神紋を用いた時期があった。後年、これをみた宗教学者は大和山を大本との影響化の下にあると分類するが、これは大きな誤解である。

 まず、清四郎がこの神紋を定めたのは、月の廻りに九つの星が輝いていた事から九曜星を神紋に用いており、大正八年の旧八月二十三日の霊象をこの神紋にしている。

  大本では元々は神紋は九曜星であり、明治三十二年に九曜星を十曜星へ改めている。それも提灯屋神紋の数を間違えたのが契機である。その時、ナオのお筆先でそれで良い、真意であるとされ、それ以後十曜星を神紋として用いるようになる。

 しかし、このお筆先には大きな秘密が隠されていた。この神紋に関するお筆先が最初に出てくる箇所を引用する。

 

 上田(うえだ)喜三郎(きさぶろう)どの、よう大もうなご用をしてくださりたぞよ。そなたが綾部へまいりたのは、神の仕組がいたしてあること、なにごとがでけるのも、みな天であらためがいたてあることであるぞよ。九曜の紋を一つ増加(ふや)したのは、都合のあることであるぞよ。いまは言われぬ。このこと成就いたしたら、おん礼に結構をいたすぞよ。(以下略)

   

 このお筆先の通り、明治三十二年の七月十日大本となる前身の金神教の教会でナオがいつまでも金光教に世話になっていては、ナオの神が世に出る事もできないため、上田喜三郎(後の出口王仁三郎)が計り、艮の金神の金の字をとり、日の大神の日月を横に合わせ金明会を結社し、遷座祭を行った。 

  しかし、この時一つのハプニングが起こった。注文した祭典用の高張提灯が、提灯屋から届けられたが、その紋が指定の九曜星ではなく、十曜星であった。これに当惑した役員が、その指示をナオに仰ぐと、このお筆先が示され、神の指示のまま十曜星の神紋が用いられるようになった。

  しかし、ここにもう一つのエピ-ソドがこの神紋にある。これは、後年昭和四十年代に大和山を訪問した大本の幹部の一人伊藤栄蔵氏がご神前の神紋を見て語るには、この神紋が九曜星から十曜星に変わったのは、提灯屋が間違え、その指示を喜三郎に仰いだところ、いささかの叱責もないばかりか、「今に九曜が十曜になる時がくる」と云い、その場はことなきを得たという。

  すると、開祖ナオばかりでもなく王仁三郎もこの提灯事件の時、九曜から十曜星への変化を予期していた事になる。だが、気になるのは「九曜の紋を一つ増加したのは、都合のあることであるぞよ。」という一節で、ここでは省略したが、後の文章では喜三郎が来た事を「まことの人」として、喜三郎がナオの許に来た事をその理由としている。ところが、この神紋に関するお筆先の降下がこれで終わってはいない。

 

 九曜の紋は因縁ある紋であるぞよ。艮の紋が九曜で、出口の紋が抱茗荷、因縁ものの寄り合いで、めずらしきことがでけるぞよ。

  氏神さまの白藤も一対そろうたなり、こんど大もうな世の立替えを、梅で開いて松で治める。世界運否のなき世にいたして、世界おだやか、末ながき世。人民の心よくなれば、寿命も長くなるぞよ。

 (明治三十三年旧十一月三十日)

  

  この「九曜の紋は因縁ある紋であるぞよ。艮の紋が九曜で、出口の紋が抱茗荷、因縁ものの寄り合いで、めずらしきことがでけるぞよ」という一節が甚だ気になる。まず、この「出口の紋が抱茗荷」とは一体どの様な訳であろうか、出口家の家紋は「抱茗荷」だが、元々の藩主九鬼家への思慕から、九鬼家の家紋、九曜紋を神紋と定めていた。

   この年の一月にナオの末子スミと結婚、出口家の婿となった上田喜三郎の上田家は三ツ巴が家紋である。「艮の紋が九耀で」とは、後に大本の聖地となる本宮山には、かつて九鬼家の邸宅があった。

   この九鬼家は、かつては九鬼水軍として名高い鳥羽の城主九鬼大隅守嘉隆であり、その前の先祖は紀州熊野宮の別当職という家柄であった。かつての全盛時代には、伊勢鳥羽一帯を領していたが、関ヶ原の合戦で豊臣方に加担、九鬼嘉隆は切腹、子孫は丹波綾部に移封された。

  この九鬼家がナオのお筆先では「九鬼家との因縁が分かると、どえらいことになるぞよ、あいた口が塞がらんぞよ」とお筆先に示され、明治三十四年二月二十四日の神諭には「九鬼大隅の守九つの鬼の首九つを九曜の紋、九つが十曜に開いてしほれん花の咲く大本であるから、ちとむつかしきぞよ」とあり、王仁三郎の伊都能売(いずのめ)神諭』の大正八年七月十二日のものに「本宮山の御宮が建ち(おわ)りたら、九鬼大隅守の深い因縁が判りて来て、艮の金神の経綸(しぐみ)が判りて来るから、そう成りたら、夜が明て日の出の守護と相成りて、五六七(みろく)神代が天晴(あっぱ)れ成就いたすぞよ」とあり、大本と九鬼家の関係を示唆している。

  事実、大本も九鬼家も確かに九曜の紋であるが、その他奉祭神も一方が艮の金神、九鬼家も宇志採(うしと)()(こん)(しん)といい、名称が似ている。それ故に、大本も九家も双方が接近を試みた時期があったが、色々の紆余曲折の末、実現することはなかった。つまり、この九曜の紋を持つ家が二つ合流する事が、ナオのお筆先の云う本来の意味であったのであろうか。

  しかし、この九鬼家も三ツ巴が家紋である。

  その後、ナオのお筆先からはこの九つから十に移る、十曜の神紋に関する記述はしばらく沈黙が続くが、大正五年旧十一月にはそれを匂わせる様に記載されるものがある。

 

   日本の国ではただの一輪咲かけた梅の花の経綸で、万劫末代世を続かすのであるから人民にはわからんのも尤ものことであるぞよ。九つの花がさきかけたぞよ。九重の花が十重になりて咲くときは、万劫末代しおれぬ神国のまことの花であるぞよ。

   

 「九つの花がさきかけたぞよ」とは一体何を示すのであろうか。今までの沈黙を破り、九つの花が咲きかけたとは、何をいおうとしているのだろう。そして、ナオのこのお筆先に呼応するように、ナオの三女福島久が残したお筆先がその鍵を握っていた。福島久は、明治三十二年に神憑かり多くのお筆先を残すようになり、このお筆先は『日乃出神諭』と呼ばれ、この中にもこの九曜の神紋に関するものが、大正八年に降下されている。

   

 (前略)十曜の御神紋の因縁が判然と判らぬようなことでは、世界の統一ばでき致さんぞや。九つの花が十曜になりて開く時は、いかな鼻高も改心して、いかにも思いが違うておりたと申して、いかな悪魔も改心を致すぞよ。(中略)その九人の神で、九重と申して今度二度めの世の立て替えで、それが十曜に開いたら、それで三千世界が統一致すのであるぞよ。

  

  ここに、なぜ久が大正八年に十曜神紋に関するお筆先を示さなければならないのか、この年は清四郎が旧八月二十三日に月の廻りに九つの霊象を拝し、そして十曜紋を用いるようになる重大な年である。大正五年の時期に咲きかけ、大正八年には三女の久にこの神紋関する事を説明したお筆先が登場するのは、何を物語るのか。

  どうやら、この清四郎の霊象を拝する事件と符号しているような気がしてならない。そして、この清四郎の実家田沢家の家紋も出口家同様この抱茗荷である。そうすると、「出口の紋を抱茗荷」という一節もここにきれいに符号する。

  また「因縁ものの寄り合いでおもしろいことを致すぞよ」とあるように、この田沢家は近江の流れというから、上方の出身であるからこの出口家とどこかで因縁があるのかもしれない。ともあれ「九曜の紋は因縁ある紋であるぞよ。艮の紋が九曜で、出口の紋が抱茗荷、因縁ものの寄り合いで」とあるのは、正に十曜の紋を型どる大和山の教祖清四郎が抱茗荷の家紋であるというのが、因縁ものの集まりなのであろう。この大本と大和山との因縁劇はまだ多くあり、後の項でも徐々に明らかにしていく。

  読者の中には、ナオは本来桐村家の人間であり、養女として出口家の人間になったのであり、それがどうして田沢家と結びつくのだと反論しよう。確かにナオは、本来出口家の人間ではないが、この田沢家も清四郎の数代前には跡継ぎがいないため、青森出身の柿崎家から養子を入れ、現実的に血の系統は途絶えている。

  しかし、ここで大事な事は考えてみると、出口家、田沢家にしても本来の血統の相続から途絶えている事がわかる。では、なぜナオは出口家を相続しなければならなかったのか、それは出口家がこの艮の金神と深い因縁があるために、その家を霊的に相続しなければならなかった。出口家がどの様な意味で、この艮の金神と関わるかは後の方で説明する。

  大正十年三月八日、神伝者きよのは数日前の吐血を最後に意識不明となり、息を引き取った。神伝者を失った清四郎の衝撃は大きかった。遺品となったきよのの冠と衣類を三宝に備え、神に祈る日が続いた。かつて、きよのを通じて神は三年後には神の教えを授けるといったのにそれを実現させる事もなく、きよのは逝った。

  しかし、三宝に備えたきよの遺品が娘の都美子の見ている前で、火の気がないのに燃えて跡形もなくなったというのを聞いた時には、ついに悟った。きよのの役目は済んだのだ。だからもう必要ないという事で神が燃やしたのだろう。いつまでも落胆している訳にもいくまい。そう納得した清四郎は、病気直しを続けた、神の約束の三年間を終えるまで。

  そう気を取り戻した清四郎ではあるが、やはり気力は以前とは違って張りがなかった。そんな清四郎のために妻きさの水垢離をする日が続いた。

 (どうか、わが子の誰でもよいから神よ使い給え)

  ひたすら、きさは祈り続けた。

  とうとう二女一男の子供のうち、次女の都美子(法名・松蝶)に霊示があった、旧一月十九日に、神は教えを授けると。大正十一年のこの日、果たして前日、娘は目に字が写ると言い始めていたが、いよいよ本格的に見え始めた。そして、それを書かせたのが神からの教えの始まりだった。ついに、み神は清四郎の願いに応えた。これは「神奥集」と命名され、大和山の最初の記念すべき教典となった。

 


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