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太古の神の復活

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本州最北端に誕生した神

 これは平成二年の作品です。私が経綸を手掛けるきっかけとなった記念すべき作品ですので、その意味で記念すべき作品です。敢えて当時に近い形で刊行しました。

 本州最北端にある青森県に、神道系の教団松緑神道大和山がある。東津軽郡平内町外童子山に本部を置き、伊勢神宮に次ぐ境内地二千百町歩の山林を聖地に持ち、信徒数は約七万という教団である。

 立教七十二年という歳月の中で、この北国の町から十二キロも離れた山奥で現在まで教風を維持し続けた苦労は並大抵のものではない。現在では、山中に五層のコンクリ-トの建物が聳える威容は、山中の楼閣と表現してもいいだろう。ある宗教学者は、この山里に三百人余りの人たちと共に同じ神を信じ、そこに生活するこの場所が山の間の窪地にぽっかりと姿を見せるさまから、仙桃郷と称した。

 考えるに、この教団は人里離れた中で人々は同じように釜の飯を食べ、老いも若きも同じように給金をもらい、ここで結婚し所帯を構え、一つの神を信じ、今まで歩み続けた人たちばかりである。俗人の生活から離れた彼らはある意味では、仙人という名称にふさわしい人たちばかりかもしれない。

 彼らは、これから起こるという世の立替、大峠という険しい坂道を乗り越えるべき教えを信じ、歩み続けた人たちばかりだ。この北に閉ざされ続けた神が、今本当の正体を世にあらわそうとしている。

 では、この彼らが信じ続けた神とは一体何であろうか。そして、この神がどの様な仕組みで現れようとしたのか、そしてこの神の意図とは何であるかを明らかにするのがこの書のねらいである。

 


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老婆の神憑り

 

 明治十七年二月四日、深夜青森県青森市新浜町の近所で老婆が神憑り、野外に飛び出し叫んで歩く。

「この世に真の神が現れたぞよ。この神は世界を救う神であるぞよ」

 この老婆の叫びを、誰もが狂人の戯言と耳を貸す者は誰もいなかった。

 その夜、近所で一人の男子が誕生した。この子が後に松緑神道大和山教団の教祖、田沢清四郎である。

 それから八年後、明治二十五(一八九二)年節分の夜、丹波の綾部の町に住むひとりの老婆が、突然激しい神かがりに陥った。腹の中に何ものかが宿った感じで、端座したまま身体が上下に揺れ、大きな声で叫ぶ事十三日余りに及んだ。そして、ついにその腹中の主は老婆の口を借り自分の素性を明かす。

「艮の金神であるぞよ」

 その言葉を信じかねるとその声の主は容赦なく続ける。

「この神は三千世界を立替え立直す神であるぞよ。三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。この神でなければ、世の立替はできんぞよ」

 この神は、三千世界の大洗濯を行い、万劫末代まで続く神国の世にすると告げた。こうして、艮の金神を腹に住ませる様になった老婆は当初、気が触れたようになり大声で叫んで歩く奇行が絶えなかった。この老婆こそ、戦前の日本の宗教界で大きな波紋を投げかけた大本教の開祖出口ナオである。

 ナオの奇行が目立ったこの時期、たまたま不審火による出火が近所で起こり、放火の嫌疑を警察にかけられ逮捕、留置所に入れられてしまう。

 やがて真犯人が現れ、ナオへの嫌疑は晴れたが、時折気が触れた様になるナオをそのまま警察でも釈放する訳ではなかった。娘婿の大槻鹿蔵に引き取られたナオは、狂人として扱いを受け座敷牢に閉じこめてしまった。この時、ナオはこのまま大声を出してばかりではどうにもならぬから何とかしてくれんかと、神に哀願すると、神は牢内に落ちている釘を持てと命じた。釘を保つ手がなぜか不思議に動き、文盲のナオは自由に何か字のようなものを書いている。

 これが俗にいう自動書記であり、これ以後ナオは座敷牢を出て後、お筆先と称し半紙に筆で神の取次をするようになる。しかし、このナオに憑いた艮の金神とはどのような神なのであろうか、古くは家を建てる時、鬼門として艮の方をきらい、もしこの禁を犯して家の増改築などをするとその家に祟りを及ぼす祟り神として忌み嫌われてきた。 

 それ故に、金光教の教祖はかつて俗人時代に家の増改築によって家族が続々と病死し、自分も危うく一命を落としかけるのを、この神を祭ることで災厄を免れ、祟り神から人に幸福をもたらす神へと変わった。

 しかし、ナオのお筆先ではこの神は決して悪い神ではなく、三千年前にはこの世を治めていた尊い神であり、その神が何時しか多くの人たちによって祟り神として、恐れられ、封じ込まれてしまったという。この艮の金神こそ、国常立命であり、この世を再び善の世に戻すために、このナオの体に生宮として憑いたのだという。

 このお筆先を通じて一端おさまった筈の金神は、明治二十五年再びナオの口を借りて大声で叫んで歩く。

「来年は、唐と日本の戦いがあるぞよ。この戦は勝ち戦、神が陰から経綸いたしているぞよ」

 これを聞いた人々は一笑したが、その予言の通り日清戦争が起こり、周囲の目も変わり始め、このお筆先によって多くの人々がこの立て替え、立て直しの魅力に引かれ入信していた。ナオが昇天するまでの二十七年間の間に書き続けた量は、半紙十万枚という膨大なものであり、日本の民衆の中に大きな波紋を投げかける。

   そして、ここにも艮の金神の仕組みに導かれた人物がいた。


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手を触れるだけで病人を直す男

 

大正八(一九一九)年、北国の青森の小湊という町で一つの噂が町を賑わせていた。その噂とは手を触れるだけで忽ち、長年煩っていた病気を快癒させる人が現れたというのだ。

 その人の泊まっている旅館はたちまち押すな押すなの大繁盛。そして、報酬は無料というからよけい注目をうけた。年は三十六歳、面長で色黒の顔、真ん中にぬっと突き出た鼻にはどことなく気品が漂うが、それ以上に増して気骨を感じさせる鋭さが一重の眼の底にあった。患部に手を当て気合いをかけるだけ、その効能にまた衆人の注目を浴びた。この人物、名は田沢清四郎。後の松緑神道大和山教祖松風である。

 清四郎は、明治十七(一八八四)年、二月四日青森市の浜町で田沢長四郎を父、母すゑの間に生まれた。父は、清四郎が七歳の時に事業に成功。ある程度の裕福な暮らしのできる家庭になっていた。しかし、父が花柳界に出入りしそこで知り合った女を後妻に迎え入れ、清郎の生母を里へ帰し離縁した。そのために子供心に清四郎は、深い傷を受け、世の中の貧困者病者に対して哀れみの心を強くしていた。

 清四郎の心にそのような境遇の人間を救いたいと願う想いはどんどん膨らんでいく。

 明治三十八(一九〇五)年、きさと結婚し二男三女をもうけるが、一男一女は夭折している。大正五年、清四郎は横浜に妻子を放り投げ、上京してしまう。というのは、まず一つは当時父の家業の薪炭業を手伝っていたが、意見が父と対立し、これを契機に東京で財をなし成功し、父を見返すと同時にその富で貧困者、病者救済のための施設を建てたいという願いがあったためである。しかし、この三年の間に得たものは多額の借金であった。

 この清四郎の方向の転換は、横浜の戸塚の女行者の許を訪ねた時に決定づけられた。この借金をどうにか神の力によって、何とか打開したいと願っていた清四郎に初めて訪ねた女行者は、本日は不思議な事があったと話す。

「今日は、私に天照大御神さまがお降りになり、この青年はみどころのある若者だから、特に目を掛けるように、との霊示があった」

 このため、清四郎はこの女行者は色々と世話を焼き指導した。ある時、この女行者に連れられ、生麦の三ッ池に行った。

 清四郎はここで初めて不思議な光景を目撃した。三ッ池の上池の方で水面に色とりどりの玉がきらきらと輝いている。行者がこれは、この池に棲む若い龍神であり、私が祝詞を上げるのを聞き、一生懸命行しているのだとも告げる。

 この光景に清四郎は転換を決めた。若い位の低い神ですらこれだけの力を見せるなら、高い位の神ならどれだけの力を発揮するのか。こう考えた時清四郎は実業家として夢を捨て、神仏の力によって世の人々を救うと決め、郷里へ帰った。

 大正七年五月、清四郎の帰宅を父長四郎は、借金の無心に来たものと素直に喜ばなかった。しかし、一人息子を勘当する訳にもいかない父親は、当時赤字の薪炭事務所が東津軽郡平内町から十二キロの山中にあり、そこに現場監督という名目で放りこんでしまった。ていのいい島流しである。

 この地は、ブナの原生林が生い茂る山で江戸時代は、黒石藩の飛び地で、藩の管轄だったが、廃藩置県と共に人手に渡り本格的な伐採が始まり、多くの人夫たちで賑わっていた。しかし、この地に随分不思議な現象が現れた。赤い火の玉が現れ、飛び交ったという怪異談が出てきた。

 この冬清四郎はこの山奥で不思議な話を耳にする。事務所から約二キロ奥で働いている杣夫の息子坂本民四郎が、木の切り株を切ると、切り株ら男女二体の神像が出現し、その神像を手にした少年は、郷里に帰り今では祈祷屋を始め、これが又大変的中するという。

 これを耳にした清四郎は、他の事務所の仲間たちに呼びかけた。

「そもそも、山で仕事をする者は山の神を祭るのが習わしという、聞けばその神像の授かったという木の切り株は単に注連縄を張り、野ざらしになっているというではないか、それでは申し訳ないから、祠をお祭りしようではないか」

 この呼びかけに、他の事務所仲間も賛同した。そして祭る日を大正八年旧四月十二日に決定し、当日祠を祭るべくその地へ仲間たちと出かけた。発起人であった清四郎が、お祭りする御堂を持っていると、その側の小屋から男がやってきて、驚いた様子で尋ねた。

「あの何をなさるのでしょう」

「ここから神さまが授かったというから、ここに神さまをお祭りするところだ」

「どなたが、この件の発案者でございましょう」

「私だよ」

「恐れ入りますが、お幾つですか」

「わしか、今年三十五になったばかりだが数えで三十六かな」

「すみません。今何時でしょう」

「今か」

 清四郎は、懐中から時計を取り出し午後の三時だと告げた。男は驚いていた。

「なんだお前たち、警察みたいに尋問して」

 清四郎は、この男の態度が気になった。

「実は……」

 男は事の真相を語り始めた。この時、尋問するような尋ね方をした男は、あの神像が授かったという少年の友人であった。

 友人の語るところによると、最近にその少年の居る郷里から帰ってきたばかりだ。友人がその少年の許を尋ねると、なかなかお客も多く流行っている様子だった。そして、話題がこの霊験あらたかな神像のことになった。

「これだけ霊験あらたかな神さまのお授かりになった木の切り株を、ほったらかしにしておくのは神さまに申し訳ないんではないか」

 友人の問いに少年はあっさり答えた。

「なに心配するな、旧四月十二日午後三時、歳は三十五、六になる男がわれ神のために御堂を建ててくれる事になっている。そして、この男は今まで何千人とあの山に入った人の中で神がもっとも気に入った人である」

 友人は不思議にその時の話が耳にこびり付いて離れなかった。そして、その予言が果たして実現するかどうか興味を覚え、こうしてやって来たのだという。その予言通りに清四郎が現れた事を告げる。この場所は、後日奥宮と命名され、大和山信徒の重要な聖地の一つとなった。

 清四郎は、その予言でいう神の気にいられた人という言葉に心を奪われた。毎日のようにこの木の切り株へ足を運び、手を合わせる日が続いた。そして、それから数カ月後のある夜の事、自分の起居する小屋で不思議な声がした。

「我は月の神なるぞよ。明日は我が命日なるぞよ」

 あわてて外に飛び出し、声の主を探したが人一人姿形もなかった。

 翌日、夜の月を拝そうと月の出を待ったがどんよりとした雲が何時しか雨空となり、清四郎は床に入った。

 どれだけの時間がたったろうか、清四郎は夢か現実かわからぬ状態で窓の外から昇る月を見ていた。そして、その廻りに九つの星が輝いていた。

「我は月の神なるぞよ。この星は九曜星という神であって、我神に使わるる神であって、汝の一代を守護する神であるぞよ」

 威厳に満ちた声であった。その日を境として、清四郎は病気を直すことができるようになった。それが、下の外童子村で評判を呼ぶようになる。

 清四郎は、手を当て気合いをかけるだけで、病人が治癒するのに自分でもうれしかった。清四郎は家業をやめ、ひたすら病気直しに没頭した。清四郎の場合、他の霊能者と違い、報酬が無料のため、門前市をなすほどの盛況ぶりであった。

 翌大正九年、得意満面に病気直しに没頭している清四郎に、水をさすようなことを言う人がいた。たまたま、長男(やす)三郎(さぶろう)(法名・小松風)を幼稚園に入園させようとした時、その園長今きよが大本の熱心な信者ために、信仰論議に話題が移った。

「位の低い神でも、病気くらいは直せますよ」

 園長の自信たっぷりに話す態度が、清四郎には不愉快だった。

「ではどうすればいい」

「簡単ですよ。大本には神を見分ける人がいます。その人に審神(さにわ)してもらえば分かります

「審神?」

「そう、神を鑑定する方法です」

 清四郎は、この言葉に興味を覚えた。神を見分ける術が、丹波、綾部の大本にあるという。では、自分に憑いている神は果たして邪か正か、それを見分けてもらうため、その話題の後、矢も楯もたまらず大本にやって来た。

 


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大本との出会い

 明治二十五年に神憑かったナオの教えは、大正九年のこの時期になると大本という大教団にまで成長していた。当時、大本は多くの人を二つの意味で惹き付けていた。まず、一つは大立替という世直しの予言がそれにあたる。ナオはお筆先を通じて多くの予言が神から降ろされるようになり、今までに日清戦争、日露戦争の予言を見事に的中させ、衆人の注目を引いていた。今に世の中は変わる。大峠が来るという急激的な立替思想が多くの民衆を魅了させ、この立替の予言の信奉者を率いる形で大本は急激に伸びていったのである。しかし、このナオのお筆先も、大正七年五月にはいるとぴたりと筆先がとまる。この時が清四郎が、外童子山に足を踏み入れたのと同時期でいうのは興味深い。

 だが、大正七年十一月六日、立て替え、立て直しの予言を信じた人たちの熱狂の嵐の中ナオは八十三歳の生涯を終えて、時代はナオの末子スミと結婚した娘婿の(おに)仁三郎(さぶろう)に受け継がれていた

 清四郎が大本を訪問した時、もはやナオは昇天して会う事もなかったが、清四郎の目的は鎮魂帰神にあった。鎮魂帰神とは、娘婿の王仁三郎が実習していた行法で、簡単にいうと神を見分ける霊学である。

 王仁三郎は、出口家に入る前は上田喜三郎と云い、丹波の国の亀岡の(あな)()村の出身である。王仁三郎という名は、結婚に当たりナオを通じて鬼三郎と名乗る様にと神から指示があったのだが、いくら何でもひどいというので王仁三郎という字に改称した。王仁三郎は小さい頃から、霊眼があり、村の井戸堀りの水脈捜しでは的確にその場所を予言し、村人からは穴太村の「喜楽天狗」という異名すらあった。

  明治三十一(一八九七)年三月には天狗にさらわれ、村の近くの高熊山の岩窟で一週間余りの神秘的な体験の末、ますます霊能に磨きをかけた。

   その霊能を決定的に運命づけたのが、この鎮魂帰神学であり、これは本田(ほんだ)(ちか)(あつ)多年にわたる全国行脚の末大成したものであり、天然の岩笛を吹き鳴らし人為的に神がかりになる状態を造り上げる霊学である。そして、単に神憑りになっても果たしてその神がどのような神であるか、見分ける審神学も体系づけていた。

  この霊学は、本田亡き後には静岡県の清水市の月見里(やまなし)神社にいる門人長沢(ながさわ)(かつ)(たて)に引き継がれていた。そこで、長沢に娘婿の王仁三郎がまだ独身時代の明治三十一年に霊能の高さを評価され、集中的に長沢のもてるものを全て伝授された。

 長沢の審神によって王仁三郎に憑く神は、小松林という神であり、日露戦争を的確に予言し、このため高級神である事が判明し、王仁三郎自身もその霊学を自分の教団で実践していた。

 清四郎がここに足を運んだのは、人に憑いている神を見分ける審神学によって、自分に憑いている神を審神してもらうという事にあった。また、他にも神の仕組みや立て替えの事も分かるという。だが、その期待も大本を訪問した清四郎には裏切られる形となった。

 夜の質問会の席で伊勢の内宮の祭神が邪神か正神かという論争になった。その時、大本側の幹部は邪神と答え、清四郎は立腹した。

  無理もない、かつては近衛師団に入隊した経歴もあり、それ故に皇国への念が普通の人以上に篤かった清四郎には、この回答には憤慨する。講習二日目の夜には、帰る荷造りをしていた。この時期の大本は、熱狂的な程、自分の教団の正当性を主張しており、その熱が、他宗の非難、排斥の色を強く持たせていた。

  帰路につこうとする清四郎の姿に、同室の人間が声を掛ける。

 「どうだい、それなら福知山の方に行かないか」

 「福知山?」

 「福知山支部の幹部に(いな)(つぐ)要蔵(ようぞう)という人が居て、その人もかなり霊眼があるらしい」

 この同室の人間の誘いに、清四郎は綾部の講習を切り上げ福地山に向かうことを決めた。そして、床の中で今後のことをどのようにしたらいいか、色々と思案していた。すると、「桑の弓」という声が自分の耳元で聞こえた。清四郎は即座に神の声だな、と判断した。そうか、神さまは私に迷うなよ。自分の信じた道を、岩をも通す桑の弓の歌のように迷わず進めということだと、清四郎は納得した。

 次の日、清四郎は二泊三日で綾部を後に、福知山の稲次要蔵のもとで二週間の講習を受けた。

 


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福地山での霊象

 

 福知山で講習を受けていたある夜の寝就中の事、清四郎は老婆の祝詞の声を床の中で聞いた。後年、清四郎はこの声の主の老婆をナオであろうと述懐しているが、その真偽は不明である。その祝詞の声が、途切れになることなく聞こえたというから、普通の人の祝詞ではなかったことは確かであろう。

 これが、もしナオの祝詞であるならば清四郎は、霊的に昇天後のナオと会っていることになる。そして、不思議な体験はそれだけでなかった。その時、床の下でうごめく影を目撃した。

「金龍だ」

 清四郎は、直感で悟った。胴体の部分がゆっくりとうごめいていたろうか、鱗一枚の大きさは約六十センチ余りの巨大な金龍であった。金龍がなぜ清四郎に出現したのか、この金龍こそが艮の金神であり、別名では大国常立大神の化身の姿である。

 後に清四郎はこの大国常立大神との因縁をはっきりと理解するようになる。そして、一言「まだ時が早いぞよ」という声が響いた。そうか、自分の神を今はまだ世に出すべきではない、と神は教えているのだとそう解した。

 二週間余りの講習の最後の日、清四郎は自分に憑いている神を稲次要蔵に鑑定してもらうこととなった。受講者一人一人が、要蔵のいる奥まった座敷へ廊下越しで面会し、その人に憑いている神を見てもらう。

 いよいよ清四郎の番となった。稲次は目を疑った。かつて、多くの人は審神したが殆どの人は憑いているのは狸か狐、もしくは天狗ばかりでよくても高級神はまずない。

 だがこの男には気品の高い女の姿が映っていた。今まで審神をし、多くの人たちの神を見分けてきた稲次はこのような神を霊眼でみた事は殆どなかった。これは高級神だと直感した。

 そして、背後の女神は口を開く。

「我は天照大神なるぞ。この男のことで云う事は何もない」

 それだけを言うと女神は姿を消した。

 稲次には容易には信じられない。この様な高級神が現れる事も理解できなかった。

「あなたは不思議な方ですなあ。今、天照大神さまがあらわれて何も言う事はないと言われました。天照大神さまが現れるということはめったに無いことです」

 要蔵は昨年のナオの昇天の時を思い出した。その時、要蔵は居間で他の仲間と祈願ののりとを奏上、天上から珠をつないだ美しい五色の紐のような霊線の降りるのを見た。そして、ナオが麗しい姫神の姿となり、その霊線にのって天に昇ったのを思い出した。

 その姫神のような麗しさの神がこの男の後ろに見えた。これは一体何物なのだろう。

 要蔵には、理解できなかった。一方、清四郎の方は要蔵の答えを聞いてやはり正しい神であったと安堵すると同時に、かつて戸塚の行者の時にも天照大神が霊示で現れたことを思い出した。ここにも、天照大神が現れたかと、自信を深めた清四郎は福地山を後にする。以後、清四郎は二度と大本の地に足を向ける事はなかった。

 それから数ヵ月後、大本は立替え立て直しの予言に危惧を抱いた当局から、七月に刊行された『大本神諭』火の巻は八月には発禁処分。王仁三郎はこの頃から、大正十年に世の終末を唱える事は慎むように、又鎮魂帰神の法は中止するようにと度々告示。

 しかし、王仁三郎の許を離れた鎮魂帰神の法は、当時大正五年に家族ごと綾部に移住し入信、幹部となる程の熱意を示した海軍機関学校の教官であり、英文学者でもある浅野和三郎氏が鎮魂帰神を実習、指導した。インテリ階級の唱える言説は、軍人や知識階級に多くの関心を惹きつけ、大正十年十月には世が滅ぶと信じられる有り様だった。

 ナオ亡き後には王仁三郎の霊能が多くの信徒を引き付けていたが、大本内部はナオのお筆先を純粋に信奉する一派とことごとく対立していた。かつて、王仁三郎はナオのお筆先に対しては、合理的な態度で当たっていたが、迷信的な幹部たちにはかなり手を焼いた。

 例えば、「外国は四つ足である」というお筆先に信徒には外国は悪と断言し、外国のものは悪としてしまう幹部たちには、王仁三郎が背広を着用している姿は、ナオのお筆先を信じる人には反逆行為と映る。

 その為、ちょっとした隙に肥坪の中に背広を投げ込まれてしまうという態度までとられた。王仁三郎は「外国は四つ足である」という箇所は、外国の思想に心を奪われたらいけない事と説明しても、それはそういう連中には通用しない。

 また、自分の娘(なお)()が生まれたとき、花の美しさを教えてやりたいと花を鉢に入れておくと、翌日には枯れてしまう。そのような事が度々あり、ある夜自分の妻スミが鉢に熱湯を注いでいる光景を垣間みてらはそれも断念してしまう。

 スミは母ナオの教えの純粋な信奉者であり、「花の心ではいかん」というお筆先をそのまま信じた結果である。これは「花の様にすぐに散るような心ではいけない」という意味が正確なのだが、この様な融通性はナオのお筆先を純粋に信じる人たちには通用しない。

 ナオのお筆先に示された日数を計算すると、大正十年の大立替説がお筆先の信奉者の間では疑いなく信じられていたが、これに対して王仁三郎は「神界の時間は、現界と違う。お筆先に書かれている日数を素直に解釈すると大正十年に起こるという事になっているが、起こるわけない」と信徒にもらしていたが、もはや大本全体が彼の意志とは別にこの立替と鎮魂帰神によって暴走しようとしていた。清四郎はその様な状況の大本を訪問したのだから、憤慨するような教説を耳にするのも当然といえば、当然であった。

 王仁三郎は、当時入信して大本の内部に出入りしていた警察側の密偵を旅館に招き、「私やすみを赤レンガに入れてもよいから、大本を改造して下さい」と依頼をする。この異常まで教団全体が王仁三郎の意志と別の方に向かって進んでいく事に対する危惧がこの様な態度を取ったのかもしれない。

 後年、清四郎も大本に関し教典には梅の木が記され、その木に泊まっているのが雀、烏ばかりで、梅の木には鴬が止まっているのが理想なのに、大本にはその様な人間しかいないと記述されていたのを理解する。大本が本来の主旨から外れている事を暗に示していた。

 そして、翌十年二月大本は京都府警によって弾圧を受ける。いわゆる、第一次弾圧である。この時、清四郎も目撃したであろう訪問の年の二月に完成していた本宮山の神殿の取り壊しが十月に始められた。

 その破壊の音を横になり耳にする王仁三郎は、『霊界物語』の口述を始めた。『霊界物語』は大正十三年一月末に七十二巻をもって完成したが、その後、『天祥地瑞』を含め全八十一巻の物語であり、信仰というものを平易な口述で示したものである。大本ではナオのお筆先と同様『霊界物語』も重要な聖典として扱われている。この物語は、王仁三郎がかつて高熊山に天狗によってさらわれ、一週間の神業を命じられ、その時の体験を述べたものである。この体験は、かつて筆にしようと試みた時期があったが、神からの許しを得られぬために口外もできない程大事なものであった。

 しかし、開祖ナオが昇天後に現れ王仁三郎にこの物語の公開を促し、神が筆にする事は認めぬが、口述ならばこれを認めるという形で筆記者をそばに置き口述させたものである。王仁三郎は、霊界物語の中で今後起こる事を物語風に暗示し平易に説いた。

 この弾圧が大本内外に与えた衝撃は大きかった。この事件を契機に、浅野和三郎は東京に引き揚げ、後に心霊科学研究所を開設。立替、立て直しの時期を具体的に期限を示して、世に訴えた友清天行は山口県で神道天行教を初め、谷口正冶は東京で生長の家を創始し、一部の幹部たちが大本を去り、王仁三郎の意図とする主旨に従い、大本の方向を行い易い形となった。


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神憑りの女 

 大本から帰郷して外童子山で修行する清四郎は、六月には川から見事な自然石の岩笛を見つけた。大本では鎮魂帰神に使用された岩笛は、清四郎によって祝詞奏上の前に吹き鳴らす祭具と位置づけられた。神はこの岩笛は、岩木山の大神の授け給うものと告げ、この岩笛を吹き鳴らし、石に花咲く日まで待てと清四郎の神業の完成の道の遠き事を告げるのである。清四郎は、この岩笛の奏でる妙なる音色を耳にしながら、この長い立替への道のりの完成を祈った。

 この年の秋、外童子山で修行していた清四郎の許に、かつて病気直しをしてやった時に知り合った千田きよのがお礼参りにきた。体調が完全にまだ回復していないと、答えるきよのに清四郎は、一晩ゆっくりしていく事を勧め、きよのも同意した。

 夕拝の時、きよのは急に首を振り、合掌する手をブルブル震わせるなどおかしい様子を示した。しばらくして、正気に返ったきよのは清四郎に催眠術をかけたろうと、問いつめた。清四郎がそれを否定すると、後日立会人を連れて来るから、もう一度やれと、きよのは承知しなかった。

 数日後、立会人を引き連れてきたきよのに、清四郎が祝詞を奏上すると、首を振り出し神憑かり状態に陥った。

 初めて神憑りを目撃した時、清四郎は気が触れたものと思っていた。きよのはしばらく発動し体を上下に振っていたが、髪を解いてくれという仕草をするきよのの髪を解くと、きよのは口を開いた。

「我こそは、天之宇賣(あめのうずめ)命なるぞよ。八百万の神の代表として、本日ここに降り、汝との対面であるぞよ。今後は、如何なる時も八百万の神が汝の後ろだてとなり、この女の神憑かりを以て汝を教えに導くぞよ」

  天之宇賣命は、清四郎にこの地に引き寄せたのも、皆神の仕業ともつけ加えた。考えてみると、この天之宇賣命は鎮魂帰神では重要な導きの神とされ、かなりの高級神である。それが、一介の巷の修行もしていない女に降りたのは、普通の鎮魂帰神学では考えられない。

  審神としての知識もない清四郎に、果たしてきよのに神憑かった神が天之宇賣命と断言するのは、早計なことでないかと疑問視する人もいよう。なるほど、鎮魂帰神学では審神の重要な位置を占めており、この審神学の正否が神霊の判定のために必要である。多くの知識が必要な審神学を、小学校しか出ていない清四郎に果たしてそれが可能かという事で納得できないと、考えるのも無理もない。

  しかし、ここで審神という手順を経なくとも、きよのに憑かった神が高級神であるのを裏付けられるのは、大正九年にはきよのが三年後の旧七月二十一日から二十三日の間に世に大立替があり、多くの人が死ぬと予言。場所はいくら伺っても明記しなかったが、事実三年後の大正十二年旧七月二十一日に当たる九月一日、関東大震災が発生し、的中させており、その予言が正確であることが分かる。

  一般に狸、狐、天狗などの憑依でも失せ物、伺いでもかなり的中させる事はできるが、これらの憑依霊は自ら高級神の名を語り、予言めいた事を述べ、現実には当たる事もない。やはり、大本の鎮魂帰神でもなかなか高級神が降りず、多くは低級霊が多かったという例をみても、鎮魂帰神の修法の難しさがわかる。

  まして、日付入れでこの様な大規模の事件を予言し的中させる事はかなりの高級神でないと難しく、王仁三郎は日露戦争を的中、きよのも関東大震災を的中させているから、高級神が降りていると判断してもよいだろう。

  さて、きよのはこの神憑かり以後、清四郎に仕える事になり、翌十年三月八日の昇天までの六ヶ月間に多くの神器を神からの指示で降下するようになる。

 


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神憑かりによる神具の作成

 

 清四郎は、僅か六ヶ月間のきよのとの出会いで得るものは多々あった。まず、大正八年の旧四月十二日に山の神を祭った御堂につけていた鰐口の鈴を九回振る事によって、霊界を浄める遍照の鈴と定めた。次に、鶏頭の冠を作成させ、神界では大山祇大神の戴く冠である。その形は鶏の飛ぶ姿を模したことから「鶏頭の冠」と呼ばれ立替の時、大立替の時を告げる鶏を意味し、別名「北争戦化済みの烏帽子」とも言う。その冠を清四郎に被るように指示した。清四郎も立替に対して何か大事な使命を帯びているというのがこの烏帽子一つをみても知る事ができる。

 また、神界には百八十一段の神位がある事など、多くの神界の模様がもたらされた。この点は、本田親徳の鎮魂帰神も同様な見解を述べており、王仁三郎も同様な見解を示す。読者の中には、清四郎は単に大本の教説を借用しているのではないかと、考える人もいよう。

 だが、大和山の教義の方がむしろ詳しく、正確には大神としての座にあるのは百七十五段までであり、このうち百七十五段から百八十段までの五段が人間でも神としての座に入れる段である。そして、残りの百八十一段階は稲荷が神になれる。

 大本と類似しながら、大和山はそれを独自な見解で展開させ、大本とはまた別な形を取っている。なぜこの様に仕組みが似てくるのかという事については別の項で詳しく触れるが、それ程大本と大和山には深い因縁劇があり、そのために真似たように感じると云った方が正解であろう。

 しかし、大本も大和山も共通する点が多々ある。例えば、天津金木という神器も伝授され、その運用も指示された。この天津金木という神器は、大本でも当時使用しており、木の棒に五色の色を塗り、その運用によって神界の指示を仰ぐというものである。たが、この天津金木の運用は多種多用を極め、実際に運用するのにはなかなか大変なものであった。これは、王仁三郎が大石凝真素美という人から伝授されたといわれる。

 清四郎の天津金木は別名気運剣とも呼ばれ、その天津金木の写りとして五枚の硬貨に紙をはり、その表裏に字を書き、その組み合わせで神意を伺うようにかなり簡略化されている。そして、これを神界で使用できるのは大国常立大神ただ一神のみであり、この神器の特殊性が分かる。

 


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神紋をめぐる謎

  また、この時期から大本と同様の神紋を用いた時期があった。後年、これをみた宗教学者は大和山を大本との影響化の下にあると分類するが、これは大きな誤解である。

 まず、清四郎がこの神紋を定めたのは、月の廻りに九つの星が輝いていた事から九曜星を神紋に用いており、大正八年の旧八月二十三日の霊象をこの神紋にしている。

  大本では元々は神紋は九曜星であり、明治三十二年に九曜星を十曜星へ改めている。それも提灯屋神紋の数を間違えたのが契機である。その時、ナオのお筆先でそれで良い、真意であるとされ、それ以後十曜星を神紋として用いるようになる。

 しかし、このお筆先には大きな秘密が隠されていた。この神紋に関するお筆先が最初に出てくる箇所を引用する。

 

 上田(うえだ)喜三郎(きさぶろう)どの、よう大もうなご用をしてくださりたぞよ。そなたが綾部へまいりたのは、神の仕組がいたしてあること、なにごとがでけるのも、みな天であらためがいたてあることであるぞよ。九曜の紋を一つ増加(ふや)したのは、都合のあることであるぞよ。いまは言われぬ。このこと成就いたしたら、おん礼に結構をいたすぞよ。(以下略)

   

 このお筆先の通り、明治三十二年の七月十日大本となる前身の金神教の教会でナオがいつまでも金光教に世話になっていては、ナオの神が世に出る事もできないため、上田喜三郎(後の出口王仁三郎)が計り、艮の金神の金の字をとり、日の大神の日月を横に合わせ金明会を結社し、遷座祭を行った。 

  しかし、この時一つのハプニングが起こった。注文した祭典用の高張提灯が、提灯屋から届けられたが、その紋が指定の九曜星ではなく、十曜星であった。これに当惑した役員が、その指示をナオに仰ぐと、このお筆先が示され、神の指示のまま十曜星の神紋が用いられるようになった。

  しかし、ここにもう一つのエピ-ソドがこの神紋にある。これは、後年昭和四十年代に大和山を訪問した大本の幹部の一人伊藤栄蔵氏がご神前の神紋を見て語るには、この神紋が九曜星から十曜星に変わったのは、提灯屋が間違え、その指示を喜三郎に仰いだところ、いささかの叱責もないばかりか、「今に九曜が十曜になる時がくる」と云い、その場はことなきを得たという。

  すると、開祖ナオばかりでもなく王仁三郎もこの提灯事件の時、九曜から十曜星への変化を予期していた事になる。だが、気になるのは「九曜の紋を一つ増加したのは、都合のあることであるぞよ。」という一節で、ここでは省略したが、後の文章では喜三郎が来た事を「まことの人」として、喜三郎がナオの許に来た事をその理由としている。ところが、この神紋に関するお筆先の降下がこれで終わってはいない。

 

 九曜の紋は因縁ある紋であるぞよ。艮の紋が九曜で、出口の紋が抱茗荷、因縁ものの寄り合いで、めずらしきことがでけるぞよ。

  氏神さまの白藤も一対そろうたなり、こんど大もうな世の立替えを、梅で開いて松で治める。世界運否のなき世にいたして、世界おだやか、末ながき世。人民の心よくなれば、寿命も長くなるぞよ。

 (明治三十三年旧十一月三十日)

  

  この「九曜の紋は因縁ある紋であるぞよ。艮の紋が九曜で、出口の紋が抱茗荷、因縁ものの寄り合いで、めずらしきことがでけるぞよ」という一節が甚だ気になる。まず、この「出口の紋が抱茗荷」とは一体どの様な訳であろうか、出口家の家紋は「抱茗荷」だが、元々の藩主九鬼家への思慕から、九鬼家の家紋、九曜紋を神紋と定めていた。

   この年の一月にナオの末子スミと結婚、出口家の婿となった上田喜三郎の上田家は三ツ巴が家紋である。「艮の紋が九耀で」とは、後に大本の聖地となる本宮山には、かつて九鬼家の邸宅があった。

   この九鬼家は、かつては九鬼水軍として名高い鳥羽の城主九鬼大隅守嘉隆であり、その前の先祖は紀州熊野宮の別当職という家柄であった。かつての全盛時代には、伊勢鳥羽一帯を領していたが、関ヶ原の合戦で豊臣方に加担、九鬼嘉隆は切腹、子孫は丹波綾部に移封された。

  この九鬼家がナオのお筆先では「九鬼家との因縁が分かると、どえらいことになるぞよ、あいた口が塞がらんぞよ」とお筆先に示され、明治三十四年二月二十四日の神諭には「九鬼大隅の守九つの鬼の首九つを九曜の紋、九つが十曜に開いてしほれん花の咲く大本であるから、ちとむつかしきぞよ」とあり、王仁三郎の伊都能売(いずのめ)神諭』の大正八年七月十二日のものに「本宮山の御宮が建ち(おわ)りたら、九鬼大隅守の深い因縁が判りて来て、艮の金神の経綸(しぐみ)が判りて来るから、そう成りたら、夜が明て日の出の守護と相成りて、五六七(みろく)神代が天晴(あっぱ)れ成就いたすぞよ」とあり、大本と九鬼家の関係を示唆している。

  事実、大本も九鬼家も確かに九曜の紋であるが、その他奉祭神も一方が艮の金神、九鬼家も宇志採(うしと)()(こん)(しん)といい、名称が似ている。それ故に、大本も九家も双方が接近を試みた時期があったが、色々の紆余曲折の末、実現することはなかった。つまり、この九曜の紋を持つ家が二つ合流する事が、ナオのお筆先の云う本来の意味であったのであろうか。

  しかし、この九鬼家も三ツ巴が家紋である。

  その後、ナオのお筆先からはこの九つから十に移る、十曜の神紋に関する記述はしばらく沈黙が続くが、大正五年旧十一月にはそれを匂わせる様に記載されるものがある。

 

   日本の国ではただの一輪咲かけた梅の花の経綸で、万劫末代世を続かすのであるから人民にはわからんのも尤ものことであるぞよ。九つの花がさきかけたぞよ。九重の花が十重になりて咲くときは、万劫末代しおれぬ神国のまことの花であるぞよ。

   

 「九つの花がさきかけたぞよ」とは一体何を示すのであろうか。今までの沈黙を破り、九つの花が咲きかけたとは、何をいおうとしているのだろう。そして、ナオのこのお筆先に呼応するように、ナオの三女福島久が残したお筆先がその鍵を握っていた。福島久は、明治三十二年に神憑かり多くのお筆先を残すようになり、このお筆先は『日乃出神諭』と呼ばれ、この中にもこの九曜の神紋に関するものが、大正八年に降下されている。

   

 (前略)十曜の御神紋の因縁が判然と判らぬようなことでは、世界の統一ばでき致さんぞや。九つの花が十曜になりて開く時は、いかな鼻高も改心して、いかにも思いが違うておりたと申して、いかな悪魔も改心を致すぞよ。(中略)その九人の神で、九重と申して今度二度めの世の立て替えで、それが十曜に開いたら、それで三千世界が統一致すのであるぞよ。

  

  ここに、なぜ久が大正八年に十曜神紋に関するお筆先を示さなければならないのか、この年は清四郎が旧八月二十三日に月の廻りに九つの霊象を拝し、そして十曜紋を用いるようになる重大な年である。大正五年の時期に咲きかけ、大正八年には三女の久にこの神紋関する事を説明したお筆先が登場するのは、何を物語るのか。

  どうやら、この清四郎の霊象を拝する事件と符号しているような気がしてならない。そして、この清四郎の実家田沢家の家紋も出口家同様この抱茗荷である。そうすると、「出口の紋を抱茗荷」という一節もここにきれいに符号する。

  また「因縁ものの寄り合いでおもしろいことを致すぞよ」とあるように、この田沢家は近江の流れというから、上方の出身であるからこの出口家とどこかで因縁があるのかもしれない。ともあれ「九曜の紋は因縁ある紋であるぞよ。艮の紋が九曜で、出口の紋が抱茗荷、因縁ものの寄り合いで」とあるのは、正に十曜の紋を型どる大和山の教祖清四郎が抱茗荷の家紋であるというのが、因縁ものの集まりなのであろう。この大本と大和山との因縁劇はまだ多くあり、後の項でも徐々に明らかにしていく。

  読者の中には、ナオは本来桐村家の人間であり、養女として出口家の人間になったのであり、それがどうして田沢家と結びつくのだと反論しよう。確かにナオは、本来出口家の人間ではないが、この田沢家も清四郎の数代前には跡継ぎがいないため、青森出身の柿崎家から養子を入れ、現実的に血の系統は途絶えている。

  しかし、ここで大事な事は考えてみると、出口家、田沢家にしても本来の血統の相続から途絶えている事がわかる。では、なぜナオは出口家を相続しなければならなかったのか、それは出口家がこの艮の金神と深い因縁があるために、その家を霊的に相続しなければならなかった。出口家がどの様な意味で、この艮の金神と関わるかは後の方で説明する。

  大正十年三月八日、神伝者きよのは数日前の吐血を最後に意識不明となり、息を引き取った。神伝者を失った清四郎の衝撃は大きかった。遺品となったきよのの冠と衣類を三宝に備え、神に祈る日が続いた。かつて、きよのを通じて神は三年後には神の教えを授けるといったのにそれを実現させる事もなく、きよのは逝った。

  しかし、三宝に備えたきよの遺品が娘の都美子の見ている前で、火の気がないのに燃えて跡形もなくなったというのを聞いた時には、ついに悟った。きよのの役目は済んだのだ。だからもう必要ないという事で神が燃やしたのだろう。いつまでも落胆している訳にもいくまい。そう納得した清四郎は、病気直しを続けた、神の約束の三年間を終えるまで。

  そう気を取り戻した清四郎ではあるが、やはり気力は以前とは違って張りがなかった。そんな清四郎のために妻きさの水垢離をする日が続いた。

 (どうか、わが子の誰でもよいから神よ使い給え)

  ひたすら、きさは祈り続けた。

  とうとう二女一男の子供のうち、次女の都美子(法名・松蝶)に霊示があった、旧一月十九日に、神は教えを授けると。大正十一年のこの日、果たして前日、娘は目に字が写ると言い始めていたが、いよいよ本格的に見え始めた。そして、それを書かせたのが神からの教えの始まりだった。ついに、み神は清四郎の願いに応えた。これは「神奥集」と命名され、大和山の最初の記念すべき教典となった。

 


丸十の印の出現

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縦と横の仕組み

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掛け玉の由来

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清四郎の奇跡

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隠遁劇の解釈

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