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第一の帰依者

 教祖さまは、幼少の頃に生みの母に別れ、継母に育てられたことと、父長四郎氏の財を蓄えるに精を出し家庭を顧みることの少なかった。そのことで肉親の愛情の乏しさ、冷たさに耐えて来たことで、弱いものに対しての同情、貧しいものへの救いなどについて考えて来られた。そのため世の中の仕組みの矛盾に眼を向けては、何とかして、弱いもの、貧しいものの味方になられようとされた。

 その当時は、今のような社会福祉制度の無かった時代あった。貧乏者は、病気をしても、医者にかかることが出来ない時代であった。教祖さまは、始めの間は金を儲けて、貧乏人を助けようと志された。

 三十三歳の時、父長四郎氏との営業上の意見の衝突から家を捨てて、妻子との縁を切って単身上京された三年間、自分の年来の宿願を達せしめ給えと年少時より信を捧げていた成田山不動尊に祈願をこめては期米の相場師として生活をしてみたが、三年間の苦労も、ついに実を結ぶに至らなかった。始めから三年とご自分が決めておられたので、三十五歳の春先帰郷された。その時のことを、松竹がこのように語っていた。

 幼少の時から事業で留守勝ちの父ではあったが、家を捨てて三年間 全く顔を見ることもなく、また母は幼い子供を育てながら、春夏秋冬、荷車や橇で、薪や木炭を運搬していた。そんな母の苦労を思うと、母が可愛想にもなれば、父が恋しくもなってくるが、それを口にだしていうことを慎んでいた淋しさは、子供心によその家が羨まれてくる。

 そのようにして暮らしていた初春の朝、道路の掃除をしていて見るともなく先方を見ると、朝モヤの中から忘れることのない父の姿が近寄って来るではないか、嬉しさと、驚きで、箒をほうり出して「とっちゃ来た。とっちゃ来た」と、家の中へ駆け込んだことを忘れることがないと、今も語っている。そのようにして帰って来られたお家は、教祖さまには、居心地のよい家庭ではなかった。

 教祖さまを迎える老父母の心は、教祖さまを憩わせることにならなかった。そしてついに外童子への登山ということになったのである。教祖さまには全く予期しない山の生活であり、夢想もしなかった神さまとの出会いである。

 教祖さまは、大正八年旧四月十二日の出来事以降は神さまとの関係を明らかにするために、心も心ならぬ状態であられたという。

 大和山『開山誌』のその頃の項によれば、「奥宮を建ててより、殆ど俗業を心より捨てて、専心このことにのみ没頭した」と書かれている。

 ご自分の若い時から人を救うことの方法と手段が、神さまを知ることで、人為を捨てて、神力に縋ることで達成されることに心づいて、祈りの内容と方向を一歩も二歩も前進させることにした。

 始めは事業に成功して金を儲けて貧困者を救うということを、神力に依るならば、その救いは無限無窮なることに気付き、神力の我が身に賦与されることを真剣に祈った甲斐があって、病気をなおしてやれるようになった。

 始めのうちは、自信がなかったが回を重ねるうちに自信も深まり、初志を貫徹するの覚悟をいよいよ堅固なものにすることが出来たので、このことを父に告げると共に、このことを妻に告げて諒解を求めなければならなかった。そのことをうちあけられ諒解を求められた北玉さまには、一大驚異であった筈である。

 若くして結婚したが、世間一般の夫婦のように、何一つの楽しみもなく、両親に仕え、毎日が労働者以上の薪炭の運搬に働き通しに働き、子供を育てるにも乏しい養育費でこれをやりくりして来て、しかも三年間、妻子も家も捨てて顧みることのなかった夫が帰って来て、家業を手伝って一年を経過している間に、今度は常人では考えることが出来ない、病気なおしの神さま屋を始めるという。

 普通ならば、心がどうかしたのではないかと思うほかない。しかし教祖さまの性格とご心情を知り尽くした北玉さまは、反対しても無駄なことを覚悟しなければならなかった。

 矢はもう弦を放たれた。潮は満ちて誰人が何といおうとも引き止めることも、中止させることも出来るものではない。

 北玉さまはさまざまな事情を勘案した結果、素直に夫の信ずる神さまを信ずるまでには至らないが、夫の言葉に従って、夫の初志を貫徹させるに妻として随順して行く覚悟を固めざるを得ないことになった。

 とにかく北玉さまは、不安ではあったが、夫の言葉を理解してこれを支持することに心を決めた。

 教祖さまは大和山の神業の理解者の第一号を自分の最も信頼する妻にこれを求め得たことは、教祖さまにとっても、北玉さまにしても祝福されることであったと思う。夫婦は、お互いに理解し信頼し合うべきものでありながら、なかなか理解し難い。昔から自分の妻を済度し得れば、世界を済度出来るといわれた。

 この意味では、教祖さまは幸福なお方であったと思うし、北玉さまの理解力も敬服されるに値すると思われる。北玉さまのご苦労は、これまでの田沢家の嫁としてのご苦労の何倍かの苦労がここから始まる。

 教祖さまの十二ケ年の無収入の生活をやりくりする苦労から、教祖さまの何度か挫折しかける信念を支えることもあったし、ご自分の信仰の精進と努力、大和山が教団としてどうにか地歩を占めるまでは、一日として心の休まる時がなかったことを私は知っている。北玉さまは生涯において楽しいとか、安心だといった喜びの日があったのだろうか。

 まさに苦しい時からの御苦労の連続であったが、その苦労を人に語ることをしなかった。若し仮に、ご自分の苦労を語るとすれば、必ず相手があってのことであるから相手の人が悪者扱いされなければならぬからご自分の苦労のほどをお話しにならなかったのだと思うと私は、北玉さまの偉さをしみじみと思っている。

 特に私は、大和山が始まって第一期の三ケ年を終わった直後に入門を許されて、それ以来北玉さまのご昇天の日まで、子として甘やかしても頂き、大和山の次ぎから次ぎと遭遇する問題に、共に憂いもし、喜びもし、泣きもし、励まし、励まされて過ごしたことを今に至って懐かしく思いみる。

 教祖さまは偉かったけれども、その偉さの半分は北玉さまの偉さではなかったかと思う。北玉さまは、誰にも説教したこともなかったし、一遍の文章も、一枚の書も書き遺してはいないが、それでも偉さを害ねることはない。

 言あげするよりも、言あげしないところに本当の奥ゆかしさがある。

  


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教えの母

 大和山の教史の半分を占めるのは、教えの母というべき北玉さまである。

 教祖さまが、始めて大和山の道をお開きなされた時に最初の理解者は、その妻の北玉さまであったと私は書いた。

 世の中に数多くの夫婦がいる。しかしその夫婦が、本当に理解し、信頼している夫婦は数少ないのではないだろうか。同じ屋根の下に起き臥しして、夫と呼び、妻と呼ばせているが、全幅的に何もかも信頼することは、よほど恵まれた夫婦といってよいと思う。これが普通の生活を続けて行っている場合でも相違が生じて来る。

 それを今度は全く新しい道の開拓である。夢で橋を架ける以上に、成功の可能性の乏しい、全く未知の世界のことである。それも物質の世界のことであれば少しは信頼も出来ようが、それとは全く反対に、目に見えない、形もない、まさぐることも出来ない、全くの手掛かりのない神さまを相手に然も全く収入のない求道者の道を行こうという。

 はなはだ失礼な申し分ではあるが、北玉さまは、半信半疑どころか、五里霧中のままに、夫のやるとことだから、妻としてはそのまま夫の言に従うことが、妻の道だと考えになったのではないかと考えるが、私の聞いたところでは、むしろ北玉さまが、積極的に教祖さまを励ましたという。

 三年間の放浪生活から空しく帰郷されて、一年間の外童子山での魂の覚醒によって得られたご心境に、北玉様は、妻として敏感にそのご心境を汲み取ることが出来たのではあるまいか。男が、夫が新しいことを始める場合に、その前に立ちふさがるものは、最も信頼してもらえると思う妻の反対妨碍である。

 しかし教祖さまにはそれがなかった。かえって自分の協力者とも信奉者ともなってくれた最初の人は、自分の最愛の妻であった。古言に「妻を済度し得るものは、世界を済度し得る」といわれている。

 教祖さまは、第一の難関を易々と越すことが出来た。教祖さまにも宗教的知識がなかったのだから、北玉さまにも宗教とは何であるのかどんなことをするのか、そんな知識があるべき筈がない。しかし、それでも私は夫を励まして、夫の初志を貫徹させたいという妻のけなげさを、今の人達は学べきであろうし、ここから大和山の教史が始まる。

 教祖さまは、父君、長四郎様との間で、ご自分の俗世間を捨てて新しい道に進むことについての話し合いがついたが、妻と子供の生活は、やはり父長四郎さまの家計に依存するより方法がないのである。

 教祖さまは、ご自分では新しい生活の宣言をなされたが、家内や子供は養ってもらう、なかなか常人には出来ない。これは北玉さまには、辛い、そして苦しいことであられた。夫はいるが好きな道を進んで、自分と子供たちは親に扶養して貰う、何とも心苦しい限りであったと思う。

 田沢家は、田長商店といって、青森市内では薪炭商では、有数の商家であり、町内でも主だった家であった。その家の長男の嫁に十六歳で嫁いで来た。しかしその頃の嫁は、一家の働き手に過ぎない。

 炊事洗濯の家事一切から商品の薪炭の配達である。薪炭の配達といっても、運搬具は、今のリヤカ-もない時代である。鉄輪の二輪大八車に大きい荷台を乗せたもので、空車を引くだけでも相当の力を必要とする。それに荷物を積んで運ぶのだが、道路が穴ぼこ道である。

 冬の雪道は橇である。履物も今のように、ゴム長靴のない時で、夏は草履、冬は「つまご」と言って藁で作ったものを履く。薪炭の問屋だから、荷船で大量に海岸に荷物の入る時は、沖仲仕のように船から運ぶこともある。それが一年中を通して、盆も正月もない働き通しの生活であった。

 この生活は田沢家へ嫁いだ日からはじまって、教祖さまが俗業をお捨てになられるまで続いたのであって普通の人の想像を絶することであった。北玉さまは意志の強い方であったから、辛い苦しい生活に耐えたのだと思う。

 その間に何度かに亘る、父と子の相剋葛藤である。そのとばっちりは嫁に来る。何といっても、昔の日本の家庭においては、猫のいるところがあっても、嫁の座がないにも等しい。近所の人達は、その働きぶりや、頑固な両親に仕える苦労に同情しても、北玉さまは、一言も泣き言を洩らしてはいない。唯一人、見えないところで涙を流しても、愚痴一つ他人に語ってはいない。

 松竹は長女で母の苦労がわかるだけに、子供の弱い力でも手助けになればと荷車の後を押すといっているがやはり苦労している母を慰めてやる小さな心くばりでもあったのかも知れぬ。

 私が大和山へ来た時は、北玉さまが、三十三歳であった。私は私の生みの母と暮らしたのが、生まれてから十五歳の時までであったが北玉さまとの生活は約四十年に及んだ。私は私の一番成長の時期に北玉さまの愛と厳しさによって育てられたればこそ、今日の私があると感謝している。

 北玉さまは、一生涯苦難の道を歩まれた。教祖さまが、この道を開かれる前と後を比較してみれば、北玉さまにとっては、この道を拓かれた以後が全くの苦難の道であられた。

 大和山の教史の表が教祖さまで、裏の見えないところに北玉さまがおられる。北玉さまは全く内の人であった。

 教祖さまは、男は外、女は内を治めるものと、はっきり決めておられた。北玉さま、女の仕事、つとめは人に見られないところに心をくばり、男の人の働きに少しの後顧の憂いを与えてはならぬものだと、人に語り、ご自分でも、そのことにまことを尽くして努力しておられた。

 大和山の教えの幢(はた)は、教祖さまのたて糸と北玉さまをよこ糸として織りなされていることを、知らなければならぬと思う。

【305号】


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