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無師独悟

  大和山の教祖さまは、他教団の教祖、開祖といわれる人たちとは、全然別の道を辿られたことも亦特筆されてよいことだと思う。

 教祖さまは三十五才までは全くの商人で、宗教の学問も勉強もされなかった、普通の俗の人であった。そして又、他教団の教祖さまたちのように特別に変わった生まれ方もされなければ、少年時代にも普通の生活をされて育った。今は再版になっている、『大和山おいたちとおしえ』の本でお読みなられたと思うが、三十五才の春、現在の本部の地、外童子山へ事業経営の為に登山された事が、神さまとのご縁であったと思う。

 越えて、大正八年旧四月十二日に、現在の奥宮の所に小さな堂宇を建てられたが、これも、山で事業を営む人たちが、山神を祀ることと大差がないのであるが、ただ前年に、そこの炭焼きが、大きいブナの木を伐るのに苦労したが、その木の切り株の上に、神さまが現れて、炭焼き子の坂本民四郎に授かったという話しがあって、そのような不思議があるとすれば、なお放ってはおけないという意味もあって、その当時そこの住人では唯一人の経営者である、田長さま(教祖さまの家の屋号)に一切依頼することになって、ブナの木の上に堂宇が建てられた。

 その時のことは大和山の入山記念日に語り伝えられているのは、御堂を建てに一行が出掛けて行くと、二人の男が待っていて、(一人は坂本民四郎の父、もう一人は坂本民四郎の友人)「今日は旧四月十二日、今は丁度午後三時、三十六才になる男が神さまの現れた切り株の上にお堂を建てる」という予言を、一年前に坂本民四郎がしていた。それが現実のものであるかどうかを楽しみにしていたというのが当時、三十六才の田長さまの心を揺さぶったのである。

 教祖さまは他の人たちの依頼を受けたので、わざわざ青森で必要なものを買い求め、諏訪神社の神主柿崎氏に祝詞を作製してもらってお堂とは名ばかりの三尺に満たぬ粗末なものであったので、出来上がりも早かったから祝詞を奏上して献堂式が終わった。

 私が教祖さまとの縁で外童子山へ登山したのが、大正八年の九月の終りか十月の始めであったろうか、稲刈りの最中の頃であった。

 太陽暦と太陰暦の関係などどのようであったか知らぬが私の今の想像では、旧八月二十三日以前のことではなかったかと思われるが建てられて半年にならぬ堂宇はほとんどそのままの状態ではなかったと思う。

 伐り倒されたブナの木もそのまま直ぐそばに倒れたままになっていたし、切り口をみれば、如何に苦労したかということも歴然としていた。鋸が悪かったのか切るのが下手であったのか、切り口が喰い違っていたことでも判断出来たのであるが、神さまが現れるのに 苦労したということであった。

 教祖さまが、奥宮をお建てになってから旧八月二十三日迄の、百三十一日間の、教祖さまの初めての試練の日々であったと思う。

 奥宮を建てた日の予言の中の人物である自分、しかもその自分が何を為せばよいのか。ここに自らに問いかけてみても、答える答えが出て来ない。

 解くことの出来ない謎をなげかけて知らぬげに放り出されている自分。この時のご心境が、教祖さまにとっては、まさに練獄のような苦悶の日々ではなかったのかと、私には推測される。

 大正八年旧八月二十三日神さまのご招命を受けられてからは、神さまがすべて師匠となってお導き下されたということになっているのが、教祖さまの実際の苦心は奥宮を建てられてからの百三十一日間であったと思う。

 私は、教祖さまが、独り悟りの道をお聞き下された方として(無師独悟)と私の拙ない言葉を信徒の責任のある人達に書いてあげているが、この無師独悟の素地は、独り神さまから放り出されていた、百三十一日間に築き上げられたのだとしか考えられない。

 その間に、ご自分が考察された白衣に、白銀の手提げ桶(バケツ)で五色川での三十六杯の水をかぶる水行、東西南北を拝むことも、この時に始めておられた。

 ほんとうに自分の考えが決定して、水行しているのではなく、暗中模索の形と心理状態で、このことに打ち込んでいた時代が、教祖さまの最も生命をかけて思索もし修行に励まれたのではなかったか。

 私は教祖さまの四十五年にいたる生活の一節を考えて見ても、神さまは教祖さまをも決して甘やかしては下さらなかったと。

 それで、教祖さまは、神さまの厳しさ、畏さをも、愛の深さと共に、体得なされたのだと思う。

 

        空高く 大和の山の 松風よ

                      永遠に人類の 福音を叫べ

 

と、重大な使命と祝福を与えられた、神さまのめでし児であられた大和山の教祖さまの、神さまに厳しく育てられた時代を知る必要が有ると思う。

【302号】


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さとりの人

  もし仮に、人間の考えと立場が、一夜に大きく変わることになったら、変わる本人がどんな考えになるものだろう。

 その人の身になってみなければ、判断のつかぬことだと思うが、それにしても自分の立場ものの考え方を信ずるべきか、否かを考えてみるのではなかろうか。

   教祖さまが、奥宮をお建てになられたその時までは、自分は神さまを信ずる立場に立っていて、神さまと自分との間には、ある程度の距離というか、間隔があったものが、今度は、神さまの側の人として位置づけられた。

 即ち、一年も前から、神さまにご縁があり神さまのお仕事をする予定の中に入っていたということが、明らかにされて、教祖さまはどのようにお考えになられたのか。自分を改めて見直してみたが、昨日のわれと、今日のわれとは何んの変化もない。

 私は今に至って、その時のことについて教祖さまから伺った記憶が全然ない。

 教祖さまがお書きになられた大和山『開山誌』を調べてみても、そのことにふれたことが一行もないので、その時のご心境を知る手掛かりが全然ない。しかし、教祖さまとしてはご自分でそのことを納得諒承することに、努力されたようである。

 奥宮といっても、ブナの伐根の上に、小さな御堂を上げて、それに三尺角の素人の手作りの上屋を乗せたものである。前に、長さ一尺五寸位の御神灯一対を捧げるなどして、御堂らしく勿体をつけて、祝詞を奏上した。

 建堂の式を終わってみればご神前のご灯明が、左が二寸位、右が五寸位も残っていたし、ご神灯も外のお灯明と同じに燃え残っていたのが、不思議に思われてならなかったので、夜になってから一緒にお詣りしてくれた佐藤豊一氏を訪ねて、今日何か不思議なことがなかったかと聞いてみた。

 そうすると佐藤さんのいうには、私は拝む時に立っている場所がなくて、あなたの右上の方に立ってあなたの祝詞を奏上するのをずっと見ていた。あなたが、高天原にと  祝詞を読み始めると、あなたの顔と祝詞の間に、上の方から一寸五分  もある大きい蜘蛛がスウと下りて来てピタッと止まって動かない。

  上に樹の枝もなければ下りて来る場所がないのに不思議なことだと考えてみていたが、祝詞が終わったら何処へ行ったのか見えなくなった。

 「あなたの眼の前にいるのだから、よく邪魔にならぬものだと考えていたのですが、気がつきませんか」と言われたが、教祖さまには全然気がつかなかったという。

 教祖さまは、ご自分でどのようにしたならば、神さまとのご縁を確実なものに出来るかが、悩みの種なって来た。外童子山に登山されるまでの事業の不振も、教祖さまの長年の経験が生かされて、その頃には事業の損失も恢収されるまでに至っていたので、本業の事業よりも、考えられることは新しい運命の転換に向けられることが多かった。

 おまえにはこのような神さまとのご縁があるのだぞといって、その後は、何の手掛かりも与えられることもなく放っておかれる。放りだされて、そのままに終わる人と、そのままに終わらない人とがある。さとる人と、さとれぬ人とである。教祖さまは、やはり(さとり)の人である。自ら求めて探り出す能力を持たれた方である。

 大和山の教史を一つ一つ調べてみれば、何ひとつとして、教祖さまの(さとり)によらないものがないが、その(さとり)は、この時代に素地を与えられていた。信仰は与えられることを待っているより、まず自ら進んで求めることによって道が開かれる。正に、(求めよ、さらば与えられん)である。

 大和山の大神条に、(悟心を磨けよ、この悟りを開かずして何事も出来ず)と悟りの大事を教えているし、大和山の信仰は、自力の(さとり)によって信仰の境地を開拓して行くべきことを信仰の第一義とする。そのことを、神さまは、開教の始めに教祖さまに試練として与え給うた。

 大和山の教祖さまは、無から有を生ぜしめた奇蹟を行なったお方である。と私は信じている。その意味では、大和山は、奇蹟の宗教であると申してもよいと思う。ここにおいて私が教祖さまを世のありきたりの人と違っているのが、この場合も、他を頼ろうとせず、自分自らが開拓する意志の強さである。

 奥宮を建てることの予言が適中したことで、神さまの存在に疑問をもたなかったその素直さというか、正直さというか、それも普通人の真似の出来ることではないと私には思われる。そして、その神さまを自分の(まごころ)で求めて行く、雑念なく、邪念なく、衆人看視の中で、水行することも容易に出来ることではない。それを敢然と行う強さを考えてみれば、やはり教祖さまは、教祖たるべき強い魂を持っておられたと思う外ない。それと共に、正しいと思うことは千万人といえどもわれ征かんの強い意志を内に秘めておられた。

 世の中には、自分の為に努力し、苦労する人があっても、他人のために、自分を犠牲にし、他人の悦びのために苦労を重ねる人は少ない。もしそのような人があれば、世の中は人はその人を、馬鹿気違い扱いにして相手にしないが、世の中には、馬鹿や気違いと笑われる人が必要である。

 それが真実の馬鹿であるか、気違いであるかは、長い時間をかけてみなければその真価はわからないものである教祖さまも、馬鹿や気違いの一人として、親類縁者からも始めは見離された一人であった。しかし長い時間をかけてみれば、本物と、偽者はひとりでに区別されてくる。

 教祖様は世間の嘲笑にも、家族の反対にも敢然と立ち向かって素志を貫かれることに努められたが、そのご心中は、人として五感五情を具備しておられる教祖さまには随分と辛いことであったろうと私には思われてならない。

 その意味では、予言者は郷里に入れられぬと昔からいわれた。

【302号】


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第一の帰依者

 教祖さまは、幼少の頃に生みの母に別れ、継母に育てられたことと、父長四郎氏の財を蓄えるに精を出し家庭を顧みることの少なかった。そのことで肉親の愛情の乏しさ、冷たさに耐えて来たことで、弱いものに対しての同情、貧しいものへの救いなどについて考えて来られた。そのため世の中の仕組みの矛盾に眼を向けては、何とかして、弱いもの、貧しいものの味方になられようとされた。

 その当時は、今のような社会福祉制度の無かった時代あった。貧乏者は、病気をしても、医者にかかることが出来ない時代であった。教祖さまは、始めの間は金を儲けて、貧乏人を助けようと志された。

 三十三歳の時、父長四郎氏との営業上の意見の衝突から家を捨てて、妻子との縁を切って単身上京された三年間、自分の年来の宿願を達せしめ給えと年少時より信を捧げていた成田山不動尊に祈願をこめては期米の相場師として生活をしてみたが、三年間の苦労も、ついに実を結ぶに至らなかった。始めから三年とご自分が決めておられたので、三十五歳の春先帰郷された。その時のことを、松竹がこのように語っていた。

 幼少の時から事業で留守勝ちの父ではあったが、家を捨てて三年間 全く顔を見ることもなく、また母は幼い子供を育てながら、春夏秋冬、荷車や橇で、薪や木炭を運搬していた。そんな母の苦労を思うと、母が可愛想にもなれば、父が恋しくもなってくるが、それを口にだしていうことを慎んでいた淋しさは、子供心によその家が羨まれてくる。

 そのようにして暮らしていた初春の朝、道路の掃除をしていて見るともなく先方を見ると、朝モヤの中から忘れることのない父の姿が近寄って来るではないか、嬉しさと、驚きで、箒をほうり出して「とっちゃ来た。とっちゃ来た」と、家の中へ駆け込んだことを忘れることがないと、今も語っている。そのようにして帰って来られたお家は、教祖さまには、居心地のよい家庭ではなかった。

 教祖さまを迎える老父母の心は、教祖さまを憩わせることにならなかった。そしてついに外童子への登山ということになったのである。教祖さまには全く予期しない山の生活であり、夢想もしなかった神さまとの出会いである。

 教祖さまは、大正八年旧四月十二日の出来事以降は神さまとの関係を明らかにするために、心も心ならぬ状態であられたという。

 大和山『開山誌』のその頃の項によれば、「奥宮を建ててより、殆ど俗業を心より捨てて、専心このことにのみ没頭した」と書かれている。

 ご自分の若い時から人を救うことの方法と手段が、神さまを知ることで、人為を捨てて、神力に縋ることで達成されることに心づいて、祈りの内容と方向を一歩も二歩も前進させることにした。

 始めは事業に成功して金を儲けて貧困者を救うということを、神力に依るならば、その救いは無限無窮なることに気付き、神力の我が身に賦与されることを真剣に祈った甲斐があって、病気をなおしてやれるようになった。

 始めのうちは、自信がなかったが回を重ねるうちに自信も深まり、初志を貫徹するの覚悟をいよいよ堅固なものにすることが出来たので、このことを父に告げると共に、このことを妻に告げて諒解を求めなければならなかった。そのことをうちあけられ諒解を求められた北玉さまには、一大驚異であった筈である。

 若くして結婚したが、世間一般の夫婦のように、何一つの楽しみもなく、両親に仕え、毎日が労働者以上の薪炭の運搬に働き通しに働き、子供を育てるにも乏しい養育費でこれをやりくりして来て、しかも三年間、妻子も家も捨てて顧みることのなかった夫が帰って来て、家業を手伝って一年を経過している間に、今度は常人では考えることが出来ない、病気なおしの神さま屋を始めるという。

 普通ならば、心がどうかしたのではないかと思うほかない。しかし教祖さまの性格とご心情を知り尽くした北玉さまは、反対しても無駄なことを覚悟しなければならなかった。

 矢はもう弦を放たれた。潮は満ちて誰人が何といおうとも引き止めることも、中止させることも出来るものではない。

 北玉さまはさまざまな事情を勘案した結果、素直に夫の信ずる神さまを信ずるまでには至らないが、夫の言葉に従って、夫の初志を貫徹させるに妻として随順して行く覚悟を固めざるを得ないことになった。

 とにかく北玉さまは、不安ではあったが、夫の言葉を理解してこれを支持することに心を決めた。

 教祖さまは大和山の神業の理解者の第一号を自分の最も信頼する妻にこれを求め得たことは、教祖さまにとっても、北玉さまにしても祝福されることであったと思う。夫婦は、お互いに理解し信頼し合うべきものでありながら、なかなか理解し難い。昔から自分の妻を済度し得れば、世界を済度出来るといわれた。

 この意味では、教祖さまは幸福なお方であったと思うし、北玉さまの理解力も敬服されるに値すると思われる。北玉さまのご苦労は、これまでの田沢家の嫁としてのご苦労の何倍かの苦労がここから始まる。

 教祖さまの十二ケ年の無収入の生活をやりくりする苦労から、教祖さまの何度か挫折しかける信念を支えることもあったし、ご自分の信仰の精進と努力、大和山が教団としてどうにか地歩を占めるまでは、一日として心の休まる時がなかったことを私は知っている。北玉さまは生涯において楽しいとか、安心だといった喜びの日があったのだろうか。

 まさに苦しい時からの御苦労の連続であったが、その苦労を人に語ることをしなかった。若し仮に、ご自分の苦労を語るとすれば、必ず相手があってのことであるから相手の人が悪者扱いされなければならぬからご自分の苦労のほどをお話しにならなかったのだと思うと私は、北玉さまの偉さをしみじみと思っている。

 特に私は、大和山が始まって第一期の三ケ年を終わった直後に入門を許されて、それ以来北玉さまのご昇天の日まで、子として甘やかしても頂き、大和山の次ぎから次ぎと遭遇する問題に、共に憂いもし、喜びもし、泣きもし、励まし、励まされて過ごしたことを今に至って懐かしく思いみる。

 教祖さまは偉かったけれども、その偉さの半分は北玉さまの偉さではなかったかと思う。北玉さまは、誰にも説教したこともなかったし、一遍の文章も、一枚の書も書き遺してはいないが、それでも偉さを害ねることはない。

 言あげするよりも、言あげしないところに本当の奥ゆかしさがある。

  


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教えの母

 大和山の教史の半分を占めるのは、教えの母というべき北玉さまである。

 教祖さまが、始めて大和山の道をお開きなされた時に最初の理解者は、その妻の北玉さまであったと私は書いた。

 世の中に数多くの夫婦がいる。しかしその夫婦が、本当に理解し、信頼している夫婦は数少ないのではないだろうか。同じ屋根の下に起き臥しして、夫と呼び、妻と呼ばせているが、全幅的に何もかも信頼することは、よほど恵まれた夫婦といってよいと思う。これが普通の生活を続けて行っている場合でも相違が生じて来る。

 それを今度は全く新しい道の開拓である。夢で橋を架ける以上に、成功の可能性の乏しい、全く未知の世界のことである。それも物質の世界のことであれば少しは信頼も出来ようが、それとは全く反対に、目に見えない、形もない、まさぐることも出来ない、全くの手掛かりのない神さまを相手に然も全く収入のない求道者の道を行こうという。

 はなはだ失礼な申し分ではあるが、北玉さまは、半信半疑どころか、五里霧中のままに、夫のやるとことだから、妻としてはそのまま夫の言に従うことが、妻の道だと考えになったのではないかと考えるが、私の聞いたところでは、むしろ北玉さまが、積極的に教祖さまを励ましたという。

 三年間の放浪生活から空しく帰郷されて、一年間の外童子山での魂の覚醒によって得られたご心境に、北玉様は、妻として敏感にそのご心境を汲み取ることが出来たのではあるまいか。男が、夫が新しいことを始める場合に、その前に立ちふさがるものは、最も信頼してもらえると思う妻の反対妨碍である。

 しかし教祖さまにはそれがなかった。かえって自分の協力者とも信奉者ともなってくれた最初の人は、自分の最愛の妻であった。古言に「妻を済度し得るものは、世界を済度し得る」といわれている。

 教祖さまは、第一の難関を易々と越すことが出来た。教祖さまにも宗教的知識がなかったのだから、北玉さまにも宗教とは何であるのかどんなことをするのか、そんな知識があるべき筈がない。しかし、それでも私は夫を励まして、夫の初志を貫徹させたいという妻のけなげさを、今の人達は学べきであろうし、ここから大和山の教史が始まる。

 教祖さまは、父君、長四郎様との間で、ご自分の俗世間を捨てて新しい道に進むことについての話し合いがついたが、妻と子供の生活は、やはり父長四郎さまの家計に依存するより方法がないのである。

 教祖さまは、ご自分では新しい生活の宣言をなされたが、家内や子供は養ってもらう、なかなか常人には出来ない。これは北玉さまには、辛い、そして苦しいことであられた。夫はいるが好きな道を進んで、自分と子供たちは親に扶養して貰う、何とも心苦しい限りであったと思う。

 田沢家は、田長商店といって、青森市内では薪炭商では、有数の商家であり、町内でも主だった家であった。その家の長男の嫁に十六歳で嫁いで来た。しかしその頃の嫁は、一家の働き手に過ぎない。

 炊事洗濯の家事一切から商品の薪炭の配達である。薪炭の配達といっても、運搬具は、今のリヤカ-もない時代である。鉄輪の二輪大八車に大きい荷台を乗せたもので、空車を引くだけでも相当の力を必要とする。それに荷物を積んで運ぶのだが、道路が穴ぼこ道である。

 冬の雪道は橇である。履物も今のように、ゴム長靴のない時で、夏は草履、冬は「つまご」と言って藁で作ったものを履く。薪炭の問屋だから、荷船で大量に海岸に荷物の入る時は、沖仲仕のように船から運ぶこともある。それが一年中を通して、盆も正月もない働き通しの生活であった。

 この生活は田沢家へ嫁いだ日からはじまって、教祖さまが俗業をお捨てになられるまで続いたのであって普通の人の想像を絶することであった。北玉さまは意志の強い方であったから、辛い苦しい生活に耐えたのだと思う。

 その間に何度かに亘る、父と子の相剋葛藤である。そのとばっちりは嫁に来る。何といっても、昔の日本の家庭においては、猫のいるところがあっても、嫁の座がないにも等しい。近所の人達は、その働きぶりや、頑固な両親に仕える苦労に同情しても、北玉さまは、一言も泣き言を洩らしてはいない。唯一人、見えないところで涙を流しても、愚痴一つ他人に語ってはいない。

 松竹は長女で母の苦労がわかるだけに、子供の弱い力でも手助けになればと荷車の後を押すといっているがやはり苦労している母を慰めてやる小さな心くばりでもあったのかも知れぬ。

 私が大和山へ来た時は、北玉さまが、三十三歳であった。私は私の生みの母と暮らしたのが、生まれてから十五歳の時までであったが北玉さまとの生活は約四十年に及んだ。私は私の一番成長の時期に北玉さまの愛と厳しさによって育てられたればこそ、今日の私があると感謝している。

 北玉さまは、一生涯苦難の道を歩まれた。教祖さまが、この道を開かれる前と後を比較してみれば、北玉さまにとっては、この道を拓かれた以後が全くの苦難の道であられた。

 大和山の教史の表が教祖さまで、裏の見えないところに北玉さまがおられる。北玉さまは全く内の人であった。

 教祖さまは、男は外、女は内を治めるものと、はっきり決めておられた。北玉さま、女の仕事、つとめは人に見られないところに心をくばり、男の人の働きに少しの後顧の憂いを与えてはならぬものだと、人に語り、ご自分でも、そのことにまことを尽くして努力しておられた。

 大和山の教えの幢(はた)は、教祖さまのたて糸と北玉さまをよこ糸として織りなされていることを、知らなければならぬと思う。

【305号】


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