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熊1

 一

 その時僕は二十九歳で、仕事を辞めたばかりだった。僕は大学を卒業したあと大手の出版社に勤め、そこで七年間働いた。もともと本を読むのが好きだったから、出版社に勤められたのはうれしかった。でも二十九歳の誕生日を迎えたとき、自分の中の何かがぷつんという音を立てて切れてしまった。

 上司は怪訝そうな顔をして僕を引きとめた。「一体何が不満なんだ?」

 実際のところ会社に不満があるわけではなかった。まあ確かに細かいことを言えば会社に全く問題がないというわけではない。でもそんなのはどこに行っても一緒だし、それは僕自身よく分かっているつもりだった。「会社に問題があるわけではないんです」と僕は言った。「自分自身の問題なんです」

 仕事を辞めるのと時を同じくして、二年間付き合っていたガールフレンドとも別れた。一時期は彼女と結婚することすら考えたことがあった。

「私の何がいけなかったの?」と彼女は聞いた。

「君の問題じゃない。僕自身の問題なんだ」と僕は言った。

 

 僕は東京を離れ、一度東北の実家に帰った。両親は温かく迎えてくれたし、彼らは僕が何かしらの精神的な問題を抱えていることを理解してくれた。東京の喧騒から逃れられたこともうれしかった。しかし一週間もするうちにだんだん居心地が悪くなってきた。そこはあまりにも平穏で、ものごとはひとところに停滞していた。結局のところ、そこはもう僕の場所ではなくなってしまっていたのだ。

 そんなとき、一人の大叔父から電話がかかってきた。僕が受話器を取った。彼は僕が実家にいることに驚いたようだったが、特に詮索はしなかった。僕らは一通りの挨拶をして、父に受話器を渡した。

 彼は祖父の弟で、今は秩父の山奥で暮らしていた。祖父はもう亡くなっていたのだが、彼はときどきこうして電話をかけてきた。たくさんいる親戚の中で、僕は彼が一番好きだった。田舎の十一人兄弟の中の六男坊として、彼は成長したらどこかに行って自活しなければいけない境遇にあった。彼は中学を卒業すると、東京に出て肉体労働をした。そして働きながら夜間の高校に通い、やがては電子系の専門学校を出た。そして大手の電子工学メーカーの技師として就職し、そこで五十五歳になるまで働いた。

 五十五歳のときに彼に何があったのかは分からない。しかしそのとき彼には妻と、二人の成人した娘がいた。しかし急に自分から離婚を持ち出し、秩父の山奥に引っ込んでしまったのだ。その当時そこには引き取り手のない土地や家がいくつも売りに出されていて、彼はかなり安い値段で広い土地と、家を買うことができた。彼はもう随分古くなったその古民家を自分で改修し、なんとか住めるようにした。荒れていた畑を耕し、周辺の山林も少しずつ買い足していった。親戚の多くは彼がこんな年になってから離婚することにずいぶん反対したのだが、彼はもともと独立独歩の性格の持ち主で、他人の意見なんか気にしなかった。ちなみに彼は今六十九歳だった。

 

 父は受話器を置くとやがて僕に話しかけた。「なあ、叔父さんがこっちに来てみないかって言ってるぞ」

「僕に?」

「そうだ」

「つまり秩父にってこと?」

「そういうことだね」と父は言った。

 

 一体秩父に行って何をするのか、と始めは思ったのだが、ここにいても何もやることがないのは同じだった。僕はとりあえず招きに応じることにした。

「もしかしたらすぐに帰って来るかもしれない」と僕は父に言った。

「まあ、それでもいいさ。でもあの人は昔からかなり独特だったから、きっと退屈はしないんじゃないかな」

 僕は荷物をまとめ、新幹線と電車を乗り継ぎ、一路秩父へと向かった。

 

 駅には叔父(実際には大叔父なのだが、僕はただ単に叔父さんと呼んでいた)が軽トラックで迎えに来ていた。

「久しぶりだな」と彼は言った。

「お久しぶりです」と僕は言った。

「じゃあ、まあ乗りなよ」と彼は言った。彼の家は駅からかなり離れたところにあった。窓から見える景色は東北の田舎と変わらないように見える。長いドライブの間、我々はあまり話をしなかった。それでも不思議と気まずい感じはしなかった。

 彼の家は山奥にあった。我々は細い農道を入ってしばらく登り、ようやくのことで彼の家に着いた。裏には畑が広がり、その先は鬱蒼とした木々が続いている。隣家まではかなりの距離がある。母屋の隣には薪や、農機具を入れるための納屋があった。僕は車を降り、その光景をただじっと眺めていた。

「まあ、入りなよ」としばらくして叔父が言った。

 

 家の中は綺麗に整頓されていて、掃除も行き届いているようだった。叔父はまず僕が使う部屋に案内してくれた。

「この部屋を使っていいよ。今は全然使ってないんだ」

 それは十畳ほどの畳の部屋で、隅には布団一式が畳んで置いてあった。息を吸い込むとなんだか懐かしい匂いがした。僕は荷物を置き、居間に行った。

 居間もまた畳の部屋で、部屋の片隅にはスピーカーとアンプ、それにレコードプレイヤーが置かれていた。棚にはおびただしい数のレコードが収まっていた。僕が座布団に座って待っていると叔父がお茶を淹れてくれた。

「レコードを沢山持っているんですね」と僕は言った。

「まあ、昔っからこういうのが好きだったんだよ」と彼は言った。

「ちょっと見せてもらってもいいですか」

「いいよ。好きなだけ見てくれ」と彼は言った。

 レコード棚にはいくつかの古い日本人歌手のアルバムや演歌なんかも含まれていたが、その大半はジャズとクラシックのアルバムだった。僕はその中からビル・エバンスの『ワルツ・フォー・デビー』を選び出し、ターンテーブルに乗せた。僕はそのアルバムをCDで何度も聴いていた。スピーカーから一曲目の『マイ・フーリッシュ・ハート』が流れ出した。それはCDで聴いていたのとは全然違う風に聴こえた。

「レコードだと全然違って聴こえますね」と僕は言った。

「そうだろう」と叔父は言った。

「なんというか、三歩くらい前に出て聞いているような感じがします」

 彼は分かっている、という風に頷いた。

 

 その夜は彼が夕食を作ってくれた。山菜やタケノコを使った煮物、味噌汁、ご飯、きゅうりとわかめの酢の物、それにたくあん漬けというメニューだった。どれも素朴な味付けだったが、そのためにかえって素材の味が引き立っていた。

「こんなものしか作れなくて悪いな」と彼は言った。「車を貸すから、何か欲しかったら町に行って自分で買って来ると良いよ」

「とてもおいしいですよ」と僕は言った。「これで十分です」

 

 夕食を食べると、我々は少しだけ日本酒を飲んだ。概して会話の少ない食事だった。彼は僕にいつまでいるんだとも聞かなかったし、これからどうするつもりだ、とも聞かなかった。実際彼はそういうことにあまり興味を持っていないように見えた。居間には一応テレビがあったが、NHKのニュースを観ただけで、彼はすぐに消してしまった。「人の話し声ってのがさ」と彼は言った。「あんまり好きじゃないんだ」

 そのあと彼は(まき)風呂(ぶろ)を沸かしてくれた。灯油でお湯を沸かすボイラーもあったのだが、今日は僕に是非薪風呂に入って欲しいということだった。「そんなに何もかもしてもらって悪いですね」と僕は言った。

「いや、来客ってものがめったにないからさ、世話を焼くのが楽しいんだよ」と彼は言った。

 薪風呂のお湯は確かにボイラーのお湯とは感触が違っていた。それはより柔らかく、より優しい感じがした。

 

 次の日の朝、僕はずいぶん久しぶりに早起きをした。まだ六時にもなっていない。朝の空気は特別だ。それはほかのどの時間にもない匂いと、温度を持っている。顔を洗って庭に出ると、叔父はすでに起き出していて、薪を割っていた。

「おはよう」と彼は言った。

「おはようございます」と僕は言った。

「気分はどうだね」

「悪くないです」と僕は言った。

 周りに広がる木々からは鳥の(さえず)りが聞こえた。青く茂った葉が、地面に涼しげな影を落としていた。上空からさわやかな風が吹き抜け、何枚かの葉を散らした。僕は深く息を吸い込んだ。

 

 僕は朝のうちにそのへんを散歩することにした。地面に生えた雑草は朝露に濡れ、新鮮な匂いを発していた。僕は家の裏手に周り、山の中に少しだけ足を踏み入れた。地面には叔父が切り開いたとおぼしき踏み分け道が付いていて、そこを辿って行けばどこまでも奥に入って行けそうだった。僕はそこで一頭のカモシカを見た。カモシカは斜面のずっと上の方にいて、じっとこちらを見下ろしていた。僕もまたカモシカをじっと見つめた。僕らは朝の静けさの中で、じっとお互いを見つめ合っていた。しばらくするとカモシカは唐突に向きを変え、山の奥に入って行った。それでも僕はその場を動かず、ついさっきまでその野生動物が占めていた空間をそのままじっと見つめていた。

 

 家に戻ると、叔父が朝食を作ってくれていた。パンとバター、はちみつ、それにコーヒーだ。彼が用意してくれるものはいちいちどれもおいしかった。

 朝食を食べ終わると、僕は居間に行き、叔父のレコードを聞かせてもらって時間を過ごした。叔父は裏の畑で農作業をしていた。僕は座布団に胡坐(あぐら)をかいて座り、スピーカーから聞こえる音楽にじっと耳を澄ませた。考えてみればこんな風に真剣に音楽を聞いたのはずいぶん久しぶりのことだった。

 午後になると、叔父が山菜を取りに山に行くと言うので付いて行くことにした。彼は熊避けの鈴を渡してくれた。「この辺は熊がよく出るんだよ」と彼は言った。

 我々は踏み分け道のついた山に入り込み、みずや(わらび)といった山菜を袋が一杯になるまで詰めた。さすがに腰が痛くなったが、こういう静かな所で身体を動かすのは良い気分だった。そのあとで叔父は僕を湧水があるところまで連れて行ってくれた。しばらく急な斜面を登って行くと、そこにはごつごつとした岩場があり、大きな岩の隙間から、澄んだ水が流れ出ていた。そばには柄杓(ひしゃく)が置かれていた。叔父は何度か柄杓をすすいだ後、水を掬って飲んだ。そしてその柄杓を僕に渡した。僕も彼に倣い、湧水を飲んだ。それはとても新鮮な水で、透き通った味がした。

 家に帰ると、叔父が採って来た山菜を調理してくれた。(わらび)はあく抜きをした後てんぷらにして、みずはおひたしにして食べた。その夜我々はまた酒を飲んだ。

 


 


熊2

 似たような日々が続き、一週間が過ぎた。僕は朝早く起きて散歩をし、前にカモシカを見たところまで歩いた。カモシカはその後一度も姿を見せなかったが、僕は別に気にしなかった。その後は部屋でレコードを聴いたり、持ってきた本を読んだりした。時々叔父の農作業を手伝ったり、薪割りをやったりした。そして新鮮な食材を使ったシンプルな夕食を食べ、酒を飲んだ。叔父は僕の方の事情については一切尋ねたりしなかった。彼はただそこにあるものとして僕を扱ってくれた。

 代わりに僕の方が叔父の事情を聞くことになった。一緒に生活しているうちにどうしても聞きたくなってきたのだ。「どうしてこういう生活を始めようと思ったんですか」と僕は聞いた。「五十五歳の時に、叔父さんに一体何があったんですか」

 彼は始め大した話ではない、と言って渋っていたのだが、やがて気が変わったのか詳しい話をしてくれた。「そうだな、お前なら俺の言っている意味が分かるかもしれない」と彼は言った。

「俺はごく普通の人間だった」と彼はその話を始めた。「確かに周りの人間よりはいくらか自立心が強かったかもしれない。でも常に世間との折り合いはつけて生きていた。それなりに大きな会社に入って、ずっと働いてきた。責任のある地位にも付いた。給料だって悪くなかった。娘二人を金のかかる大学にやって、家のローンを払って、ごく普通に暮らしていたんだ。でも五十代の半ばになって、だんだん自分の中にもやもやのようなものが現れてきた。そのもやもやは常にそこにあった。仕事をしていても、家にいても、テレビを観ていても、常に俺に付きまとっているんだ。だんだん嫌な夢を見るようにもなった。誰かに追いかけられる夢とか、誰かを力いっぱい殴りつけている夢とか。朝起きるとすごい量の汗をかいていたな。

 だんだん仕事に行くのが苦痛になってきた。それまでは結構好きで仕事をやっていたのにな。なにが嫌ってさ、同僚とか上司と話をするのが苦痛なんだ。彼らはまるで別の言語で、別の世界について語っているように見えた。それは俺とはぜんぜん関係のない世界なんだ。それなのにこっちははいはいと言って、(かしこ)まって聞いてなくちゃならない。こいつらは本当にこんなくだらないことに興味があるのか、と内心ではあきれていたのにな。

 まあ結局俺だって今までそのくだらないことにかかずらって生きてきたわけだ。でもそのくだらなさを本当に身に染みて理解してはいなかった。でもその年になって初めてそれが――その不毛さというものが――身体にずぶずぶと染み込んできたんだよ。それはずいぶんきついことだった。それはまるで、身体の内側が何かに浸食されているような気分だった。俺は自分がどんどん空っぽになって行くのを、身をもって感じることができた。でも自分でそれを直視することができないんだ。だってそれはつまり、今までの人生が全部無駄だったって認めるようなものだからだよ。

だから俺はそういう状況になっても仕事に行き続けた。今さら他に何をやったらいいかも分からなかったしな。でもね、問題は仕事についてだけじゃないんだ。家に帰るのもだんだん苦痛になってきたんだよ。妻とか娘と話したりするのが苦痛なんだ。それは悪いとは思ったよ。今までずいぶん良くしてくれた。良い妻で、良い娘たちだ。そりゃあ全然問題が無いってわけでもないけど、もっとひどい妻とか子供を持っているやつはたくさんいる。それに比べればうちはずっと良い方さ。でも会話というのがだんだんひどく苦痛になっていったんだ。何を言っても、何を言われても、全部どうでもいいように思える。こんな状態のままではいけない、と思ったよ。でもなかなかその状況から逃れることができなかった。俺の一部はおそらく、まだそういう正常な家庭生活というものを必要としていたんだろうな。

 でも俺の中のもやもやはどんどん大きくなっていった。自分でもはっきりと分かるくらいに。だんだん仕事も手に付かなくなってきた。体調も悪くなっていった。今までほとんど会社を休んだことなんてなかったのに、何度か仕事を休んだ。でも病院には行かなかった。妻と娘は心配して何度も病院に行けって言ってたけど、これは医者に行ったって治るような問題じゃないんだと俺は知っていた。

 我慢は限界に近付いていた。色んなものが爆発しそうになっていた。これでは駄目だ、と俺は思った。このままでは下手をすると死んでしまうとな。それが比喩的な死なのか、それとも実際に自殺をするということなのかは分からない。でもこのままでは駄目だと思った。そこでその日、それはちょうど週末だったんだが、会社が終わったあと家には帰らないで、ホテルの部屋を取ることにした。一人で静かにものを考えたかったんだ。妻には終電を逃したとかなんとか言いわけを言っておいた。ホテルの部屋で一人でいると、久しぶりにほっとすることができた。でもそれも束の間だった。すぐにあのもやもやがやって来た。俺は酒を飲んでそいつを紛らわそうとした。でも「それではいけない」、と言う声がどこかから聞こえてきた。そう、自分の中のどこかから。結局酒を頼むのは止めて、イスに座り、俺はそのもやもやと正面から対峙することにした。

 それは恐ろしい体験だった。頭がおかしくなってしまいそうだった。俺の足は何度も勝手に立ち上がろうとした。でもそのたびに俺は無理に自分をイスに押さえつけた。そして眼をつぶって自分の内奥を見つめようとした。でもそれは言うほど簡単なことじゃない。俺の意識は何度もどこかに逃げて行こうとした。どこかもっと無害で安全なところにな。でも俺は自分でそれを許さなかった。逃げてはいけない、それを正面から見つめなくてはいけない、と自分に言い聞かせた。それで、そうやって腹を決めた時ようやく気付いたんだが、そのもやもやは最近発生したものなんかじゃなかった。それはたぶん、俺が生まれた時からずっとそこにあったものなんだ。俺はその時初めてそれに気付いたんだよ。

 するともやもやが一つの形を取り始めた。それは始め暗い影みたいなものでしかなかったんだが、だんだん動物の形を取り始めた。俺は興味深くそれを見つめていた。俺は一体自分の中に何を抱え込んでいたんだろう、ってな。それは、そのもやもやは、結局一頭の熊になった」

「熊?」と僕は聞き返した。

「そうだ。熊だ。それもふつうの熊じゃない。尋常じゃない大きさの熊だ。そしてその熊は足を罠にかけられて、自由を奪われている。そいつは苦痛の(うめ)きを上げながら、足からだらだらと血を流し続けている。そしてじっと俺を見つめているんだよ。なんで助けてくれないのか、って具合にさ。でも俺は恐くてそこに近付くことができない。何しろ体長三メートルは優に超えている。罠を外してやったところで、あっという間に俺を食ってしまうかもしれない。俺はホテルのイスに座って、じっと自分自身の中にいる熊を見つめていたんだ。それは不思議な体験だった」

 彼はそこでみずの煮物をつつき、日本酒を一口すすった。

「それで、その熊をどうしたんです」と僕は聞いた。

「どうもしないよ」と彼は言った。「いったい何ができるって言うんだ。熊は苦痛に呻き声を上げている。罠を外そうとすればきっともっと大きな苦痛を与えることになるだろう。なんと言っても動物だからな、ちょっと痛みますけど、我慢してくださいね、なんて言って通じるような相手じゃない。きっと怒り狂って爪でひっかくか、ガブリと噛みつくかどちらかだろう。俺にはそんな危険を冒す勇気はなかった」

「それで、そのまま帰ったんですか」

「いや、そうじゃない。その熊の姿を見てしまうと、もう全然寝付けなくなってしまった。その日は結局ほとんど眠らずにホテルで一夜を明かし、そのあとで家に帰った。でももうそこはおれの場所じゃなくなっていた」

「叔父さんの家なのに、叔父さんの場所じゃなかったってことですか」

「そうだ。俺はそれを知ったんだよ。相変わらず頭だか、心だかの中にはあの怪我をした熊の姿が焼きついていた。俺はもうそのことしか考えられなかった。妻とか、娘にかまっている暇はなかった。もちろん仕事も辞めることにした。もうその時点で俺は心を決めていたんだ。もちろんみんなは反対した。お決まりの文句を言ってな。少し休職したらどうか、とか、気分転換に旅行にでも行ったらどうか、とか。でも俺は知っていたんだ。これ以上ここにいてもどうしようもないってことを。そしてその間あの熊は悲痛な声を上げて鳴き続けているんだ。それは本当に哀しい声なんだよ」

「それで、どうして秩父にやって来たんですか」と僕は聞いた。

「まあ、秩父である必要はなかったんだが、俺は熊のことを第一に考えるべきだと思った」と叔父は言った。「おれは熊を解放してやることができない。それなら少しでも奴にとって居心地の良いところに行こうってな。熊が住むのは山奥だ。清潔な郊外住宅地に熊はいない。それで、色々探してみた挙句、奴が一番心地よさそうにしていたのがここだったってわけさ」

 僕は言った。「つまり熊というのは叔父さんにとって一番しっくりくる比喩だったわけですね」

 彼は首を振った。「いや、俺にとってその熊はどんな意味合いにおいても比喩なんかじゃない。はっきり言って、周りにいる誰よりもリアルな存在だった」

 僕らは少し黙っていた。外では何かの動物が執拗に鳴き声を上げていた。

「それでもほんとうに離婚までする必要があったんでしょうか」と僕は聞いた。

「俺は色んなことをはっきりさせたかったんだよ」と彼は言った。「それはけじめみたいなものだった。これまでの人生とこれからの人生との間に区切りをつける必要があったんだよ」

「それも熊のためですか?」

「そうだ。熊のためだ」と彼は言った。

「もうひとつ聞いても良いですか」と僕は言った。

「いいよ」

「その熊は今でも叔父さんの中にいるんですか」

「いるよ」と彼は言った。「今でもいる。今でも悲痛な声で鳴き続けている。もちろん前よりは少しましになったけどな」

 

 次の日の朝、僕はひどく嫌な夢を見て目覚めた。夢の細部は思いだせない。ただそれがひどく嫌な夢であったという記憶だけが残っていた。僕は布団の中で自分自身に対し何かを繰り返しつぶやいていた。「・・・死ぬんだ」「・・・いつか死ぬんだ」「おれはいつか死ぬんだ」。全身が重く、まるで暗黒のシロップに浸けられたみたいに身体に暗い影が付きまとっていた。僕はそれを振り払うために外に出て、朝の光を浴びた。僕は深く息を吸い込み、ひやりとする早朝の空気を肺に溜め、吐き出した。それで気分はいくらかましになったが、それでもまだ暗い影は僕に付きまとっていた。鳥の囀る(さえずる)声がそこかしこで聞こえた。鳥たちは元気に飛び回り、人生を楽しんでいるように見えた。いっそ鳥になってしまいたい、と僕は強く思った。

 結局そのまま散歩に出た。いつもよりさらに早い時間だったから、叔父はまだ起き出してはいない。僕は前にカモシカに会った所まで山を登って行った。でもそこにカモシカはいなかった。僕は斜面の上の方をじっと見つめたが、どのような動物の気配も感じ取ることができなかった。僕はそこで散歩を切り上げて帰ろうとしたのだが、その時喉がひどく渇いていることに気付いた。そうだ。あの湧水を飲んでから帰ろう。

 湧水のある場所はそこからさらに踏み分け道を進んだところにあった。進んでしばらくしてから僕は、自分が熊避けの鈴を付けていないことに気付いた。まあ、そんなに長居するわけでもないし、きっと大丈夫だろう。

 湧水はこの前と同じようにこんこんと湧き続けていた。僕は柄杓を使い、何杯もその水を飲んだ。湧水はなんだか特別な冷たさを持っているように感じられた。水を飲んでしまうと、朝まとわりついていた暗い影の大部分が消え去っていることに気付いた。

 

 僕が戻ろうとすると、山の奥の方で何かが動く音がした。目を凝らしてそちらを窺うと、それはカモシカだった。この前見たのと同じやつかもしれない。それは静かな目でじっとこちらを見つめていた。僕は斜面を登り、そっちの方向に寄ってみた。意外にもカモシカは僕がかなり近くに寄るまで逃げなかった。しかしあと数歩で手を触れられる、というところでそいつは逃げ出した。それでもさほど遠くまでは行かず、またある程度の距離を置いて立ち止まり、こちらを見つめていた。僕はまたそちらに寄ってみた。そいつはさっきと同じように僕が近くに来るまでは逃げず、あと何歩かというところで遠のいた。それが何度か繰り返され、我々は山の奥深くへと入って行った。

 気付くと僕は小さな谷川に出ていた。カモシカは斜面の上の方にいて、その同じ谷川の水を飲んでいる。僕は川の水に手を付けた。それは驚くほど冷たかった。僕は近くにあった岩に腰を降ろし、ただその川の流れる音に耳を澄ませていた。もうカモシカを追いかけようという気はなくなっていた。時々風が吹き下ろし、頭上の木々を揺らせ、カサカサという音を立てた。ここではあまり鳥の声は聞こえなかった。僕はなんにも考えず、ただ川と、風の音だけを聞いていた。

 すると斜面の上の方でざざっという音が聞こえた。上流で水を飲んでいたカモシカが何かを見て逃げ出したのだ。僕は川を挟んだ山の奥の方を見つめた。鬱蒼と茂る木々の間に、なにか黒い影が見えた。それはのそのそと歩き、ゆっくりとこちらに近付いてきた。それは一頭の巨大な熊だった。

 

 僕は全身に冷や汗をかいていた。心臓がどきどきと大きな音を立てた。僕は混乱し、二つの感情の間で行き惑っていた。僕の中の半分は一刻も早くここから逃げ出すことを求めていた。しかしもう半分の僕はここにいて熊を眺めることを強く望んでいた。僕がそこでぐずぐずしている間に、熊は谷川を挟んですぐそばのところまでやって来てしまった。近くで見ると熊は想像していたよりもさらに大きかった。間違いなく体長三メートルは越えている。熊はのそのそと木の間を通り抜け、谷川に辿りついた。その時気付いたのだが、熊は片方の後ろ脚に深い怪我を負っていた。見ると金属製の罠のようなものが脚に食いついている。動きから察するにその熊はかなり弱っているみたいに見えた。僕は魅せられたようにその動きを目で追っていた。

 熊は谷川に到達するとぺろぺろと水を舐めはじめた。今や僕とは二メートルほどの距離しかない。しかし熊は僕の存在なんか完全に無視して水を飲んでいた。巨大な野生動物が目の前でなめらかに動く様には、なにかしら神秘的なものが含まれていた。

 

 その時僕に変なことが起こる。僕は谷川を挟んでちょうど熊の反対側にいたのだが、突然熊と同じように四つん這いになって川から直接水を飲んでみたいという衝動に駆られたのだ。僕はその衝動を抑えることができなかった。気付いた時には僕は地面に四つん這いになり、谷川に顔を浸けて、舌を使ってペロペロと水を飲んでいた。熊はちらりとこちらを見たが、気にせず水を飲み続けていた。そこで僕は次の段階へと進んだ。その時にはもう自分で自分を止めることができなくなってしまっていた。僕は水から顔を上げるとさっと谷川を渡り、熊の横に並んだ。熊は少しだけこちらを向いたが、それ以外は身動き一つしなかった。まるで僕なんて取るに足らない存在なのだと見せつけているかのように。

 僕と熊はもう手を触れられるくらいの距離に近付いていた。僕は熊のむっとする匂いを間近に嗅ぐことができた。熊の右の後ろ脚には金属製の罠が食いついていた。僕はその罠に手を伸ばした。

 一体なんであんなことができたのか今でも分からない。実際普段の僕は犬だって撫でられないくらい臆病なのだ。基本的に動物には干渉しないほうがいいと思っている。でもその時の僕は何かに動かされていたし、その衝動を止めることは誰にもできなかった。それに朝のつぶやきがもう一度頭の中に戻って来たということもある。「おれはいつか死ぬんだ」「おれはいつか死ぬんだ」「おれはいつか死ぬんだ

 僕は熊の怪我をした脚に手を伸ばした。熊は一瞬ぎくりと身を震わせたが、構わず水を飲み続けた。僕は血の付いた毛を撫で、そして脚に食い込んだ罠に手をかけた。

 そこで熊が苦悶の呻きを上げた。熊はその黒い瞳でぎろりと僕を睨み、さっと前足を持ち上げた。僕は熊の肩の筋肉が盛り上がる様を間近で見ることができた。熊は僕の肩に爪を引っ掛け、その状態のまま様子を見ていた。熊の鋭い爪が僕の皮膚に食い込んだ。これだけでもかなりの痛さだが、熊がまだほとんど力を入れていないことは分かっていた。もし僕が脚に食いついている罠を外そうとしたら、熊はそれに合わせて爪をさらに深く食い込ませるだろう。でも僕は先に進んだ。進まなければならない、という気がしたのだ。僕は罠に手をかけ、それを外そうとした。熊はもう一度呻き、爪をさらに深く食い込ませた。肩に鋭い痛みが走った。それでも僕は罠が一番深く食い込んでいる部分に手を入れた。知らぬ間に僕はつぶやいていた。「おれはいつか死ぬんだ」「おれはいつか死ぬんだ

 

 熊は苦痛と怒りの入り混じった声を上げた。そして僕の頭に噛みつこうとした。僕は首筋にその生温かい息すら感じることができた。「おれはいつか死ぬんだ

 そのとき何かが熊の目の前を通り過ぎた。それは僕をここまで導いてきたカモシカだった。熊は一瞬だけそちらに気を取られ、動きを止めた。僕はその隙に食い込んでいた罠を力いっぱい外しにかかった。熊は痛みに我を忘れ、もう一度僕を攻撃しようとした。するとカモシカがまたしても熊の前に入り込み、まるで挑発するように尻尾を振った。熊はどちらを攻撃すればいいのか分からず、混乱してしまったようだった。カモシカが何歩か飛びのいた。すると熊は野生の本能に従って逃げて行くものを追いかけようとした。そのはずみで、引っ掛かっていた罠が外れた。

 カモシカはその後も一定の距離を置きながら熊から逃げていった。熊は長い間自分を苦しめていた罠がようやく外れたことにも気付かずに、一心不乱にカモシカを追っていった。やがて二体の動物は山の奥へと消えた。

 僕は茫然としまま罠を手に突っ立っていたのだが、やがて我に返った。罠をその辺に放り出し(壊れていたからもう一度何かが引っ掛かる心配はなかった)、手についた血を小川で洗った。さっき水を飲んだばかりなのに、もうからからに喉が渇いていた。僕はもう一度水を飲んだ。

 

 ずいぶん山の奥に入り込んでいたせいで、帰り道が分からなくなってしまっていた。でも僕は熊と遭遇したことで興奮状態に陥っており、気付くとよく考えもせず目星をつけた方向に向かってずんずん歩いていた。幸運にも、そのうち見覚えのあるあの湧水のところに辿り着いていた。

 山の登り口に着くと、叔父が心配して様子を見に来ていた。

「大丈夫か、シャツが破れてるぞ」と彼は言った。

「ちょっと転んだだけです」と僕は言った。

 

 僕の頭にはさっきの熊とカモシカの姿がはっきりと焼きついていたのだが、僕はそのことを叔父には話さなかった。何も隠しておこうと思ったわけではない。でもそれは気軽に誰かに話したりすべきではない種類の経験だった。たとえ叔父に対してもだ。

 

 その日の昼、僕は部屋の座布団に胡坐(あぐら)をかき、一人で考えた。一体あの熊はなんだったのか。あれは叔父の熊だったのか。それとも僕自身の熊だったのか。あるいは誰のものでもない、ただの熊だったのか。僕は首を振った。分からない。でもあのカモシカは明らかに僕を傷ついた熊の所に導いていった。カモシカは僕の力を必要としていたのだ。

 僕は自分の役割をきちんと果たすことができたのだろうか?そこで僕は肩についた熊の爪の痕を触った。爪は思ったよりも深く食い込んでいたらしく、触るとずきずきと痛んだ。でも僕は自分の取った行動を後悔してはいなかった。全ては自然のうちに行われたことだった。


 


熊3

三 

 その夜、僕は鮮やかな夢を見た。現実よりもリアルな夢だ。僕はあの山奥の谷川にいて、四つん這いで水を飲んでいる。僕の隣にはあの巨大な熊がいて、同じように水を飲んでいる。熊は僕を警戒してはいないし、僕も熊を警戒してはいない。熊の足に罠はなく、傷はすっかり癒えている。僕は上流を見上げた。するとそこにはあのカモシカの姿があった。カモシカもまた谷川の水を飲んでいた。熊は今は獲物を追ったりするような気分ではないらしく、カモシカを見ても何の反応も示さなかった。我々はただ平和に水を飲んでいた。

 すると突然銃声が響き渡った。カモシカがどさりという音を立てて横向きに倒れた。腹からは赤い血が流れている。熊は警戒して顔を上げた。するともう一度銃声がして熊の額に穴が空いた。熊は悲痛な呻き声を漏らし、地面に倒れた。僕は木々の間から、ハンターの姿を見ることができた。彼は帽子を被り、サングラスをかけていた。肩に担いだ猟銃がぎらりと光を反射した。彼は僕を手招きしていた。どうやら僕を熊の脅威から助けてくれたつもりらしかった。僕は四つん這いのままそのハンターに向かって走った。地面に倒れた熊はなお悲痛な呻き声を上げていた。僕はハンターを喰い殺してしまおうと思った。あのカモシカと熊は僕の仲間だったのだ。ハンターは彼らを無慈悲にも殺してしまった。

 僕は全速力でハンターに飛びかかった。爪を立てて皮膚を裂き、鋭い牙で頭に噛みついてやろうというつもりだった。しかしハンターはその場を動こうとはしなかった。猟銃を撃つそぶりも見せなかった。彼は微動だにせず、ただそこにじっとしていた。

 もう少しで爪が届くという距離になったとき、僕の足に何かが喰いついた。激痛が襲い、一瞬頭が真っ白になった。見るとそれは金属製の罠だった。それは木に固定されていて、僕はハンターまでもう少しというところで動きを止められてしまった。僕はそれでも爪を伸ばし、牙をむいてハンターに襲いかかろうとした。でも爪も牙もあと少しというところで届かない。僕の目の前でハンターは笑っていた。甲高く、ひどく耳障りな声だった。やがて彼は帽子を取り、サングラスも取った。その時初めて分かったのだが、彼には顔がなかった。目もなければ鼻もない。耳もない。あるのはぽっかりと空いた口だけだ。それはどれだけ見つめても核というものを見いだせない顔だった。僕は背筋に寒気が走るのを感じた。俺はこんなものを見るべきじゃなかったんだ。今彼は口を大きく開けて笑っていた。おかしくておかしくてしょうがないみたいだった。僕は全身から湧き上がった全ての憎しみを込め、唸り声を上げて彼を威嚇した。しかしそのようにして僕が声を上げれば上げるほど、彼もまた同じように声を高く上げて笑った。どれだけ威嚇したところで罠が外れなければ彼を殺すことはできないことは分かっていた。しかし僕の中には理不尽なほど強い嫌悪感が込み上げていて、それを抑えることは不可能だった。僕は牙をむいて唸り声を上げ続け、彼はさらに声を高く上げて笑った。やがて笑いが最高潮に達すると、彼は突然地面に座り込み、その大きな口に猟銃をくわえた。彼は猟銃をくわえながらもなお笑っていた。そして次の瞬間、何の躊躇もなく足の親指でその引き金を引いた。

 バン、という音が響き、ハンターはがくりと首を垂れた。彼の口からはごぼごぼと音を立てながら赤い血が流れて出てきた。しばらくすると辺りは完全な静寂に包まれた。今や谷川の周りには三つの死体が転がっていた。カモシカと熊とハンターだ。僕はその中でただ一人生命を保っていたが、罠に嵌り、自由を奪われていた。僕は鳴き声を上げた。大きく、悲痛な声で鳴いた。誰かが気付いて助け出してくれるのを期待して。死に囲まれたこの状況から、誰かが助け出してくれるのを期待して。でももしかしたらその誰かはこのハンターみたいな人間かもしれない。僕を見つけた瞬間猟銃で撃ち殺してしまうような人間かもしれない。でも僕には他に選択肢がなかった。ただ鳴いて、助けを待つ以外できることはほかに何もなかった。

 その間三体の死体からはそれぞれたくさんの血が流れ続けていた。罠に挟まれた僕の足からもまた血はどくどくと流れ続けていた。それらの血は斜面を下り、谷川に混じり合って、下流へと流されていった。

 

 僕はそこで目を覚ました。目を開けると叔父がいて、心配そうに僕を見つめていた。

「大丈夫か。ずいぶんうなされていたぞ」と彼は言った。

「大丈夫です」と僕は言い、叔父に頼んで水を持って来てもらった。冷たい水を飲んでしまうと、少しだけ気持ちが落ち着いた。それでも僕は、あの暗い影のようなものがまた自分を取り囲んでいることに気付いた。叔父はなお心配そうに僕を見つめていた。

「大丈夫です。ちょっと嫌な夢を見ただけです」と僕は言った。少しすると叔父は自分の寝室に戻っていった。僕は布団の上に胡坐をかき、暗闇を見つめたままじっと呼吸を整えていた。僕の中ではあるひとつの計画が形作られていた。

 

 その朝(結局あの嫌な夢を見たあと一睡もできなかったのだが)、僕はまたあの場所に行ってみることにした。熊に遭遇した谷川だ。叔父に心配をかけないよう、まだ暗いうちにこっそりと家を抜け出す。朝の空気はひやりとして肌寒い。僕は上下長袖のウインドブレーカーを着て、リュックサックを背負い、山の入り口に向かう。

 僕は懐中電灯を片手に山に入った。太陽はまだ顔を見せていない。僕は今回も熊避けの鈴を付けなかった。あたりでは、まだ夜の鳥が鳴いていた。

 僕は山の踏み分け道をどんどん進み、湧水の場所まで来た。そこから大体の見当を付けてさらに奥に入って行く。昨日はカモシカが僕を導いてくれた。でも今日はひとりぼっちだ。それでも僕はなんとか辿りつけるだろうという気がしていた。なぜかは分からない。本能的にそう感じたのだ。

 暗い山の中を僕はずんずん進んでいった。茎に刺の生えた草が足に絡みついた。それでも僕は気にせず歩き続けた。日の出前の山はひどく静かだった。そのうち谷川の流れる音が聞こえてきた。無事に目的地に辿り着けたというわけだ。僕は懐中電灯を消し、ただ川の音に耳を澄ませた。それは特別な響きを持っているように僕には聞こえた。どのように特別なのかまでは分からない。しかし明らかに普通の川とは違っている。

 僕は地面にリュックサックを置き、着ていたウインドブレーカーを脱いだ。そして中に着ていたジャージも脱ぎ、下着も脱いだ。靴下と靴も脱いだ。僕は全裸になり、谷川に足を踏み入れた。

 足を浸けると、水は想像していたよりも冷たかった。全身に鳥肌が立ち、青白い僕の身体はぶるぶると震えた。それでも僕は怯まなかった。身体にまとわりついた暗い影を洗い流すには、この方法しかないと確信していたからだ。僕は思い切って両足を中に入れ、川の中ほどまで進んだ。小さい川だから、そこでも膝の上くらいまでしか水位がない。僕はそこに仰向けに横たわった。

 心臓が一瞬小さく縮こまったのを感じることができた。お尻に岩が当たって痛い。僕は目をつぶり、頭を完全に水の中に沈めた。そして次の瞬間、僕は水の中の世界にいた。

僕はそこでこれまでの自分の人生を振り返っていた。はっきり言って、大したことのない人生だった。二十九年間の暇つぶし、とかつては自嘲気味に思ったものだった。今思えばその全てが無意味だったというわけでもないのだろう。でもそこには明らかに大事な何かが欠けていた。

 思うに、僕はあの暗い影から逃げることに時間と労力を費やしてきたのだろう。暗い影は昨夜の夢では顔のないハンターという形を取った。それはおそらく絶望というものが人間の姿を取ったものだった。生命あるものを殺し、意味あるものを嘲笑し、やがて自ら命を断つ。その心はあまりにも不毛だから、どんな作物も育たない。蒔かれた種は土の中であっという間に腐り、死んでしまう。僕はあのハンターを気の毒に思った。心から気の毒に思った。彼にだってかつては顔があり、自然に笑うことができたはずなのだ。誰かを愛したり、誰かに愛されたりしたことがあったはずなのだ。でも何かが彼の顔を奪ってしまった。僕の頭には猟銃をくわえ、笑いながら足で引き金を引くあのハンターの姿が焼きついていた。気の毒ではあったが、僕はその記憶を一刻も早くどこかに洗い流してしまいたかった。

 水の中で目を開けると、水面に明るい光が見えた。太陽が昇って来たのだ。僕にまとわりついていた暗い影はまだ完全には落ち切っていなかったが、太陽の光がその残滓を浄化した。やがて僕は立ち上がり、木々の隙間から洩れる太陽の光を眺めた。僕は今全裸で澄んだ谷川に立ち、新しく生まれ変わって、新しい人生を生き始めようとしていた。風が吹いた時、身体がこれ以上ないくらい冷えていることに気付いた。しかし僕の中にはある種の熱源のようなものがあり、それが全身にエネルギーを行き亘らせていた。

 僕は自分の中の顔のないハンターが流れ去った後の場所に、何か黒い(かたまり)のようなものが残っていることに気付いた。それは澄んだ谷川の流れや太陽の光をもってしても浄化することのできなかったものだ。新しい人生を生きるにあたって、僕はその塊を忘れずに持っていくことにする。それは僕に重みを付与してくれる。ほかの何にもできないやり方で、人生に意義を与えてくれる。耳を澄ますと、どこか遠くの方で動物の鳴き声が聞こえた。森の中を歩く熊とカモシカの姿が脳裏に浮かんだ。悪いハンターに出くわさなければいいのだが、と僕は思った。


 Beginner's life (http://beginnerslife.com/)


長い下りエスカレーター、及び哲学的なゴリラ1

 その頃僕は人生の重要な転機にいたのだと思う。もちろん当時はそんなことには気付かなかった。頼んでもいないのに次々にやって来ては去っていく一日一日をなんとかやり過ごすだけで精一杯だった。それはまるで長い下りエスカレーターを逆走し、ただひたすら上に登り続けるような日々だった。立ち止まることは許されなかった。一番下では深い闇が大きく口を開け、僕が落ちて来るのを今か今かと待ち受けていたからだ。ときどきそこからぞっとするような風が吹き上がってきた。その氷のような冷気は僕の背中にぴたりと張り付き、いつまで経っても(どれだけ動いても)消えなかった。

 

 そのとき僕は二十歳で、大学の二年生だった。東北から東京に出て来て、小さなアパートで一人暮らしをしていた。大学では法学部に所属していた。でも特に法律に興味があったというわけではない。いずれ公務員にでもなるんだろうと思っていたから法学部を選んだだけだ。もちろん本当はもっと熱意を持って勉学に励めれば良かったのだと思う。でも残念ながら僕は大学という機構の中に何ら熱意を向けることのできる対象を見つけることができなかった。それにどうせほかの学部を選んだところで大した違いはなかっただろう。

 

 東京に来るにあたって僕が心がけたのは、外の世界に過度な期待を寄せない、ということだった。大きく膨らんだ希望は、大きく膨らんだ失望をもたらすことになる。できることなら僕はそういう精神的消耗を避けたかった。ないものを見るのではなく、あるものを見なければならない。他人ではなく、自分に期待しなければならない。そう僕は自分に言い聞かせた。

 始めの一年間はこの方針でだいたい上手くいった。もちろん気分の浮き沈みはあったし、つまらない失敗もした。自分の未熟さにつくづくうんざりもした。でもそんな中でも他人の悪口だけは言わないよう心がけた。そんなことをしても心が(すさ)んでいくだけだ。

 しかしいつまで経っても友人を作ることはできなかった。もともとがそんなにしゃべる性格ではない、ということもある。しかしまわりにいる人々を見ていると、なんだか自分が外国人みたいに思えることがよくあった。彼らは独自のルールの下で、独自の言語を使って、独自のゲームをプレイしていた。それは奇妙に完結した世界だった。内部の人間にとっては全てが自明なのだが、外部の人間にとってはそこにある何もかもが不思議な角度にねじれているのだ。僕はそんな彼らの世界にも、彼らがプレイしているゲームにも興味を持つことができなかった。結局彼らは彼らの生活を続け、僕は一人で僕自身の生活を送り続けることになった。

 

 そのようにして最初の一年が過ぎて行ったわけだが、僕は当初の姿勢を維持していた。外の世界に過度な期待を寄せない、という姿勢だ。もちろんそれ自体が間違っているわけではない。もしもう一度あの頃を生き直すとしたら、僕はきっと同じような姿勢で人生に(のぞ)んだだろう。でももしかすると、どこかでバランスが狂ってしまっていたのかもしれない。針が一方の側に触れ過ぎていたのかもしれない。気付いたときには僕は、他人だけではなく自分自身にも期待を寄せられなくなってしまっていた。

 どうしてこうなってしまったんだろう、と僕は思った。かつては僕にも熱意というものがあったはずなのに。希望というものがあったはずなのに。それはいったいどこに消えてしまったんだろう。僕はあらためて自分の内側を覗き、かつてそこにあったはずの熱意や希望を探し求めた。しかし僕がそこに見出したのは、誰もいない駅の待合室のような、がらんとしたもの寂しい空洞に過ぎなかった。

 

人生が長い下りエスカレーターのように思え始めたのもこの頃だ。気付いたときには僕はエスカレーターに乗せられていて、その下りて行くスピードに負けないように、ただ必死に階段を登り続けていた。一番下では暗い闇がぱっくりと口を開けていた。そのエスカレーターにはときどき意地悪く(としか思えないのだが)段ボール箱や何の役にも立たないがらくたが置いてあった。僕はなんとかしてそれを()けながら上に登って行った。ときどきバランスを崩して転びそうになったが、その都度なんとか踏ん張って持ちこたえた。少し余裕ができたときに後ろを振り向き、そこで気付いたのだが、その段ボールやがらくたとは、かつての僕が大事に保管していた記憶の一部だった。それらの荷物は暗く深い闇の底にシュッという音を立てて消えていった。頭上からゴミが落ちてくることもあった。今思えばあれもかつての記憶の一部だったのだろうが、そのときの僕にはなんとかしてその状況を生き延びることしか頭になかった。だからその落ちてくるゴミやがらくたをどんどん踏みつけ、必死になって動く階段を登り続けた。かつての記憶たちは――誰にも(かえりみ)られることなく――ただ深い闇に呑まれていった。

 

 

 あれは大学二年の五月だったと思う。食堂で昼食を食べているときにその男に出会った。彼は僕に向かいの席に座ってもいいかと尋ねた。僕はかまわない、と答えた。

 彼は自分は文学部の二年生だと言った。彼の顔には見覚えがなかった。どうしてこの男はよりによって僕の向かいの席にやって来たんだろう、と僕は思った。どうしてわざわざこの席でなければならなかったのだろう?実を言うとそのとき僕は少し迷惑に感じていた。できることなら一人で静かに昼食を食べたかったのだ。でも彼はそんな僕の気持には一切気付かず、どっかりと向かいの席に腰を下ろした。彼のトレイには大盛りのチキンカレーと水の入ったプラスチックのカップが三つ置かれていた。彼はイスに座ると、まず美味そうに二杯の水を飲み干した。そしてスプーンを持ち、獲物を狙う肉食動物のような目付きでプレート上のカレーを眺めた。彼の目は今異様なほどぎらぎらとした輝きを放っていた。こいつは一体何者なんだ、とそれを見て僕は思った。彼は混み合った食堂内において明らかにただ一人異彩を放っていた。まわりにいる人たちは皆一様に彼のことをちらちらと横目で見ていた。ちなみに彼の頭は、見事に()りあげられたつるつるのスキンヘッドだった。

 

「その頭はどうしたんだ?」と僕は聞いた。

「この間鏡を見てて思ったんだ」と彼は言った。「髪の毛なんて邪魔なだけじゃないかってね。重いし、蒸れるし、伸びたらいちいち床屋に行かなくちゃならない。それならいっそ全部剃り落としてしまおうと思ったんだ。それでその場ですぐに剃った」。彼はそう言いながら一口につき何度も咀嚼を繰り返す僕を見て不思議そうな顔をしていた。「なんでそんなにもぐもぐ噛んでるんだ?」

「一口につき三十回は噛むことにしている」と僕は言った。「そうすれば満腹中枢が刺激されて、食べ過ぎなくても済む」

「俺なんて一口につき三回くらいしか噛まないけどな」と彼は言った。そしてすごいスピードであっという間に大盛りのチキンカレーを平らげてしまった。「君きっと早寝早起きをして、毎日きちんと歯を磨いているんだろう」

「なんでそれが分かる?」と僕は言った。

「そんなの顔を見れば分かるさ」

「ちなみに毎朝シャワーを浴びてシャンプーもする」と僕は言った。

「俺だってシャンプーするよ」と彼は言った。「リンスだってつける」

「だって君髪の毛ないじゃないか」と僕は抗議した。

「そんなの全然関係ないね」と彼は言った。「とにかくシャンプーが好きなんだよ。それにリンスも好きだ。好きなんだから仕方がない。他人にとやかく言われる筋合いはない」。そしてつるつるとした頭を撫でた。

 そのようにして我々は友達になった。

 


 


長い下りエスカレーター、及び哲学的なゴリラ2

 聞けば彼は文学部に所属しているものの、ほとんど授業には出てこないという話だった。

「あんなの時間の無駄だよ」と彼は言った。「人生は短いんだ。知ってるか、世の中には二種類の人間しかいない。時間を無駄にする人間と、無駄にしない人間だ。君はどっちになりたい?」

「そりゃあ無駄にしない人間になりたいとは思っているよ」と僕は言った。

「その姿勢が大事なんだ」と彼は言った。

 

 しかしその言葉とは裏腹に、僕には彼が時間を有効に活用しているようには見えなかった。彼の行動は常に衝動的で、落ち着きがなく、一貫性を欠いていた。あるときは抽象画を描こうとし、あるときは現代音楽家になろうとし、あるときは錬金術師になろうとした。そのとき彼は言ったものだった。「俺はもうすぐ賢者の石を発明するぜ」。でも長時間の試行錯誤の末出来上がったのは、茹で卵のようなの匂いのするずんぐりとした硫黄の塊でしかなかった。「なんか温泉に入りたくなってきたな」とそれを見て僕は言った。

 僕らはつかず離れずという関係を維持していた。ぶっ通しで何時間もしゃべることもあれば、何週間も会わない時期もあった。僕らの性格は正反対と言ってもいいほどだったが、僕と彼は不思議とうまが合った。たとえくだらない話をしていても、ちょっとした言葉の端々から、我々はお互いの心を深いところで理解し合っている、という感じを抱くことがよくあった。

 

 その年の九月に会ったとき(どういう経路を辿ってそういう判断に達したのかまったく理解できなかったのだが)、彼は自分はゴリラになるべきだという結論に達していた。

「今日も動物園で観察してきた」と彼は興奮した面持ちで言った。「あの落ち着きって言ったらないね。威厳と、美しさが同居している。人間はみなすべからくゴリラになるべきなんだ」

「心にゴリラ的なものを持つ、という意味じゃなくて?」と僕は聞いた。

 彼はそれを聞くと実にゴリラ的に憤慨した。「いいか、君はなんにも分かっていない」と彼は言った。「ゴリラ的なるものは心の中にあるんじゃない。身体の中にあるんだ」。そして低い声で(うな)り、両手を使ってボコボコと胸をドラミングした。

 

 その日彼は僕の家に遊びに来た。彼が僕の部屋にやって来るのはそれが初めてだった。彼が興味深そうに部屋を眺めている間、僕は手動ミルでガリガリと豆を挽き、彼のためにコーヒーを淹れた。

「相変わらずまめな男だね君は」と彼は言い、僕の淹れたコーヒーをすすった。「うん、良い香りがする」

「でもゴリラがコーヒーなんか飲んでもいいのか?」と僕は聞いた。

「ゴリラだってコーヒーくらい飲むさ。たまにはね」と彼は言った。そして鞄からまだ青いバナナを取り出し、皮をむいてむしゃむしゃと食べ始めた。

「それで、いつまでそんなことをしているつもりなんだ?」と僕は聞いた。

「そんなことって?」と彼は言った。

「そのゴリラごっこさ」

「俺は本気だぜ」

「まあいいさ」と僕は言った。「これは君の人生だ。君の好きに生きればいい。でもさ、ときどき思うんだよ。君は結論を急ぎ過ぎているんじゃないかって」

「そんなことはない」と彼は言った。「俺は日々前進している。失敗から色んなことを学んでいるんだよ」

「じゃああの錬金術から何を学んだ?」

「それは・・・」

「抽象画は?現代音楽は?だいたい抽象画のはずなのに君は消しゴムの絵ばかり描いていたじゃないか」

「あれは消しゴムのイメージをいったん分解して、抽象的に再構築したものなんだ」と彼は言った。

「まあいいさ。でも――これは君のことが好きだからこそ言うんだけど――このままじゃきっと、君はいつまで経ってもどこにも行きつけないんじゃないかな」

 彼はそれを聞くとじっと黙り込み、少しだけ髪の毛の生え始めた頭を撫でた。そして言った。「そうだな、少し焦り過ぎている部分もあったかもしれない」

彼はそこで一度天井を見上げ、続けた。「でもね、それを言うなら君はどうなんだ。部屋に籠って本ばかり読んでいる。君の方こそそれでいいのか?」

「もちろんこれでいいと思っているわけじゃない」と僕は言った。「はっきり言って君の言うとおりだ。でもね、なんでもいいからとにかく行動すればいい、とは思えないんだ。まあだからと言って何をすればいいのかも分からないんだけど。今は自分でも何がなんだかよく分からないような状態なんだよ」

 僕らはそこで二人とも黙り込んだ。気持ちの良い風がレースのカーテンを揺らし、窓の外から小さな子どもの遊び声が聞こえてきた。「俺もかつてはあんな風に無邪気に遊んでいたのにな」と彼は言った。「あの頃は良かった。なんにも考える必要なんてなかった。ただ毎日気の向くまま騒ぎまわっていればよかったんだ」

「今でも十分無邪気だよ」と僕は言った。もちろん褒め言葉として言ったのだが。

「まあね。でもときどき君のことがうらやましくなるんだ。君はほかの奴らとは違っている。いつも落ち着いていて、自分というものを持っている。俺とは大違いだ」

「自分というものなんて持っちゃいないさ。落ち着きだってない。ただそういう振りをして、格好付けているだけなんだよ」

 

「なあ」とやがて彼は言った。「なんだか暗い気分になってしまった。どうしてこうなっちゃったのか自分でも分からない。俺は健康的なゴリラとしてこの部屋に来て、健康的なゴリラとしてこの部屋を出て行く予定だった。それなのにずんと沈み込んでしまった」。そこでまた頭を撫でた。「こんな気分のままのこのこと帰るわけにはいかない。それは俺のポリシーに反する」

そこで彼はまっすぐ僕の目を見つめた。「だから何かお互いの好きなものについて話そうじゃないか」と彼は言った。「まずはそこから始めよう。そしてこのうじうじから抜け出すんだよ。君は一体何が好きなんだ?」

 僕は少し考え、頭に浮かんだ好きなものを列挙していった。「そうだな、まずは本を読むこと。大体が外国の古典文学だ。ドストエフスキーは好きだよ。面白くて、深くて、なおかつ優しい。ゴーゴリもいいな。彼は独特のユーモアのセンスを持っている。日本のものでは夏目漱石が好きだ。彼は徳義というものを大事にしていた。でもそれを人に押し付けたりはしなかった。彼の考える徳義とは、固まった教条主義的なものではなく、もっと柔軟で生き生きとしたものだったからだよ。

 あとは音楽が好きだ。まだそんなに詳しくはないけれど、モーツァルトやベートーベンやブラームスを聞いた。音楽の良いところは頭で何も考える必要がない、ということだ。

そうだな、それに運動することも好きだよ。たまに部屋の中で腕立て伏せや腹筋をやる。汗をかくと身体に溜まっていた嫌な気分が抜けている。

 あとはパンケーキが好きだ。焼き上がった後の匂いがたまらない。でも最近は食べ過ぎないように注意している。なんといってもカロリーが気になるからね。

 あとはそうだな、野菜とか、果物とか、山とか、川とか、夏の青空とか、冬の朝に雪が積もっていて、何もかもが真っ白な景色とか、そういうのも好きだよ。まあこんなところかな」

「そうだな、俺は動物が好きだ」と彼は言った。「どんな動物でもいい。犬でも猫でも、ゴリラでも。彼らは本当に自然な表情をしている。そこが好きだ。それに彼らは一切不平を言わない。そこも好きだ。

 あとはそうだな、自転車に乗って外を走り回るのが好きだ。俺は大体どこにでも自転車で行くんだが、風を切って走るあの感覚が良いんだ。

 食べ物で言えばだね、俺は鯖が好きだ。塩焼きでも味噌煮でも良い。理由なんてない。とにかく好きなんだよ。

 それにこれは前も言ったと思うが、シャンプーが好きだ。これも特に理由なんてない、とにかく気持ちいいからだよ。

 あとはそうだな、朝まだ誰も起きていないような時間に起きるのが好きだ。あのしんとした心持ちが良いんだ。俺はよくそういう時間に起きて、ただ外を眺めながらぼおっとしている。それはね、とにかく良い感じなんだ。まあざっとこんなものかな」

 彼はそこで残っていたコーヒーを飲み干し、言った。

「なあ、俺達はこの世界に生きていて、こんなにたくさん好きなものを持っている。なのになんでこううじうじしているんだろう」

「きっと人生にはそういう時期も必要なのさ」と僕は言った。

「でもいつかは抜け出さなくちゃならない」と彼は言った。「でも俺には分からないんだ。『抜け出す』というのがどういうことなのか」

「それは抜け出してみて初めて分かることなのかもしれない」

「君は動物になってしまいたいと思ったことはないか」と彼は聞いた。そしてまた天井を見上げた。「俺にはしょっちゅうある」と彼は続けた。「動物になれば何も考えずに済む。人間の一番の問題は何かを考えすぎることにあるような気がするんだ」

「僕は動物になりたいとは思わない」と僕は言った。「きっと動物には動物なりの問題があるんだろう。人間として生まれた以上、人間としての責務を果たして行かなくちゃならない、と思う。つまり『考える』という能力を与えられた以上、それを上手く使っていかなくてはならないんじゃないか、ということだ」

「まったく、君は実にまともな考え方をするんだな」と彼は感心して言った。

「にもかかわらず僕らは自分の中に動物的な側面も残していなければならない」と僕は言った。

「ウホ」と彼は言い、もう一本バナナを出して食べた。

 

 

 僕らがどれだけ熱意を持ち、真剣になったところで、人間というのはそう簡単に変われるものではない。結局その話し合いのあとも問題は解決しなかった。僕らは相変わらずうじうじし続けていた。彼は結局純粋なゴリラになることをあきらめ、今では哲学的なゴリラになろうとしていた。一方の僕は相変わらずあの長い下りエスカレーターを悪戦苦闘しながら登り続けていた。

 その一か月後に彼に会ったとき、彼は図書館の閲覧室でヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を読んでいた。

「ちゃんと理解できてるのか?」と僕は後ろから尋ねた。

彼は驚いて後ろを振り向いた。そして声をかけたのが僕だと分かると「なんだ、君か」と言った。「まあ、理解できているとは言えないが、理解しようと努力はしている。その姿勢が大事なんだ」

「でもゴリラが本なんか読んでいていいのか」と僕は言った。

 自分は哲学的なゴリラになることにした、と彼が言ったのはそのときだった。

「哲学的なゴリラって一体何なんだ?」と僕はあきれて聞いた。

「文字通りの意味さ。哲学的なゴリラだよ。ゴリラでありながら、ちゃんと頭も使う」

見ると彼の体つきは一か月前とは様変わりしていた。身体が一周り大きくなり、肩や背中の筋肉が服の上からでも分かるくらいに盛り上がっていた。

「すごいな、一月でそんなに変わるなんて」と僕は驚いて言った。

「うん」と彼は言った。「相当な努力をした。ジムに行って、ハードなトレーニングをこなした。食事は果物しか摂らなかった。一体何本のバナナを消費したことか。哲学的なゴリラになるのもこれはこれで大変なんだぜ」

 僕はあきれてものも言えなかった。

「それで君の方はどうなんだ。あれから何か進展はあったか?」と彼は聞いた。

 こっちは相変わらずだ、と僕は言った。規則正しい生活をして、好きな本を読んで、好きな音楽を聞いている。にもかかわらずそこには何か大事なものが欠けているのだと。まるで長い下りエスカレーターをひたすら登り続けているような感じなのだと。どれだけ登っても実質的な位置は変わらない。ただ疲労が蓄積されていくだけなのだと。

「ふうん。長い下りエスカレーターか」と彼は言った。「なかなか上手いことを言うね」

「上手いことを言って問題が解決すればそれに越したことはないんだけど」と僕は言った。

「あのさ」と彼は言った。「思うんだが、君もゴリラになったらいいんじゃないか?」

「何を言いだすかと思えば」

「いや、なにも本物のゴリラになれって言ってるわけじゃない。もしその方が良いんならゴリラ的なるものを持つ、と言い換えても良いかもしれない。君に必要なのはそういう野性味みたいなものなんじゃないのかな。部屋に(こも)って考えてばかりいると身体が腐っちまうぜ」

「どうだろう。人はそんなに簡単にゴリラになれるものだろうか」

「やってみなくちゃ分からないだろう」と彼は言った。「なにも純粋なゴリラになれって言ってるわけじゃない。哲学的なゴリラである必要もない。俺は思うんだが、君は文学的なゴリラになればいいんじゃないかな。君なら誰よりも立派な文学的ゴリラになれる。それは俺が保証する」

 僕はだんだん頭がこんがらがってきた。しかしなぜか彼の言うことにも一理あるような気がした。それに彼の言葉には不思議な――野性的なと言ってもいいかもしれない――説得力があった。

「一体どうすれば文学的なゴリラになれるんだ?」と僕は聞いた。

「たくさん本を読んで、たくさんバナナを食べるんだ」と彼は言った。そしてリュックから房になったバナナを取り出し、半分を僕に渡した。「ほら」

僕はバナナを受け取った。今思えば、あれが転機の先触れだったのかもしれない。それまでの僕は自分が何をしようとしているのか全然理解できていなかったし、自分がどこに向かっているのか、どこに向かうべきなのかも分かっていなかった。でもそのバナナを受け取った瞬間、僕の中にある一つの指針が生まれた。それは明確な形を持たないものだったが、その分柔軟で、僕の中心にしっかりと結び付いたものだった。

先のことなんて誰にも分からない、大事なのは今をきちんと生きることじゃないか、と僕は思った。思ったところでそれが簡単にできるわけではないことは分かっていた。でもそう思い、実践しようと努めることが大事なんじゃないか。そういう姿勢を取り続けることが大事なんじゃないか。

そのあと我々二頭のゴリラは司書の目を盗み、閲覧室で残りのバナナを平らげた。

 

 


 



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