閉じる


<<最初から読む

8 / 11ページ

8ページ

「このお茶碗を割ったのは、私なんです」

 出された紅茶を一口飲んで、菊乃さんは言った。母にはしばらく外してもらい、私と彼女は二人きりで、居間のテーブルをはさんで向かい合った。

 彼女はいま県外の大学に通う21歳で、大事な試験のため葬儀には出席できなかったが、やっと時間が取れたので急きょ帰ってきたという。

「実は祖父が私に手紙を残していたんです。それで佳奈さんのことを知って、祖父の友人にこの家の場所を教えてもらいました」

 そんなことはどうでもいい。いまはもっと大事な、訊くべきことがある。

 私は身をのり出し菊乃さんに顔を近づけた。

「小林さんは以前、自分の身勝手で傷つけてしまった人がいると言っていました。菊乃さん、あなたのことですか」

 すると菊乃さんは、また唇を震わせ目をうるませた。

「そうだと、思います。私の名前は祖父がつけてくれたのですが、私は小さい頃からこの名前が大嫌いで」


9ページ

 彼女の話によると、菊乃という名前が原因でクラスの男子によくからかわれたらしい。菊の花は死んだ人に供える花だから不吉だ、と。

「子どもって単純でしょう?菊は縁起が悪い花だと馬鹿にされたことが何度もあって。私自身も、言われているうちにそうだと思い込んでしまったんです」

 私は天を仰いだ。縁起が悪い花だなんて、そんな発想が小さい子どもから出てくるわけがない。きっとどこかの愚かな親がそう言い出して、それを信じた悪ガキがいたのだろう。嘆かわしい話だ。そもそも菊自体に悪い意味はないはずだ。

 菊乃さんは続けた。

「そのストレスが積もりに積もって、中学のとき、ついに爆発しちゃって。祖父に八つ当たりして怒鳴り散らしたんです」

 なぜこんな名前をつけたのか。古くさいし全然可愛くもない。菊の花なんて大嫌いだ。

「そのとき祖父が気に入って大切にしていたお茶碗を、怒りにまかせて床に叩きつけてしまって……」

 あのときの祖父の悲しそうな顔が忘れられない。あとになって悪いことをしたと我に返ったが、変な意地が働き、結局謝るタイミングを逃したまま月日が流れた。

 ここまで話して、菊乃さんは数秒黙り込んだ。視線を落とし、箱の蓋に記された自分の名前をじっと見つめる。

「佳奈さん。菊の花言葉ってご存知ですか」

「え、いいえ」

 すると菊乃さんは少しだけ頬を緩ませて、

「高貴とか真実の愛という意味があるそうです。大人になってからやっと調べて分かりました。祖父はきっと、すごく考えに考えぬいて私の名前を決めてくれたんだと思います」

 そう言って、蓋を少し撫でた。


10ページ

小林さんは、分かっていたのかもしれない。自分がもう長くないことを。ぎくしゃくした関係のまま、孫娘に会えなくなるかもしれないことを。

「このお茶碗、私が持っていてもいいと思いますか」

 菊乃さんの表情が不安げに一瞬曇る。

「手紙を残したくらいですから、菊乃さんに持っていてほしいんだと思います。どうぞ大事になさってください」

 私が応えると、彼女はホッとしたように顔をほころばせた。この瞬間、長時間張りつめ交錯していた糸が、やわらかくほどけていくような感覚をおぼえたのは、私だけだろうか。


11ページ

「いいんですか、玄関先で」

「ええ、お構いなく。家、近いですから」

 そう言ってこちらに振り返った菊乃さんは、茜空を背ににっこりと微笑んだ。その胸には、しっかりと風呂敷包みが抱かれている。

「このお茶碗、ずっと大事にします」

 私ではなく、自分自身に強く言い聞かせるように、菊乃さんは目を閉じた。

 

 小林さんが割れた茶碗を残していたのは、きっと、自分のせいで孫を傷つけてしまったことを忘れないようにするため。しかし今、その青色の茶碗は別の理由で菊乃さんの両手に包まれている。

 橙色の道を行きながら何度もこちらを振り返り手を振る菊乃さんの表情は温かく、どこかすっきりしていて、ふと小林さんのあの包み込むような笑顔と、重なって見えた。


この本の内容は以上です。


読者登録

大橋りょうこさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について