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 夕方自宅に着くと、母がぱたぱたと玄関にやってきた。

「佳奈、お客さん。あんたに用事だって」

 平日の夕方にお客とは、いったい誰だろう。急いで居間に向かうと、小柄な若い女性がちょこんと座布団に正座していた。私に気がつくと、彼女は長い黒髪を揺らしてふんわりと控えめに微笑んだ。

「遠藤佳奈さんですね。突然すみません。ここに四つ葉のクローバーの絵のお茶碗があると……」

 そこまで聞いて私は思わず「あ!」と叫んだ。そして、いきなりの大声に目を丸くする客人をよそに、「ちょっとお待ちください!」と大急ぎで2階へ駆け上がった。

「ちょっと佳奈、失礼よ。ごめんなさいねぇ、礼儀がなってない子で」

 母が娘の無礼を詫びながら、女性を2階の部屋まで案内する。遠慮がちに中をのぞく彼女を、私は手招きした。

「どうぞ。お茶碗って、これのことですよね」

 接合された茶碗を私がそっと取り出した途端、彼女は息をのんで机に駆けよった。そして震える手で茶碗を受け取り、まじまじと見つめると、なんと急にぼろぼろ大粒の涙をこぼし始めた。

「えっ、ええと……」

 予想外の展開にしどろもどろになる私の横で、困ったことに嗚咽まで漏れ始める。

「あ、あのう、あなたは小林さんのお知り合いなんですよね……?」

 狼狽しながらもそう尋ねると、彼女は涙を流しながら茶碗を抱き、答えた。

 

「私、孫なんです。小林菊乃といいます」

 

 思ってもみなかった返答に、「へ?」と間抜けな声が出た。


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「このお茶碗を割ったのは、私なんです」

 出された紅茶を一口飲んで、菊乃さんは言った。母にはしばらく外してもらい、私と彼女は二人きりで、居間のテーブルをはさんで向かい合った。

 彼女はいま県外の大学に通う21歳で、大事な試験のため葬儀には出席できなかったが、やっと時間が取れたので急きょ帰ってきたという。

「実は祖父が私に手紙を残していたんです。それで佳奈さんのことを知って、祖父の友人にこの家の場所を教えてもらいました」

 そんなことはどうでもいい。いまはもっと大事な、訊くべきことがある。

 私は身をのり出し菊乃さんに顔を近づけた。

「小林さんは以前、自分の身勝手で傷つけてしまった人がいると言っていました。菊乃さん、あなたのことですか」

 すると菊乃さんは、また唇を震わせ目をうるませた。

「そうだと、思います。私の名前は祖父がつけてくれたのですが、私は小さい頃からこの名前が大嫌いで」


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 彼女の話によると、菊乃という名前が原因でクラスの男子によくからかわれたらしい。菊の花は死んだ人に供える花だから不吉だ、と。

「子どもって単純でしょう?菊は縁起が悪い花だと馬鹿にされたことが何度もあって。私自身も、言われているうちにそうだと思い込んでしまったんです」

 私は天を仰いだ。縁起が悪い花だなんて、そんな発想が小さい子どもから出てくるわけがない。きっとどこかの愚かな親がそう言い出して、それを信じた悪ガキがいたのだろう。嘆かわしい話だ。そもそも菊自体に悪い意味はないはずだ。

 菊乃さんは続けた。

「そのストレスが積もりに積もって、中学のとき、ついに爆発しちゃって。祖父に八つ当たりして怒鳴り散らしたんです」

 なぜこんな名前をつけたのか。古くさいし全然可愛くもない。菊の花なんて大嫌いだ。

「そのとき祖父が気に入って大切にしていたお茶碗を、怒りにまかせて床に叩きつけてしまって……」

 あのときの祖父の悲しそうな顔が忘れられない。あとになって悪いことをしたと我に返ったが、変な意地が働き、結局謝るタイミングを逃したまま月日が流れた。

 ここまで話して、菊乃さんは数秒黙り込んだ。視線を落とし、箱の蓋に記された自分の名前をじっと見つめる。

「佳奈さん。菊の花言葉ってご存知ですか」

「え、いいえ」

 すると菊乃さんは少しだけ頬を緩ませて、

「高貴とか真実の愛という意味があるそうです。大人になってからやっと調べて分かりました。祖父はきっと、すごく考えに考えぬいて私の名前を決めてくれたんだと思います」

 そう言って、蓋を少し撫でた。


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小林さんは、分かっていたのかもしれない。自分がもう長くないことを。ぎくしゃくした関係のまま、孫娘に会えなくなるかもしれないことを。

「このお茶碗、私が持っていてもいいと思いますか」

 菊乃さんの表情が不安げに一瞬曇る。

「手紙を残したくらいですから、菊乃さんに持っていてほしいんだと思います。どうぞ大事になさってください」

 私が応えると、彼女はホッとしたように顔をほころばせた。この瞬間、長時間張りつめ交錯していた糸が、やわらかくほどけていくような感覚をおぼえたのは、私だけだろうか。


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「いいんですか、玄関先で」

「ええ、お構いなく。家、近いですから」

 そう言ってこちらに振り返った菊乃さんは、茜空を背ににっこりと微笑んだ。その胸には、しっかりと風呂敷包みが抱かれている。

「このお茶碗、ずっと大事にします」

 私ではなく、自分自身に強く言い聞かせるように、菊乃さんは目を閉じた。

 

 小林さんが割れた茶碗を残していたのは、きっと、自分のせいで孫を傷つけてしまったことを忘れないようにするため。しかし今、その青色の茶碗は別の理由で菊乃さんの両手に包まれている。

 橙色の道を行きながら何度もこちらを振り返り手を振る菊乃さんの表情は温かく、どこかすっきりしていて、ふと小林さんのあの包み込むような笑顔と、重なって見えた。


この本の内容は以上です。


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